Side3:第二十九章
上空に生じた歪みを見上げながら、士沢は五年前のことを思い出していた。あの時、士沢たちが歪みを確認してから、実際に魔物が正世界に出現するまで、あまり猶予は無かった。出現までのスピードには個体差があるが、そのスピードを予測する術は持ち合わせていないため、今回も五年前と同じ、あるいはそれ以上のスピードで魔物が出現すると考えたほうが良かった。
「し、士沢くん! あれって」
竹森も上空の歪みを見つけたようで、恐怖と驚愕を顔に浮かべながら、小さく、震えた声で言った。
「ああ、魔物の歪みだ……」
士沢の言葉も、震えていた。自分のうちにも恐怖があることを自覚しつつ、それでもこの窮地を乗り越えるべく、士沢は一度深呼吸した。ここは、一度経験している自分が冷静になって判断を下さなくてはならない場面だった。五年前、魔物に襲われた時は何も考えられず、ただ走って逃げようとしただけで、たまたま近くにいた魔法使いが守ってくれなければ間違いなく死んでいた。だが今度は、迫りくる魔物から竹森や他の人々を守る最良の方法を自分で見つけなくてはならなかった。
「竹森は、急いで助けを呼んできてくれ」
「えっ、あ、でも、士沢くんはどうするんですか!?」
「俺はここで、あいつを食い止める。ほっといたら何が起きるか分からねえし」
「そんな! 何言ってるんですか!」
士沢の言葉は予期せぬものだったのだろう、竹森は声を張り上げて反論した。竹森の言葉はもっともで、魔法を習っているとはいえ、まだ実技の授業もやっていないような一年生が今出来ることなど何もないし、そもそも魔物の相手は魔法省の一流の魔法使いでなければ務まらないような仕事だった。
「大丈夫、何も考えてないわけじゃない。手ならちゃんとある」
ポケットの中にあるカードの感触を確かめてから、士沢はじっと竹森を見つめた。
「頼む、行ってくれ竹森!」
「は、はい! でも、無茶はしないでください……!」
士沢の決意の気迫に圧されてか、竹森は弾かれたような返事をし、競技会本部のある方へと駆け出していった。その後ろ姿を士沢はしばし見送っていたが、もう一度深呼吸をすると、上空の歪みに目をやった。
時間の経過とともに徐々に歪みは大きくなっており、空中にぽっかりと開いた黒い穴から、いつ魔物が飛び出してきてもおかしくはなかった。ポケットから魔法陣の描かれたカードを取り出し、士沢はじっと歪みを睨んだ。周囲に物音をたてる物は無く、士沢の呼吸の音がやけに大きく聞こえた。カードを持つ右手が、汗でじんわりと濡れてきた。魔法の発動を阻害してはいけないと思い、士沢がズボンで手を拭った、その時だった。
風が吹いた。
まるで、その風が開戦の合図だったかのように、歪みの向こうの深淵からそれは現れた。
「なんだ、あれ……」
正世界に出現した魔物は、有している魔力を全て使い切るか、魔法によって倒されるまで暴れ続けるという性質や、五年前、実際に魔物と遭遇した時の記憶から、士沢は魔物に対して生物的なイメージを持っていた。しかし、今、目の前に現れた魔物は、とても生物とはいえない形だった。
歪みからは、黒い柱の先端が突き出ていた。士沢は一瞬、その柱が静止しているように見えたが、違った。柱は、ゆっくりと、しかし確実に、ちょうど士沢に向かう形で直進してきていた。
強い風が吹いた。
想像もしていなかった魔物の姿を見て呆気にとられていた士沢は、柱をじっと見た。あくまで自分のやるべきことは助けが来るまでの時間稼ぎなので、下手に攻撃して刺激を与えるよりかは、魔物の出方を探って、何でも良いからこの柱の魔物の特性を見極めるほうが得策だと士沢は考えた。自分が魔法を使うまでもなく、警備の魔法使いが駆けつけてくれるのならば、それが一番良い結末だった。
ヒュッと音を立てて、強い風が吹いた。
よく見ると、柱の魔物の表面は滑らかではなく、塵や埃のようなものが付着しているかのように、ザラザラだということに士沢は気が付いた。表面の様子が判別できるということは、士沢と柱の魔物の距離がそれだけ近づいているということになるが、それでも柱の魔物はただ前進するのみだった。
ヒュッと音を立てて、強い風が先ほどよりも長く吹いた。
少し距離を取るべきか、と士沢が考え始めたところで、カランカラン、と右のほうから音が聞こえた。ちらりとそちらを見ると、風に飛ばされてきた空き缶が地面に転がっていた。終わったらあれも回収しなくちゃな、と士沢が思った、次の瞬間だった。
ヒュッ!と音を立てて、強い風が吹いた。
飛ばされないようにカードを強く握りしめた士沢の顔の横を、高速で何かが通り過ぎた。ハッとして通り過ぎたものを目で追いかけると、それは先ほど転がっていた空き缶だった。空き缶は上空、柱の魔物のもとへと一直線に飛んでいき、触れた瞬間にベゴッと鈍い音を立てて、潰された。柱の魔物に付着したアルミニウムの塊は黒ずみ、その表面を形成する一部分と成り果てた。
「は……?」
士沢は、自分の見たものを、にわかに信じることはできなかった。あまりにも、現実離れした光景だった。
「まるでブラックホールじゃねえか……」
今の出来事から推測すると、その言葉しか出てこなかった。遠い宇宙で起きていることが、規模と威力が縮小されたとはいえ、今ここで起きているというのは異常事態だが、それが魔物の引き起こしたことならば、異常事態の原因など一言で説明がついた。つまり、ブラックホールのように、周囲のものを吸い寄せ、押し潰す、というのが柱の魔物の使う魔法だ、と士沢は確信した。
ビュンと音を立てて、勢いを増した風が吹き荒れた。
今度は士沢の前方、アスファルトの地面にひびが入った。嘘だろ、と呟きながら、士沢は姿勢を低くして、出来る限り魔法の影響を受けないようにした。カードを一層強く握って、士沢は考えを進めた。思えば、魔物が出現した当初から、風はまるで心臓の拍動のように一定の時間ごとに同じ向きで吹き、吹くたびに風速は大きくなっていった。風はあくまで魔法の結果でしかないのだから、時間の経過と共に増大しているのは、柱の魔物が使う魔法の威力だった。恐らく、魔物が正世界に触れている表面積が大きくなるにつれて、魔法も強くなっていくのだろうが、まだ完全に出きっていない状態でこれだけ引き寄せる力が強いのだから、柱の終端まで歪みから抜け出た時、周囲にどれだけの影響があるか分かったものではなかった。
もう、見るだけの時間は終わった。このまま何もしないでいれば、いずれ士沢も柱の魔物に吸い寄せられ、空き缶と同じ末路を辿ることになるのは火を見るより明らかだった。既に一部の侵入を許してはいるが、これ以上先に進めるわけにはいかなかった。士沢はカードに描かれた魔法陣を見て、呟いた。
「頼むぜ……」
柱の魔物に相対する形で魔法陣を掲げて、士沢は機を伺った。
ビュン!と音を立てて、今までで一番強い風が吹き荒れた。
「くっ……」
アスファルトのひびは、士沢の足元にまで及んできていた。吹き飛ばされるな、と心中で叫びつつ、士沢は全力で足を踏ん張って、魔物が生み出す風の奔流に耐えた。そして、その時が来た。わずか、士沢を引き寄せんとする風が弱まったのを感じた。瞬間、士沢は叫んだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
守るべき友人たちと、魔法陣をくれた女の姿を脳裏に浮かべながら、士沢が魔法陣に触れると、魔法陣が薄い緑色に発光し、士沢と柱の魔物の間に正方形の透明な板が生成された。直接魔物を倒せる魔法ではなかったが、この際何でも良い、とにかく皆を守れる魔法であってくれ、と士沢は願った。
士沢よりも近い位置にある透明な板は、生成されるとすぐに柱の魔物に向かって進んでいった。ピークを過ぎても、いまだに強い力で周囲の物体を引き寄せる魔物の魔法が、士沢の切り札を潰そうとしているのを見て、士沢の表情は絶望に染まりかけた。だが、そこで気付いた。先ほどの空き缶に比べて、透明な板が魔物に向かう速度は明らかに遅かった。それに、かなりの力が掛けられているはずの透明な板は、いまだにひび一つはいらず、生成されたままの形を保っていた。
魔物の先端と、透明な板が接触したその瞬間、キィンという甲高い音が響いた。士沢は魔法が途切れないように、透明な板に意識を集中させた。すると、驚くべきことが起こった。
こちら側に押し寄せんとする柱の魔物を、透明な板が押し返しはじめた。士沢はそれに気付き、より一層意識を集中し、魔法陣を握る手に力をこめた。
「行けええええええッ!!」
再び、士沢は叫んだ。それに呼応したかのように魔法陣は輝きを増し、透明な板はぐいぐいと柱の魔物を押し返していった。と、ここで、柱の魔物の魔法が再び発動した。風が吹き荒れ、周囲の物体を全て引き寄せ、押し潰そうとする力が働いた。しかし、その影響を全く受けていないのか、透明な板は依然として形を保ったまま、更に柱の魔物を歪みに押し戻していった。現れ出ている部分が少なくなるほど、柱の魔物の魔法の威力は低くなっていった。
柱の魔物の最後の抵抗は、そよ風でしかなかった。完全に歪みの中に柱の魔物を押し戻した透明な板は、しばしその位置で静止していたが、やがて役目を終えたとばかりに空中で細かく分解され始めた。
「まずい!」
押し戻しただけではまたすぐに魔物がやってくるのでは、と思った士沢は、透明な板を維持せんと魔法に意識を集中させ続けた。しかし、透明な板の魔法が終わったわけではなかった。透明な板が分解されると同時に、上空にあった空間の歪みが小さくなっていくのを士沢は見た。
「な……!?」
歪みが元通りになるのは、飛び出してきた魔物の全身が正世界に出現した後、ということは知っていたが、まさかそれ以外の方法があるとは思っていなかった士沢は心底から驚愕していた。歪みの補修はものの十数秒で終わり、上空はまるで何も起こってなかったかのように元の姿を取り戻していた。士沢は魔法陣から手を離し、周囲を見渡した。
上空こそ元通りになったが、地面はそこら中にひびが入っており、襲来した災害の凄まじさを如実に語っていた。しかし、どうやらそれ以外の被害は無いようだった。
「良かった……」
安心して、士沢が息をつくと、突如足元が覚束なくなり、膝から地面に着いてしまった。あれ、と士沢が思うまでもなく、全身から急激に力が失われていき、視界が暗転した。




