第6節:深夜の試作品 〜最高級の布が囁く真実と、氷の皇帝を至福の魔法で骨抜きにする日陰の天才パタンナー〜
第2章:引き抜かれた「幸運の女神」
第6節:深夜の試作品 〜最高級の布が囁く真実と、氷の皇帝を至福の魔法で骨抜きにする日陰の天才パタンナー〜
ルミエール本社ビル、最上階。
関係者以外、役員ですら立ち入りを禁じられた『特別プロジェクト室』。
そこは、美神麗奈がわめき散らす下の制作フロアとは、完全に切り離された静謐な空間だった。
壁一面に並ぶ最新鋭のミシン。
体育館のステージほどもある広大なカッティングテーブル。
そして棚には、パリやミラノの老舗から取り寄せた、世界最高級の布地が宝物のように並んでいる。
「あ、あの……神宮寺さん。私、やっぱり戻ってお掃除の続きを……。麗奈先生に見つかったら、今度こそ本当にクビにされてしまいます」
紬は、あまりにも場違いな空間に身を縮こまらせ、震える声で訴えた。
だが、神宮寺煌は歩みを止めない。
彼はデスクの上に、先ほどゴミ箱から救い出した『コーヒーまみれのスケッチブック』をバサリと広げた。
「掃除の必要はないと言ったはずだ。美神麗奈の機嫌など、俺が許可しない限り取る必要もない」
神宮寺は紬の目を、射抜くような強さで見つめ返した。
「柚木紬。お前の今日の『仕事』は一つだけだ。この汚れたスケッチに描かれた『落書き』を、今すぐ実物に変えろ」
「えっ……!? これ、を……ですか?」
「そうだ。道具も素材も、世界最高のものを用意した」
神宮寺は棚から、透き通るような白さを放つ一反の布を取り出した。
超長綿の中でも最高峰とされる『スビンゴールド』と、極細のシルクを混紡した、まさに伝説の生地だ。
「明日の朝までだ。……できるか?」
「…………っ」
『服を作っていい』。
その言葉が耳に届いた瞬間、紬の身体から怯えが消えた。
代わりに、指先がチリチリと熱を帯びる。
「……はい。やってみます」
◆ ◆ ◆
紬が差し出された布に触れた瞬間、彼女の世界は一変した。
視界の端々から、黄金色の光の粒子が溢れ出す。
布の繊維一本一本が、紬の指先に絡みつき、嬉しそうに歌い始めた。
(……わあ。この布さん、すごく寂しがってたんだね。ずっと棚の中で、誰かに愛されるのを待ってたんだ……)
紬の瞳に、職人の灯が宿る。
(大丈夫だよ。今、最高に気持ちいい形にしてあげるからね。もっと人の肌に寄り添って、呼吸を助けてあげたいって、言ってるんだね……)
神宮寺は、壁際でその光景を黙って見守っていた。
そして、次の瞬間に起きたことに、息を呑んだ。
紬はメジャー(巻尺)すら持たなかった。
裁断バサミを握ると、迷いのない動きで、直接布に刃を入れたのだ。
ジャリッ、ジャリッ……。
心地よいリズムで布が裁たれていく。
紬はトルソー(マネキン)に布を巻きつけると、まるで粘土細工でもするかのように、ピンを打ち、形を整えていく。
(……信じられない。一切の迷いがない。あの子には、布の中に隠された『正解の形』が最初から見えているのか?)
神宮寺の目には、紬の周囲に『完成したシャツのホログラム』が浮かび上がっているように見えた。
彼女はただ、そこにある未来の形をなぞっているだけのように見えた。
通常、一着のシャツをゼロから作るには、デザイン、パターン、仮縫い、補正……。
熟練の職人であっても数日はかかる。
だが、紬の手元では、まるで魔法のように『服』が組み上がっていく。
◆ ◆ ◆
紬の意識は、もはや神宮寺のことすら忘れていた。
彼女がこだわっているのは、麗奈のような奇抜な見た目ではない。
(神宮寺さんの肩は、右が少しだけ下がっている……。ここにほんの少しだけ『ゆとり』を入れれば、腕を動かした時に突っ張らない。背中の筋肉はすごく張っているから、肩甲骨の動きを邪魔しないように……)
指先が布の抵抗を感じ取り、ミリ単位の調整を施していく。
アームホール(袖ぐり)のカーブを、あえて左右非対称にする。
首筋のラインをコンマ数ミリだけ外側にずらし、頸動脈を圧迫しない設計にする。
それは、着る本人ですら気づかないような、究極の『優しさ』の集積だった。
(パタンナーは、着る人の身体を守る影武者。だから、気づかれないくらいがちょうどいいんです……。布さんが一番楽な場所を、見つけてあげるだけだから)
紬は、自分を『すごい』とは一ミリも思っていない。
ただ、布の声を通訳し、着る人の身体に寄り添う。
それが彼女にとっての、当たり前の『仕事』だった。
◆ ◆ ◆
午前三時。
窓の外には、眠らない街・東京の夜景が広がっている。
神宮寺はソファに深く沈み、パソコンで膨大な経営データと格闘していた。
だが、彼の神経は、部屋に響く規則正しいミシンの音に、不思議と癒やされていた。
(……なぜだろう。こんなにも効率の悪い『手作業』の音が、どんなヒーリングミュージックよりも心地よく聞こえる)
神宮寺はこれまでの人生、いかにコストを削り、効率を上げるかだけを考えて生きてきた。
服なんて、数字を出すための商品に過ぎなかった。
だが、目の前で自分のために一針一針縫っている紬の背中を見て、胸の奥の硬い氷が、ピシリと音を立てて崩れ始める。
(効率化の果てに……俺たちは、人間が感じる『心地よさ』という最も大切なものを、捨ててきたのかもしれないな)
神宮寺は、初めて自分の仕事に疑問を抱いた。
そして、紬という少女が、この冷たい現代日本においてどれほど希少な『宝』であるかを、骨の髄まで理解した。
◆ ◆ ◆
東の空が白み始め、第一条の光がアトリエに差し込んだ。
紬が最後のボタンを留める。
真珠母貝を贅沢に削り出した、虹色に輝くボタンだ。
「……ふぅ。できました。布さんの声、ちゃんと形にできたと思います」
紬が差し出したのは、一枚の真っ白なシャツだった。
それは、テーブルの上に置かれただけで、まるで命を持っているかのように自律して立っているように見えた。
派手な装飾は一切ない。
だが、その縫い目の美しさ、襟の立ち上がりの気品は、麗奈が作ったどんな豪華なドレスよりも圧倒的な存在感を放っていた。
「……これを、着てみてくれ」
神宮寺は震える手で、自分の着ていた高価なインポートシャツを脱ぎ、紬のシャツに袖を通した。
「……っ!?」
腕を通した瞬間。
神宮寺の脳を、衝撃が突き抜けた。
シャツが、消えた。
いや、消えたのではない。
肌と完全に一体化し、自分の皮膚が新しく生まれ変わったかのような感覚。
重力から解放されたかのように、腕が、肩が、軽い。
慢性的に重かった肩の凝りが、スッと霧散する。
不眠症で浅くなっていた呼吸が、驚くほど深く、スムーズに肺を満たしていく。
「……ふふ、あはははは……っ!」
鉄の仮面のような神宮寺の顔が、とろけるように緩んだ。
彼は自分の身体を抱きしめるようにして、子供のように無邪気に笑い出した。
「何だこれ……信じられない! 服を着ていて、こんなに『自由』になれるなんて……。身体が、喜んでいるのがわかるぞ……!」
「あ……。よかった、笑ってくれた」
紬は、その笑顔を見て、心から安堵したように微笑んだ。
◆ ◆ ◆
「紬。お前は自分が何をしたか分かっているのか?」
神宮寺は、まだ潤んでいる瞳で紬を見つめた。
「え、ええと……気持ちいいシャツを作ろうと頑張りましたけど……失敗、でしたか?」
「失敗なわけがあるか。……これはシャツじゃない。人類への福音だ。美神麗奈が一生かかっても到達できない、真のラグジュアリーだ」
神宮寺は歩み寄り、紬の針仕事で荒れた小さな手を、両手で包み込んだ。
「……ありがとう。数年ぶりに、深く息が吸えた気がする。お前のこの『仕事』……俺が責任を持って、世界中に認めさせてみせる」
神宮寺はシャツを脱がず、その上からジャケットを羽織った。
彼の瞳には、これまでの冷徹な計算ではない、燃え盛るような情熱が宿っている。
「さあ、行こうか。今から全社員会議だ。……偽物の女王から、王冠を取り上げる時間だ」
「は、はい! 神宮寺さん!」
紬の『無自覚な神業』が、最強の皇帝を完全に味方に引き入れた瞬間。
朝日に照らされた二人の影は、ルミエール本社に向かって力強く伸びていく。
一方、その頃。
美神麗奈は、昨晩自分が投げ捨てた『ゴミ同然の端切れ』が、自分を奈落へ突き落とす『弾丸』に変わったことなど、夢にも思わずに眠り続けていた。




