Side2:第二章
冬河 穣は、国立第二魔法学校に通う二年生である。十七年前の五月十五日に東京都で生まれ、それからずっと、東京で育っている。父は透修、母は芽衣といった。
穣は、透修の貌を写真でしか知らない。声も、体温も覚えていない。透修は、東京の一番頭のよろしい大学の医学生であったが、穣が二歳の歳に、急性の心不全を起こして、二十四歳の若さで没した。透修の一つ歳下で、二十三歳であった芽衣はそれ以来、独力で幼い穣を育てていかねばならなくなった。芽衣は、伴侶を喪った哀しみに挫けることなく、仕事を選ばないで懸命に働いたが、冬河家の財政は一向豊かにならなかった。芽衣は、透修と同じ大学の教育学部に通っていたが、穣を産む時に中退しており、沢山稼げる様な仕事に就くことはできなかったのである。さらに、穣が成長するにつれてかかる費用が増え、窮乏はいよいよ極まっていった。
穣は、そんな苦境の中で、物心付いた。
穣は、優秀な両親の血に恥じない秀才であった。教えられて理解できないということがなく、また学ぼうという意欲でも、人に劣らなかった。休みなく働き、僅かな稼ぎの殆どを養育費に使って自分を省みず、文字通り身を削りつづけてきた芽衣の姿を、ずっと見つづけて育った穣は、自分の人生を自分の自由にしてよいものと思えなかった。自分に与えられている時間は、すべて母が自分の人生に於ける自由を削って作られたものである以上、それを無碍には使えないと、幼心に感じていた。学校は社会に出ていく時に最低限の常識と教養を身につける場であるので、ここにいる時間はすべて、勉強に費やされなければならぬ。少しづつ、しかし同級生に較べれば物凄い速さで、穣の倫理観は形成されていき、強く、自分を縛る様になった。休み時間に、遊ばないで図書館に籠って、置いてある問題集を解こうとする小学生は、穣の他にいなかった。
穣は地元の公立小学校から、受験をしないで、地元の公立中学校へ進学した。中学校になると、勉強の幅は大きく広がる。学べることの量が、格段に増える。穣の才能は、ここに至って衆目をひく様になった。学習塾に行っている同級生をまず知識量で抜き、次に上級生を抜いた。一年次の担任であった樋野という数学教師は穣の才能に惚れこみ、学んではまだ足りぬと言い、もっともっとと、新しい知識を求める穣に、自分の時間を割いて、時間外の補習授業を行ってやった。
中学二年の頃、全国学力テストがあった。穣は、塾にも行かず家庭教師もつけないのに、四番と言う高位につけた。それまでも穣は、校内テストでは常にトップを取っていたが、このことで一躍、学校中からちょっと飛びぬけた秀才と認識される様になった。
ところが、そのちょっと飛びぬけた秀才が、高校へは行かないと言いだしたので、教師陣は大いにあわてた。
穣にとって、学問は楽しいものではあった。やらねばならぬと心に誓ってやっていることではあったが、それを楽しむ心はきちんと持ちあわせていた。ただ、そういう心を持っていたからこそ、学問を捨てねばならぬと考えてしまった。穣の中で、まず自分が第一にやらねばならぬことは、一刻も早く母から、自分という負担を取り除いてやることであった。学問は自分の楽しみであるから、そののちにしたければすればよいこと、という位置づけになっていた。教師達は、良い仕事に就けなくなるとか、勿体無い才能を持っているなどと言って、総出で穣を説得しようとしたが、穣の意志は固かった。芽衣の、子供の幸せが親の幸せなのだという言葉ですら、穣を飜心させることはできなかった。
固陋に陥った穣に、学問の途を歩ませる決断をさせたのは、樋野教諭であった。三年にあがってすぐ、樋野は穣と個人面談の時間を設けた。そこで、就職したいと言い募る穣に、魔法学校の資料を見せた。
魔法学校は国家事業である。学費は、そこらの公立高校よりも安い。さらに、魔法学校の奨学金は、他の高校生に与えられるものを大きく上回るものであった。奨学金は生徒個人に貸与されるものであり、家族が保証人にならねばならないものの、返済の責を負うのは生徒である。これなら、母親への負担を失くしながら、学問も出来る。
それでもなお、自立したいと言う穣に、樋野はこう言った。
「自分の子供に、したい学問もさせてやれず、胸を張れる様な仕事にも就かせられない。お前は、自分の母親をそういう親にしたいのか」
穣は、魔法学校への進学を決めた。
魔法学校は、第一から第三までの三つあり、それぞれ一校、二校、三校と呼ばれている。穣はさして迷わずに二校を択んだ。
二校は、校長の雄方正の、才能ある少数のみが優秀たりえるという教育理念のもと、頴才な個人を厚く遇する方針をとっており、入学試験で優秀な成績を残した生徒には、特別な奨学金を出していた。その額は、一校、三校のそれをも凌ぐ大金で、ちょっとしたサラリーマンの収入程度はあった。
穣は、入試で一番の得点をとり、あっさりとその特別な奨学金を手にした。さらに、入学式での、入学生代表として辞を述べる栄誉も得た。
入学してからも、穣は常に、成績でトップを走りつづけた。一学期の間、定期テストは四回あったが、どの教科においても、穣は一位から落ちることはなかった。
穣は、二校の歴史を鑑みても、並外れた優等生であった。
その穣に、異変が起きた。ある日突然、特に理由もないのに学校に来ない、不登校になったのである。始まりは夏休みが明けた十月の、二学期の中間テスト直前の日のことであった。穣の担任が出席をとってみると、穣がいない。欠席の連絡は来ておらず、来ないままに、その日は終わった。翌日も、穣は来なかった。その翌日も、とうとう中間考査の日を迎えても、穣は来なかった。脱落するものは勝手にせよ、という態度で突きはなしている二校も、相手が穣であるとあって心配して、冬河家に連絡を入れた。電話をとった芽衣は、穣が登校していないことすら知らなかった。穣は、サボタージュをしていたのであった。
翌日、登校してきた穣は、すぐに担任に呼びだされた。何があったのか、問詰する教師に、穣は言葉を濁して、ただなんとなく、とのみ言った。
穣の堕落は、そこから始まり、留まることがなかった。二日休み三日休むことが常態化し、二学期が終わる頃には、一週間来ないこともざら、という有様になった。学校をサボって街をうろつく様になったが、そこは勉強しかしてこなかった穣のことで、ゲームセンターやカラオケなどに行ってはみたものの、何が楽しいのかわからず、やる事がないので、とうとう図書館で勉強をしていた。不良っぽい見た目になろうとして、髪を金に染めたが、やることは学校に来なくなったこと以外は、優等生のまま変わらなかった。二校は、成績による厳格なクラス分けがあり、優秀クラスであるA組と、普通クラスのB、C、D、E、F組の六組に分けられている。A組は学校を挙げて優遇されており、一、二、三年のA組だけが、別棟の校舎で授業を受け、専用のグラウンドと体育館ももらっている。六組は期末テスト毎に入れ替えがあり、上位クラスの下から五人と、下位クラスの上から五人が、毎学期クラス替えされている。
穣は、そもそも期末テストに出席しておらず、得点は0点であるから最下位となったのであるが、教師陣の格別の厚意によって、A組に残してもらえた。しかし、貰っていた特待生奨学金は剥奪となった。穣は三学期も不登校を続けた。定期考査は全て欠席し、事ここに至って、とうとう穣は、二年次からB組に格下げされてしまっていたのであった。
渕原幸は、穣の元クラスメイトであり、友人である。入学試験以来、行われる試験全てで10位以内に入ってきた才女であり、二学期中間試験以降、穣がみずから手放した首席の座に替わってはいっていた。幸は、友人としての義理と、競争相手の急な堕落を惜しむ感情から、きちんと通学させようとお節介をしていた。
「お前の境遇を考えれば、まあ色々抱えるものがあっても仕方ない」
トマトを手にとって択びながら、幸は言った。
二人は、幸のマンションの近くのスーパーマーケットに来ていた。図書館からの帰り道、せめてもの罪滅ぼしに夕飯の買い物に付き合え、という幸の命令を、負い目のある穣はあっさりと受け容れたのであった。
「しかし、いったい何がお前を変えたんだ?いつも、お前はわからないとしか言わないが、しかし何かきっかけはあっただろう。それくらいはわかるんじゃないか?」
穣は何も言わないで、カートを押している。眼は幸を見ておらず、トマトの山を、はっきり視線を定めるではなくぼんやりと眺めていた。ため息をついて、幸は択んだトマトを籠に入れた。
「やはり……お母さんのことか?」
「……かもなあ」
ふわっとした返事だったが、穣の貌にさっと影が差したのを、幸は見逃さなかった。
「考えてみれば、夏休み明けからお前はおかしかった。いつも綿密に過ぎるほどのノートを取っているお前が私に、居眠りをしたからノートを見せてくれと言ってきたことがあったな。からかっているのかと思ったが、本当にお前のノートが白紙だったので驚いた。それも、夏休みに根を発するものだったんだな」
「……」
穣は応えない。それが、穣なりの肯定の返事であることを理解するには、長く付きあってみないとわからないであろう。
幸は、穣の心まで、あと一歩のところまで距離を詰めていた。もう一歩踏みだしたなら、穣の心中深くにある、核の様なものに届いてしまうところまで来ていた。今まで幸は、この一歩を、ずっと踏みださないで穣と付きあってきていた。そこへ触れることは、デリカシ-とか思いやりとか、自身の良識の欠如を示す様な気がして、近づいても避ける様にしていた。しかし、最近になっていよいよ幸は、そこへ触れなくては仕様がなくなっていることを悟った。穣という男が玄関を開くことを待っていては、穣は取りかえしのつかないところまで堕ちていきかねない。友人として、それを傍で眺めているのは、心に済まないものがあった。
意を決して幸は、後ろでカートを押している穣に、振り向き様に言った。
「お母さんの再婚を、お前はいったいなんでそんなに悲しんでいるんだ」
「……悲しんでなんか、いないさ」
「だが、お前がおかしくなったのは、瞭らかにそれからだ。悲しんでいるのないとすれば、どういうわけなんだ」
今度は、穣がため息をついた。そして、指を下に向けて、言った。
「場を選びな、渕原」
あっ、という貌をして、幸は口を噤んだ。
「長い話より、買い物を済ませるのが先だろう。後にしようぜ、あとあと」
幸が、あんまりわかりやすく済まない、という貌をしていたので、敢えて軽い口調で、穣は言った。なお申し訳なさそうな態度を崩さないで、幸は鮮魚コーナーに向かった。
(続く)