第9節:繊維街の絆 〜業界追放の罠を打ち砕く職人たちの愛と、伝説の布さえも引き寄せる日陰の天才の真っ直ぐな誠実さ〜
第9節:繊維街の絆 〜業界追放の罠を打ち砕く職人たちの愛と、伝説の布さえも引き寄せる日陰の天才の真っ直ぐな誠実さ〜
東京、日暮里。
色とりどりの布地が軒先に並び、ミシン油の匂いと活気ある声が響き渡る、モノづくりの聖地。
紬は使い古したトートバッグを抱きしめ、子供のように目を輝かせていた。
「ああ……布さんたちの匂いがします。やっぱりここに来ると、心がホッとしますね」
「……随分と賑やかな場所だな。現代の東京にこれほど泥臭い『現場』が残っているとは」
紬の隣を歩くのは、最高級のフルオーダースーツに身を包んだ神宮寺煌。
場違いなほど洗練されたその姿は、下町の商店街で浮きまくっていたが、彼は気にする様子もない。
「神宮寺さん、無理についてこなくてもよかったのに。お仕事、お忙しいでしょう?」
「君の仕入れをこの目で見届ける義務がある。それに……今の君を一人で歩かせるのは、俺の精神衛生上、良くない」
神宮寺は冷徹な表情のまま、紬の周囲を警戒するように見回す。
実は、麗奈がルミエールの権力を使って、紬を業界から干そうと画策していることを彼は察知していた。
いわば、これは皇帝による直々の護衛だ。
「おっ、紬ちゃんじゃないか! 今日はいいリネンが入ってるよ!」
「紬ちゃん、こっちこっち! この前のボタンの相談、助かったよ。おかげで大口の注文が取れた!」
通りを歩くだけで、あちこちの店主から親しげに声がかかる。
神宮寺は、その光景に驚愕していた。
合理主義の彼からすれば、契約社員のパタンナーが、これほどまでに広範囲な職人ネットワークを持っていることは、計算外の「巨大な資産」だったからだ。
◆ ◆ ◆
「さあ、ここです。私の大好きなお店、布問屋の『布善』さんです!」
紬が楽しそうに店の暖簾をくぐろうとした、その時だった。
「……悪いけど、柚木さん。あんたには布は売れないよ」
若い店員が、苦渋に満ちた表情で紬を遮った。
「え……? どうしてですか、山さん」
「……ルミエールから通達が回ってきたんだ。『柚木紬はデザインを盗んで逃げた泥棒だ。彼女と取引する店とは、今後一切の取引を停止する』ってね」
紬の顔から、血の気が引いていく。
「私が……泥棒? そんな、私はただ、布さんと一緒にいたいだけなのに……」
「悪いな。うちはルミエールみたいな大口の取引先を失うわけにはいかないんだ。……頼む、帰ってくれ」
周囲の店からも、紬を避けるような視線が向けられる。
大企業の看板と、麗奈というインフルエンサーの影響力。
現代日本の閉鎖的な同調圧力が、紬の唯一の居場所だった繊維街を、一瞬にして冷たい場所に変えようとしていた。
紬の瞳に、ポロリと涙が溜まる。
「…………っ」
「……ふん。ゴミのような噂に踊らされて、至宝を追い出すか。安いプライドだな」
神宮寺が冷酷に言い放とうとした、その時。
◆ ◆ ◆
「バカ野郎ッ!!」
店の奥から、地鳴りのような怒声が響いた。
現れたのは、白髪交じりの短髪に職人エプロンを締めた老人。
「布善」の三代目店主であり、布一筋五十年の伝説的職人、源蔵だ。
「誰が紬ちゃんを泥棒だって言った! そのふざけた通達を持ってきたルミエールの使い走りを、今すぐ表へ叩き出せ!」
「で、でも親父さん、ルミエールとの取引が……」
「うるせぇ! いいか、よく見ろ」
源蔵は紬の前に立ち、彼女の手を優しく、しかし力強く取った。
針仕事で荒れ、けれど清潔に保たれたその指先を、若い店員に突きつける。
「布を愛し、布に敬意を払う人間の指は、嘘をつかねぇ。紬ちゃんがうちに来て布を撫でる時、布たちはみんな喜んでやがるんだ。そんな子が泥棒なんて、布の神様が許さねぇよ。俺は、ルミエールの看板じゃなく、この子の指を信じるんだ!」
「源蔵さん……っ」
そこへ、騒ぎを聞きつけたルミエールの社員が割って入る。
「おい、何を言っている! 美神先生に逆らうつもりか! 取引を停止されてもいいんだな!」
源蔵は社員を一瞥し、ペッと床に唾を吐く真似をした。
「お前んとこの『美神様』に伝えな。布の扱いも知らねぇ、素材をただの飾りだと思ってる成金に売る布は、うちには一反もねぇ! さっさと失せろ、このド素人がッ!」
◆ ◆ ◆
ルミエールの社員が逃げ出した後、源蔵は憑き物が落ちたような笑顔で紬に向き直った。
「紬ちゃん、怖かったな。大丈夫だ、俺たちがついてる」
「ありがとうございます、源蔵さん……。私、本当に嬉しくて……」
「礼を言うのはこっちだ。……紬ちゃん、ちょっと奥の『蔵』へ来てくれ。あんたに見せたいものがある」
神宮寺と紬が招き入れられたのは、湿度が完璧に管理された、店の最奥にある秘密の蔵だった。
そこに、一反の布が鎮座していた。
「これは……?」
「『三代織』。俺のじいさんの代に織られた、幻のシルクウールだ。あまりに繊細すぎて、今まで誰一人として扱いきれず、五十年間眠り続けていた」
紬が、その布にそっと指を触れる。
(……あ。この子、ずっと待ってたんだ)
紬の視界に、柔らかな金色の光が満ちた。
五十年の時を超え、布が紬にだけ心を開く。
「……源蔵さん。この布さんは、端の部分をわざと緩めて織られていますね。これは欠陥じゃなくて、着る人の体温に合わせて呼吸するための『逃がし』なんです。……ここを直線じゃなく、曲線で裁断すれば、この子は五十年の眠りから覚めて、世界で一番優しい服になります」
「…………っ!!」
源蔵は絶句した。
五十年間、自分も父親も答えが出せなかった「三代織」の扱い。
それを、この少女は触れただけで見抜いた。
「……お見事だ。紬ちゃん、あんたこそがこの布の真の主だ。持っていきな、無償でいい」
「えっ、そんな! こんなに貴重なものを!」
「いいんだ。布が、あんたに縫われたがってる。……頼む、この子を幸せにしてやってくれ」
◆ ◆ ◆
神宮寺は、その光景を黙って見守っていた。
常に「数字」と「契約」で世界を動かしてきた彼にとって、この「信頼」だけで動く世界は衝撃的だった。
(……俺が数億円を積んでも手に入らなかったであろう幻の布が、彼女の『優しさ』一つで動いた。これが、本物の仕事というものか)
その時、源蔵の呼びかけで、繊維街の他の店主たちも集まってきた。
「紬ちゃんのためなら、うちの最高級ボタンも提供するぜ!」
「あの美神って女、うちの絹をゴミ扱いしやがったからな。紬ちゃんに最高の服を作ってもらって、見返してやろうぜ!」
「紬ちゃんの指示書、いつも分かりやすくて助かってるんだ。俺たち職人のことも考えてくれてる」
「あんたの設計は、縫う側の負担が少なくて済む。本当に感謝してるんだよ」
次々と寄せられる、プロの職人たちからの心からの感謝。
紬は何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……。皆さんの大切な布さんたち、絶対に、世界で一番幸せな服にします!」
神宮寺は、紬の周りに集まる熱い人脈を眺め、ふと彼女の肩を抱き寄せた。
激しい独占欲が、彼の胸を焼く。
「……この稀代の天才(と、俺の女神)を支援してくれること、感謝する。だが、彼女の『隣』は、俺の指定席だ。覚えておけ」
「えっ、神宮寺さん、指定席? 電車じゃないですよ?」
紬の天然な返しに、神宮寺は呆れつつも、愛おしくてたまらないというように彼女の額を小突いた。
◆ ◆ ◆
夕暮れの繊維街。
幻の布を大切そうに抱えた紬と、彼女の荷物をすべて持ち、女王を迎える騎士のようにエスコートする神宮寺。
「……神宮寺さん、今日は本当にありがとうございました」
「俺は何もしていない。君がこれまでに積み上げてきた『誠実な仕事』が、今日の結果を招いたんだ」
紬の手元には、麗奈が金で買い占めた最新の生地よりも、遥かに価値のある職人たちの「魂」が集まっていた。
一方、ルミエール本社では、繊維街の職人たちに取引停止を言い渡された麗奈が、ヒステリックに机をなぎ倒していた。
「何よ! あんな古臭い街、潰してやるわ! 柚木紬、あんたの居場所なんてどこにもないんだからぁ!!」
絶叫する偽りの女王。
だが、本物の光はもう、彼女の手の届かない場所で、静かに輝き始めていた。
「さあ、アトリエへ戻ろう。……君の言う『布の声』を、世界に響かせる準備をしようか」
「はい、神宮寺さん!」
紬は幻の布を抱きしめ、最高に幸せな笑顔で、新しい未来へと踏み出した。




