Side2:第六章
――ちりちりと、鈴の鳴る音が聞こえた。微かな音で、何処で鳴っているか判別できない。何か遮蔽したり、阻害したりするものがあったなら、たちまちかき消えてしまうであろう、ちいさなちいさな鈴の音が、穣の鼓膜をわずかに揺さぶりつづけている。
鈴は、何処にあるのであろうか。穣の周囲は、全くの冥昏である。光の一筋も、手がかりのひとつもない。穣すらもない。己の体さえ、闇に融けてしまっていて、世界の何もかもが不可視であった。存在するとはっきりわかるのは、絶えず音を発してその存在を証明し続けている鈴と、その存在を認めている穣自身と、そのふたつだけであった。
穣は、もしかして自分は目を閉じているのではないかと思いあたった。こんなにちいさく、微かな音しか発せない鈴が、みえない程遠くにあるはずがない。みえない程遠くにあるから微かな音しか聞こえないのかもしれないが、それにしては、音が短く、間延びしていない。音の波は、距離が伸びれば伸びるほど、鋭さが失われ、拡散し、鈍くなる。穣の耳に届いている音は、端麗で、新鮮さを失っていない。かならず、鈴は穣のちかくにあるはずであった。穣は、そっと自分の顔に触れてみた。瞼は、閉じていた。それでようやく、穣は、自分が目を瞑りつづけていたことを知った。穣は、とうとう目を開かねばならなくなった。鈴の所在を確かめるため、穣は啓蒙の必要に迫られた。
目を開けると、同じ様な闇が広がっていて、穣の正面三歩位のところに、小豆程度のおおきさのちいさな鈴が、髪の毛程度の細い糸に下げられていた。糸は、風もないのにゆらゆら揺れて鈴を振り、鈴はその度、光源もないのにきらきら銀に光って、ちりちりと音を鳴らした。
穣は、糸の上端をみきわめようとして、天を仰いだ。糸は、途中までは白く闇を裂いていたが、10メートルくらいのぼっていくと、もう昏さに抗えず、存在を示せなくなってしまっていた。
目を落とすと、まだ鈴は揺れている。しばらく、穣は鈴の銀光をぼんやり眺めて、その音を聞いていたが、ふと、この鈴に触れてみたいと思った。
歩みより、そっと手を伸ばしてみる。爪の先が鈴に触れるか触れないかというあたりまで、穣が手を伸ばした時、不思議なことが起きた。
鈴が、膨らみはじめたのである。小豆程だった鈴が、急に小指の爪位までおおきくなった。穣は、おどろいて手を引っこめたが、膨らんでいく鈴の方が近づいてくる。林檎程になり、鞠程になって、鈴はその音まで変質しはじめた。鋭く、針の様に鼓膜を刺していた音は、鈍器の様になぐりつけてくる音になって、穣の頭までもを揺さぶった。おかしなことに、鈴はどんどんおおきくなるのに、糸は細いままで、しかし質量が増大していく鈴を、切れることなく支えていた。
鈴はもう、鐘の様なおおきさになり、穣の鼻先のところまで侵食していた。発される光の眩しさに、穣はせっかく開いた目を細めた。地響きの様になっている音に耐えようとして、耳をふさいでみたが、音はそれをものともせずに透過して、耳から頭を、さらには穣全体までを揺さぶった。穣は、あまりの衝撃に、吐き気を催し、全身がバラバラになるかと思われる程の痛みを覚えたが、どういうわけか、穣は鈴から遠ざかりたい、遁げたいとは思わなかった。むしろ進んでここに留まり、音を受けいれたいとまで思っていた。
建造物と言えるまでおおきくなった鈴が発する、周囲の空気すべてを震わせる轟音は、穣の耳を通り穣の体へ染みていって、穣の全身の毛穴から放出された。だんだん、穣には、音が鈴から発されているのか、それとも自分の体から発されているのかわからなくなってきた。穣が、食いしばった歯を緩めて口を開くと、そこから音が漏れてくるのがわかる。耳をふさいでいる手には、外からびりびりと皮膚を刺す轟音とともに、内側から伝わってくる震えも感じられている。
穣は、痛くて不快でたまらないのに、全身から力を抜いて、鈴に自然体で向きあった。音は鳴りつづけている。穣は、自分と音との境界が、どんどんおぼろげになっていくのを感じた。
最早、鈴の存在は必要なかった。音だけあればよかった。そして、音はもう、穣と一体になりつつあった。
穣は、静かに目を閉じた。轟音と激痛とを受けいれて、穣の心はおどろく程に静穏であった。
――最初から、こうなるべきだった。音は、最初から、自分の中で鳴っていたんだ。勝手に、俺が、切り離していただけだったんだ……
チャイムの音で、穣は覚醒した。目を上げると、教壇に教師がいない。級友達は、みな席を立ったりしゃべったりしている。もう、授業は終わってしまっていた。身を震わせていた轟音は、もう聞こえない。
チャイムは、6時限の授業の了わりを知らせるものであった。5分位すると、教師が入ってきて、帰りのHRをはじめた。
教師の話など、まるで聞く気がない穣は、ふとさっきみた夢のことを考えはじめた。
変な夢である。現実感というものがまるでない。無意識下に深層心理を暗示する何かをみせられたのか、それとも、ただ突飛なだけの特に意味のない夢なのか。シチュエーションに現実感がひとつもないのに、感覚だけが妙に生々しく、特に鈴の音などは、最初に聞いたちいさな音も、変質した後のおおきな音も、現実に聞いた様に思いだせる。そして、何より不思議なのは、夢の中の自分が大変な苦痛に見舞われていたのに、なぜかそれを穏やかに受けいれたことである。どうして逃れようとしなかったのか。逃れ得ないと知っていたのか、それとも、苦痛を味わうべきと考えたのか。既に寤めてしまっている穣には、もう細かい感情の動きは思いだせない。刻一刻と、夢は定まった肖像を失いつつある。
授業中とはうってかわって、真剣に穣が考え事をしていると、継子の起立の号令が聞こえてきた。もう、HRは終わっていた。穣の思考は、いったん中断させられた。
思考は、ひとつ間をおくと、とたんに熱を失う。蒸しなおした膳は美味しくない様に、いったん冷ました思考は、ふたたび熱を入れようとしてもはかどらない。
穣は、号令に従って挨拶をして、帰り支度をはじめると、もう夢について考えるのをやめてしまった。
筆入れとノートだけをかばんに放り込むだけで、穣の帰り支度は了わる。家に持って帰るものが殆どないのである。
教室から出ようとする時、穣の心にはむなしさがあった。意を決して、行きたくない学校に来てみても、結局美穂に説教を食らったのみで、怏欝とした気分の正体は掴めず仕舞いに終わってしまった。つまらない授業と、つまらない人間に囲まれて、ただ暇を潰すことのみに腐心した時間の、なんと無駄であったことか。こんなことなら、図書館で一人、数学を解いていた方がだいぶマシな時間の使い方であるといえる。幸への義理立てだけは果たせたから後悔はしていないものの、明日以降も来る必要は、とても感じられなかった。
精神を虚無の淵に沈めかけてしまっていた穣を、放送のチャイムが引き戻した。
「生徒の呼び出しです。2-B組の冬河 穣は、至急、第一校舎のグラバー教諭の職員室まで来なさい。繰返します。2-B組の冬河 穣は、至急、第一校舎のグラバー教諭の職員室まで来なさい」
突然、自分の名前がアナウンスされて、穣はおどろいて、教室の扉の前で立ち止まった。
グラバー教諭は、1~3年A組の実践魔法の授業を担当している教諭である。去年、穣もその授業を受けていた。
しかし、今となっては穣はB組であり、何の関わりもない。いったい、何の用があるのであろうか。穣には皆目見当もつかなかった。
扉前で少々考えこんでいると、穣は、自分に視線が向けられていることに気づいた。何かヒソヒソ言う声も聞こえる。不愉快を感じて、穣は教室を出た。何の用であれ、呼び出されたからには行かねばならぬ。グラバー教諭の職員室が何処にあったかを思いだしながら、穣はともかく第一校舎に向かった。
(続く)




