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Side2:第一章

 かん、とシャーペンを置く音が、妙に大きく図書館に響いた。

 時計を見れば、5時25分である。夕暮れ時にしても、このしずけさはちょっと異様であった。

 普段、図書館は、しずかではあるけども、常に何かしらの物音はしている。本を貸し出す音、頁をめくる音、子供の走る音……

 ところが、今はそれらが全く消えて、図書館は奇妙な静謐さをたたえている。赤い陽光はただただ無人の本棚を照らしていて、時計の針の音すらも、控えめにちくたく言っていた。

 図書館の壁際、ずらっと並ぶ自習机の左端に坐って、数学の問題集を解いていた冬河穣(ふゆかわみのる)は、そのちょっと不気味さすら感じさせる静謐に、却って勉強を阻害されてしまった。

 穣が自習を始めたのはもう4時間も前で、その時には穣の右隣には同じ様に勉強をする学生がいた。その隣にもいたし、1つ空いて隣にもいた。今、ノートから目を離して辺りを見ると、誰もいない。皆、帰ってしまった様である。

 人の耳とはふしぎなもので、周りがうるさいと、その音を拾わない様にするので物事に集中できるが、周りが静かであると、僅かな物音でも拾おうとして、集中がそがれてしまう。

 もうまるで頭が働かなくなってしまった穣は、ぼんやりと解きかけの問題を見つめた。さっきまでは、流れる様に解けていたのに、今はこれをどう進めたものか、まるで浮かばない。

 ――ちょっと、一息入れるべきかな……

 机の上のシャーペンを指でいじくりながら、穣がそんなことを考えていると、静寂は突然に破られた。

 かつ、かつと、大きな足音が入ってきた。足音は、入口から右へ曲がり、本棚の列をつっきって、まっすぐに穣の坐る、自習机の列に向かってくる。

 穣は、足音の主に察しがついていた。そして、その足音がやがて、自分のすぐ後ろに立つであろうこともわかっていた。なので、まだ足音が遠いうちに、シャーペンをしまってノートを閉じて、青い数学の問題集をその上に重ねて、席の片づけを済ませてしまった。

 最後に筆入れをかばんに放りこんだところで、足音は止まった。後ろには確かな気配がある。

 振りかえると、思ったとおりの貌があった。

 髪を後ろで結んだ、第二高の特徴である薄い緑の制服をまとった紅顔の少女が、不機嫌そうに目を吊りあげて、穣を睥睨している。渕原幸(ふちはらさち)が、そこに屹っていた。

 目があっても、穣は喋らない。用があるのはそちらだろう、という風を吹かせて、体を少女にむけることすらしない。口を開くのは、幸の方でなくてはならなかった。

 「冬河ァ……」

 幸は、さっきまで大きな足音をさせていたわりに、随分と周りに気を遣った、小さな声で穣を呼んだ。呼ばれたからには、答えなくてはならぬ。この場に冬河は、穣ただ一人しかいないのである。

 穣は、返事をする代わりに、かばんをもってすっくと席を立った。この場は、話すのに向いていない。ちょうど、休憩がほしかったところである。穣は出入口に向かって歩きはじめた。かつ、かつと高い足音が、穣に従いて図書館を出た。



 図書館のすぐ隣に、飲食自由の休憩室がある。二人は、そこへ入った。

 幸は、缶入りのお茶を持って椅子に坐った。穣は、まだ自動販売機の前で、何を買ったものか悩んでいる。休憩室には、二人のほかに誰もいない。横長のベンチと、向かい合いに二つ席の置いてる丸いテーブルが五つと、ブーンと音をさせている自販機があるだけであった。

 やっぱり、穣は何も喋らない。呼びかけに応えて、席を立って話の出来るところまで歩いてきたことで、もう返事をした気になって、幸が話すのを待っている。

 「冬河」

 幸の方でも、穣のこういう態度には慣れたものなので、自然に自分の方から口を開いた。穣は、返事こそしないが、幸の方を向いて聞こえたことを示した。

 「今日が何曜日か……わかるな?火曜日、つまり平日だ。平日の日中、学生はどこへ行くべきなのか、わからないことはあるまい」

 穣は、目を自販機の方へ戻してしまった。幸の言葉が、あんまり回りくどい言い方であったので、ちょっとうんざりしたのである。穣が返事をしないので、幸はそのまま言葉を継いだ。

 「何故、学校に来ない?4月に学年が上がってから、お前はものの3日も登校していないだろう」

 穣は、自販機から目を戻さないで、答えた。

 「今日も行くには行ったさ。ただ、授業が始まる前に、学校を出てっただけだよ、渕原」

 「出席をとられて、はじめて学生は登校したことになる。お前のそれは登校ではなくて、ただ図書館に行く前にふらっと学校に寄ってみただけだ」

 幸が、すこし苛立ちを語気に忍ばせながら穣に問詰すると、穣はまた黙って、また飲み物を選びはじめた。

 すこし、沈黙が流れた。幸は、問いの答えを待つので喋れず、穣は、問いの答えが見つからないので喋れず、会話は膠着状態に陥ってしまった。

 「……何故だろうなあ」

 答えを見つけられないまま、穣は口を開いた。

 「なんでだろう、俺にも良くわからない。ただ、俺はもうずっと、あんまり学校に行きたくないし、いたくないんだ」

 言いおわると、ちゃりんと硬貨の落ちる音がした。穣が、選ぶのに時間をかけすぎたせいで、自販機に入れた硬貨が戻ってきてしまったのである。穣は、戻ってきた硬貨を取り出す。

 「行きたくないからって、行かなくていいものではないだろう。学校は、行くべきところだ」

 「全くその通り。言い返す言葉もない……学校には、行かないとなあ」

 うなずきながら、穣は硬貨を再び自販機に入れた。

 「川邑先輩も、大山先輩も、みんな心配していたぞ。冬河はどうしてる、と、生徒会がある度に私に尋ねてくる。毎度毎度、それに対して今日も来ていないみたいです、と答えなくてはならない私の気持ちも考えてみてくれ」

 穣は、買う飲み物をコーラに決めて、ボタンを押した。ガコン、と音がする。落ちてきた缶を取って、穣は幸の前の席に坐った。

 「来い、冬河。みんな、待ってる。お前が来さえすれば、お前がやる気になりさえすれば、みんなお前を助けたいと思っているんだ。いつまで、こんなことを続けるつもりだ。勉強なら、学校ですればいいだろう」

 「……しかし、嫌だなあ」

 穣は、視線を下に落として、手に持った缶をみながら呟いた。

 「渕原。俺は、俺の気持ちがわからん。俺が何をしたくて、何を嫌っているのか、随分考えているけども、さっぱりだ。ただ一つ、学校に行きたくないという、これだけははっきりわかる。これだけは、嘘偽りない気持ちだ。ならば、とにかくその欲求に従ってみて、自分が何をしたがっているか、確かめてみる外ないじゃないか」

 はじめて、穣がきちんと幸の問いに答えた。二人とも、それきり黙ってしまったので、かしゅっ、と、穣が缶を開けた音だけが響いた。

 穣は、開けたコーラの缶を、口をつけないままテーブルに置いた。そうして、また俯いてこの後どうしたものか、何を言ったものか考えはじめた。幸は、目をつむって、胸の正面で腕を組んで黙っている。

 時計はもう、6時を指していた。空は、夕暮れからいよいよ夜になろうとしている。

 「……帰ろうか。もう、話せることがお互いなさそうだ」

 穣は、席を立ちかけた。

 「冬河っ!」

 幸は、動かずに、声だけを張って、制止をかけた。腕を組んだまま、目を開いて、しっかと穣を見据えている。穣は、再び坐らざるを得なくなった。

 「……わかった、行くよ」

 とうとう、穣が折れた。

 「行くよ。これからずっと行きつづけられるとは、今はちょっといえないけども、とにかく、明日は行く。それで、今日のところは勘弁してくれ」

 穣が、観念してそう言うと、さっきまでずっと渋面を作っていた幸の面貌に、いっぺんにぱあっと喜色が盈ちた。

 「そもそも学校は、一日だけ行く、というものではないがな。まあ、行くと言うだけでも進歩ではあるか」

 そう言いながら、瞭らかに、幸は笑貌になっていた。

 「よし、ちょっと待て。今、川邑先輩にメールするから。逃げ場は、断っておかないとな……」

 言いながら、幸はかばんから携帯電話を取り出した。

 「男に二言はないよ、渕原。メールなんてしなくてもいい」

 「信用なるか。川邑先輩に嘘をついたら、お前にもどうなるかわかるだろう?」

 「……好きにするがいいさ」

 ため息をつきながら、穣はコーラにようやく口をつけた。ピリっと舌に炭酸の刺激が伝わるのをおぼえて、穣は自分が炭酸飲料が苦手だったことを思いだした。


(続く)

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