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Side2:第二十二章

 穣が長弁を奮い、継子がそれを聴いているうちに、もう西日も消えようか、という時間になっていた。

 「そろそろ出ようか。もう話したいことはだいたい済んだ」

 返事を聞く前に、もう穣は筆記具等の片づけを始めていた。それを、継子はすこしあわてて止めた。

 「ま、待ってよ冬河君」

 「なにか、あったか?」

 「いや、事務的なやつじゃないけど……まだ6時前でしょ?すこし話さない?」

 「いいけど、まだなにか、話したいことを残していたのか」

 「話したいことっていうか、私たち、まだ全然お互いのことを知らないなあって。これから、一応長く接することになるわけでしょ。色々、知ったり教えたりした方が良いんじゃないかな」

 それもそうだ、と、穣は声には出さなかったが、内心頷いた。継子と知り合って、そろそろ一週間になるが、まともに向き合って話をしたのは今日を含めて3回しかない。教室では、穣は寝るか自習をしていてとても話しかけられる雰囲気ではないし、継子は継子でテスト勉強に情熱を注いでいたから、ついお互いを知らないままでいたのであった。しかし、これからもそのまま、というわけにはいかない。二人はこれから、勉強という難題と同時に、円滑なコミュニケーションを行える人間関係をも構築していく必要があった。それなくして、修学の手解きを行えないことは自明であった。

 「考えてみると、俺たちがこうして何気なく会話しようとしたりするのは、勉強するよりもずっとたいへんなことかもしれない」

 「どうして?」

 「失敗できないからさ。勉強は、多少の間違いは覚え直せばいい。時間をかければできることだ。けども、人間関係の失敗で、それができるかな。ちょっとでも不和を起こせば、その関係は解消されてしまうかもしれない。解消されなくても、ぎこちなさが残るだろう。これがただの人間同士ならそれは自然な成行で仕方のないことだが、俺たちはちょっと特別だ。やりたいことがある二人が、集まった後でコミュニケーションをとろうというのだから、もし人間関係を壊してしまえば、お互いがやりたいことをできなくなってしまう。ガラス玉でキャッチボールをする様なもので、お互いがそっと投げて、そっと受け取るを繰り返さなくてはいけない。どちらも、強く放れないし、目を切れない。勉強の方が、どんなに簡単なことか」

 「そうかなあ。冬河君は、強く放れるし、放っているように見えるよ」

 継子は、すこし口を尖らせて、非難する様な口ぶりで言った。そういうふざけ方を継子が肩肘張らず出せたことに、穣はひとつ安心した。

 「それは、そう見えるだけの話さ。小心翼々たる態度なんだ、これが」

 「小心……なんて?」

 「小心翼々。びくびくしているって意味だよ」

 それを聞くと、継子はとうとう耐え切れず噴きだした。

 「笑うほど変かな」

 「変だよ。そんな風にびくびくする人、みたことない」

 「ガラス玉を落としたくないのは、お前だけじゃないってことを知っておいてほしかった。俺は俺で、これをすることに稀有な価値を見出して、取り組もうとしているんだ。必死なお前を哀れに思った俺が助ける。そういう絵図は正しいものじゃない」

 穣は、生来寡黙ではない。むしろ、人生の殆どを饒舌に過ごしてきた。唇の間に鉄扉が降りたのは、ほんの半年前からである。そしてその鉄扉の錠は、もう灼き切られていた。二人は、1時間程話し、明日同じ時間に喫茶店に来る約定を交わして、帰った。



 自分の最寄り駅についてから、穣は忘れ物に気がついた。ポケットが変に軽いと思いまさぐってみると、携帯電話がなかった。帰途に取りだした記憶はない。教室に置き忘れたのであろう。面倒ではあったが、穣は引き返すことを選んだ。帰途の何処かで落としてしまった恐れもある。その場合、届け出るのが遅くなればなる程損害のでる可能性が大きくなる。学校に戻って、なければ交番へ届け出るというのが、一番速やかで、効率が良い。

 さっき乗った電車にもう一度乗り込む自分を馬鹿らしく思いながら、穣は通学路を戻った。

 すっかり夜である。駅にも、おもてにも学生は殆どおらず、帰宅ラッシュも解消された後であった。通学路は、大通りのうちは随分賑やかであったけども、路地を一本はいるや、急にさみしくなった。すれ違う人もいない。靴音はひとつである。

 空では月が弱い光を放っているが、地表には影響がない。穣の足許を照らすのは電灯の光である。星に至っては、都会の澱んだ空気の中で、自分の存在すら瞭らかにできず、わずかに二つ三つの一等星が埃の様に濃紺の空に貼りついていた。

 「冬河ッ!冬河じゃないか!」

 ぼんやり夜空を見上げながら歩いていた穣に、正面からよく通る声が突き刺さった。

 「こんばんわ、川邑先輩」

 「おうこんばんわ。どうした、こんな時間に。私までが帰る時間だぞ」

 そう言いながら、川邑 美穂が近づいてきた。夜だということを思い出したのか、すこし声量は抑えている。

 「いえ、なんてことじゃあないんですが、忘れ物をしましてね」

 「忘れ物だと?」

 聞いたとたん、美穂は相好を崩した。

 「お前が忘れ物か。これは面白い。何を忘れたんだ」

 「携帯電話ですよ。何が面白いんですか」

 「ふふ、私はな、お前とか大山みたいな、一見抜け目なさそうな奴が、うっかり何かドジをするのが大好きなんだ。本人からすれば災難だろうがな」

 「あまり、趣味が良いとは言えませんね」

 「そう悪趣味でもない。お前らみたいな、何かと考えて動く人間は、ちょっとした失敗をどうしようもない失態と重く考えて、思いつめてしまうことがままあるから、脇で笑い飛ばしてやる奴が必要なんだ。そんなこと、大したことでもないとな」

 「一理ありますが、それを先輩が言ってはだめでしょう。身も蓋もない」

 「それもそうだ」

 穣の冷静な返しを認めてしまって、美穂は控えめな声で笑った。

 「今から、学校に戻るのか?セキュリティーがかかっているから入るのが面倒だぞ。着いていってやろう。私なら、キーで一発だ」

 半ば強引に、美穂は同伴を決めた。道中、美穂はちょうど今日瞭がしたという失敗の話を、笑い混じりに穣に語った。あんまり楽しそうに話すので、穣はそれに相槌を挟むだけでよかった。

 「それでな、大山のやつ、何をとち狂ったのか、開けた醤油の袋の切れ端の方を大事に持って、醤油の入っている方を弁当の蓋に置いたんだ。くく、ははははは!堪えられないなあ。その時のあわてぶりは見物だったぞ。結局蓋を醤油注しみたいにしてフライにかけていた。なんでもない様な貌をしてな。その白々しい澄まし貌も、またこれが傑作なんだ」

 「それは是非、みてみたかったものですね。……じゃあ、ちょっと取ってくるので待っててください」

 美穂を廊下に待たせて、穣はひとりで教室に入った。自分の机を探ると、浅い位置に携帯電話があった。

 「ありました。すみません、手間を取らせました」

 教室から出ると、穣は待っていた美穂にそう言って右手で携帯電話を見せた。

 「重畳だ。それじゃあ、帰ろうか」

 帰途、美穂は競技会の話をした。

 「我々生徒会が、開会式で大きな出し物をするのは知っているな?」

 「はい」

 「今日は、その話し合いだったんだ。近々、他の二校を招いた会議があるから、その資料集めとかをしていた」

 「お疲れ様です」

 「まだこれからずっと疲れるんだ。二校の生徒会長として、かなり尽力せねばならない。冬河。当日は他の生徒も大いに奮うだろうが、私の活躍もよく見ておくんだぞ」

 「えっ?」

 束の間、沈黙が流れた。美穂が足を止めたので、穣も立ち止まった。

 「……えっ?とはなんだ、冬河?その疑問符の意図するところが、私にはよくわからないのだが」

 「なんでもありませんよ」

 「まさか、まさかとは思うが、貴様、競技会をサボるつもりでいた、というわけではないよな?」

 美穂が『貴様』と相手を呼び始めたなら、それは感情の昂ってきたサインである。

 「……競技会って、出場競技以外の時間は自由参加でしたよね?俺、開会式には出場競技がないんですよ。だから」

 「開会式くらい、じっと席にいろッ!」

 怒声が放たれた。もう、二人は大通りにいる。集まりだした視線を気にせず、美穂は穣の胸倉を掴んだ。

 「いいか?クラス席に見に行くからな?もし貴様がいなかったら、自分の競技を放りだして探すぞ」

 「やめてください。たいへんなことになりますよ」

 「貴様は、自分のことで大事が起こるのが一番嫌いな性分のはずだ。それが嫌なら、きちんと、開会式だけでも見に来い!わかったな!」

 美穂は、殆ど突き飛ばす様にして、穣の胸倉を離した。

 「わかりました」

 返事をしながら、こういう狼藉をはたらいておいて相手を嫌な思いにさせないのは、美穂のどういう功徳によるのだろうと、穣は真剣に疑問に思った。そしてそれは、美穂に『衒い』の心がないためである、と、穣はすぐに結論付けた。美穂の言動は、いつでもすべてが「美穂」のままであり、それを飾り立てたり誤魔化したりするところがない。今のも、本当に目をかけている後輩に先輩の威容をみてほしいという、純粋な思いからくるものであるから、ぶつけられている方も嫌な気がしないのである。穣は、誰より『衒い』の心に敏感であったから、逆にまったく衒わない相手には、なすところを知らないのである。

 ――かなわない先輩だ。

 穣は、改めてそう思わされた。



(一旦終わり)

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