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Side2:第三章

 買い物を済ませて、スーパーを出てからも、二人は並んで歩いていた。帰路は同じなのである。二人は、同じマンションに住んでいた。

 穣は、スーパーを出てから黙ったまま、携帯を閉じたり開いたりしながら、買物袋をぶらぶらさせている幸の後ろに従いて歩いている。幸は、スーパーで注意を受けて以降凹んでしまって、一向話しだす様子がない。場を選べとは言ったが、話さない気ではなかった穣は、しかしどこから戦端を開いたものか、その機会をつかみかねていた。

 前にみえる、大きな交差点の青信号が点滅しだした。あれは渡れないと判断して、二人は立ち止った。並んで、交差点の前にたたずむ二人は、喋るどころか、お互い目線を向けることすらしない。行き交う車はそう多くなく、騒音に囲まれた繁華街でもないから、話そうと思えば二人の会話をさえぎるものは何もなかったのに、二人は言い知れぬ話しづらさを感じて、黙ってしまっていた。

 穣は、この気まずい沈黙を作ってしまった責任を、ひしひしと感じていた。なんてまずいことを言ってしまったのだと、自分を責めずにはおれなかった

 穣にとって、母の再婚は、確かに触れてほしくない話題であった。家庭内の話は他人には理解できないことが多いし、なにより、自分でもそれをどう思っているのか、はっきりとわかっていなかったのである。触れられても、答え様がなかった。

 しかし、穣はそう言わなかった。言いたくない、答えたくないという思いを隠して、場を選べ、とのみ言った。そうすることで、穣がそれを話したくないのではなく、幸がそれを話すべきでなかった、という風に枉げてしまった。言ってすぐ、自分の失策に気づいた穣は、後で話そうとは言ったが、いつ、どんな場所で話そうとは言えなかった。話を後にまわすなら、まわしたい側が、いつにまわしたいのかを伝えねばならぬ。そうできなかったのは、しかし考えてみれば当然のことで、いつそれがわかり、どんな場所で話すべきことなのか、穣にもわかっていないのである。であればこそ、穣は後にまわしてはいけなかった。少なくとも、話はあのスーパーの中で完結させねばならなかった。そうしなかったのは、ひとえに穣の怠惰、今そんな深い話をしたくないという勝手な思いによったものであった。そうして穣は、幸が、ただ穣のために敢然心情の深いところへ踏みこんできた勇気を酌まずに、責任逃れの姑息な返答をした。

 車の信号が赤に変わった。まもなく、歩行者用信号が青になろうとしている。穣は、どうしてもこの沈黙を破らねばならなかった。そのためには、いったん先程隠した自分の心情を、偽らざる赤心を、幸にさらして見せてやらねばならなかった。穣は、その決心をずっとつけかねていたために、黙っているのであった。

 青信号が点いた。幸が歩きだす。いつもは凛と伸びている背筋が、すこし小さく丸まっているのをみて、穣は抗い難い衝動に襲われた。今すぐ、自分は何事かを言わねばならぬ。声をあげねばならぬ。

 「なあ、渕原」

 精一杯の思いが、穣の口を開かせ、交差点を渡りきった幸の背中にぶつかった。開いた口からどんな言葉が出てくるのかは、穣にもわからない。しかし、穣はこの瞬間すでに、胸のつかえがひとつ落ちた気になっていた。

 「まずは、済まない。謝る。さっき、俺は嘘をついた」

 「嘘?」

 振りむいた幸は怪訝な貌をしていた。幸には事情がわからない。いったい、穣がどんな自責の念に駆られているのか、どんな申し訳なさに苦しめられているか。穣は、それを今から説明しなければいけない。被告自ら、自分の罪状を並べたてる責務があった。

 「お母さんの話さ。後まわしにすると言った。まるで、できるんだが今は相応しくない、という風な言い方をしたが、それは嘘だった。後にも先にも、俺にはお母さんの話はできない。しかしそれは、お前に話したくない、というのではなくて、同じことを何度も言って済まないが、どうしてか、俺にもよくわかっていないのだ。俺の無気力の源泉であるところの感情が、怒りなのか、悲しみなのか、もっと別の何かなのか、俺にも判別がつきかねている。学校をサボって、図書館で勉強しながら、俺はずっと、その正体をどうにか暴けないものか考えていた。だが、いまだ成し遂げられていない。だから、話せない。話せる様になったら、お前には真っ先に話してやりたいが、とにかく、今はできない」

 口の動くまま舌の赴くまま、穣は話しきった。幸は、急な長弁にすこし呆気にとられていたが、やがて、

 「そうか」

 とのみ答えて、すこし笑った。

 「いいさ、私も、すぐに解決するとは思っていなかったよ」

 そう言って幸は歩きだし、穣も続いて、隣へつけた。二人は、ようやく並んで歩いた。

 「お前と真摯に向かいあう必要があると思ったんだ。でないと、お前の問題はずっと解決しない気がした。私が解決できるなどと、おこがましいことは思わないが、しかし、少しでも輔けになれればいいと思って、つい、急にデリカシーのないことを言ってしまった。私のほうこそ謝らきゃならない」

 「そんなことはない。お前をデリカシーのない風にしたのは、俺だ。俺が、とにかくその質問からのがれたくて、つい態の良い遁辞を構えてしまった」

 幸の愁眉は、すっかり開かれた。もうマンションまで程近い。二人の間には、弾む、という程ではないが、会話が復活した。

 

 「とにかく、明日は来る様に。約束だからな」

 マンションのオートロックの前で、幸は鍵を差込みながら言った。

 穣は黙って頷いた。

 「学校に行きたくないわけを、学校に行かず考えていてわからないなら、学校に行って考えてみるのもいいだろう。なんだかややこしい話になったな」

 エレベーターを開けて、8階に昇る。エレベーターを降りたら、廊下は左右に分かれていて、左には8001~8007号室があり、右には8008~8015号室がある。渕原家は8015号室で、冬河家は8012号室であるので、二人は右へ曲がる。すると、すぐに渕原家に着く。

 「じゃあ、また明日。繰り返すが、必ず来いよ。なんなら、私が迎えに行ってやろう」

 「要らんよ。だいたい、お前は生徒会の仕事で、ずいぶん早くに出るんだろう。同じ時間に起こされてたまるか」

 「寝坊して、遅刻してまで行くのが嫌で、サボった、なんてオチはやめてくれよ」

 「しないさ。必ず行くよ。でないと、川邑先輩に、いよいよ貌があわせられなくなってくる」

 「ふふ、そうだな。じゃあ」

 幸は扉を開けて、一回穣に手を振って、部屋の中へ入った。それを見送った後、カンカン靴音を立てて、穣は廊下を進んでいった。

 8013号室の前で穣は立ち止まり、玄関と正対した。扉の右の表札には、8013という部屋番号の下に

 「冬河・瀧野」

 と書いてある。暫し、穣はそれを眺めて、考えごとをした。

 穣の懊悩の所以が、この表札につまっている。この表札が9月の半ばごろにこの部屋にかかってから、その前から既に萌しはじめていた穣の無気力と悩みは、いよいよ形を成しはじめたのであった。

 穣は、悩みの塊とも言えるこの表札に、触れてみた。実際に触れることで、もしかしたら何か得るものがあるかもしれないと思ったのである。金属の冷たさが、穣の指を刺した。しかし、それだけであった。

 右手についた汚れをぱっとはらい、鍵を取りだして差入れた。鍵は、開いていた。

 そのことに気づいた瞬間、さっきまで当面の問題を忘れて弛緩しきっていた穣は、いっぺんに緊張を取りもどした。

 物騒な時代である。芽衣と穣は帰宅するといつもすぐに鍵を閉めてしまうから、冬河家の鍵が開いているということは、その二人ではない、もう一人の人物が帰宅したという事実を示すのである。

 穣は、芽衣と義父が、瀧野繁(たきのしげる)が待つ家に、ちいさくため息をついてから入った。



(続く)

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