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第2節:踏みにじられる想い 〜傲慢な女王の足元で切り裂かれる布と、汚された宝物のスケッチブックを抱きしめる日陰の職人〜

第2節:踏みにじられる想い 〜傲慢な女王の足元で切り裂かれる布と、汚された宝物のスケッチブックを抱きしめる日陰の職人〜


「おい柚木! のろのろするな! さっさと衣装を片付けろ!」

「次、フィッティングの準備だ! アイロン台をこっちに持ってこい!」


ショーが終わった直後のバックヤードは、さながら戦場だった。

怒号と罵声が飛び交い、モデルたちが脱ぎ捨てた衣装が床に散乱している。

最高級のシルク、繊細なレース、一着で数百万円もするドレスたちが、まるでゴミのように踏みつけられそうになっていた。


紬は膝をつき、必死に手を動かす。


(……ごめんね、痛かったよね。すぐ綺麗にするからね)


心の中で布に語りかけながら、一着ずつ丁寧にシワを伸ばし、ハンガーにかけていく。

周囲のスタッフにとって、紬はただの『便利屋』であり『衣装運びの雑用係』だ。

パタンナーとしての彼女の専門性を尊重する者など、この場所には一人もいない。


だが、誰も気づいていない真実がある。


今回、ランウェイを歩いたモデルたちが一人も転倒せず、あれほど優雅にポーズを決められたのは、他でもない紬のおかげだったのだ。


麗奈の描いたラフ画は、物理法則を無視していた。

重心が極端に偏り、一歩歩けば裾を巻き込み、モデルが顔面から崩れ落ちるような欠陥構造。

それを、紬が数日間の不眠不休で構造計算し、ミリ単位で重心をずらし、見えない部分に特殊なボーン(芯材)を仕込んで『歩けるドレス』に再構築した。


紬がいなければ、今日の新作発表会は惨劇のパレードになっていたはずだった。

しかし、その功績はすべて麗奈の『センス』として処理されている。




   ◆ ◆ ◆




「あはは! 最高だったわね、今日のショー!」


シャンパングラスを片手に、取り巻きの若手デザイナーたちを引き連れた美神麗奈がバックヤードに凱旋してきた。


麗奈はわざと、紬が丁寧に整えたばかりのドレスの裾をヒールで踏みつけながら、紬の目の前に立った。


「聞いた? ヴォーグの編集長が絶賛してたわよ。あのドレープの計算は神がかっている、まさに美神麗奈の独壇場だって!」

「さすが麗奈先生です! 先生がちょっと指示を出しただけで、あんな安っぽい布が宝石に変わるんですから」

「ほんとよねぇ。あの子みたいな『指示通りに動くだけの機械』には、一生かかっても出せない味だわ」


麗奈は紬を見下し、鼻で笑う。


「ちょっと柚木さん。あんた、私のイメージ通りに仕上げるのに、今回も随分手こずったみたいじゃない。もっとマシな型紙パターンは引けないの? 次はもっとスピードを上げなさいよ。機械なんだから」

「……すみません、善処します」


紬は低く頭を下げる。

本当は、麗奈の指示が二転三転し、物理的に不可能な修正を何度も押し付けられたから時間がかかったのだ。

だが、それを言っても無駄なことは分かっていた。




   ◆ ◆ ◆




(……布さんが、泣いてる)


紬の目には、麗奈のヒールで踏みつけられた生地が、青ざめて震えているように見えた。

たまらず、紬は麗奈の足元からドレスの裾をそっと引き寄せる。


「あ、あの……麗奈先生、危ないですから。生地が傷んでしまいます……」


その瞬間、麗奈の表情が凍りついた。


「……何? 私に指図する気?」

「えっ、いえ、そういうわけでは……」

「契約社員の分際で、私の歩き方に文句をつけるっていうの!? 生意気なのよ!」


カッとなった麗奈は、近くの作業机に置かれていた裁断バサミを掴み取った。


「そんなにこの布が大事? じゃあ、これならどうかしら!」


ジャリッ、という嫌な音が響く。


麗奈はドレスの裏地を、無造作に切り裂いた。

そこは、紬が「モデルさんの肌を痛めないように」と、自費で購入した最高級のオーガニックコットンを使用した部分だった。

着る人への慈しみが詰まった場所を、麗奈は残酷に切り裂いたのだ。


「あっ……!」


周囲のスタッフが息を呑む。

取り返しのつかない破損。修復には数時間はかかるはずだった。


だが。


「……っ、今、直してあげるからね」


紬は悲しむ暇もなく、腰のポーチから針と糸を取り出した。

次の瞬間、紬の指先が、目にも止まらぬ速さで動き始めた。


(……布さん、ごめんね。すぐに繋いであげるから。痛いの、飛ばしてあげるからね)


ダダダダッ、と残像が見えるほどの速度で運ばれる針。

紬の意識は、周囲の喧騒から完全に切り離された。


わずか数十秒。


「……よかった。繋がったよ」


紬がそっと手を離すと、そこには、切り裂かれる前よりも滑らかで美しい『縫い目』が現れていた。

プロの目で見ても、どこを直したのか判別不可能なレベルの神速補修。


だが、それを見たスタッフたちは、鼻で笑った。


「ふん、手先だけは器用ね」

「機械としては合格点なんじゃない? あはは!」


それが人間業ではない『神技』であることに、誰一人として気づかない。

紬はただ、ドレスが元通りになったことに安堵して、胸をなでおろしていた。




   ◆ ◆ ◆




「……あら、これ何?」


麗奈が次に目をつけたのは、作業台の横に置かれた紬の古いカバンだった。

そこから一冊の古びたスケッチブックが覗いている。

麗奈はそれを強引に奪い取った。


「あ、先生! それは返してください!」

「うるさいわね、ちょっと見せてよ。……何これ、ダサッ」


ページをめくる麗奈の指が止まる。

そこには、現代日本で働く女性たちのリアルな悩みに寄り添ったデザインが描かれていた。


『満員電車で揉まれてもシワにならないジャケット』

『夕方のむくんだ脚を隠しつつ、美脚に見せる計算されたスラックス』

『デスクワークの肩こりを軽減する、驚異の軽量構造コート』


派手さはない。だが、生活の中で人を「癒やす」ためのアイデアが、緻密な計算と共に書き込まれていた。


「……ははっ! 何これ、貧乏くさ! ただの作業着じゃない」

「そんなこと……それは、毎日頑張っている女の人たちが、少しでも楽になればと思って……」

「ルミエールはね、夢を売るブランドなの。こんな生活感あふれる汚いデザイン、イメージに泥を塗るだけだわ。あんたみたいな夢のない人間が描く線は、本当に退屈ね」


麗奈は冷笑を浮かべると、スケッチブックを床に叩きつけた。


「ああっ!」


さらに、麗奈は手に持っていた飲みかけのブラックコーヒーを、無造作にその上にこぼした。


ドバドバと注がれる濁った液体。

紬が何年も描き溜め、祖母との思い出も詰まった大切なアイデアが、茶色く汚れていく。


「捨てる手間が省けたでしょ? 明日から、あんたは制作室の掃除だけしてなさい。パターン(型紙)なんて二度と触らせないわ。私の視界にその汚い線が入るだけで、吐き気がするのよ」


麗奈は取り巻きを連れて、高笑いしながら去っていった。

一人残された紬は、震える手で、コーヒーまみれのスケッチブックを拾い上げる。




   ◆ ◆ ◆




(……大丈夫。まだ、読める。まだ、消えてない)


誰もいなくなったバックヤード。

紬は冷たい床に這いつくばり、汚れたページを必死にタオルで拭き取っていた。


『その仕事、誰でもできる。お前の代わりなんて、駅前で石を投げれば当たるほどいるんだ』


制作部長に言われた言葉が、呪文のように頭をよぎる。

私がいなくても、世界は回る。

私がいなくても、素晴らしいドレスは作られる。

本当に、そうなのだろうか。


『紬、布は正直だよ』


ふと、亡き祖母の声が聞こえた気がした。


『邪険に扱えば刺してくるし、愛せば応えてくれる。今は暗闇の中にいてもね、あんたの指先が紡ぐ優しさは、必ず誰かを救う日が来るから』


「……おばあちゃん。私、やっぱり服が好き。布さんが、まだ笑ってほしいって言ってる気がするから」


紬は汚れたスケッチブックを、宝物のように抱きしめた。

その時、バックヤードの入り口に、一人の影が立っていた。


神宮寺煌。


経営再建のために送り込まれた彼は、先ほどから一部始終を無言で見守っていた。

彼は、麗奈の傲慢な振る舞いには目もくれなかった。

ただ、床に這いつくばり、コーヒーを拭きながらも『布』を気遣う紬の、異常なまでの執念――職人魂に、魂を射抜かれていた。


「……あんなものを、掃除に回すだと?」


神宮寺は、足元に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げる。

それは、麗奈が投げ捨てた時に破れ、風に舞って落ちたスケッチブックの断片。

そこには、たった数本の線で描かれた『袖のカーブ』があった。


「…………解剖学的な完璧さだ。これを引いたのは、どんな計算機だ?」


神宮寺の冷徹な瞳に、初めて情熱の火が灯る。

彼は、握りしめたその紙片を大切にポケットにしまった。


現代日本の歪んだ構造の中で、踏みにじられ、使い捨てられようとしている至宝。

氷の皇帝は、それを泥の中から救い上げ、世界を跪かせるための計画を練り始めていた。

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