第3節:氷の皇帝、降臨 〜張り詰めたシャツの悲鳴を救う10秒の神業と、傲慢な女王を震撼させる皇帝の冷徹な一喝〜
第3節:氷の皇帝、降臨 〜張り詰めたシャツの悲鳴を救う10秒の神業と、傲慢な女王を震撼させる皇帝の冷徹な一喝〜
西新宿の高層ビル群が、窓の外に冷たくそびえ立っている。
ルミエール本社、最上階の大会議室。
そこには、ブランドの命運を左右する重苦しい沈黙が流れていた。
「……以上が、今期の報告です。売上は前期比で30パーセントのマイナス。特に主力の若年層向けラインが壊滅的です」
財務担当の役員が、額の汗を拭いながらタブレットを操作する。
役員たちの顔は一様に青ざめ、互いに責任をなすりつけ合うような視線を交わしていた。
そんな中、一人だけ悠然と爪を磨いている女性がいた。
トップデザイナー、美神麗奈だ。
「はぁ……。結局、広報のやり方が古臭いんじゃないの? 私のデザインは完璧よ。世界中のファンが新作を待ち侘びているんだから。売れないのは現場の努力が足りないからでしょ?」
麗奈の後ろには、大量の資料やサンプル生地を抱えた紬が、影のように控えている。
麗奈にとって、紬は人間ですらない。
ただの『便利な移動式の荷物置き』だ。
「おっしゃる通りですな、美神先生! 先生のデザインこそがルミエールの魂。それを活かせない広報や販売員が未熟なのです!」
役員たちが、麗奈の機嫌を伺うように媚びを売る。
この部屋にいる誰もが、実際に服を縫い、型紙を引き、顧客の肌の感覚を想像する――そんな『本質的な仕事』を、泥臭い雑用だと見下していた。
◆ ◆ ◆
その時。
会議室の重厚なオーク材の扉が、音もなく開いた。
カツ、カツ、カツ。
冷徹な足音が、静まり返った室内に響き渡る。
現れたのは、仕立ての良すぎる漆黒の3ピーススーツを纏った一人の男だった。
神宮寺煌。
彫刻のように整った顔立ち。だが、その瞳には一切の温度がない。
経営不振のルミエールを解体・再建するために親会社から送り込まれた、伝説のコンサルタント。
通称、『氷の皇帝』。
神宮寺は議長席に座ることもせず、テーブルに投げ出された資料を一瞥して言い放った。
「……時間の無駄だ」
低く、しかし鼓膜を震わせるような冷たい声。
「数字は嘘をつかないが、この部屋の人間は嘘しかつかないらしい。……美神麗奈。お前がこのブランドの『看板』か?」
麗奈は、ここぞとばかりに華やかな笑みを浮かべて立ち上がった。
持ち前の美貌とカリスマ性で、この若き再建屋もすぐに籠絡できると信じていたのだ。
「ええ、私が美神麗奈よ。歓迎するわ、神宮寺さん。これからのルミエールのために――」
「『看板』なら今すぐ外しておけ。今のルミエールに最も不要なのは、中身のない虚飾だ」
「えっ……?」
差し出した麗奈の手を、神宮寺は見ることすらしない。
凍りつくような拒絶に、麗奈の顔が屈辱で赤く染まった。
◆ ◆ ◆
(……あ)
会議室の隅で、紬は神宮寺をじっと見つめていた。
紬が注目したのは、彼の美貌でも、その圧倒的な威圧感でもない。
彼女の特殊な視覚が、彼の『服』が発する悲鳴を捉えていた。
(……あの人のジャケット、肩のラインがすごく苦しそう。それに、シャツの第3ボタンが……あ、あと少しで、弾けちゃう……!)
紬の目には、神宮寺が纏う最高級の生地が、ホログラムのように赤く点滅して見えていた。
彼は、過酷な激務と不眠症、そして周囲への激しい怒りによって、全身の筋肉が鉄板のように硬直している。
その肉体の緊張が、完璧に仕立てられたはずのシャツを、限界まで引き絞っていたのだ。
(布さんが、泣いてる……。「助けて」って、言ってる……!)
神宮寺の内面は、まさに地獄だった。
どいつもこいつも、服をただの『鎧』か『飾り』だと思っている。
重い。この世界は、息が詰まるほど重すぎる。
肺が圧迫され、呼吸が浅くなっていく。
「……貴様らのような無能に、これ以上の投資は必要ない。まずは――」
神宮寺が、無能な役員に向かって解任を宣告しようと、大きく息を吸い込んだ。
その瞬間。
パチンッ。
乾いた音が室内に響いた。
極限まで張っていた彼のシャツの第3ボタンが、勢いよく弾け飛んだのだ。
「……あ」
重要な局面での、あまりにもマヌケなアクシデント。
役員たちは笑いを堪えるように口元を歪め、麗奈は勝ち誇ったように鼻で笑う。
会議室に、残酷で失礼な沈黙が流れた。
神宮寺の瞳に、激しい屈辱の色が浮かぶ。
だが、彼が怒号を飛ばすよりも早く。
「失礼します……っ!」
一人の少女が、風のように彼の懐に飛び込んだ。
◆ ◆ ◆
「なっ……何だ、貴様は!?」
神宮寺は反射的に彼女を突き放そうとした。
だが、胸元に触れた紬の指先の『あまりの優しさ』に、吸い込まれるように動きが止まった。
紬は、腰のポーチから使い古された、けれど手入れの行き届いた針と、彼のシャツと全く同色の糸を取り出していた。
(大丈夫ですよ、布さん。今、楽にしてあげますからね)
神宮寺の視点からは、紬の指先がまるで白い蝶のように舞っているように見えた。
紬はただボタンを付け直しているのではない。
神宮寺の現在の『体勢』、そして怒りで盛り上がった『胸筋の張り』を指先で瞬時に察知していた。
あえて、元の位置から、わずか2ミリだけ、外側にずらして固定する。
針が、光速で生地を往復する。
所要時間、わずか10秒。
「……はい。できました」
紬がスッと身を引いた瞬間。
「…………なっ!?」
神宮寺は目を見開いた。
衝撃が、全身を駆け抜ける。
(……何だ、これは。呼吸が……楽になった?)
たった一つのボタンの位置を変えただけ。
それだけで、ジャケットの重みが魔法のように全身に分散された。
鉄板のようだった肩の凝りがフッと消え、肺に新鮮な酸素が流れ込んでくる。
「すみません、勝手に……。でも、ボタンさんが『ここにして』って言っていたので。これなら、お仕事中も苦しくないですよ」
紬は、いつものように無自覚に、ふわりと微笑んだ。
「……柚木! 何勝手なことしてるのよ、失礼でしょ!」
麗奈が金切り声を上げる。
「神宮寺さん、すみません! この子はただの掃除婦みたいな契約社員なんです。不潔な手であなたに触れるなんて、すぐにクビにしますから!」
役員たちも同調して紬を怒鳴りつける。
だが。
「……黙れ」
神宮寺の、静かだが地響きのような声が会議室を圧した。
「え……?」
「この『名もなき職人』が10秒で成し遂げたことの価値を、お前たちは一生かかっても理解できないだろう」
神宮寺は自分の胸元のボタンを、愛おしそうに撫でた。
そこには、野心も、媚も、恐れもない。
ただ『服を心地よく着てほしい』という、純粋すぎて異様なまでの祈りが宿っていた。
「美神麗奈。お前のデザイン画を10分以内にすべて持ってこい。一分でも遅れたら、その瞬間に契約を解除する」
「なっ……!?」
麗奈は顔を真っ青にして、取り巻きと共に部屋を飛び出していった。
本当の『権力』に触れ、自分の立場が危ういことを本能で察したのだ。
◆ ◆ ◆
嵐が去った後の会議室。
神宮寺は、床に落ちた糸くずを拾おうとしている紬に向かって、静かに問いかけた。
「……君、名前は?」
紬は驚いたように顔を上げ、控えめに答える。
「……柚木、紬、です」
「紬……。いい名前だ」
神宮寺は確信していた。
この少女が行ったのは、単なる補修ではない。
解剖学的な知見と、素材の特性、そして着用者の内面までも完全に把握した者にしかできない、『神の調整』。
これまでの人生で、数多の高級ブランドを解体し、再建してきた神宮寺。
だが、自分の『体』をここまで一瞬で理解し、救ってくれた人間は、世界中を探しても彼女以外にいなかった。
「柚木紬。お前がルミエールの、そして……俺の『光』になるか」
氷の皇帝の口元が、本人も気づかないほどかすかに、綻んだ。
紬はそんな彼の内心など露知らず、「ボタンさん、喜んでくれてよかった」と、また影のように隅っこへと戻っていくのだった。




