新たな一歩
『もうイヤ!できない!』
その日、俺がNICUに来たときには既にハナちゃんが荒れていた。
『あんまり思いつめちゃダメだよ、ハナちゃん』
悠希がなんとか慰めようとするが、ハナちゃんは、聞く耳を持たない様子で泣き続けている。
ここ数日の様子を見ていた俺は、何故ハナちゃんがこんなに荒れているのか、想像がついた。
ハナちゃんは、ここ数日の特訓の甲斐なく、うまくにっこりすることができていなかった。
にもかかわらず、ハナちゃんの退院日は、今日なのだ。
『もうイヤ!にっこりなんて、できない!』
『でもな、ハナ、僕たちの最大の武器は、にっこり……』
『ねえ、それって、ほんとうに、最強なの?』
元輝の言葉に、泣き虫ブルーの荒木が反論した。
『にっこり全然できないし、ハナちゃん泣いてるし、全然幸せな気持ちにならないし、にっこりなんて全然強くないよ!』
『でも、僕は、パパに……』
『元輝が言ったそれだって、僕、見たことないし』
ベビーたちの間に不穏な空気が流れ始めていた。
インターホンの音が鳴り、ハナちゃんのママの声がした。
ハナちゃんは、悠希のフォローと日比の抱っこのおかげで、何とか涙は止まっていた。
ハナちゃんの両親が、ハナちゃんの元へとやってきた。
二人の表情は、退院する我が子を迎えに来た両親にしてはあまりに沈んでいて、二人の心にソラ君の死が暗い影を落としていることは、誰の目にも明らかだった。
「ハナちゃん……」
ハナちゃんを見た二人は、目に涙を浮かべ始めた。
『ママ、パパ……』
ハナちゃんは、二人の顔を見た。
「ソラ君と、一緒じゃなくて、ごめんね」
ハナちゃんのママの頬を涙が伝って行った。
『ねえ、ママ、パパ、ソラ君は、幸せだったって言ってたよ。ソラ君は、楽しかったって言ってたよ』
ハナちゃんは、両親に一生懸命『話し』かけている。
それでも、その『言葉』は、ハナちゃんの両親の耳には届くはずがない。
『声』とは、そういうものなのだ。
『ねえ、ママ、パパ、ソラ君がいないのは私も悲しい。でも、それよりももっと、ママとパパに、にっこりしてほしいの!』
その時だった。
ハナちゃんの両親の嗚咽が聞こえなくなった。
ハナちゃんが、今までにないくらい明るい顔でにっこりしていたのだ。
「ハナちゃん、ママを見て、笑ってくれるの?」
ハナちゃんのママの口元がわずかに綻んだ。
そこにすかさず黒川が歩み寄って行った。
「ハナちゃーん、そんなにかわいく笑ったところ、私初めて見たんだけど!ママとパパは、特別なのね!」
『もちろん!』
ハナちゃんの笑顔がさらに輝いた。
いつの間にか、ハナちゃんの両親もほほ笑んでいた。
「こんなにかわいいハナちゃんに、もっと会いに来ればよかった!」
「これからは、毎日一緒だもの!こんなにかわいいハナちゃんがいるんだから、めそめそしていられないわ!」
笑顔になったハナちゃん一家は、意気揚々と帰って行った。
『元輝』
話しかけてきたのは、泣き虫ブルーの荒木だった。
『どうした?荒木?おむつはクロちゃんに言うんだぞ!』
『うん、あ、そっちじゃなくて、にっこりって、すごいんだね』
『ほら、だから、いっただろう?』
『うん、何か、ハナちゃんとハナちゃんのママとパパがにっこりしたら、僕も幸せな気持ちに……』
『どうした?荒木?』
『クロちゃん、おむつー!』
荒木が泣き出し、すかさず黒川が駆け寄って行った。
仕事を終えた俺は、翠先生の元へと向かった。
笑顔で帰って行ったハナちゃん一家を見ていたら、無性に翠先生と灯里が恋しくなったのだ。
翠先生の診察は今日も押しているようで、まだ、妊婦さんの声と胎児の『声』がした。
診察室のドアが開く音がした。
「ありがとうございました」
「次は何事もなければ二週間後に来てくださいね」
『二週間後にまた灯里ちゃんに会えるんだね』
……何だ?この男は?
『そうだね。それまでお利口さんにお母さんのお腹の中にいてね!』
『わかった!灯里ちゃんが言うならそうする!』
小さな足音がした後、子供の声がした。
「おねえさん!またあったね!これってうんめいだよね!」
それは、どこかで聞いたことがある声だった。
「ねえねえ、おねえさん、オレのカノジョにならない?」
「ごめんね、ボク」
「フラれたー!」
『兄ちゃん、お腹に赤ちゃんがいる人相手に告白しても、フラれるだけだって……』
妊婦のお腹の中から、もっともらしいツッコミが聞こえた。
「次の人、どうぞ」
扉が開く音がして、小さな足音が聞こえた。
「すずむらりゅういちろうくんです、3さいです。どくしんいけめんです」
『バカ兄貴……自分でイケメンって言ってる……』
『あ、この前ママのおっぱい触った変態だ!』
……どこかで聞いたことがある声だと思ったら、あのクソガキか!
「うーん、今日先生が診察するのはママなんだけど……」
「竜ちゃん、そこに座ってたらチックンされるよ」
「おちゅーしゃ、イヤ!」
走り去ろうとする足音と、それを追う足音が聞こえた。
「竜ちゃん、こっちなら、チックンされないからね」
「竜一郎君、今日は、ママのお腹の中の赤ちゃんの診察だよ」
「オレのいもうと!」
「この子、赤ちゃんができた時から妹がいいって言い続けてるんです」
「だって、おにいちゃんがせかいでいちばんだいすきないもうとがいいんだもん!」
『お兄ちゃん、それは無理』
さりげなく拒否されてる!
『だって僕、男の子だし』
ていうか、弟だった!
「じゃあ、本当に妹か、エコーで見てみようか」
翠先生はそういうと、妊婦をエコー用のベッドに寝かせた。
「うーん、この角度だと、どっちかわからないね」
「いもーと、いもーと!」
『よし、向きを変えるか』
「あっ!」
「あっ!」
「あっ!おち●ちん!」
『これで分かったか、バカ兄貴、僕はおと……』
「オレのいもうと、お●んちんがある!」
『んなわけあるか!バカ兄貴!』
「うーん、竜一郎君、たぶん、お母さんのお腹の中にいるのは男の子だと思うよ」
「いやだ!おんなのこがいい!いもうとがいい!」
『往生際の悪い兄だ……』
「いまからいもいとにこうかんできないの?」
『できるわけないだろう、バカ兄貴!』
「竜一郎君、お母さんのお腹の中には、もう、この子がいるから、交換はできないの」
「そんなぁ!」
「男の子の兄弟でも、モテると思うよ」
「ほんと?」
「ホントホント」
「じゃあ、おっぱいせんせい、オレがモテモテになるまえにオレのカノジョにしてあげる!」
『おっぱい先生じゃなくて翠先生だろう!』
ていうか、何で俺の奥さんは、上から目線で告白されているんだ?
「ごめんね、竜一郎君、先生、結婚しているの」
「フラれた!」
大泣きになった竜一郎君を連れて、その母親は帰って行った。
「診察終わりですか?」
俺は、誰もいなくなった診察室に入って行った。
「あ、明君、いいところに!」
「何かありましたか?」
「何か、というか、引っ越しの日取りが決まったの」
ということは、それまでに、荷物をまとめたりしなければってことだな。
「来週になったから!」
「へっ?」
俺たち一家の新しい一歩は唐突に決まってしまった。