序‐4
太陽がてっぺんに近くなってきた。
「なぁ、そろそろ休憩しないか!?」
平坦な道を軽快に飛ばしつつ、後ろに声を掛ける。
「うん? そうだねぇ……でも、お店があったらお昼食べても良い時間じゃない?」
現在、十一時。八時半から走っているので、確かにそろそろ昼時だ。だが。
「そうなんだけどさ、かなり尻が痛くなってきたんだわ」
疲労が溜まっていることよりも、路面の衝撃を受け続けていることが心配だ。平たく言えば“痔になりそう”。
サドルに二枚重ねたクッションの上で、尻をもぞもぞと動かして後ろにアピールする。
後ろでも動く気配がして、
「あ~、そうかも。ちょっと休もうか」
ちなみに後ろのクッションは三枚重ねだが、立ちこぎだとか当たるポイントをずらしたりだとか出来る分だけ前の方が尻は楽だ。もちろん、出来るだけ平地を走っているとは言え二人乗りはかなりキツいが。
自転車を停め、道端の草むらを足で探る。危ないものが何も無いことを確認してから、ドサリと背中から倒れこむ。
「あ~! キツい!!」
思いっきり息をつく。
「お疲れ様~。はい、水」
「ん」
起き上がって受け取り、足を揉みながら水を飲む。
今は、九月の半ば。気温はなんとか大人しくなりつつあるが、昼間の太陽はまだまだ健在だ。
水が染みる。
荷物は多くは無いが、水だけは欠かせないため二リットルのペットボトルで三本。これだけで重いが、二人分だと足りないくらいだ。県をまたいで走れば山道だって多い。水を汲める場所がどこにでもあるなんて、幻想だと知った。
「……ッ、はぁ~、美味いわ~!」
「はい、タオルも」
「お、ありがと」
受け取ると、なぁが横に座って足をマッサージし始める。地面すら軽く熱を持っているのに、ひやりとした指先が心地良い。
「お、おいおい。何だよ、急に」
こんなこと、この三日間で初めてだ。
「あれ? もしかしてマッサージしてあげるの初めてかな?」
俺が頷くと、
「え~、おかしいなぁ。凄く感謝してるし、これまでもしてあげたいと思ってたんじゃないかな。覚えて無いけど」
「感謝ねぇ。……俺にもっと走らせたいんだろ?」
「あははっ、そうだね。ご飯食べるまではぜひ走って欲しいな!」
カラカラと、明るく笑う。
『覚えて無いけど』
なぁは軽く言うが、それがどれほど重い意味を持つか。
「――なぁ、昨日の夕方のこと、覚えてるか?」
「昨日の夕方? なんのこと?」
キョトンとしながらそう言った時点で、覚えて無いのは確実だ。
右のポケットの奥が、ジワリと冷える。
昨日の夕方、俺はなぁと喧嘩した。
夕方以降、一言も喋らないほどに。大概のことは一眠りしたら忘れるのに、今回は起きてからもなぁが覚えていて、走り出すまでそのまま喋らなかった。走り出してからもずっと喋らなかった。
あの一言までは。
汗だくで坂を登ってからの一言。名前思い出せねぇや、という俺の言葉に対して『わたしも、だよ』と言ってくれるまでは。
「昨日の夕方に、喧嘩したんだよ。それからずっと、朝も口聞いてくれなくてさ」
「あ~、なんか、うん。あったのかな。坂登ったとこで喋ったじゃない? なんか喋りづらくてさ。口が回らないっていうか、まさか喋り方まで忘れちゃったかと思ってビックリしたよ。しばらく喋ってなかったせいだったんだね~」
明るく喋り続ける。
この明るさがその分だけ、昨日の沈黙の意味を重くする。
どれほど傷ついたろう。どれほど悲しんだろう。俺に裏切られたように感じたかもしれない。
「でもさ、昨日の喧嘩を覚えて無いことも、もし喋り方忘れたりしたとしてもね? 結局大したことじゃ無いから忘れるんだよ」
「……今朝までは覚えてて、喋ってくれなかったんだよ」
「じゃあ、多分アレだ! 自転車で後ろからくっついたりしてたらさ、大したことじゃ無く思えてきたんじゃ無いかなっ!?」
満面の笑顔で恥ずかしいことを言う。
“今が良ければそれで良い”……良い生き方とも、悪い生き方とも取れるだろうが。
なぁは、それ以外の生き方は選べない。
「なぁ、昨日はごめんな」
だから、他の人間がその分だけ、確かに覚えていなきゃいけない。
彼女のそばに居るなら、嘘をついてはいけないのだ。どんな嘘をつかれても、彼女には確かめるための材料が無いから。彼女が信じてくれるなら、それは過去を丸ごと貰ったのと同じことだ。
彼女は俺を疑わない。彼女は、俺を信じてくれる。
だから、俺は。
「も~、だから良いんだって、覚えて無いんだから。シュウも忘れて? ほら!」
「あぁ、そうだな……」
右のポケットの奥が、ジワリと冷える。ジクジクと、痛みのような感情が。
今朝のことを思い出す。なぁは忘れているだろうけど。
朝食の間も、寝床の片付けをしていても、怒って口をきかなかった。口をきかないくせに、俺が自転車に跨ったら、ちゃんと後ろに乗ってきた。
大したことじゃ無いと、忘れる程度のことだと、言ってくれるならば。
「そうだな、俺も、忘れるよ」
「うん、じゃあ仲直りね!」
なぁは俺の右手を取り、強引に小指を絡めて上下に振る。それは指切りであって仲直りじゃあないとは思うが、何も言わないでおく。なぁが笑っているから。
――忘れることは出来ない。忘れる訳にはいかない。
忘れないことこそが、横に居る理由なのだから。
でも、だから。
もしもう一度言うとしたら、旅の終わりになるだろう。
「さ、ほら、マッサージしたげるから!」
「あぁ……」
俺は、暗い何かを飲み込んだ。
旅の終わりは、近いのかもしれない。