第12節:歌姫の苦悩 〜世界的スターを蝕む『豪華な鎧』の悲鳴と、優しく触れるだけで傷跡を見抜く日陰の天才の慈しみ〜
第12節:歌姫の苦悩 〜世界的スターを蝕む『豪華な鎧』の悲鳴と、優しく触れるだけで傷跡を見抜く日陰の天才の慈しみ〜
都内某所、厚いベールに包まれた撮影スタジオ。
そこには、来日直後のエマ・ワトソンを巡って、国内外のトップブランドが火花を散らす、異様な緊張感が漂っていた。
「……いいわね? エマは長旅でひどく疲れているわ。各ブランドの採寸時間は、きっかり五分よ」
氷のように冷たいマネージャーの声が、待機室に響く。
その場の誰もが息を潜める中、最初に名前を呼ばれたのは、ルミエールの美神麗奈だった。
「さあ、行くわよ。……世界に見せつけてやるわ」
麗奈は取り巻きを引き連れ、堂々とフィッティング・ルームへ乗り込んだ。
中では、サングラスをかけたエマが、鏡の前で椅子に深く沈み込んでいる。
麗奈は彼女の体調など一顧だにせず、豪華なデザインボードと、金糸銀糸で埋め尽くされた重厚な生地のサンプルを、机の上にこれ見よがしに広げた。
「エマ! 私のこのデザインを見なさい! これを着れば、あなたは正真正銘、世界の『女帝』になれるわ。特にこのウエストライン……極限まで絞り込むことで、あなたの完璧なプロポーションを強調するのよ!」
麗奈の大声が響く中、エマは無表情にサングラスをずらし、サンプルに手を触れた。
「……ありがとう。でも、少し……硬すぎて、窮屈そうね」
「ファッションは我慢よ、エマ! 美しさのために呼吸を少しだけ浅くするなんて、プロなら当然の代償でしょ?」
麗奈は勝ち誇ったように笑う。
エマはかすかに眉をひそめ、それ以上は何も言わなかった。
ただ、その瞳には深い絶望の色が混じっているのを、退出するルミエールの誰も気づかなかった。
◆ ◆ ◆
(……まただわ。また、あの重い鎧を着て、笑わなきゃいけないの?)
一人になった控え室で、エマは鏡に映る自分を見つめた。
世界中のファンが求める「完璧なアイコン」としての自分。
だが、その仮面の下で、彼女の肉体は限界に達していた。
極度の敏感肌。そして、精神的な重圧からくる慢性的な過呼吸。
豪華な衣装の重みは彼女の肩を石のように固め、硬い化学繊維は摩擦を起こして、彼女の白い肌を赤く腫れ上がらせていた。
(……痛い。服が、私を壊そうとしているみたい……)
誰にも言えない秘密。
弱音を吐けば「プロ失格」の烙印を押される、孤独な頂点。
エマは震える手で薬を飲み込み、浅い呼吸を繰り返した。
◆ ◆ ◆
「次。新ブランド『TSUMUGI』。……入りなさい」
マネージャーの冷たい声に従い、神宮寺に付き添われた紬が、静かに部屋に入った。
他のブランドが山のようなサンプルを持ち込む中、紬が持っていたのは、小さなメジャーと、一枚の真っ白な布だけだった。
「……あなたたちも同じね。私を締め付ける服の絵を持ってきたの?」
エマの警戒を解かない、鋭い視線。
神宮寺は一歩下がり、紬の背中を優しく押した。
「我々は『絵』は用意していません。我々のデザイナーが、あなたの『身体』から直接答えを聞き出します」
紬は、緊張で震える足を一歩踏み出した。
彼女の目に映ったのは、世界的スターの威光ではなかった。
ただ、ボロボロに傷つき、今にも崩れ落ちそうな「一人の女の子」の姿だった。
「あの……エマさん。少しだけ、肩と背中に触れてもいいですか?」
「……ええ。手短にね」
紬の、少し荒れた、けれど温かく柔らかな手が、エマの肩にそっと触れる。
◆ ◆ ◆
(……っ!?)
触れた瞬間、紬の脳内に、爆発的な情報が流れ込んできた。
筋肉の異様な強張り。
炎症を起こし、熱を持っている肌。
そして、今にも止まりそうなほど、浅く、苦しい呼吸のリズム。
(布の声だけじゃない……身体が、泣いてる……!)
「…………痛い。すごく、痛かったですね」
紬の声は、震えていた。
慈しみと、深い悲しみに満ちた声だった。
「ずっと、硬い布さんに肌を削られて……重い石に押し潰されて、息ができなくて。……ごめんなさい、服を作る人間として、私、すごく悲しいです。こんなに頑張っているあなたの身体を、誰も助けてあげられなかったなんて……」
「………………え?」
エマは、息を呑んで振り向いた。
サングラスの下を伝って、一筋の涙がこぼれ落ちる。
これまで、何百人というデザイナーが彼女の身体を測ってきた。
だが、彼女を「作品を飾るための道具」ではなく、「痛みを感じる一人の人間」として扱ったのは、この小柄な日本人の女の子が初めてだった。
「……わかるの? 私が、どれだけ苦しかったか……」
「はい。もう大丈夫ですよ、エマさん」
紬は優しく微笑み、持ってきた真っ白な布を、エマの身体にフワリと巻きつけた。
◆ ◆ ◆
「ここ……脇の下の縫い目は、一番肌が敏感だから、外側に逃がしますね」
紬の指先が、目にも止まらぬ速さで布を操る。
「胸郭が一番広がる、高い声を出す時のサイズに合わせて、見えない『ゆとり』を入れます。……これなら、もう歌う時に苦しくありません。服が、あなたの歌を助けてくれますから」
紬が布を当て、ピンを数本打つたびに。
エマの身体から、魔法のように力が抜けていった。
「……嘘。布が身体を包んでいるのに……まるで、何も着ていないみたい」
エマは、大きく息を吸い込んだ。
肺の奥まで、新鮮な空気が入り込んでくる。
あんなに重かった肩が、羽が生えたように軽い。
「呼吸が……すごく楽。身体が、笑ってる……!」
その光景を後ろで見守る神宮寺は、不敵に微笑んだ。
(やはり、俺の目に狂いはなかった。彼女の『仕事』は、世界で最も孤独な頂点にいる人間すらも救済する『福音』だ)
◆ ◆ ◆
「着心地が良いのは素晴らしいが、TSUMUGIさん」
エマのマネージャーが、怪訝そうに口を挟んだ。
「コンペの条件は『女帝』のような豪華絢爛さだ。そんな安っぽい白い布切れ一枚では、ステージは持たない。エマには最高の輝きが必要なのよ」
紬は、怯むことなくマネージャーの目を見据えた。
「大丈夫です。重い石や、硬い金糸を使わなくても、布さん自身が持っている『光』を引き出せば、誰よりも華やかになれます。私、エマさんが一番気持ちよく笑えるドレスを作ります。……輝くのはドレスじゃなくて、エマさん自身ですから」
エマは、まだ仮縫いの布切れに過ぎないそのトワルを、愛おしそうに撫でた。
そして、マネージャーに向かってはっきりと告げたのだ。
「私は、この子が作る服を着てみたい。……いえ、彼女の服じゃなきゃ、私はもうステージで歌いたくないわ」
コンペの結果発表を待たずして。
世界の歌姫の心は、すでに『TSUMUGI』に奪われていた。
◆ ◆ ◆
スタジオを後にし、アトリエに戻るリムジンの中。
紬は急に、不安に襲われたように自分の手を見つめた。
「……神宮寺さん。私、あんな大きなこと言っちゃいました。豪華絢爛で、でも羽根みたいに軽いドレスなんて、本当に作れるでしょうか……」
神宮寺は、紬の頭をポンと叩いた。
「君はすでに、エマの心を救った。あとはそれを、物理的な『形』にするだけだ。……素材の手配も、制作の管理も、俺が完璧に行う。君はただ、布とエマのことだけを愛していればいい」
神宮寺は窓の外、ルミエール本社がある方角を、冷酷な眼差しで見据えた。
「美神麗奈。お前が『我慢』を強いる服を作れば作るほど、紬の『優しさ』が世界を照らす光になる。……自滅のカウントダウンの始まりだ」
紬は、繊維街で手に入れた『伝説の布』のことを思い浮かべていた。
あの五十年の眠りから覚めた布と、祖母から受け継いだ魔法の裏地処理。
それらが合わさった時、誰も見たことのない『奇跡』が起きることを、彼女は予感していた。




