Side2:第二十三章 -川邑美穂-
眠い、というおもいを、美穂は物心ついてから感じた覚えがない。
体がだるい、とか、頭痛がする、といった、身体に生じた変調を感じることはあるが、それが眠い、に結びつかないのである。毎日の睡眠を怠れば身体に悪いことを知っているから、寝るのを欠かしたことはないが、その判断はすべて、美穂の理性によって行われており、起きていたいけど瞼がおちてきてどうしようもない、という風な、意思と関係なく襲ってくる睡魔には、一度もでくわしたことがなかった。
川邑 美穂という人の十八年の生涯を語る上で、この身体的特徴は非常に重要な意味を持つ。何故なら、美穂はずっと、同年代の他人と比べてより長くの時間を苦しまずに生きてきた人間であり、彼女の生涯の成功はその一事に由来しているからである。6時間寝なければ翌日が辛い人間と、3時間の睡眠でも翌日を存分に過ごせる人とを比べてみたとき、両者の成し得ることに大いなる懸隔が生じることは誰にもわかる。
美穂の就寝時間は小学生の頃から12時を越えないことがなく、また、美穂の起床時間が5時を過ぎることもなかった。小学生の美穂は、日中みんなと同じ様に遊びながら、余分に起きている間に勉強をした。生来の勤勉のため、ではない。眠くないのを良いことに夜更かしをしようとする美穂に、両親が、勉強をしていなければ美穂が夜更けまで起きていることを許さなかったからである。美穂が学問にうちこむ様になったきっかけは純粋な知識欲ではなく、「夜更かし」という言葉の甘美な魅力であった。しかし、これが美穂に学業に於ける成功をもたらした。そもそも勉強というものは、これを嫌い、門の前で逡巡する様な者は鉄錠をおろして入れないが、進んでやろうとする者には容易く門扉を開き、深奥まで招き入れようとする性質を持っている。美穂は、同年代の他人よりずいぶん早いうちに、修学の快楽を知った。同時に、時間を費やせば費やした分だけ、他人を先んずることができることも知った。美穂には学問の天稟もあったであろう。しかし、何より美穂の追い風となったのは、眠気を感じないという天稟であった。
ごく自然に、美穂は比類ない優等生になった。二校へ入学したのは、魔法省の役人である父・直への憬れのためであった。優秀なことが衆目にはっきりとしている者にとっては、高額な奨学金やすぐれた立地などから、二校はかなり魅力的に映る。
入学後も、美穂は優等生であり続けた。それまで見なかった、大山 瞭や吉沢 佳奈らといった同年代の美穂に劣らぬ才覚を持った女子達に会ったことで、美穂の学問への情熱は加速し、同時に、負けず嫌いな性格も育っていった。二校に入学する以前、美穂は優等生でありながら他の人の勉強もみてやる様な余裕があったが、以後は他人への気遣いを失いはしなかったが、どうしても自分が勝つ、という、負けん気の方が強くなった。
二校での美穂の行動の殆どは、その負けん気によって起こされていた。一年生の身で入った生徒会の最初の集会で横暴な上級生の語り口に怒って、椅子を生徒会室の窓から放りなげたり、構内に自販機を置いている業者と値段交渉で火花を燃やしたり、などの『川邑 美穂伝説』と言えそうな出来事を起こしながら、美穂はとうとう生徒会長になって、二校を代表する立場にまでなった。
「川邑先輩」
放課後、生徒会室の長机に坐って事務仕事をしている美穂に、書類を持った幸が近寄ってきた。
美穂は自分を絶対に『会長』と呼ばせない。理由は単純で、生徒会のほかの面々にも各々の役職があるのに、自分だけが役職で呼ばれるのはおかしい、ということであった。一度だけ、幸がそれに反論をしたことがある。
「会長、というのは役職の名前ではありますけども、同時に、敬称としての役割も持っています。生徒会の中で尊重される役割に就いているのですから、敬称を用いて呼ぶのが自然じゃないでしょうか」
それに対して、美穂はこう言った。
「私は尊重される筋合いはない。そもそも、組織というものは誰かしらが頭にならなくては立ち行かない。だから頭の部分を私がつとめるというだけの話で、他の誰にも同じことが言える。会計がいなくても、庶務がいなくてもこの生徒会と言う組織は立ち行かない。どれがどれに対して優越している、ということは全くないんだ。といって、全員が全員を役職で呼び合っていたら、ずいぶん不人情だろう。だから、私は川邑でいいし、お前は渕原だ。そこを歪めないでおこうじゃないか」
この考えを、美穂は全校集会でも述べて、すべての生徒に、自分を『会長』と呼ぶな、とアピールした。こうして、おそらく二校では初めて、生徒の誰からも会長と呼ばれない生徒会長が誕生したのである。
「大山先輩の所在を知りませんか。ちょっと、聞かなきゃいけないことが出てきまして」
「私じゃだめか?」
「はい。今大山先輩任せになってる、今度の中間考査の順位発表の是非についての生徒アンケートについてなので」
「それは、私じゃわからないな。授業が了わってからまだ見ていないが、昼休みに、第二校舎の分も集計しなきゃ、みたいなことを言っていたから、多分、第二校舎へ行ったんだと思う」
「わかりました。じゃあ、待っていた方がよさそうですね」
「そうしたがいい」
幸は、ちょっと会釈して、席へ戻った。戻る背に向かって、美穂は声をかけた。
「渕原」
「何ですか」
返事をしながら、幸は美穂の方へ向き直って、立ったまま話そうとした。
「会釈なんてしなくても良いぞ」
「会釈、していましたか」
「していた。それに、私の話を立って聞かなくてはならない決まりもない」
そう言われて、幸はちょっと慌てて席へ着いた。
「お前は、まだまだ固いな。礼儀に厳格すぎる」
「すみません」
「謝ることでもない。きっと、人によっては美徳とみるだろうから。しかし、どうしてまあそこまで、たかが先輩に改まるのかな。私だけでなく、田辺や五井にまでそんな風だろう。見ていて、あいつらをどうしてそんなに敬えるか不思議でならない」
「中学の時、部活がずいぶん厳しかったもので、その癖が抜けない様です」
「私が一年の時の会長も、かなり厳しい人だった。私はそれが嫌で、生徒会をこんな風にしたが、お前は嫌じゃなかったか?」
「正直、嫌とは思いませんでした。というか、そう思えるだけの確固としたものを持ちませんでした。中学生の了見なんてそんなものです。自分を取り巻く環境が、世界の全てでしたから。二校に入って、今年生徒会に入って、これでもちょっとづつ変わってきてはいるんです。昔は、上級生に『はい』『お願いします』以外の口をきくことすら稀でした。ですが、後輩への接し方は考えましたよ。私も先輩と同じ様なことを後輩へ言った覚えがあります。今の私と同じく、最初は畏まって砕けてくれませんでしたが、ちょっとすれば、ずいぶん親しくしてくれました」
「今度は、お前がそいつらを見習う番が来た、というわけだ。人間は一度曲がると、矯めることは難しいな」
ノックの音がした。
「入ります」
瞭の声である。慌てて立ちあがろうとした幸を、美穂は笑いながら手で制した。
(一旦終わり)




