第1節:光と影のランウェイ 〜喝采を浴びる偽りの女王と、バックヤードで布の声を聴く日陰の天才パタンナー〜
第1章 日陰の天才と氷の皇帝の邂逅
第1節:光と影のランウェイ 〜喝采を浴びる偽りの女王と、バックヤードで布の声を聴く日陰の天才パタンナー〜
眩いフラッシュの瞬きが、星屑のように降り注いでいた。
腹の底に響くような重低音のクラブミュージック。
東京の中心にそびえる最高級ホテルの巨大なホールは、今、熱狂の渦に包まれている。
大手アパレル企業『ルミエール』の秋冬新作コレクション。
ランウェイの先端で、無数のカメラの砲列に向かって優雅に微笑む一人の女性がいた。
「麗奈先生! こっち向いて!」
「なんて素晴らしいドレスなんだ! まさに色彩の魔術師!」
「令和のファッション界を背負って立つ天才だわ!」
観客席の最前列を埋め尽くすファッション誌の編集長や有名インフルエンサーたちが、惜しみない拍手と称賛の言葉を浴びせている。
ブランドの看板を背負うトップデザイナー、美神麗奈。
彼女が自身の『最高傑作』として身に纏っているのは、今期のメイン作品である真紅のイブニングドレスだった。
歩くたびに波打つような裾の広がりは、まるで炎が踊っているかのように美しい。
麗奈は完璧な作り笑いを浮かべながら、心の中では醜く口角を吊り上げていた。
(……ふふっ、ちょろいわね)
降り注ぐフラッシュの光を全身に浴びながら、彼女は観客たちを心の中で嘲笑う。
(私が適当に描いた線を、あの『ネズミ』に形にさせただけなのに。みんな、私の圧倒的な『才能』にひれ伏しているわ!)
彼女は誇らしげに胸を張り、自分が世界の中心にいるのだと信じて疑わなかった。
◆ ◆ ◆
一方、その華やかなステージの真裏。
バックヤードは、表の煌びやかさとは無縁の、ほこりっぽく殺伐とした戦場だった。
「おい、雑用! 次のモデルが戻ってくるぞ! 早く衣装受け取る準備しろ!」
「ちょっと柚木! ここシワになってるじゃない、アイロンかけておけって言ったでしょ!」
「す、すみません! すぐにやります!」
脱ぎ捨てられた服や靴が散乱し、スタッフたちが怒号を飛ばし合う中。
小柄な身体を縮こまらせ、頭を下げて走り回る一人の女性がいた。
柚木紬、二十六歳。
彼女は、このルミエールという大企業のヒエラルキーにおいて最底辺に位置する『契約社員のパタンナー』だった。
デザイナーが描いたデザイン画を元に、服の設計図である型紙を引き、実際に着られる服の形にする。それがパタンナーの本来の仕事だ。
しかし、この会社での紬の扱いは、完全に『代わりのきく使い走り』だった。
「お疲れ様です。衣装、お預かりしますね」
出番を終えて戻ってきたモデルから重いドレスを受け取り、紬は丁寧にハンガーにかける。
その時、モデルが脱ぎ捨てたばかりのドレスの裏側――シルクサテンの生地に、そっと指先を滑らせた。
(あ……)
その瞬間、紬の視界に、不思議な現象が起きる。
ドレスの生地の表面から、柔らかな光の粒子のようなものが、ホログラムのようにふわりと舞い上がったのだ。
『……ここ、きついよぅ。もっと右に流れたいのに……』
どこからともなく、微かな、けれど確かな『声』が聞こえた。
(ごめんね、布さん。ここ、少し引っ張られちゃってたね。痛かったよね)
紬には、幼い頃から『布の声』が聞こえた。
布が持つ感情や、繊維が自然に行きたい方向が、彼女には手に取るようにわかるのだ。
紬はエプロンのポケットから小さな携帯用ハサミと針を取り出すと、誰にも見えないほどの早業で、裏地のダーツ(絞り)の糸を数ミリだけ引き抜き、絶妙なテンションで縫い直した。
時間にして、わずか数秒の神業。
だが、それだけで布は「ふぅっ」と深い深呼吸をしたように滑らかな艶を取り戻し、モデルの動きを一切阻害しない、完璧な立体構造へと変貌した。
一般人には絶対にわからない。
いや、プロの職人ですら数時間はかかる『イセ込み』や『バイアスの調整』を、紬はまるで息をするように無自覚に行ってしまう。
「……うん。これで布さんも、着る人も、もう苦しくないね」
紬はハンガーにかけたドレスを優しく撫で、ふわりと微笑んだ。
脳裏に浮かぶのは、亡き祖母・柚木タキの姿だ。
和裁の大家だった祖母は、幼い紬を膝に乗せ、いつもこう語りかけていた。
『紬。服っていうのはね、着る人を縛り付ける鎧であっちゃいけないんだよ。その人を優しく包み込む、慈しみでなきゃいけない』
『布に触れたら、布の声を聴きなさい。そうすれば、服が勝手に、一番美しい形になりたがるからね』
麗奈が描くデザイン画は、見た目の派手さや奇抜さだけを重視した、構造的にも物理的にも破綻している欠陥品ばかりだ。
そのまま縫い合わせれば、歩くことすらできない拷問器具のような服になる。
それを、人間が快適に着られる服にまで落とし込み、歩くたびに波打つような美しいシルエットを生み出しているのは、他でもない紬の『魔法のような微調整』のおかげだった。
しかし、紬自身はそれを『特別な才能』だとは微塵も思っていない。
(私には、麗奈先生みたいな華やかなデザインを描く才能はないから……せめて、布さんたちには優しくしてあげないと)
それが、日陰のパタンナーである紬の、ささやかで純粋な『仕事』への誇りだった。
◆ ◆ ◆
「あー、疲れた!」
フィナーレを終えた麗奈が、取り巻きのスタッフたちを引き連れてバックヤードに戻ってきた。
「麗奈先生! 最高のショーでした!」
「ええ、やっぱり先生の才能は世界一ですよ。うちのブランドの宝です!」
チーフデザイナーや制作部長といった上司たちが、もみ手をして麗奈に群がり、ペコペコと頭を下げる。
麗奈はその称賛を当然のこととして鼻で笑うと、部屋の隅で衣装を畳んでいた紬に気づき、不快そうに顔を歪めた。
「ちょっと、柚木さん」
「は、はい。麗奈先生、お疲れ様でし――」
ポイッ。
麗奈はわざと、履いていたピンヒールを脱ぎ捨て、紬の足元に蹴り飛ばした。
「これ、綺麗に磨いておいて。それから、次の春夏のラフ画、明日までにパターン引いておいてよね。私のイメージを1ミリでも汚したら、即刻クビだから」
「……明日、ですか? でも、まだ今期の修正作業と、納品前のチェックが残っていて……」
「はぁ? 何それ、私に口答えする気?」
麗奈はイライラした様子でコツカツと歩み寄ると、紬が胸に大事に抱えていた私物のスケッチブックを乱暴に奪い取った。
「あ……っ! 先生、それは……!」
「何これ?」
パラパラとページを捲る麗奈。
そこには、紬が休憩時間や深夜に、趣味で描き溜めていたアイデアが詰まっていた。
締め付けのない柔らかなワンピース、端切れを組み合わせた着心地の良いルームウェア。働く女性が、家に帰ってほっと息をつけるような、優しさに溢れたデザイン。
「……ぷっ。あっはははは!」
麗奈は腹を抱えて笑い出した。
「何この地味な服! パジャマ? 貧乏人の発想ね! こんなダサい服、ルミエールの品位に関わるわ!」
「そ、それは……私が勝手に描いただけで……」
「目障りなのよ」
麗奈は冷酷な目で紬を見下ろすと、そのスケッチブックを、わざと足元の床――結露した水たまりの上にバサッと投げ捨てた。
「ああっ!」
「あら、手が滑っちゃった。ついでにこれも」
麗奈は、近くにあったスタッフの飲みかけのアイスコーヒーを手に取ると、床に落ちたスケッチブックの上にドバドバと傾けた。
濁った茶色い液体が、紬が心を込めて描いたデザインを無残に汚していく。
「あっ、あぁ……私の、スケッチ……」
「いい? 勘違いしないでよね」
麗奈は紬の耳元に顔を寄せ、毒を吐くように囁いた。
「あなたみたいな『代わりのきく端切れ』には、一生デザインの価値なんて理解できないの。あなたはただ、私が描いた素晴らしい線を、黙ってミシンで縫い合わせていればいいのよ。分かった?」
「……っ」
紬は床に膝をつき、コーヒーまみれになったスケッチブックを震える手で拾い上げた。
周囲にいる制作部長や上司たちは、誰一人として紬を庇おうとはしない。
「柚木、美神先生を怒らせるなよ」
「お前みたいな地味な契約社員は、先生の影で働けるだけでも光栄に思え。嫌ならいつでも辞めていいんだぞ?」
上司たちの冷たい言葉に、紬はただ唇を噛み締め、小さく頭を下げることしかできなかった。
「……すみません。気をつけます」
◆ ◆ ◆
深夜。
誰もいなくなったルミエール本社の制作アトリエ。
紬は一人、デスクの隅で、コーヒーの染みがついたスケッチブックを丁寧にタオルで拭いていた。
(ごめんね。汚くしちゃって……痛かったよね)
滲んでしまった鉛筆の線を指でなぞりながら、泣きそうになる心をぐっと堪える。
紬は立ち上がると、裁断室の隅に置かれた大きなゴミ箱へ向かった。
そこには、麗奈が「色が気に入らない」「こんなクズ布は使えない」と言って捨てさせた、最高級のリネンやシルクの『端切れ』が山のように捨てられている。
紬がその端切れの山に触れると、布たちは嬉しそうに柔らかな光を放ち、合唱するようにざわめいた。
『繋げて!』『私、あの子と手を繋ぎたい!』
「うん、わかったよ。今、綺麗にしてあげるからね」
紬は端切れを拾い集め、自分の古い職業用ミシンの前に座った。
ペダルを踏み込む。
ダダダダダダダッ!
心地よく、リズミカルなミシンの音が、静かな深夜のアトリエに響き渡る。
麗奈が「地味だ」と切り捨てた、スケッチブックのデザイン。
しかしそれは、現代のストレス社会で戦い、疲れ果てた女性たちが抱える『身体的・精神的な窮屈さ』を解放するための、魔法のような一着だった。
伸縮率の違う異素材の端切れを組み合わせているのに、紬の指先がテンション(張力)を完璧にコントロールすることで、縫い目は完全にフラットになる。
肌に触れてもチクチクせず、まるで空気を纏っているかのような軽さ。
(仕事って……競争して誰かに勝つことじゃない。着る人を、笑顔にすることだよね)
完成した一着をトルソー(マネキン)に着せ、紬はそっと頬ずりをした。
「……いつか、こんな服を誰かに届けて……その人が『ふふっ』て、楽な気持ちで笑ってくれたらいいな」
華やかな名声などいらない。ただ、布に触れ、誰かを癒やす服を作れればそれでいい。
紬は傷ついた心を、自らの手で生み出した『仕事』によって癒やしていた。
◆ ◆ ◆
その頃。
とうに客が引き払い、暗闇に包まれたコレクション会場のVIP席。
そこに、一人の男が静かに座り続けていた。
神宮寺煌、三十歳。
経営不振に陥ったルミエールを解体・再建するために、外資系の親会社から送り込まれた凄腕のコンサルタント。
社内では『氷の皇帝』と恐れられる彼は、誰一人として拍手を送らなかったショーの余韻の中で、手元のタブレット端末を冷徹な目で見つめていた。
「……馬鹿げている」
誰もいない空間に、低く冷たい声が響く。
「美神麗奈……デザインは三流以下の虚飾だ。機能性も、着る人間への配慮も皆無。あんなものは服ではない。ただの布のゴミだ」
神宮寺は、タブレットで先ほどのショーの録画映像を再生する。
そして、麗奈が着ていたメインドレスの『裾の動き』と『肩のライン』だけを、何度も何度もスロー再生で確認した。
「だが……」
神宮寺の鋭い眼光が、画面の中の『縫い目』を捉える。
「このパターン(設計図)を引いた人間は、間違いなく『世界一』だ」
素人目には麗奈のデザインが優れているように見えるだろう。
だが、あらゆるビジネスの「本質」を見抜く神宮寺の目にはごまかしは利かない。
あの三流の欠陥デザインを、重力や物理法則を超えた神業で『服』として成立させ、モデルの歩行をサポートしているのは、完全に計算し尽くされた裏側の裁縫技術だ。
「莫大な価値を持つ『本物の天才』が、この腐りきった会社で、泥の中に埋もれているらしい」
数字と本物しか信じない男の唇に、不敵な笑みが浮かぶ。
華やかな表舞台でふんぞり返る、無能で傲慢な偽りの女王。
そして、バックヤードで布の声を聞きながら、純粋に服を愛し続ける日陰の天才。
二人の運命を、氷の皇帝が根底からひっくり返す足音が、静かに近づいていた。




