Side2:第十三章
すこし間が空いた。グラバー教諭が、奥の机に坐ったっきり急に喋らなくなってしまったからである。グラバー教諭は黙っている時、身体の方も身じろぎ一つしない。黒目がなくて視線が動いているかもわからないから、さながら人形の如しである。急な沈黙が流れた1分程の間、穣はめずらしく何も考えていなかった。穣の思考は、グラバー教諭をみつめて認識するので精一杯で、能動的な行動はひとつもとれなかった。餌を待つ雛鳥の様に、ただグラバー教諭の言葉を待っていた。それが自分を救うはずであるとおもい、最善の方法が「待つ」であると信じて、そうしていた。
「まあ、なにも難しいことはないよ。ただ、少しの間私の言うこトを聞いてくれれば良いだけだ」
グラバー教諭はすべてが突然である。世人の「間」を持っていないためであろう。突然に、グラバー教諭は沈黙を破ったが、言われなくとも穣はグラバー教諭の言に諾々としたがうつもりであった。
「それじゃあ、ちょっとそノ場で立ってみてくれ」
「はい」
「うん。ジゃあ、次はそのまま右手を挙げて御覧。それだけだ。それだけで、冬河穣の悩みは解ケるよ」
この言葉には、思考を放棄しようとまで覚悟した穣にも、すこしの疑問符も浮かばないわけではなかったが、しかしためらわず、穣は右手を挙げた。すると、グラバー教諭はおおげさに怪訝な貌をしてみせた。
「どうした、冬河穣。右手を挙げて御覧」
「はい、挙げていますが」
そう穣が答えても、グラバー教諭は怪訝な貌をやめないでいるので、穣は自分の右腕に何かおかしなことでもあるのかとおもい、右を向いてみた。そうすると、挙げている右腕が視界に映るはずであった。しかし、次の瞬間、穣の視線は穣の右腕をとらえられず、そのまま教員室の壁に当たってしまった。おや、とおもうより早く、穣の視線は自身の右腕を探してそのまま下へ向いた。右肩がまず目に入る。その後、制服の腕部分がある。しかし、制服の袖からのぞいているはずの右の手は視認できなかった。左手で袖をおさえると、空っぽである。中身があるはずとすこし強めに触れた左手は、くしゃっと袖を潰したのみで、何らの手ごたえも得られなかった。
「あれ、冬河穣は……右手がないのだったか?」
グラバー教諭はおそるおそる、という感じで穣にたずねた。さっきから、グラバー教諭は、どうも動きが芝居がかっている。人間らしい感情を持ちあわせないグラバー教諭が、穣の心を誘導するために、共感しやすい、わかりやすい行動をとっている。
普段の穣なら、そういうことに引っ掛かりを覚えて、思考のエンジンをかけはじめているところなのであるが、今の穣は、びっくりするしかできなかった。ないはずがないものが、今確かに、ない。穣の視界は暗転しかけた。意識が、この現実を受け入れがたいと判断したということである。どうにか意識こそ保ち得たものの、足許が覚束なくなった。ふらりと、穣は平衡感覚を失って、いったんソファにバウンドして、床に倒れ伏した。
「おやおや、大丈夫か、冬河穣。さあ立ちなさい」
言いながら、グラバー教諭は歩み寄ってきた。すっと右手が出される。それにつかまって立とうとすると、また穣はバランスを崩してしまった。どうも、左脚が地に付いていない。けいれんでもしだしたのだろうか。穣は自分の左脚をみようとしたが、それはかなわなかった。穣の視界に入ったのは、床と、ぺしゃんこになったズボンの裾であった。もう、穣は何も言えなかった。続けてのことだからか、意識は飛ばなかったが、それ以上のことをなにか出来るというわけでもなかった。現実を受け入れることだけに思考を傾けたせいか、鮮明に目の前の光景を認識でき、思考も先程までよりはずっとよく働くのに、体を随意に動かすことはままならなかった。この状態で何か行動をおこそうなどとはとてもおもわなかったが。
「冬河穣は、イったいどこに右手と左脚をおいてきたんだ。話をしている時はくっついていたじゃないか」
相変わらず、グラバー教諭はどうもわざとらしい。まちがいなく、これはグラバー教諭が何事かをしているにちがいなかった。しかし、穣には、それが何を断定できる知識がなかった。魔物が不思議なことをしているのだから魔法を使っているのであろうが、部屋の中には魔法陣がない。魔力の存在しない正世界で、魔力を素とする魔法を使うためには、魔法陣を描き、反世界につなげて門代わりにして、そこから魔力を引っ張ってくる必要がある。魔力の集合体たる魔物は、自分を構成する魔力を使って魔法を用いることが出来るが、それをすると上級魔物は理性を失い、自分の身を削って魔法をまきちらし、やがて魔力を使い尽くして消滅する下級魔物に堕してしまうという性質を持っている。目の前のグラバー教諭に、その乱性はみられない。生気の感じられない白目には、たしかに冷徹さが宿っている。
では、いったい今自分は何を受けているのであろう。
「先生、何をしたんです」
喋ろうとおもっていなかったのに、また喋れるとも思えなかったのに、疑問がそのまま穣の口を撞いて出た。自分で自分の声を聞いて、意外におもうくらい声色ははっきりとしていた。
「何かを、したと思うか?」
「していないと思えない、と言うほうが正しい様な気もします」
穣の答えを聞くと、グラバー教諭の貌から先程までの芝居がかった表情が消えた。グラバー教諭はさっと踵を返して、また奥の机に戻っていった。
「立ちなさい、冬河穣。今度は、助けなくても立てるはずだ」
言われて、穣はまた脚に力を入れてみた。左足に力を入れる感触が確かにある。みれば、裾は再びふくらみ、足首と靴がでていた。立ち上がって右腕をみると、こちらもあった。
「失った自分の体が戻ってきた気分というのは、どういうモのだろうか」
何も起こらなかった様に、平静と変わらない口調でグラバー教諭はたずねた。
「一応、教えておクけども、今のは催眠術とか、幻覚の類ではないよ。歴とした魔法だ。魔法によって冬河穣はさっき、右腕と左脚を奪われていた。厳然たる事実だ」
まやかしではない、とグラバー教諭は言っているのであった。穣も、これが夢の出来事とは思わなかった。穣の意識は、いったんは失われかけたけども、その後はむしろ明晰に現実を認識していたからである。何をされたかはわからないが、「何か」をされたことは間違いない。穣が混乱する脳内で纏めあげた結論がそれであった。そして、どうもその「何か」は、穣の浅薄な知識と経験では量りかねる、とも、穣の冷静さを取り戻した思考は言っていた。
(続く)




