第4話 ユウカへの純粋な執着
夜風が再び吹いて、朱花畑を揺らした。蛍の光が瞬いて、月が雲に隠れた。暗闇の中で、朱花だけが淡く発光を続けている。その光は美しいが、アキラには毒々しく見える。村民たちを蝕み続ける毒の光だった。
「ユウカ」アキラは彼女の名前を呼んだ。
「なに?」
「君の絵を見せてくれないか?新しく描いたものを」
ユウカは嬉しそうに立ち上がると、縁側の端に置いてあったスケッチブックを取ってきた。月明かりが戻ってきて、ページを照らす。
「これ、今日の朱花畑や」
ページには、朱色の色鉛筆で描かれた花の絵が広がっていた。以前の彼女の絵に比べて、明らかに朱色の使用頻度が高い。空や葉の一部までが、不自然な朱色で塗りつぶされ始めている。他の十一色は、まるで使い方を忘れたかのように、隅に追いやられていた。
以前のユウカなら、必ず緑や青や黄色を使って、豊かな色彩で風景を描いていたはずだ。空は青く、葉は緑に、太陽は黄色に塗っていた。それが彼女の絵の魅力でもあった。
「きれいやろ?最近、朱色で描くんが一番気持ちええねん。なんでか分からんけど、他の色使うと、なんかしっくりこへん」
ユウカは無邪気にページをめくる。二枚目、三枚目も同じだった。朱色の比重が日に日に増している絵。村の風景、人々の顔、動物の姿—徐々に朱い世界に変わりつつある。
「青色の色鉛筆を手に取ると、なんか気持ち悪うなるねん。緑色もそう。朱色だけが、なんか安心できる色なんや」
アキラの胸を冷たい何かが貫いた。色彩感覚の偏向。脳内でアカニンが神経回路を侵し、彼女の世界から色を奪っていく光景が、アキラには匂いとして感じられた。それは彼女の薄紫の匂いが、じりじりと朱色に侵食されていく、腐食の匂いだった。このままでは、やがて朱色以外の色が全く見えなくなってしまう。
「とても美しい絵だね」アキラは震え声で答えた。嘘だった。確かに技術的には優れているが、色彩の単調さが彼の心を暗くする。ユウカの個性が、徐々に失われていく証拠でもあった。
「やろ?明日もまた描くつもりや。朱色だけで、いろんなもの描いてみたいねん」
その無邪気な笑顔が、アキラの心をさらに苦しめた。ユウカは自分の症状に全く気づいていない。彼女にとっては、朱色への執着は自然な変化でしかない。むしろ、この変化を肯定的に受け入れている。
「アキラ、どないしたん?また顔色悪いで」
「いや、何でもない」アキラは慌てて微笑んだ。「少し疲れているだけだ」
しかし、心の中では様々な思いが渦巻いていた。どうすればユウカを救えるのか。この村の異常な状況から、彼女だけでも守る方法はないのか。監督官に相談しても無駄だろう。むしろ、ユウカの症状進行を報告すれば、彼女が隔離されてしまう可能性もある。
ユウカはアキラの手を取った。彼女の手は温かく、柔らかい。しかし、その手からもアカニンの匂いがかすかに立ち上ってくる。皮膚から分泌される微量のアカニンを、アキラの敏感な嗅覚は見逃さなかった。
「あんまり無理したらあかんで。アキラは優しすぎるから、一人で抱え込んでしまうねん」
ユウカの言葉が、アキラの心臓を直接掴んだ。この温もりを失うわけにはいかない。彼女は、この色彩のない狂った村で、彼が唯一認識できる「色」そのものだった。彼女を失うことは、自分の世界が完全にモノクロになることを意味した。
「君も気をつけて」アキラは彼女の手を握り返した。「何か変わったことがあったら、すぐに僕に言ってくれ」
「うん、分かった」
夜が更けて、村の消灯時間が近づいていた。遠くから、宗像監督官の声で就寝の合図が聞こえてくる。村民は午後十時には就寝しなければならない。規則を破れば罰則がある。
「そろそろ帰らないと」アキラが立ち上がろうとすると、ユウカが彼の袖を引いた。
「もうちょっとだけ」
「だめだ。規則を破ったら、また宗像監督官に呼び出される」
アキラは立ち上がったが、ユウカから離れがたい気持ちがあった。明日になれば、彼女の症状はさらに進行しているかもしれない。今夜が、まともに会話できる最後の夜になるかもしれない。
「分かった」ユウカは渋々立ち上がった。「また明日も会えるやんな?」
「もちろんだ」
アキラはユウカの頬に軽くキスをした。彼女の肌からは、相変わらず薄紫の匂いがする。しかし、その中に混じった朱色の匂いは、確実に濃くなっている。明日には、もっと濃くなっているだろう。
「おやすみ、ユウカ」
「おやすみ、アキラ」
アキラは振り返ることなく、夜道を歩いて家に向かった。彼の心に宿ったのは、決意というよりも、もはや本能に近い衝動だった。ユウカを救うためなら、何でもする。村の掟を破ることも、宗像監督官と対立することも、この村を出ることも—何でもする覚悟だった。
翌朝、アキラが目を覚ました時、その変化は確信に変わっていた。ユウカから流れてくる匂いの中で、朱色の成分が確実に増している。時間は残されていない。彼女を救うために、アキラは行動を起こさなければならなかった。# 『花喰みの民』第1章第4節:ユウカへの純粋な執着
夜の帳が降りた朱花園村で、玖珂アキラは月明かりに照らされた小径を歩いていた。午後九時を回り、村の消灯時間まではあと一時間。昼間の蒸し暑さが嘘のように、夜風は涼しく頬を撫でていく。しかし、その風に乗って運ばれてくる朱花の匂いは、昼間と変わらず金属的な甘さを含んでいる。通常の夜間濃度は0.1ppmのはずなのに、今夜は0.15ppmまで上昇している。微細な濃度の変化も、アキラの千倍敏感な嗅覚にははっきりと分かる。
村の南端に向かう石畳の道は、両側を朱花に挟まれている。月明かりに照らされた朱い花弁が幻想的に光る光景は、確かに美しい。しかし、アキラには美しさよりも、花々から立ち上る有毒な匂いの方が強く感じられる。鼻を軽く覆いながら、彼はユウカの家へと向かった。
道すがら、アキラは昼間の出来事を反芻していた。朝の儀式での恩田タケシの光化現象、自分だけが感じた激しい不快感、村民たちの恍惚とした表情。そして何より、宗像監督官との面談で感じた圧迫感。監督官の灰色の匂い—古い書類と朱肉が混じったような官僚的な匂いに、権威への固執と深い不安が混在していた。
「神聖な儀式を汚すな」
監督官の言葉が、まだ耳に残っている。しかし、アキラにとって朝の儀式は神聖どころか、毒ガスを吸わされる拷問に等しかった。なぜ自分だけが、この村の「美しさ」を感じることができないのか。
彼女の家は村の南端にある築百年を超える古い農家で、茅葺き屋根と太い梁が歴史を物語っている。母屋の縁側は南向きに設えられ、そこからは村全体を見渡すことができる。朱花畑が月明かりに照らされて、まるで朱い絨毯を敷き詰めたように広がっている。遠くには中央広場の石碑も見え、昼間八百名の村民が同心円状に並んだ光景が蘇る。
アキラが縁側に近づくと、ユウカは既にそこに座って、月明かりの下で朱花畑を眺めていた。彼女は膝を抱えるように座り、十二色の色鉛筆セットを大切そうに胸に抱いている。その横顔は月光に照らされて、普段よりも大人びて見える。
「遅かったやん」
ユウカが振り返ると、彼女の薄紫の匂い—バニラの甘さとキンモクセイの上品な香りが混じった透明な匂いが、朱花の金属臭を打ち消すようにアキラを包んだ。この匂いを嗅ぐと、アキラの心は自然と安らぎを覚える。村で唯一、彼を苦しめない匂いだった。それどころか、ユウカの匂いは彼の嗅覚に安息をもたらす、まるで清浄な湧き水のような存在だった。
「ごめん。宗像監督官に呼び出されてたんだ」
アキラは草履を脱いで縁側に腰を下ろし、ユウカの隣に座った。月明かりが彼女の横顔を柔らかく照らしている。肩まで伸びた黒髪が夜風に軽やかに揺れ、白いブラウスが月光を反射して淡く光っている。
朱花畑の向こうでは、蛍がぽつぽつと光を点滅させていた。自然の蛍の優しい黄緑の光と、朱花の人工的で冷たい朱の発光が、奇妙な対比を見せている。蛍の光は温かく、見る者の心を和ませる。しかし朱花の光は美しくはあるが、どこか生命感に欠ける、機械的な光だった。
「また説教やったん?」ユウカが心配そうに尋ねる。関西弁の柔らかい音調が、夜の静寂に溶けていく。
「まあ、そんなところかな」アキラは曖昧に答えた。「朱花の恵みに感謝して、もっと積極的に儀式に参加しろって。村の調和を乱すなって」
監督官との面談の詳細は話せなかった。あの圧迫的な雰囲気、権威を振りかざす態度、そして何より、監督官の匂いに含まれていた不安の成分。まるで彼自身も、何かに追い詰められているかのような匂いだった。
ユウカは小さくため息をついた。「アキラは昔から、みんなと違う子やったもんなぁ。小学校の時も、みんなが朱花の絵を描いてる時に、一人だけ青い空とか緑の草とか描いてたやん」
「覚えてるのか」
「当たり前や。あの時、先生がアキラを叱って、『なんで朱花を描かへんのや』って言ったやろ。でも、アキラは『空は青いものだから』って答えてた。それがアキラの良いところやと思う」
その思い出は、アキラにとって苦い記憶だった。他の子供たちが朱い花を描いている中で、自分だけが違う色を使っていた。教師に叱られ、級友たちから奇異の目で見られた。しかし、ユウカだけは理解してくれていた。
その時、夜風が強く吹いて、朱花畑の花々が一斉に揺れた。月明かりに照らされた朱い花弁が波のように揺らめく光景は、確かに美しい。村民たちが「神々しい」と称える理由も分からなくはない。しかし、アキラには風と共に運ばれてくるアカニンの濃度の上昇が分かる。通常の夜間濃度0.1ppmから、0.15ppmへと微細に上昇している。さらに、風向きが変わって濃度が0.2ppmまで跳ね上がった瞬間、アキラは軽い頭痛を感じた。
「ねえ、アキラ」
ユウカが突然、真剣な表情で振り返った。月明かりが彼女の瞳を照らし、普段より深い色に見える。黒い瞳の奥に、何か言いようのない不安が宿っているように見えた。
「私ら、ずっと一緒におれるかなぁ?」
その言葉に、アキラの胸が締め付けられた。ユウカの声には、普段の明るさの奥に、何か得体の知れない不安が潜んでいる。彼女自身も気づいていない、潜在的な恐怖。それは彼女の匂いにも現れていた。薄紫の清浄な匂いの中に、ほんの僅かだが黄色い匂い—酸っぱい汗のような不安の匂いが混じっている。
「もちろんだ」アキラは迷わず答えた。「君を守るよ、何があっても」
その言葉に、ユウカの表情が少し明るくなった。しかし、すぐにまた不安そうな表情に戻る。
「でも最近、なんか変なんや」ユウカは膝を抱えた腕に顔を埋めた。「朝起きた時に、昨日のことが思い出せへんことがあるねん。昨日の夕飯、何食べたっけ?って思っても、全然思い出せへん」
アキラの心に警報が鳴った。記憶の断片化—それはアカニン中毒の初期症状の一つだ。軽度中毒では、まず短期記憶から影響が現れる。特に、日常的な出来事の記憶が曖昧になりやすい。ユウカの症状は既に始まっているのだ。
「それだけやない」ユウカは続けた。「絵を描いてる時も、なんか変な感じやねん。前はいろんな色を使うのが楽しかったのに、最近は朱色以外の色を使いたくなくなってきた。青色の色鉛筆を手に取ると、なんかゾワゾワするねん」
色彩感覚の偏向。アキラの恐怖はさらに深まった。ユウカの症状は、彼が思っているよりもずっと進行している。中度のアカニン中毒では、特定の色彩への異常な執着が現れる。そして最終的には、朱色以外の色が識別できなくなってしまう。
「大丈夫だよ」アキラは慌てて答えた。しかし、自分の声が上ずっていることに気づく。「誰でも、些細なことは忘れるものだ。絵の好みだって、変わることはある」
「そうかなぁ」ユウカは不安そうに呟いた。「でも、なんか自分が自分やなくなっていくような気がして...」
その時、アキラの敏感な嗅覚が捉えたのは、ユウカの匂いの微細な変化だった。薄紫の匂いに、ほんの少しだけ朱色が混じり始めている。それは金属的な甘さを含んだ、アカニンの匂いだった。濃度はまだ低いが、確実に彼女の体内に蓄積されている証拠だった。
恐怖がアキラの背筋を駆け上がる。ユウカの症状は確実に進行している。このままでは、彼女も他の村民と同じように、色彩感覚を失い、記憶を失い、最終的には人格そのものを失ってしまう。最悪の場合、恩田タケシのように光化現象を起こして消失してしまうかもしれない。
「アキラ?」
ユウカがアキラの顔を覗き込む。彼の表情が急に険しくなったことに気づいたのだ。月明かりの下で、アキラの顔は青白く見える。
「なんでもない」アキラは努めて穏やかな声で答えた。「少し考え事をしていただけだ」
しかし、心の中では激しい感情が渦巻いていた。この人だけは失いたくない。絶対に失ってはならない。ユウカは自分にとって、この異常な村で唯一の安らぎであり、希望であり、そして愛の対象だった。
「もちろんだ」アキラは今度ははっきりとした声で答えた。「君を守るよ、何があっても」
その言葉に、ユウカの表情が明るくなった。不安に曇っていた瞳に、安堵の光が宿る。
「ありがとう。アキラがおったら、なんも怖いことないわ」
彼女はアキラの腕に軽く寄りかかった。その瞬間、アキラの心に強い決意が芽生えた。この人だけは、絶対に失いたくない。村の誰を失うことになっても、ユウカだけは守り抜かなければならない。たとえ村全体を敵に回すことになっても、たとえ外界に逃げ出すことになっても、彼女だけは救わなければならない。
夜風が再び吹いて、朱花畑を揺らした。蛍の光が瞬いて、月が雲に隠れた。暗闇の中で、朱花だけが淡く発光を続けている。
「ユウカ」アキラは彼女の名前を呼んだ。
「なに?」
「君の絵を見せてくれないか?新しく描いたものを」
ユウカは嬉しそうに立ち上がると、縁側の端に置いてあったスケッチブックを取ってきた。月明かりが戻ってきて、ページを照らす。
「これ、今日の朱花畑や」
ページには、朱色の色鉛筆で描かれた花の絵が広がっていた。他の十一色はほとんど使われていない。以前のユウカなら、必ず緑や青や黄色を使って、豊かな色彩で風景を描いていたはずだ。
「きれいやろ?最近、朱色で描くんが一番気持ちええねん。なんでか分からんけど、他の色使うと、なんかしっくりこへん」
アキラの胸に、深い絶望が広がった。ユウカの症状は想像以上に進行している。色彩感覚の偏向—それは中度のアカニン中毒の症状だ。彼女の脳内では、既にアカニンが正常な知覚を歪め始めている。
「とても美しい絵だね」アキラは震え声で答えた。
「やろ?明日もまた描くつもりや。朱色だけで、いろんなもの描いてみたいねん」
その無邪気な笑顔が、アキラの心をさらに苦しめた。ユウカは自分の症状に全く気づいていない。彼女にとっては、朱色への執着は自然な変化でしかない。
「アキラ、どないしたん?また顔色悪いで」
「いや、何でもない」アキラは慌てて微笑んだ。「少し疲れているだけだ」
ユウカはアキラの手を取った。彼女の手は温かく、柔らかい。
「あんまり無理したらあかんで。アキラは優しすぎるから、一人で抱え込んでしまうねん」
その優しさが、アキラの決意をさらに固めた。この人を失うわけにはいかない。どんな犠牲を払ってでも、ユウカを救わなければならない。
「君も気をつけて」アキラは彼女の手を握り返した。「何か変わったことがあったら、すぐに僕に言ってくれ」
「うん、分かった」
夜が更けて、村の消灯時間が近づいていた。遠くから、宗像監督官の声で就寝の合図が聞こえてくる。
「そろそろ帰らないと」アキラが立ち上がろうとすると、ユウカが彼の袖を引いた。
「もうちょっとだけ」
「だめだ。規則を破ったら、また宗像監督官に呼び出される」
「分かった」ユウカは渋々立ち上がった。「また明日も会えるやんな?」
「もちろんだ」
アキラはユウカの頬に軽くキスをした。彼女の肌からは、相変わらず薄紫の匂いがする。しかし、その中に混じった朱色の匂いは、確実に濃くなっている。
「おやすみ、ユウカ」
「おやすみ、アキラ」
アキラは振り返ることなく、夜道を歩いて家に向かった。しかし、彼の心は既に決まっていた。ユウカを救うためなら、何でもする。村の掟を破ることも、宗像監督官と対立することも、この村を出ることも—何でもする覚悟だった。
家に帰り着いたアキラは、祖父の書斎に向かった。古い書籍に囲まれた六畳間で、彼は祖父の遺した日記を取り出した。朱花とアカニンについて、何か手がかりがあるかもしれない。
夜中の二時を過ぎても、アキラは調べ物を続けた。ユウカの症状進行を止める方法を、必ず見つけ出さなければならない。月明かりが書斎の窓から差し込み、古い頁を照らしている。
その時、かすかに風が吹いて、窓の外から朱花の匂いが流れ込んできた。いつもよりも濃い、金属的な匂い。アキラは鼻を覆いながら、ユウカの顔を思い浮かべた。
「必ず君を救う」アキラは小さく呟いた。「どんな代償を払ってでも」
その誓いは、やがて彼を取り返しのつかない選択へと導くことになる。しかし、この時のアキラにそれを知る由はなかった。彼の心にあるのは、ただユウカへの純粋な愛情と、彼女を救いたいという強い意志だけだった。
翌朝、アキラが目を覚ました時、その変化は確信に変わっていた。ユウカから流れてくる匂いの中で、朱色の成分が確実に増している。時間は残されていない。彼女を救うために、アキラは行動を起こさなければならなかった。