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Side2:第二十六章

 「冬河くん!あそこ!あそこのスペースって、もしかしてカフェテラス?」

 「そうだよ。今日は休みだけど」


 「冬河くん!下駄箱がいつまでたってもないよ!」

 「ああ、第一校舎は、構内全域土足で構わないんだよ」


 「冬河くん!エスカレーター!エスカレーターがあるよ!」

 「下田」

 「しかも、休みなのに動いてる!すごい!」

 「下田」

 「何、何!?」

 「はしゃぎすぎだ。誰もいないとはいえ」

 継子が幼子の様にはしゃぐのも、彼女の身になってみれば、無理ないことではある。だから、人一倍騒がしいのが嫌いな穣にも、やんわりとした注意しかできなかった。穣の注意を聞いてもなお、目に映る全てを全身で楽しんでいる継子に対して、穣はそれ以上何も言えず、控えめなため息をひとつついただけで、継子の発する疑問に律儀に答え続けた。2階の図書館前に着くまで、継子の質問攻めは途切れなかった。

 「ほら、着いた」

 若干気怠げな風で穣が言った。

 「着いたって、ここ、図書館だよ?」

 「ああ、自習室は、図書館の中にあるんだ」

 「へえー。驚くことばっかりだなあ、第一校舎は。なんだか、着くまでにだいぶ疲れちゃった」

 「お前がはしゃぎすぎるからだ」

 このまま継子を伴って図書館に入ると、蔵書の一冊一冊に食いつきそうだったので、穣は図書館の扉の

 『静粛に』

 と書かれた貼り紙を指でさし示して

 「まあ誰もいないとは思うが、司書さんはいるからな」

と言ってから、静かに扉を開けた。

 二校の図書館は、娯楽本を一切入れず、学術書しか置いていないせいか、かなり厳粛な雰囲気がある。沢山の大きな窓が明るい太陽光を取り入れてはいるが、その熱でさえ、この空気を和ませるには及ばなかった。

自然と、継子も口をつぐんだ。しかし、精神まで張り詰めてしまったのではなく、むしろ喋らなくなったためにより視覚を働かせて、この光景の記憶に努めた。

 継子が、通り過ぎる棚の本や、自習机に爛々と目を光らせていると、突然なにかにぶつかった。見ると、穣の背中である。

 「どうしたの?急に立ち止まって」

 「いや、何というわけじゃないんだが……」

 穣は言葉を濁している。前方、すこし斜め右に視線が固定されているので、継子は穣の視線の先を追った。図書館内の学習机に、一人の女子生徒が坐っている。ここまで、受付の司書以外の人の姿を見なかったので継子は勝手に図書館を無人と思っていたが、そもそも他にも利用する人がいるから空いているのだと、ようやく思い至り、さっきまでの自分の言動をすこし恥じた。

 穣は、誰を見留めているのであろう。後ろ向きだから顔はよくわからないが、穣はその人をしっかと見つめている。

 「知り合い?」

 穣が立ち尽くしたまま動かないので、継子がひそひそ声で尋ねた。

 「ああ」

 穣は、肯定だけを返した。どうやら、穣は知り合いと貌を合わせたくなくて、逡巡しているらしかった。自習室は、前方、その知り合いのいる机を通り過ぎたのちにある。

 「もしかして、何か因縁のある人だったり?」

 「いや、そういうのはない。ただの友人だが……特別厄介な友人なんだ」

ため息混じりの穣の声から、継子は穣が本気で嫌がっていることを察した。

 「そーっと行けば、横切ってもバレないんじゃないかな?」

 「そうしよう。なるべく、足音を立てるな」

 と言って、穣はようやく歩き出した。熟練の忍者の様に、無音で歩く穣の後ろを、少しの足音と呼吸音とともに継子が追いかける。

 目標の人物まで、あと十歩、あと五歩と近づくにつれ、特に彼女に思い入れのない継子も、何故だか緊張してきた。ゆっくりとした動きの中で、感覚だけが鋭くなって、高くなる心臓の拍動音すら、静かな図書館の空気に響いてしまうのではないかと思われた。

 とうとう横切るという刹那、継子は無意識に息を止めてしまった。踵から降ろした足の感覚がない。雲を踏んでいる様な気分である。直前までは、自然な足取りを意識していたが、もう継子にはそんな余裕がまるでなくなってしまった。俯瞰的視点を失い、継子は完全に動転してしまっていたが、しかし継子の身体には、長年の経験があった。縺れている思考を置き去りにして、継子の身体はいつもの歩調を再現してくれていた。そのため、二人は違和感なく、目標の女子生徒を通過し得た。さらに、自習室の扉に着くまで、女子生徒はこちらに気づくことはなく、静かに机に目を落としていた。目的は、遂行される直前であった。しかし穣が扉を開けるために立ち止まったのが、いけなかった。思考を放り出した継子の身体は、動くことは知っていたけども、ブレーキがなかった。ふたたび、継子の体躯は穣に阻まれたが、軽いパニック状態の継子が驚く声を飲み込むことなど、できようはずもなかったのであった。

 「あっ!ご、ごめん、なさい」

 継子の声で、女子生徒の顔があがった。女子生徒の視線は、継子をさらっと通過して、穣の後ろ姿で止まった。

 「あれ、冬河?冬河じゃない?」

 背中から伝わる継子の体躯の震えから、目論見が外れたことを察していた穣は、苦虫を噛み潰した様な貌を後ろの声の主に向けた。

 「やっぱり。冬河だ。久しぶりー」

 野田 祥菜の呑気な声を、穣は3ヶ月ぶりに聴いた。3ヶ月前も、こんな表情で聴いていた気がする。穣は、表情に沿った声で返事をした。

 「……久しぶり」

 「ほんとに。でも、元気そうでよかった。川邑先輩的に言うと、重畳重畳ってやつだ。で、そちらはどなた?」

 「あ、私、冬河くんのクラスメイトの、下田といいます」

 同学年であるにもかかわらず、つい継子は、畏まって挨拶をしてしまった。

 「ふーん。冬河の、今のクラスメイトってことは、B組の子?」

 祥菜の何気ない問いに、継子は言を詰まらせた。うん、と、胸を張って言うべきである。継子ははっきりとそう了解していたが、理性で首を曲げられる程、浅い傷痕ではなかった。沈黙してしまった自分を恥じる様に、継子は目を伏せた。継子の消沈をみて、穣は渋面を濃くした。継子を連れて知り合いに合えば、きっとこうなることを想像しきっていたから、知り合いを避けたがったのである。そして、知り合いの中で、一番無神経にここへ触れてきそうな人物が、祥菜であった。穣は、どうしようもない空気になったと感じて、言葉を失った。しかし、それすらも祥菜の呑気さを曇らせるには至らなかったとは、穣は想像できなかった。

 「なら、初めましてだ。どうも、野田です」

 そう、何の淀みもなく言って祥菜は立ち上がり、継子へ近づいていった。そして、怯んだ継子の手を取った。

 「冬河の友達なら、私の友達だね。以後よろしくー」

 ぶんぶんと握った手を振る祥菜に、継子は、驚いて手を握り返すのも忘れてしまっていた。穣も呆気にとられてそれを見ていた。

 「下田さん?」

 怪訝に思った祥菜に声をかけられて、どうにか継子は上ずった声で

 「こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」

 と返事をして、手を強く握った。貌は、紅を差した様に上気している。

 「うんうん、よろしく」

 濁りのない笑貌を浮かべる祥菜をみて、穣は、むしろこの人であって良かったのかと思い直した。祥菜という人さ、人心にあまり頓着しない。そのために、ずけずけと、人の心へ土足で踏み込んでいくきらいがある。そこを穣は厄介に思い、警戒していたのであるが、しかしその頓着のなさがこうまで徹底しているものとは知らなかった。そしてそれが、誰であれ、自分の認めた人物の認めた相手であれば認められる、という寛容さと表裏一体になっていることに、穣はかなり驚いた。



(続く)

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