第8節:皇帝の溺愛が始まる 〜最高級スイートのアトリエと伝説の布地に囲まれ、無自覚に皇帝の心を溶かしていく日陰の天才デザイナー〜
第8節:皇帝の溺愛が始まる 〜最高級スイートのアトリエと伝説の布地に囲まれ、無自覚に皇帝の心を溶かしていく日陰の天才デザイナー〜
都内超一流ホテル、『ザ・レジデンス・トウキョウ』。
その最上階にあるロイヤルスイートルームの扉を、神宮寺がカードキーで静かに開いた。
「さあ、入れ。ここが今日から君のアトリエだ」
「………………はえ?」
紬は、一歩足を踏み入れた瞬間に硬直した。
視界に飛び込んできたのは、息を呑むようなパノラマ夜景。
そして、その広大なリビングルームは、神宮寺がわずか一晩で改装させた、世界で最も贅沢な制作スペースへと変貌していた。
最新鋭の工業用ミシン、広大なカッティングテーブル。
そして、壁一面に美しくディスプレイされた、虹色の糸と仕立て道具。
「あ、あの……神宮寺さん。私、こんな綺麗な場所にいたら、布を汚しちゃいそうで落ち着きません。床が、ふかふかすぎて歩けません……っ」
紬は、入り口のマットの上で、借りてきた猫のように小さくなっている。
普段、地下の埃っぽい制作室でボロボロのパイプ椅子に座っていた彼女にとって、ここは異世界に等しかった。
「……ふっ」
神宮寺の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
彼は紬の肩を優しく押し、人間工学に基づいて設計された、最高級のワークチェアに彼女を座らせた。
「ここは君の城だ。誰にも邪魔されず、君が愛する布とだけ向き合うための場所だ。……汚れることなど気にするな。汚れたら、このホテルごと買い替えてやる」
「ホテルを……買い替える……? 神宮寺さん、冗談がすごく難しいです……」
「冗談ではない。本気だ」
神宮寺の瞳は、これっぽっちも笑っていなかった。
彼は合理主義者だ。
紬の才能を守るためなら、ビルの一本や二本、安い買い物だと本気で考えていた。
◆ ◆ ◆
「紬。奥の部屋も見ておけ」
神宮寺に促され、重厚な観音開きの扉を開ける。
そこにあったのは、もはや『素材の美術館』だった。
インドの幻の綿『スビンゴールド』。
イタリアの老舗が数十年ぶりに織り上げた、ヴィンテージのシルク。
チベットの極細ヤクウール。
「わ、わああぁ……!」
布を見た瞬間、紬の顔から不安が消え、職人の瞳に火が灯った。
紬が棚に並んだ布にそっと触れる。
その瞬間――。
紬の視界の中で、室内が柔らかな光の粒子に包み込まれた。
(わぁ……このシルクさん、すごく誇り高い。でも、本当はもっと優しく抱きしめてほしいって言ってる……。あっちのウールさんは、ちょっと緊張してるかな? 蒸気を当ててリラックスさせてあげなきゃ)
「………………」
布と対話し、吸い込まれるような横顔を見せる紬。
神宮寺は、そんな彼女の姿を、自身の呼吸すら忘れるほどに見つめていた。
(やはり、君はここにいるべき人間だ。汚れた地下ではなく、光の溢れる場所で、その魔法を紡ぐべき至宝だ)
◆ ◆ ◆
それから数時間。
紬は夢中でハサミを動かし、針を運んでいた。
驚くべきは、神宮寺の変わりようだった。
かつて『自分の時間こそが最大の資産』と豪語し、分刻みのスケジュールで動いていた氷の皇帝が。
今は、自ら紬のために温かい紅茶を淹れ、栄養バランスの取れた軽食を甲斐甲斐しく運んでいるのだ。
「紬。集中するのはいいが、三時間に一度は休憩しろ。君の身体が壊れることは、俺にとって最大の損失だ」
「あ、ありがとうございます……。でも、こんなに良くしてもらって。私、ちゃんとお返しできるでしょうか」
紬が不安そうに眉を下げる。
神宮寺は、紬がかつてルミエールで引いた『誰も気づかなかった完璧な型紙』のコピーを、テーブルにそっと並べた。
「君はすでに、あの会社に数百億の価値をもたらしてきた。それを無能な女に盗まれていただけだ。……これからは、その報酬を君一人に受け取ってもらう。俺は、そのための執事に過ぎない」
「執事なんて……もったいないです」
その時、コンコンと控えめなノックの音が響いた。
ホテルのルームサービスに来た、年配の女性スタッフだ。
彼女は、紬が先ほど試作したばかりの『指先一つで羽織れる、極薄のカーディガン』に目を留めた。
「あら……。なんて美しいお色でしょう。それに、触れてもよろしいかしら?」
「あ、はい! よかったら羽織ってみてください。端切れを繋いだだけなんですけど……」
紬が勧めると、女性スタッフは恐る恐る袖を通した。
次の瞬間、彼女の目が見開かれた。
「…………まぁ! 重さが、全くありません。私、ひどい肩こりで毎日辛かったのに……まるで身体が浮いているみたい。お嬢さん、ありがとう。こんなに楽な服、生まれて初めてですわ」
女性スタッフの心からの笑顔に、紬は頬を赤らめた。
「あ……。よかったです。布さんも、喜んでるみたいです」
(私の仕事……誰かを、あんなに笑顔にできるんだ)
目の前で起きた小さな奇跡。
紬は初めて、自分の『仕事』が持つ本当の価値に、気づき始めていた。
◆ ◆ ◆
神宮寺は、部屋の隅で黙々と事務作業をこなしながら、時折紬を盗み見ていた。
紬が夢中で針を動かし、少しでも危なっかしい動きをすると、音速で駆け寄り、彼女の手を握りしめる。
「危ない。集中しろと言っただろう」
「ふぇっ!? か、神宮寺さん、どうしてそんなに私のことを見てるんですか? お仕事、お忙しいはずなのに……」
「…………君が、服に命を吹き込む瞬間を見るのが、どんなビジネスの成功よりも刺激的だからだ」
神宮寺は、紬の針仕事で少し荒れた、けれど美しい指先に、愛おしそうにキスを落とした。
「ひゃうっ……!?」
紬の顔が、ゆでダコのように真っ赤になる。
だが、神宮寺の手の温かさに、不思議と嫌な気はしなかった。
それどころか、心の奥がジンと温かくなるのを感じていた。
「紬。新しいブランドの名前を決めたぞ」
神宮寺は、手元の資料を紬に見せた。
「ブランド名は――『TSUMUGI』だ。君の名前であり、人と人を繋ぎ、布を紡ぐ。君の生き方そのものを名前にした」
「…………TSUMUGI。私の、名前……」
「不服か?」
「いえ! すごく嬉しいです。私……豪華な名前じゃなくていい。ただ、着た人がお家に帰った時みたいに、ホッとできる服を、大切に作っていきたいです」
「ああ。俺がその『平和』を世界中に売ってやる。君はただ、その純粋さを保っていればいい」
◆ ◆ ◆
一方その頃。
豪華なアトリエで幸せに満ちた紬とは対照的に、ルミエールの制作現場は地獄と化していた。
「何よこれ! このラインじゃ、モデルが歩けないじゃない!」
麗奈の怒声が、深夜のフロアに響き渡る。
紬という『万能パタンナー(影武者)』を失った麗奈のデザインは、今やただの『物理法則を無視した落書き』だった。
「先生……今のスタッフでは、先生の指示する無理なカッティングを形にすることができません。……柚木さんがやっていた魔法のような微調整は、誰にも再現できないんです」
「うるさいわね! あんな地味な女にできて、あなたたちプロにできないわけないでしょ! 今すぐ柚木を呼び戻しなさいよ!」
「……彼女は、もう神宮寺さんに引き抜かれました。連絡もつきません」
「っ…………!!」
麗奈は焦り、目の前の高級な生地を八つ当たりに切り裂いた。
自分がいかに紬という『至宝』を雑に扱い、取り返しのつかない損失を招いたか。
その事実に、彼女はまだ、気づこうともしていなかった。
◆ ◆ ◆
午前二時。
作業机の上で、力尽きて眠ってしまった紬。
神宮寺は、そっと彼女に最高級カシミアの毛布をかけた。
そして、彼女の手元にあった新しいスケッチを、大切に手に取る。
そこには、自分への感謝の言葉と共に、
『神宮寺さんが、ぐっすり眠れるためのパジャマ』のデザインが描かれていた。
「…………君は、どこまでお人好しなんだ。自分を救ってくれた俺のために、服を作ろうとするなんて」
神宮寺は、眠る紬の額に、誓いのような優しいキスを落とした。
「明日から、世界が君の才能にひれ伏す。覚悟しておけよ、紬」
神宮寺は、そのスケッチを愛おしそうに胸に抱いた。
冷徹な皇帝が、一人の少女の真心によって、完全に陥落した夜だった。
「君をもう、誰にも渡さない」
窓の外では、夜明けの光が世界を照らし始めていた。
新しいブランド『TSUMUGI』の物語が、今、力強く動き出す。




