第10節:癒やしのパジャマ 〜不眠症の皇帝を深い安らぎへと沈める端切れの魔法と、初めての深い眠りに涙して少女を抱きしめる守護者〜
第10節:癒やしのパジャマ 〜不眠症の皇帝を深い安らぎへと沈める端切れの魔法と、初めての深い眠りに涙して少女を抱きしめる守護者〜
深夜二時。
都内最高級ホテルのスイートルーム。
窓の外には、不夜城・東京の冷たい灯りが地上の星のように瞬いている。
その静寂を切り裂くのは、神宮寺煌が叩くキーボードの音だけだった。
「…………まだだ。この数字では、ルミエールの膿を出し切るには足りない」
ブルーライトに照らされた神宮寺の顔は、幽鬼のように青白く、鋭い。
彼は長年、重度の不眠症に悩まされていた。
外資系ファンドでの過酷な椅子取りゲーム。
裏切りと策略が渦巻く再建の現場。
彼の脳は常に戦場にあり、横になっても神経がささくれ立ち、数時間の浅い微睡み(まどろみ)しか得られないのが日常だった。
(……眠れない。身体は鉛のように重いのに、頭だけが熱く、冴え渡っている)
神宮寺は、高価なサプリメントを流し込み、こめかみを押さえた。
最高級の寝具も、アロマも、名医の処方も、彼の渇いた心を潤すことはなかった。
「……神宮寺さん」
アトリエの隅。
作業を終えた紬が、不安そうに彼を見つめていた。
「まだ、お仕事ですか? お顔、すごくお疲れみたいです」
「……気にするな。いつものことだ。君は先に休め」
「でも……。神宮寺さんの背中、すごく重そうです。それに……」
紬は神宮寺が着ている、数十万円もする最高級ブランドのパジャマに視線を落とした。
「布さんが……泣いています。そのパジャマ、『痛いよ、苦しいよ』って。神宮寺さんの身体を締め付けて、呼吸を邪魔してる気がするんです」
「……馬鹿な。これは世界最高峰のシルクだぞ」
「高くても、神宮寺さんの『今の身体』には合っていないんです。……待っていてください。私、神宮寺さんがぐっすり眠れるもの、作ってみますから」
◆ ◆ ◆
紬は、繊維街の源蔵から譲り受けた『三代織』の端切れを広げた。
(神宮寺さんは、左の肩甲骨がいつも凝ってる。寝返りを打つ時に、そこが突っ張らないように……)
紬の手が、魔法のように動き始める。
通常、高級なパジャマは一続きの大きな布で作るのが常識だ。
だが、紬はあえて異なる質感の端切れを、パズルのように組み合わせていく。
(ここは汗をかきやすいから、通気性のいいこの子を。ここは肌が敏感な場所だから、一番柔らかいこの子を……)
紬の目には、布と布の境界線が光で溶け合うように繋がっていくのが見えていた。
彼女が作っているのは、単なる衣類ではない。
リンパの流れを阻害せず、寝返りによる摩擦をゼロに抑える『解剖学的設計』。
それを紬は、「布さんがここを通りたがってる」という直感だけで、ミリ単位の狂いなく形にしていく。
(神宮寺さん。いつも私を守ってくれて、ありがとう……。せめて、夢の中だけは、お布団の中で笑っていてほしいから)
紬は祈るように、最後の一針を止めた。
◆ ◆ ◆
翌晩。
紬は完成したパジャマを、神宮寺に手渡した。
「あの、神宮寺さん。お疲れみたいだったので……余った布で作ってみました。端切れを繋いだだけなので、見た目は不格好ですけど、良かったら……」
「……端切れで作ったパジャマか。合理的ではないが……君の好意だ。一度だけ着てみよう」
神宮寺は半信半疑のまま、寝室でそのパジャマに袖を通した。
その瞬間――。
「…………っ!? な、何だ、これは」
肌に触れた瞬間、神宮寺は雷に打たれたような衝撃を受けた。
重力が、消えた。
いや、自分の『肉体』という重い檻から、魂が解き放たれるような感覚。
縫い目が一切肌に当たらず、布がまるで自分の皮膚の延長線上にあるかのように馴染んでいく。
「あ……。あは、はは……っ」
氷の皇帝と呼ばれた男の唇から、場違いな笑みが漏れた。
(……温かい。柔らかい。……なんだろう、この、懐かしい匂いは。まるでお母さんの腕の中にいるみたいだ……)
神宮寺の強張っていた筋肉が、しゅるしゅると解けていく。
ベッドに倒れ込んだ瞬間、抗いようのない睡魔が彼を襲った。
意識が深い闇の底――心地よい安らぎの海へと、急速に沈んでいく。
「…………あ……つむ、ぎ……」
最後にその名を呟いた瞬間、神宮寺は数年ぶりとなる『完全な無意識』へと没入していった。
◆ ◆ ◆
翌朝。
窓から差し込む柔らかな朝日が、ホテルのスイートルームを照らしていた。
神宮寺は、ゆっくりと目を開けた。
頭が、驚くほど軽い。
全身の細胞が新しく生まれ変わったような、圧倒的な爽快感。
「……一度も、目を覚まさなかった?」
時計を見る。
夜の二時から、昼の十二時まで。
人生で初めて、一度も中途覚醒することなく、十時間の深い眠りを貪ったのだ。
神宮寺はリビングへ出た。
そこには、すでに作業を始めていた紬が、朝の光の中で微笑んでいた。
「あ、神宮寺さん。おはようございます。よく眠れましたか?」
「………………」
神宮寺は無言で歩み寄ると、紬を背後からいきなり抱きしめた。
「ひゃあぁっ!? じ、神宮寺さん!? どうしたんですか、急に!」
「紬……君は、魔女か? ……あのパジャマを着てから、一度も悪い夢を見なかった。世界が、こんなに明るく見えるのは……生まれて初めてだ」
神宮寺は紬の首筋に顔を埋め、深く、深く呼吸をした。
そこには、紬の誠実な仕事が宿した、陽だまりのような匂いがした。
「ありがとう、紬。俺を救ってくれたのは、数字でも、金でも、薬でもない。君の、その小さな手が生み出した『仕事』だったんだ」
「ふぇぇ……。た、ただのパジャマですよぉ。そんなに褒められると、私、溶けちゃいます……」
紬は顔を真っ赤にして照れる。
自分が成し遂げたことが、一人の男の人生をどれほど救ったのか、彼女はまだ本当には気づいていなかった。
◆ ◆ ◆
同じ頃。
ルミエール本社、美神麗奈の個人デザイン室。
「眠れない……! 全然眠れないじゃないのよ!!」
麗奈はヒステリックに叫び、高級なクッションを投げつけた。
新作発表のプレッシャー。
そして、紬という『万能パタンナー』を失ったことで、制作現場が完全に崩壊している焦り。
彼女の神経は、今や限界を超えていた。
「どうして誰も、あのパターンの続きが引けないの!? 柚木がいれば、こんなの五分で終わったはずよ! あいつを今すぐ連れてきなさい!!」
スタッフたちは青ざめて下を向く。
さらに追い打ちをかけるように、秘書が震えながら報告した。
「せ、先生……。先生がプロデュースした新作の『ラグジュアリー・パジャマ』ですが……購入したセレブの方々からクレームが殺到しています」
「……何ですって!?」
「『重くて肩が凝る』『肌に湿疹ができた』『寝返りを打つたびに目が覚める』と……。返品の嵐です……!」
「そんな……! あんなに高いシルクを使ったのよ!? あんなの、見た目が良ければいいのよ!!」
麗奈が紬の仕事を『誰にでもできる雑用』と切り捨てた報いが、今、ブランドの信頼失墜という形で返ってきていた。
◆ ◆ ◆
スイートルームのダイニング。
紬が作った質素な、けれど滋味溢れる朝食を、神宮寺は一滴残らず平らげていた。
「……紬。俺は今、猛烈な葛藤の中にいる」
「葛藤? また難しい言葉ですね」
「……あのパジャマの心地よさを、世界中に広めて、多くの人を救いたいという経営者としての俺。……それと、あの感覚を俺だけのものにしたい、君を誰の目にも触れさせたくないという、一人の男としての俺だ」
神宮寺は、紬の指先をそっと唇に寄せた。
「君はどうしてこうも、俺を狂わせるんだ。……君を、一生離したくない」
「ふぇっ!? く、狂わせる? やっぱり風邪ですか? おでこ、冷やしましょうか?」
「………………いや、いい。君はそのままでいろ」
神宮寺は呆れつつも、彼女の無自覚な優しさに、完敗を認めた。
「さあ、紬。準備はいいか。パジャマで俺を落としたように……次は、世界を落としてもらう」
「はい! 私、頑張ります! ……あ、でも、次は『お外で着る服』ですよね。布さんが、外の風に当たりたいって言ってるので!」
「ああ。君の描く未来は、俺が全て現実にしてやる。……行こうか」
氷の皇帝の心は、今や完全に溶かされていた。
二人の絆は、一着のパジャマによって、誰にも引き裂けないほど強固なものへと変わっていた。
次なる舞台は、世界的な歌姫の衣装コンペ。
紬の『癒やしの服』が、ついに世界を震撼させることになる。




