新天地にて
新居に引っ越してから一週間以上が経った。
やたらと広い我が家にも、やたらと広い我が家の掃除にも、綺麗な街並みにも、電車通勤にも慣れてきた。
『あ、あの子だ!おはよう!』
『あ、灯里ちゃん、おはよう!』
灯里には新しいベビーのお友達ができた。
本人はまだ胎児なので、どんな子かわからないが、その子のお母さんは、キャリアウーマン風のできる女性といった感じだった。
灯里の友達のお母さんの後ろを歩いて駅まで向かっているところで、不意に、もやもやとした気持ちに襲われた。
何か、感じたことのある不快感なのだが、すぐそばのパチンコ屋から聞こえる大音量にかき消されて何の事だかよくわからない。
「明君、どうしたの?」
「なんか、変な感じがして」
「え?変な感じ?」
翠先生はきょとんとしている。
翠先生は、特に変な感じがしないようだ。
『私も変な感じする!』
「灯里も変な感じがするって言ってますよ」
「えー?私だけ鈍感ってこと?」
翠先生は少し頬を膨らませた。
『笹岡!いいところに来たな!』
出勤するといつものように元輝が言った。
『今日、新入りが来るらしいんだ!さっき、クロちゃんが言ってた』
翠先生からは何も聞いていないけれど、今日出産の予定があるのだろうか?
『何かな、ヘンシンするらしいぞ』
……ヘンシン?
『違うよ元輝、転院だよ』
ああ、転院か。どうりで翠先生から何も聞いていないのか。
「朝礼を始めるそうです」
冴木主任が声を張り上げる前に、黒川が俺に言った。
転院のベビーが来たのは昼前頃だった。
『初めまして!』
NICUに入ってきたベビーとは思えない落ち着きでそのベビーはNICUに入ってきた。
『私、代田悠っていいます!』
それもそのはず。ハルカは、前の病院に半年ほどいて、既に病院という環境に慣れているのだ。
『ここのNICUは前の病院よりも広いね!みんなのことを早く覚えられるように……』
『よし!ハルカは、ハルカ・ダイダイだ!』
『へっ?』
さすがのハルカも、元輝のぶっ飛んだ発言に驚きが隠せない。
それにしても、オレンジとかもうちょっとわかりやすい色の選択はなかったのだろうか?
『NICU戦隊ベビレンジャーだぞ、知らないのか?』
『……?』
別の病院のNICUにいたハルカが知るはずがないというのに、元輝は相変わらずのマイペースだ。
『あのね、ハルカちゃん……』
近くにいた悠希が、見かねて悠に説明を始めていた。
『よし、新入りのハルカと一緒にやるぞ!元気ー!』
『勇気ー!』
ハルカに説明をしながら、悠希が叫んだ。
『自分大好きー!』
悠希の説明が何とか間に合って、ハルカがみんなと一緒に言った。
『悠希ちゃん、すごいね!ありがとう!』
『まあ、慣れてるだけだよ』
確かに、悠希はいつも元輝のフォローをしているから、これくらいはどうってことないだろう。
『そうなんだ、悠希ちゃんは、ここにどれくらいいるの?』
『うーん、一年ちょっとかな?』
『え?一年も?悠希ちゃん、私よりもお姉さんだ!』
『ハルカちゃんは、何か月?』
『私、今、六か月なの。これでも前の病院では、一番お姉さんだったんだよ!私よりお姉さんがいるって、何だか嬉しいね!』
『なあ、それって、何が嬉しいんだ?』
不意に二人の『会話』に元輝が割って入ってきた。
『あんた、オンナゴコロが分かってないわねえ。女の子はね、自分より頼れる存在がいるのは嬉しいのよ』
『でも、それじゃあ、一番お姉さんの悠希は、誰に頼るんだ?』
元輝の突然の鋭い質問にハルカが答えられないでいると、悠希が冷静に言った。
『ここには凛ちゃんも、クロちゃんもいるから、私が最年長じゃないよ』
『でも、凛ちゃんも、クロちゃんも、僕らの『声』聞こえないじゃないか』
『だったら、笹岡がいるよ』
『笹岡じゃ、へなちょこだから頼れないだろう?』
おい!元輝!失礼な!俺はこれでも大人だぞ!
と思ったものの言えないままでいると、元輝がかっと目を見開いた。
『そうだ、悠希、僕を頼ったらいいよ!何てったって僕は、NICU戦隊ベビレンジャーのベビレンジャーブラックだからね!』
悠希はふっと笑った。
『わかった。そうする』
『それ、笑って言うところじゃないだろ!』
『あんたじゃ、頼りにならないからだよ』
『何だと!新入り!』
『何よ!』
『まあまあ、二人とも落ち着いて。近くにサエキのおばちゃんがいるから危険だよ』
ヒートアップしていく二人の言い合いから、悠希が上手に話題をそらしていた。
『あれ?サエキのおばちゃん帰ったけど、笹岡は夜勤なの?』
『違うぞハルカ、笹岡はとろくさいだけだ』
『元輝、本人の前ではっきり言い過ぎ』
俺が帰るころには、ハルカは当然のようにNICUに馴染んでいた。
『また明日ね!』
『アクニン結社のアジトを見つけたら俺たちに報告するんだぞ!』
ベビーたちの挨拶を背中に受けながら俺は帰路についた。
電車通勤に慣れてきた俺は、さすがにもう前に住んでいたアパートに向かって歩いてしまうようなことはなくなった。
電車から降りて家に向かって歩いていく。
駅前のスーパーの安売りの時間もだいぶわかってきた。
その向かいに立つパチンコ屋は、今は変な感じがしなかった。
荷物を抱えて、家に帰る途中の公園で俺はふと足を止めた。
「こんばんは」
お行儀よく挨拶してきたのは、荘太君だった。
「こんばんは」
挨拶を返しながら、俺は荘太を見つめた。
NICUにいた頃の面影をわずかに残している荘太君だったが、性格は、あの頃の荘太と全く別物だった。
それもそのはず、荘太は、退院のあの日に、NICUで過ごした記憶を失ってしまったのだから。
そして、あれから荘太は新しい人生を歩んできたのだから。
「あれ?明君、それに、荘ちゃん!」
「翠先生、こんばんは」
「こんばんは。どうしたの?」
「塾の帰りです。おばあちゃんと、ここで待ち合わせなんです」
「荘太さん、もういらしたのですね」
そこへ、荘太君のおばあちゃんが現れた。
荘太君とおばあちゃんは手をつないで帰って行った。
あの気難しそうだったおばあさんが、今はとても穏やかに笑っている。
「荘ちゃん、頑張ったのね」
そう、それは、荘太君が退院してから今までの間、頑張った結果だろう。
「だって、あの制服、名門私立幼稚園の制服だもの」
ん?
「毎年すごい倍率なのよ、この前調べちゃった」
んん???
「灯里も、荘ちゃんと同じところ行こうね!」
『行く!』
この時、翠先生の教育ママモードに火がついていたことに、俺はまだ気付いていなかった。
だんだん、ちゃんとまとめられるか不安になってきました。