ゴミ溜めのベランダ
ドサリと音がする。何の意味があるんだろうなと葉山は思う。
葉山は都内のマンションに一室を借りて住んでいる。三階だ。妻の道子との二人暮らし。だが道子のお腹の中には今赤ちゃんがいる。葉山が三十八、道子が三十六にしてできた初子である。
葉山の不満は階下の住人にある。ベランダがゴミで埋め尽くされている。それが不満だ。
一年程前、葉山の部屋の下に新婚らしい夫婦が越してきた。二十代前半くらいのかなり若々しいカップルである。引っ越してきた当初、彼らの生活におかしい所は見られなかった。葉山達よりもかなり朝は早かったが、それは別におかしなことではない。深夜に騒いでイライラさせられることもなかった。だから葉山の目には、ごくごく一般的なカップルに映っていたのである。
だが入室から三ヶ月が過ぎた頃から、彼らの生活におかしな点が見え始めた。ベランダにゴミが保管され始めたのだ。葉山から見たら、あれは完全にゴミだった。空っぽになったペットボトル、生鮮食品のトレー、空き缶に空き瓶、傘の束。そういったものが透明なビニール袋に入れられて放置されていた。
汚いな、何でゴミなんかわざわざ取っておくんだと、葉山は思った。急に雨が降ってきたから洗濯物を取り込んでと、道子に頼まれてベランダに出た時に、葉山は下の階のベランダに二、三のゴミ袋が転がっているのを見たのだった。
ゴミなんだから捨てろよ。葉山はそう思ったが、所詮よそ様の家庭の事情だ。他人が口出しすべきことじゃない。とにかく雨に降られる前に洗濯物を取り込まないと。そう思って作業をしている内に忘れてしまっていた。
それをはっきりとおかしいと思い始めたのが、それからさらに三ヶ月が経った頃のことだ。
「ねぇ。そういえば下の階の人達のことなんだけどさ、ベランダがすごいことになってるんだけど?」
ある日昼ご飯を済ませて二人で休んでいると、開け放った窓からドサリという音が聞こえた。下の住人がベランダにゴミを放った音だ。その音を聞いて道子はそう言ったのだ。葉山はその時の会話で、階下のベランダがゴミ溜めになっているのを知った。
道子の言う通り、ベランダはゴミに埋もれて凄まじい状態になっていた。ベランダから下を覗けば、幾つものビニール袋が堆積しているのが見て取れる。チラと見た感じでは、優に一メートルは積み上がっているようだ。
「ねぇ、どうする? 管理人さんに言う?」
道子は是非賛成してほしいといった口調で言った。
「……いや」葉山は少し考えてから言った。「止めておこう」
今のところ、下の階のベランダがゴミ溜めになっているからといって、実害は出ていない。異臭はなかったし、虫がわくこともなかった。ただ見た目に良ろしくない。問題はそれだけだ。
「でもやっぱり汚くない? あのゴミの山の上で洗濯物を干しているのかと思うと、気分が悪いのよ」
道子は言った。面倒な話になってきたなと葉山は思った。
葉山はああやってゴミだろうが屑だろうが、とにかく何でも取っておきたがる人間を既に知っていた。葉山の母親がそうだったのだ。
葉山の母はゴミとしか思えない物でも捨てずに保管していた。コンビニ弁当の容器、靴箱、その他色々な物があったが、特にダンボールの箱は凄かった。テレビのでも扇風機のでも、空になったダンボールを捨てずに取っておくのである。しかも中身を固定するための発泡スチロールやクッション材に至るまで、全てワンセットである。ダンボールなんか潰しもしない。葉山の実家にある小屋は、だからいつもダンボールの箱が山のように積み上がっていた。そして葉山の母は、それを性分だと言うのだ。
「捨てられないのよねぇ。何かあったらまた使えるんじゃないかって思うと、駄目なのよ。つい取っといちゃうのよねぇ。もう使わないってのは、分かってるんだけど」
ある時「なんであんなにダンボールばっかり取っとくんだよ?」と聞く葉山に、母はそう答えていた。そして「性分なのよ」と笑うのだった。
だが長年の母の言動から分かったこともある。それはこの世には性分とかいう理由で、ゴミだろうが何だろうが、とにかく何でも取っておきたがる人間が実在するということだ。葉山はそうした人間の実例を自分の母に見出していた。
そしてそういう人間はテコでも動かない。葉山はそのことも良く知っていた。葉山の母親も家の者から処分しろと言われて、何度か大々的に溜め込んだ「資産」を捨てたことはあった。が、すぐに物は増えた。増えに増え、そして結局は元と同じような状態に戻ってしまうのだ。
病気だなと、葉山は思った。異性人なのだ、こいつは。どこぞの星からやって来た異性人なのだ、こいつは。言うだけ無駄なのだ、放っておくに限る。それがこういった人種に対する最善の対応方法なのだと、葉山はいつしか認識していた。
そんな葉山だから、妻に対する言葉も、当然この通りである。
「管理人なんかに言っても無駄だと思うよ。ああいう人達に理屈だとか常識だとかは通用しないんだから。異性人なんだよ、彼らは。別にいいじゃないか、今のところ実害は出てないんだし」
「でも、やっぱり気持ち悪いし……」
「彼らのベランダなんだ。好きに使えばいい。俺はそれにとやかく言うつもりはない。それが俺のスタンスだ」
葉山はきっぱりと言った。
「苦情を言うなら自分でしろってこと?」
「そうだ」
「分かったわ」
それから道子は宣言通り、管理人に苦情を入れた。それが効いたのか、一週間程かかって下の階のベランダはすっきりと綺麗になった。が、一ヶ月と経たないうちにゴミはまた堆積し始めた。道子は怒って苦情を再度伝えたが、ベランダは再びの清掃を経て、また一月後には元の状態にまで戻っていた。それで道子も終に悟るに至ったのである。
「あなたが異性人だっていうのが、よく分かったわ」
道子は葉山にそう嘆いていた。
その後もベランダにはゴミが溜まっていったが、ある程度まで増えるとそれ以上に増えることはなかった。実害もまだなく、全て予想通りの展開だなと、葉山は思った。
数ヶ月が経った。この間に道子の妊娠が知らされていた。喜ばしいことではあったが、葉山がそれを素直に喜んだかというと、そうではなかった。
葉山は道子を愛していない。道子と結婚してもう五年になるから、それなりに情は感じているが、それは愛情というよりも友情に近い感覚なのだ。愛情というには程遠い。道子との生活も夫婦生活というより、女友達との共同生活に近い感じがある。
葉山と道子は見合い結婚だ。葉山は当時三十三歳、この歳でいわゆる婚活というものをして、出会ってデートして付き合いを始めて、で、その半年後にはあっさりと結婚してしまう。それなら、いっそ見合い結婚の方が早かろうというのが、葉山の考えだった。そして葉山はその通りにした。葉山にとっての結婚相手など、その程度の問題なのだ。親を安心させてやりたい、周囲の面々が向けてくる痛い視線から逃れたい。その目的を達成できれば誰でもいいと、そう考えていた。俺は誰にでも合わせることができる。俺が相手に合わせればいいんだろと、軽く考えていたのである。
だが、葉山がそのように考えてしまうのには、もちろん理由がある。
葉山には忘れられない人がいた。他の誰も本気で愛せないだろうと思うのは、その人の幻影が常に心に纏わり付いているからだ。美沙といった。葉山とは同学年、中学高校が同じだった子だ。隣町に住んでいた。
中高をまたぐ足掛け四年間、葉山は美沙と付き合った。もちろん葉山にとって初めてできた彼女である。
美沙は芯が強く、賢い女の子だった。中学校で吹奏楽部の部長を務め、生徒会の執行役員を担っていた。成績も良く、優等生で葉山とはいつも競う間柄だった。先生からも信頼されていた。
そんな美沙と葉山が仲良くなったのは、美沙だけでなく葉山も中学の生徒会役員だったからだ。葉山は副会長を務めていた。美沙とは自然と顔を合わすことが増え、言葉を交わすことが増え、その結果彼氏彼女の関係に発展した。お互い理性的な者同士だったから、喧嘩は少なかった。穏やかな付き合いが四年続いた。そしてその四年間で、春夏秋冬それぞれの季節でできることは、大体することができていた。互いに初めての恋人として、互いに初めての経験としてである。葉山は昔から甘い考えを持たない人間だったが、この時ばかりは美沙といつか結婚できたらいいなと、真剣に考えていた。高校二年生の時のことだ。が、そうはならなかった。
美沙は高校二年の冬、突然失踪した。どこに行ったのか分からない、痕跡がパタリと消えてしまったのである。
彼女の両親は悲しんだ。警察に届けられ、交番には行方不明者として顔写真が掲示された。平日夜のニュースになり、全国的に目撃情報が募られた。遠くの山も近くの山も探された。だが、美沙は見つからなかった。「北朝鮮に拉致されたんだ」「いや、宇宙人に連れ去られたんじゃない?」「いやいや、変態に捕まって、どっかに監禁されてるんだよ」などと、様々な憶測や噂話が流れ、すぐに消えていった。美沙の一件は次第に人々の記憶から消え、休み時間の話題に上ることもなくなった。
だが美沙がいなくなって二ヶ月が過ぎた頃だ。失踪日当日に美沙らしき女の子を見たという目撃情報が警察に寄せられた。美沙の家から四つも離れた県で、若い男と歩いていたというのだ。その人の話では女の子は特に嫌がってるふうでもなく、自然な様子で歩いていたということだった。が、目撃情報はそれで全てだった。新しい情報が出てくることはなかった。
美沙がいなくなって、葉山は悲しいとは思わなかった。常日頃一緒にいる人が突如いなくなったのだ、寂しいと感じることはもちろんあった。が、悲しいと思ったことは一度もなかった。
美沙はいなくなった。だが失ったわけではない。そう思っていた。どうせすぐにまた会える。見つからないなんて、ありっこないんだからと、思っていたのだった。
何らかの事件に巻き込まれた可能性も考えられた。が、生まれてこの方事件らしい事件の起きたことのない地方の片田舎で、誘拐事件のような凶悪な事件が起きたとは考えにくかった。どこに隠れているんだろうなと、のんびりした疑問を持つだけだった。
それから三年が経った。美沙の両親に手紙が来た。美沙からだった。短い手紙だった。
訳あって今は帰れない。でもいつか必ず帰る。私は元気で暮らしている。心配しないで。お父さんもお母さんも元気でいて。
そんな内容がしたためられていた。美沙本人の直筆だった。葉山の名前は一言も出てこなかった。
この手紙により、美沙の失踪に事件性はないと判断された。美沙が消えたのは、美沙本人の意思によるものだと断定されたのである。美沙の捜索は打ち切られた。事件は収束へと向かった。
だが、葉山の中で、美沙の件はまだ終わってない。
なあ美沙、と葉山は思った。どうして俺を置いていったんだ? どうして俺には一言もくれない? なあ、俺達の四年間は何だったんだよ? 俺はお前にとっての何だったんだ? なあ、美沙。
葉山は美沙を忘れられなかった。美沙が葉山に別れを告げずに消えてしまったからである。
美沙がいなくなってからも、葉山は美沙の帰りを待っていた。美沙との関係が宙ぶらりのままで、美沙からの手紙が届くまでの三年間、ずっと待っていたのだ。
その三年で葉山の美沙への想いはかなり後退した。好きかと聞かれれば、好きではないと答えられる程に美沙への想いは遠ざかっていた。だが、美沙との思い出は廃れなかった。むしろ時が経つに連れ、より輝きを増していった。美沙との関係に明確な終わりがなかったからだ。心理的に区切りをつけるための時間が、与えられなかったからである。
美沙の行方が分からなくなった後、葉山は美沙のことをよく考えた。今頃、美沙はどうしているだろうか、一体今、どこにいるのだろうかと。桜の季節が来れば、一緒に桜を見上げた記憶が甦り、夏が来れば、暑さの盛りにアイスを半分こして食べたことを思い出した。秋も冬も、自分の誕生日も美沙の誕生日も、その時々での思い出が甦り、葉山に美沙を思わせ、葉山を寂しくさせた。美沙を過去の存在にできなかった葉山は、美沙との思い出をたどり直さずにはいられなかったのである。
その結果、思い出は葉山の中に強く残ることとなった。それも美しい思い出ばかりが残り、嫌な思い出は忘れ去られていった。美沙は美しくなった。葉山の中で美沙は限りなく美しい存在に変わってしまった。思い出を武装して美沙は、永遠に美しく保存されてしまったのである。
「ねぇ」と道子は妊娠を告げる席で葉山を呼んだ。
「あなたが私を愛していないのは分かってるの」
そう告げた。葉山は何も言い返せなかった。
「それは別にいいのよ、もう。愛情はないみたいだけど、優しくしてもらってるし。それにもう、諦めちゃってるから」
道子はそこで一度区切った。
「でもね、この子だけは、今度生まれてくるこの子だけは、ちゃんと愛してあげて?」
葉山は真剣に見つめてくる道子を前に何か言いかけ、しかし何も言えずに俯いた。
ドサリと、下の階の住人がベランダにゴミを放り投げる音がする。
階下のベランダにまた一ついらないものが増えていく。取っておいたところで何の役にもたたないものが……。
思い出は違うのか? 自分が大切にしている美沙との思い出は、ゴミとは違うのか? 重要な部分は既に味わい尽くしてしまい、取っておいたところで何の役にも立たない残りカス、それが美沙の思い出なのではないのか? いや、役に立たないばかりか、今の生活さえ縛るこの思い出というものは、ゴミ以上に有害なものではないのか?
お腹の子を愛してやれるだろうか? この俺に。
葉山は顔を上げて道子を見た。
「なあ」と言った。
「何?」
「生まれてくる子の名前なんだけどさ」
「うん」
「美沙って、名付けていいか?」
「ミサ?」
「うん。やり直せそうな気がするんだ」
過去はやり直せない。だが思い出を作り直すことはできる。美沙との思い出を。
愛してやれる。きっとできるはずだ。葉山はそう思った。
「よく分からないけど……。でも、男の子だったらどうするの?」
「いや、女の子だよ。女の子が生まれてくるんだ」
「そうなの? 変な人」
道子はおかしそうに笑った。「でも嬉しそうね?」
「ああ」葉山は道子の目を見てしっかりと頷いた。
「大切にするよ、二人とも」