第16節:盗まれたスケッチ 〜絶頂から奈落へ突き落とす偽りの女王の会見と、SNSの猛火から女神を匿い地獄の果てまで追い詰める皇帝の怒り〜
第4章:卑劣な罠と、受け継がれし職人の誇り
第16節:盗まれたスケッチ 〜絶頂から奈落へ突き落とす偽りの女王の会見と、SNSの猛火から女神を匿い地獄の果てまで追い詰める皇帝の怒り〜
『TSUMUGI』の正式なブランド立ち上げを数日後に控えた、最高級ホテルの特設アトリエ。
室内には、かつての地下制作室のような重苦しさは微塵もなかった。
窓から差し込む柔らかな光を浴びて、紬が選んだ新しい「主役」たちが並んでいる。
それは、素朴ながらも最高級の風合いを持つ、洗いざらしのリネンや柔らかなオーガニックコットンだった。
「……できた。これが、私の作りたかったものです」
紬が描き上げたスケッチブックを、神宮寺が静かに覗き込む。
そこに描かれていたのは、エマ・ワトソンのような豪華なドレスではない。
『究極の日常着』。
「朝、ベッドから出たくない時に、そのまま外へ出かけたくなるような服。頑張らなきゃいけない現代の女性たちが、鎧を脱いで自分に戻れる服を作りたいんです」
そのイラストの端々には、パタンナーとしての紬の専門的な知見がびっしりと書き込まれていた。
『この部分は布を三枚重ねて、重力で自然に身体を支えるように』
『縫い代はすべて外側に逃がし、肌へのストレスをゼロにする』
「……これは、ただの服ではないな」
神宮寺は、その完成度に深く感嘆した。
「着用者の『孤独』を埋めるためのプロダクトだ。紬、君は本当に、人という生き物を愛しているんだな」
「神宮寺さん、また大げさな……。私はただ、みんなが『ふふっ』て笑ってくれたらいいなって思ってるだけですよ」
照れくさそうに笑う紬。
アトリエに新しく入ったアシスタントたちも、口々に感謝を伝えてくる。
「紬さん、こんな設計図、見たことありません! 早く形にしたいです!」
「ありがとうございます。みんなで作るんですから、私がすごいんじゃないですよ」
平和で、希望に満ちたアトリエ。
だが、その隅で冷たい視線を送る一人の男がいた。
アシスタントとして潜り込んでいた、ルミエール前社長のスパイ――佐藤だった。
◆ ◆ ◆
「紬、少し別室で打ち合わせをしよう」
神宮寺に呼ばれ、紬は作業机にスケッチブックを置いたまま席を外した。
そこには、祖母の形見である万年筆が添えられていた。
誰もいなくなった一瞬の隙。
佐藤が動き出す。
彼は震える手でスマホを取り出すと、紬のスケッチブックを全ページ撮影し、さらに実物を素早くカバンの中に隠した。
何食わぬ顔でアトリエを去る佐藤。
数分後、戻ってきた紬が小首を傾げた。
「あれ……? スケッチブック、どこに置いちゃったんだろう。さっきまでここにあったのに」
紬は部屋の中を探し回る。
「……私の不注意かな。神宮寺さん、ごめんなさい。どこかに置き忘れちゃったみたいで」
紬は「誰かに盗まれた」とは微塵も疑わず、自分を責めて落ち込んだ。
だが、神宮寺の表情は一瞬で険しいものに変わる。
「紬、動くな。……すぐに防犯カメラをチェックさせる」
神宮寺がシステム担当に連絡を入れるが、返ってきた答えは絶望的だった。
ハッキングによって、佐藤が立ち去った時間帯の映像だけが綺麗に消去されていたのだ。
◆ ◆ ◆
「――緊急速報です。今、注目を集めているブランド『TSUMUGI』に、重大な疑惑が浮上しました」
ブランド発表のわずか数時間前。
アトリエのテレビに、美神麗奈の姿が映し出された。
彼女は、多くの報道陣の前で、目元を赤く腫らして語り始めていた。
『……私は悲しいです。元社員の柚木紬さんに、私が長年温めてきた新作ライン「リラックス・クイーン」のデザインを丸ごと盗まれました』
「…………え?」
紬の喉から、掠れた声が漏れた。
『彼女は神宮寺氏という権力者と結託し、私のアイデアを自分のものとして発表しようとしています。これが、証拠のデータです』
麗奈が背後のモニターに表示したのは、紬のスケッチをデジタルで完璧にトレースし、作成日付を「一年前」に偽装した元データだった。
そこには、紬が先ほどまで描いていた日常着と、全く同じデザインが並んでいた。
「嘘……そんな、あれは私がおばあちゃんと……」
紬の視界が、ぐにゃりと歪む。
◆ ◆ ◆
現代日本の狂気――SNSという名のデジタル・ギロチンが、一瞬で紬を処刑しにかかった。
『#柚木紬を許さない』
『#TSUMUGIは盗作ブランド』
ハッシュタグは瞬く間にトレンド1位を独走。
『エマのドレスもどうせ盗作だったんだろ?』
『パタンナーの分際でデザイナーの手柄を奪うなんて卑劣すぎる』
『神宮寺とかいうコンサルも真っ黒だな。金で才能を買ったのか』
根拠のない誹謗中傷が、津波のように押し寄せる。
神宮寺のスマホにも、投資家や取引先からの抗議とキャンセルの電話が鳴り止まない。
「どうして……どうして私の描いた、おばあちゃんとの思い出の絵が……麗奈先生のものになってるの……?」
紬はあまりの理不尽さに過呼吸を起こし、その場に崩れ落ちた。
「はっ、ひゅっ……! 私は、誰も……傷つけたくなかっただけ、なのに……っ!」
「聞くな、紬! 見るな!」
神宮寺が紬を強く抱きしめ、彼女の耳を塞ぐように覆った。
彼はそのまま紬を抱き上げ、アトリエの奥の静かな寝室へと運び込む。
「外界の情報をすべて遮断しろ! SPを倍に増やせ! 一歩も誰も入れるな!」
神宮寺はスタッフに怒号を飛ばし、震える紬をベッドに横たえた。
「……紬。世界が君を疑っても、俺だけは真実を知っている。……佐藤という男、そして美神麗奈。俺の女神から『心』を奪おうとした代償は……地獄の底まで追い詰めて、その命よりも重いツケを支払わせてやる」
神宮寺の瞳には、かつてないほどの、暗く冷たい怒りの炎が燃え盛っていた。
◆ ◆ ◆
「あーっはっはっは!! ざまぁ見ろ、柚木紬!!」
一方、ルミエール本社の役員室では、麗奈が最高級のシャンパンを空けていた。
「これで業界から永久追放よ! あんたの才能なんて、私が『私のもの』だと言えば、それが真実になるのよ! 泥棒デザイナーにはお似合いの末路ね!」
麗奈は勝利の美酒に酔いしれていた。
だが、彼女は決定的なことを見落としていた。
彼女が盗んだスケッチには、紬が『布の声』に従って引いた、本人にしか理解できない「魔法の数値」が含まれている。
紬のデザインは、パタンナーとしての超高度な技術が組み合わさって、初めて『服』として成立するものだ。
型紙を引けない麗奈が、見た目だけを真似して製品化すれば、それは恐ろしいほどに『不快な服』になる。
だが、プライドに目が眩んだ麗奈は、その時限爆弾に気づくことさえできなかった。
◆ ◆ ◆
暗い寝室。
神宮寺が用意した最高級カシミアの毛布に包まれながら、紬は一人、暗闇の中で震えていた。
(……怖い。世界中が、私を泥棒だって言ってる……)
ふと、枕元に置いてあった、端切れのサンプルに手が触れた。
その瞬間――。
(……あ)
絶望の中でも、布に触れた瞬間だけは、微かな『光』が見えた。
布たちは怒っていなかった。
ただ静かに、紬の指先を待っていた。
「……布さん。まだ、私のこと、待っててくれるの?」
ガチャ、とドアが開く。
神宮寺が、温かい飲み物を持って入ってきた。
紬はゆっくりと体を起こし、涙を拭いて、彼を真っ直ぐに見上げた。
「神宮寺さん……。私、逃げたくないです」
「紬……」
「麗奈先生に盗まれたのは、私のデザインだけじゃない。……おばあちゃんと過ごした、大切な時間なんです。それだけは……絶対に渡しちゃいけない気がします」
紬の瞳に、日陰の天才としての、静かで力強い『誇り』が宿った。
神宮寺は、満足そうに口角を上げた。
「ああ。待っていたよ、その言葉を。……さあ、反撃の準備だ。君を汚した世界中を味方につける、最高の『真実のショー』をプロデュースしてやる」
現代日本の不条理を、氷の皇帝と布の女神が根底からひっくり返す。
史上最大の逆転劇が、今、幕を開けようとしていた。




