君の『声』が聞こえる
その日俺は翠先生の診察室に呼ばれた。
「明君、ちょっと来て!」
「どうしたんですか、先生?」
「次の人、電話中みたいだから、今のうちに、ちょちょっとささっと『声』が聞こえるかどうか確かめてみて!」
エコーよりも早く、妊娠検査薬よりも確実な、俺の『声』診断。
翠先生は今、それを自分のお腹で試せと言っているのだ。
俺は、言われるまま翠先生のお腹に耳を押し当てた。
何か、かすかに聞こえるような、聞こえないような……。
何か扉が開くような音がしたような気がする。
もしかして、誰かに見られた?
いや、でも、やましいことは何もない。
だって、俺は、翠先生の夫だから。
雑念を振り払って、翠先生のお腹の音に集中する。
『……ん…………うーん……』
かすかにだが、確かに聞こえた。
「先生、聞こえましたよ、『声』!」
それが、俺が初めて聞いた、娘の『声』だった。
あれから一か月以上がたった。
『パパ、忘れ物ない?』
娘の灯里の『声』は、翠先生のお腹に耳をくっつけなくても聞こえるほどになっていた。
「ないない」
「え?何が?」
翠先生は、ここ最近、お腹にくっつかなくても行われる俺と灯里の『声』の会話に、まだ慣れていない様子だ。
「あ、灯里が忘れ物ない?って言ったから」
「そっかぁ、明君は、灯里の『声』が聞こえて、うらやましいなぁ!」
『ママが私の『声』聞こえなくても、私、ママの事、大好きだよ!』
「ママの事、大好きだって」
「ありがとう、灯里、ママも大好きよ!」
翠先生は、お腹をさすると、玄関の扉を開けた。
『私の『声』のこと、わかってくれるパパの事も、大大大好きだよ!』
「パパも、灯里の事、大大大好きでちゅよ!」
俺は、灯里の可愛い『発言』に、思わず翠先生のお腹に抱きついた。
「ちょ、明君、玄関開いて……あ、おはようございます」
『ママ、急に立ち止まって、どうしたの?』
翠先生の発言と、背後から聞こえた『声』に、慌てて振り返ると、近くの高級マンションに住む奥さんが、気まずそうに会釈していた。
確か、名前は覚えていないが翠先生の高校の先輩の奥さんだったと思う。
『あ、水口くんだ!おはよう!』
『灯里ちゃん、おはよう!』
灯里の発言で、そうか、水口さんかと思いながら、俺も、水口さんに会釈して返すと、翠先生に向き直った。
翠先生は、真っ赤になっている。
「明君、外でコレはダメ!」
「……はい」
翠先生にたしなめられて、少し反省しながらNICUにやってきた俺は、何だか部屋が騒がしいことに気付いた。
『笹岡、遅いぞ!』
『新入りが来るぞ!』
翠先生は今日出産予定の人はいないって言ってた気がするんだが、母体搬送でもあったのだろうか?
「笹岡さん、とっととナースステーションに集合してください」
仏頂面で俺に言ってきたのは、後輩ナースの黒川だ。
俺がNICUの配属になった年に新人としてやってきて、NICUの見学に来た時に、もう一人のナースとやりたい放題やっていたが、主任にド叱られて改心し、さらには主任にあこがれてNICUに志願してやってきたのだ。
一緒に怒られたもう一人の、米田と言うナースもNICUを希望していたが、産婦人科病棟に配属されているらしい。
配属された当初はしおらしかったはずなのだが、いつの間にか立場が逆転してしまっている。
思わずため息をついていると、甲高い声が聞こえてきた。
「ちょっと、みなさん!朝礼を始めますから早く来てください!」
『何だ何だ!』
『うるさい!』
『起きちゃったじゃないか!』
『注射か?』
『やめてー!』
その声に驚いたベビーたちが一斉に泣き出した。
「冴木さん、赤ちゃんたちが驚くのであまり大声は出さないようにしてください」
ベビーたちから『隊長』というあだ名で呼ばれている井澤主任に言われてわざとらしく頬を押さえた冴木さんという四十代くらいの女性は初めて見る人だった。
「先に、全員泣き止ませよう、いったん解散」
井澤主任に言われて俺もベビーたちの元へと歩き始めた。
だが、俺がたどり着いたころにはほとんどが泣き止んでいた。
『皆、注射じゃないみたいだから落ち着いて!纐纈もいないし』
その一端を担っていたのは、現在NICUで一番年長の桜悠希だった。
『悠希姉さんがいうなら間違いないな!』
『確かに、コーケツいないね』
一人、また一人と泣き止んでいく中、いつも根強く泣き続けるベビーがいるはずなのだが、おかしいと思っていると、泣いているのとは別の『声』が聞こえ始めた。
『おっほう!何この心地よさ!こんな心地よさママ以外で初めて!』
聞いたこともない感嘆の『声』の方を見ると、これまたサエキさんとは別の見たことのない小柄なナースがベビーを抱っこしていた。
しばらくベビーを抱っこしていたそのナースは、ベビーが寝たのを確認すると、ベビーをそっとおろした。
そして、その様子を見つめていた俺と不意に目が合って、慌てて言った。
「あ、すみません、つい、反射で!」
子供がいてあやすのに慣れているのだろうか?
子供がいるにしては若いが……。
「あ、りんちゃんでしょ!」
見たことのないナースを見て黒川が嬉しそうに言った。
「よねちゃんが、産科病棟で一番赤ちゃんの抱っこが上手な子がNICUに奪われたって嘆いてたもん!」
期待の新人の到来にスタッフ全員が沸き立つ中、冴木さんがりんちゃんこと日比凛華を睨みつけていた。
こ、この人、絶対怖い!
「あの、ところで……」
皆の盛り上がりが一段落したところで、俺はかねてからの質問を口にした。
「なんで、急に増員したんですか?」
「はぁ?」
黒川が眉間にしわを寄せた。
その黒川の肩をなだめるように叩きながら、井澤主任が言った。
「今さら紹介は必要ないかと思っていたが、この三月で看護師長が定年退職して私が看護師長に就任しました。冴木さんは、ここで主任として働いてもらいます。それから、今後NICU・GCUを拡張していく方針が決まって、これから少しずつ看護師を増員していく予定です。それで、まず、産科病棟から日比凛華さんにNICUに来てもらいました。以上」
そういえば、今日から四月だったなぁ。
ようやく納得のいった俺を、黒川が白い目で見つめていた。
「まあ、笹岡君は、奥さんの妊娠に沸き立っていてそれどころじゃないので大目に見てあげてください」
井澤主任、ではなく看護師長にそう言われて、黒川はため息をつきながら言った。
「たしかに、すでに親バカだから仕方ないですね」
『笹岡バカー』
『アホー』
『オバカー』
『アチョー!!』
皆にくすくす笑われる中、ベビーたちも完全に俺の事を馬鹿にしていた。
俺は、四月の初めにして既に先が思いやられていた。
ものすごく残念なことに、こんにちは赤ちゃんにしてはシリアスな感じです。
それでも、笹岡の残念っぷりは変わっていませんのでご安心ください。