序‐1
「なぁ」
「なぁ、おい」
「どこに向かってるんだ、これ? なぁ」
返事は無い。前からは二人乗りの自転車を必死でこぐ、荒い呼吸音ばかりが聞こえてくる。
こうなってくると、コイツはこれまで一度でも喋ったことがあっただろうかという気になってくる。
考えてみる。
――あぁ、ちゃんと覚えている。ここ数年、何度も何度も俺とコイツは会話してきた。
そして、少なくとも今日は朝からずっと喋っていなさそうだ。今日のこと、起きてから寝るまでのことはさすがに忘れない。俺は。
「なぁ、ちょっとは喋れよ」
多分、昨日言われただろう『シュウ、そろそろ臭いよ』という一言が蘇る。声もまだ忘れていない。
「つうかさ、そろそろ交代だろ。休憩しようぜ」
言うと、コイツは目の前にある坂を指さした。この坂を越えてから、ということらしい。
「分かったよ。降りるぜ」
反応があったことに少しホッとして、俺は自転車の後ろを降りる。
横に並んだ俺を見て、少し笑ってくれた。かなり息が荒い。本来なら男の俺がもっと負担を増やして良いはずなのだが、平等にと、コイツは頑として譲らない。
一旦足を付いて、首にかけてあるタオルで顔をムチャクチャに拭いた後で一つ深呼吸。俺に一瞬目をやってから、一気に坂道を登り始める。
最初だけ勢い良く、でもすぐに速度が落ち、左右に揺れ始める自転車。
俺が屈伸運動、伸脚運動、アキレス腱を伸ばし終えた時点で、自転車は坂の中腹で止まってしまっていた。ジョギング程度に軽く走ると、あっという間に追いつく。
そしてそのまま足踏みしながら、
「なぁ、俺が押そうか?」
言われた途端、それまで俯いてぜぇぜぇと喘いでいたのに、顔を上げてキッと俺を睨む。間髪入れずにサドルから降り、自転車を押して走り出す。
「……こぎはしないのかよ」
俺も追いかける。
田んぼが段々になって遠くの森まで左右に広がる。授業で習った気がするが、なんと言うんだったか。千枚田? 違うかな、千枚も無いし。
日差しは相変わらず暑いが、吹き抜ける風はTシャツの内側に籠もった熱を心地よく追いやる。
前を揺れるショートカットと細い体躯を眺めながら、ふいに何かを思い出した。
“小”
ショートから連想したのかもしれないが、確かコイツの名字の頭は“小”だった気がする。『小柳』『小池』『小山』『小向』『小川』……ダメだ、しっくり来ない。
坂を登り始めた時のように最初だけ勢いは良かったが、すぐにノタノタと歩き始め、やっとこさという感じで坂を登りきったコイツに後ろから声をかける。
「なぁ。やっぱりお前の名前、思い出せねえや」
その言葉に、汗まみれの顔を振り向かせ、ニッコリと。
「……ぁ、うぁ……ぅ、ふ。ん、んん」
口をもごもごさせてから咳払いした後、もう一度ニッコリと。
「――わたしも、だよ」
満面の笑みで。
汗すらも日差しに映えて極上のエッセンス。
可愛いな、と思った。改めて、付いて来て良かったと思った。
右のポケットの奥が、ジワリと冷えた。