3 個人的世界観の形成
夕暮れが近づく中、アキラは一人で村の図書館に向かっていた。午後四時、西日が朱花園を照らし、村全体を朱色に染めている。しかし、図書館だけは朱花の影響が比較的少ない場所だった。古い煉瓦造りの建物で、朱花園から最も離れた位置にある。
図書館の扉を開けると、古い紙とインクの匂いが鼻腔を満たす。ホコリっぽいが、どこか懐かしい香り。朱花の金属的な甘さとは対照的な、自然で穏やかな匂いだった。
司書の田中ハナ(五十八歳)が受付にいる。彼女からは、薄い緑の匂い—古い本と緑茶を混ぜたような、知的で落ち着いた匂いが立ち上っている。しかし、その中にも朱色の要素が混じっている。約15%程度。村民としては比較的少ない方だが、それでも確実に影響を受けている。
「こんにちは、アキラくん。今日は珍しいですね」
ハナの声は穏やかだった。しかし、アキラの超嗅覚は、彼女の匂いに微かな警戒心が混じっているのを感じ取る。朝の儀式での一件が、既に村中に知れ渡っているのかもしれない。
「こんにちは。少し調べ物があって」
「どのような資料をお探しですか?」
アキラは慎重に答える。
「村の歴史について。特に、朱花が導入される前のことを知りたくて」
その瞬間、ハナの匂いが微妙に変化した。薄い緑の中に、黄色い困惑と灰色の不安が混じる。彼女は何かを知っているが、それを隠そうとしている。
「朱花が導入される前?」
ハナは眉をひそめる。
「アキラくん、朱花は昔からこの村にあるものですよ。私が子供の頃から、ずっと」
記憶の改変。または、意図的な隠蔽。ハナの匂いを詳しく分析すると、嘘をついている時の化学的変化が現れている。しかし、その嘘は悪意によるものではなく、何らかの理由で真実を話せない状況にあることを示している。
「そうですか。でも、もしかしたら、昔の資料に何か記録があるかもしれません」
「昔の資料...」
ハナは迷っているような表情を見せる。その匂いに、相反する感情が入り混じっている。アキラを助けたい気持ちと、何かを隠さなければならない義務感の板挟みになっている。
「奥の書庫に、古い資料があります。でも、あまり整理されていないので...」
彼女はアキラを書庫に案内する。古い木製の棚が並び、黄ばんだ書類や古書が積まれている。朱花の匂いはここまで届いていない。アキラは久しぶりに、完全に清浄な空気を吸うことができた。
「この辺りに、村の古い記録があります。役に立つかどうか分かりませんが」
ハナが去った後、アキラは一人で資料を漁り始める。ほとんどの資料は朱花導入後のものだった。朱花の栽培記録、収穫量、村民の健康状態。しかし、それらの資料には不自然な点があった。
健康状態の記録を見ると、朱花導入後に村民の病気が激減している。風邪、頭痛、胃腸の不調—一般的な疾患がほぼゼロになっている。一見すると朗報だが、アキラには別の解釈ができた。
病気が治ったのではなく、病気を病気として認識しなくなったのだ。朱花の影響で感覚が麻痺し、体調不良を感じなくなっている。それが健康状態の改善として記録されている。
さらに資料を調べると、もう一つの不自然な点に気づく。人口の変化だ。朱花導入前の村の人口は約千二百人だった。しかし、現在は八百人。四百人も減っている。
しかし、死亡記録は異常に少ない。年間の死亡者数は、統計的に予想される数値を大幅に下回っている。まるで誰も死んでいないかのような記録だった。
アキラは戦慄する。恩田タケシのように、光化現象で消失した人々は死亡として記録されていないのだ。「より高次の存在への昇華」として扱われ、統計から除外されている。
奥の棚で、一冊の古い日記を見つける。表紙は色褪せ、ページは黄ばんでいるが、朱花導入前の記述が含まれている可能性がある。
日記の最初のページを開くと、達筆な毛筆で書かれた文字が目に入る。
『昭和二十八年 村長 石井太郎 記』
朱花導入は五十年前、つまり昭和四十八年頃のはずだ。この日記は、それより前の記録である可能性が高い。
ページをめくっていくと、朱花導入前の村の様子が描かれている。
『本日、村民総会にて新たな農業計画について討議。従来の米作中心から、花卉栽培への転換を検討。政府の研究機関より、新種の花の栽培を打診される。高い収益性と、村民の健康増進効果があるとのこと』
政府の研究機関。アキラは息を呑む。朱花は自然に発生したものではなく、人工的に開発されたものだったのか。
さらにページをめくる。
『新種の花、通称「朱花」の試験栽培を開始。政府の技術者が常駐し、指導にあたる。花の美しさは確かに素晴らしく、村民からも好評。しかし、一部の村民から体調不良の訴えがある。研究機関は「適応期間中の一時的な症状」と説明』
体調不良の訴え。それは朱花への拒絶反応だったのかもしれない。アキラの祖父のような、朱花に適応できない人々がいたのだ。
日記は続く。
『朱花の本格栽培開始から六か月。村の様子が大きく変わった。村民の争いが減り、犯罪もなくなった。一見すると理想的な状況だが、何か違和感を覚える。みんなが同じような表情をし、同じような言葉を話すようになった。個性が失われているような気がしてならない』
石井村長も異常を感じていたのだ。しかし、その後の記述は突然変わる。
『朱花の素晴らしさを理解できなかった自分を恥じる。この美しい花は、我々に真の平和をもたらしてくれた。争いのない、美しい村。これこそが理想の姿である』
文体が変わっている。それまでの冷静で分析的な記述から、感情的で一方的な讃美に変化している。石井村長も朱花の影響を受けたのだ。
最後のページには、震える文字でこう記されていた。
『私は間違っていた。朱花に反対する者たちも間違っていた。美しいものは美しい。それを認められない者は、この村にいる資格がない。彼らには、朱花の真の美しさを教えてやらなければならない』
アキラの背筋に冷たいものが走る。朱花に反対する者たち。彼らはどうなったのか。「朱花の真の美しさを教えてやる」とは、どういう意味なのか。
日記を閉じると、書庫の奥からかすかに声が聞こえる。アキラは耳を澄ませる。
「...資料を見せるべきではなかった...」
ハナの声だった。誰かと電話で話している。
「...はい、監督官様。アキラくんが古い資料を調べています...」
監督官に報告している。アキラは急いで日記を元の場所に戻し、別の資料を手に取る。
「...承知いたしました。すぐに対処します」
電話が終わる音が聞こえる。ハナの足音が近づいてくる。
「アキラくん、何か見つかりましたか?」
ハナが戻ってきた。しかし、その匂いが先ほどと変わっている。薄い緑の中に、赤い緊張と灰色の不安が強く混じっている。
「いえ、特に」
アキラは平静を装う。
「そうですか。実は、もうすぐ閉館時間なので...」
まだ午後五時だが、ハナは明らかにアキラを帰らせようとしている。
「分かりました。ありがとうございました」
アキラは図書館を後にする。しかし、石井村長の日記で得た情報は、彼の世界観を大きく変えていた。
朱花は自然の産物ではない。政府の研究機関が開発した人工的な花。そして、この村は実験場なのだ。五十年間続く、人体実験の場。
村の平和は、個性と自由意志を奪うことで実現されたもの。争いがないのは、争う意志を失ったから。犯罪がないのは、善悪の判断能力を失ったから。
そして、朱花に適応できない者たちは、排除される。消去される。恩田タケシのように、光化現象で消失させられる。
村の中を歩きながら、アキラは新たな視点で周囲を観察する。商店街では、店主たちが朱花関連の商品を並べている。彼らの表情は穏やかだが、どこか空虚だった。感情の起伏がない。機械的な笑顔。
学校では、子供たちが朱花を讃える歌を歌っている。彼らの声は美しく調和しているが、個性がない。まるで同じ金型で作られた人形のような均質さがあった。
役場では、職員たちが黙々と事務作業をこなしている。効率的で規律正しいが、創造性や主体性が感じられない。与えられた仕事を機械的にこなしているだけ。
すべてが完璧に管理された社会。しかし、その完璧さは人間性を犠牲にして得られたものだった。
家に帰る途中、ユウカの家の前を通りかかる。窓から彼女の姿が見える。スケッチブックに向かって、朱色の絵を描いている。その表情は集中しているが、どこか恍惚としている。まるで朱色に魅入られているかのような。
アキラは立ち止まる。愛する人も、この異常な社会の一部になりつつある。彼女の個性、彼女らしさが失われていく。それを阻止するには、どうすればいいのか。
祖父の声が頭に響く。『お前の特殊な嗅覚は贈り物だ。真実を見抜き、この村を救ってくれる』
祖父も朱花の犠牲になったのかもしれない。しかし、その前に何らかの手を打っていた。アキラに超嗅覚という能力を与え、真実を見抜く力を託していた。
しかし、村を救うということは、現在の平和を破壊することを意味する。争いのない社会を、争いのある社会に戻すこと。秩序を混乱に変えること。それは正しいことなのか。
アキラは迷う。現在の村は確かに異常だが、平和でもある。犯罪もなく、争いもない。村民たちは幸せそうに見える。それを破壊する権利が、自分にあるのだろうか。
しかし、ユウカの顔を思い浮かべると、迷いは消える。彼女の本当の笑顔、彼女らしい関西弁、彼女独特の薄紫の匂い。それらが失われることは耐えられない。
たとえ村全体を敵に回すことになろうとも、ユウカを守る。彼女の個性を守る。彼女らしさを守る。
その決意を胸に、アキラは家路を急ぐ。夜が近づき、朱花の光が一層強くなっている。村全体が朱色の幻想に包まれる中、アキラだけが現実を見つめ続けていた。
家に着くと、アキラは自分の部屋に籠もる。石井村長の日記で得た情報を整理し、今後の行動計画を考える必要があった。
朱花は政府の研究機関が開発したもの。この村は実験場。そして、実験の目的は何なのか。完全に管理された社会の実現? 人間の個性や自由意志を排除した、理想的な共同体の創造?
もしそうだとすれば、この実験は成功しつつある。村は平和で秩序正しく、犯罪もなく争いもない。経済的にも安定している。統計的には理想的な社会と言えるだろう。
しかし、その代償として人間性が失われている。個性、創造性、自由意志、感情の豊かさ。人間らしさのすべてが犠牲になっている。
アキラは窓から朱花園を見つめる。五万株の朱花が夜の闇の中で光っている。美しい光景だった。しかし、その美しさの正体を知った今、彼には悪魔の庭園にしか見えない。
ノートに書き始める。
『朱花の真実』
『1.朱花は政府研究機関が開発した人工植物』
『2.アカニン(C₂₁H₂₅NO₄)という化学物質を分泌』
『3.この村は人体実験場(期間:約50年)』
『4.実験目的:管理社会の実現』
『5.副作用:個性の消失、記憶の改変、最終的に光化現象で消失』
書きながら、アキラは新たな疑問を抱く。なぜ自分だけが朱花の影響を受けないのか。超嗅覚という能力があるからか。それとも、遺伝的な要因があるのか。
祖父の日記を思い出す。祖父も朱花に反対していた。そして、アキラに何らかの対策を施していた。遺伝子操作? 薬物投与? それとも、精神的な訓練?
詳細は分からないが、祖父がアキラを朱花の影響から守るために何かをしていたことは確かだった。そして、その保護が今も効いている。
しかし、その保護がいつまで続くかは不明だった。朱花の影響は徐々に強くなっている。アキラでさえ、完全には免疫ではない。長期間露出し続ければ、いずれは影響を受けるかもしれない。
時間は限られている。ユウカを救い、村の真実を暴露し、この異常な実験を停止させるまでの時間が。
深夜、朱花の光が最も強くなる時間帯に、アキラは重要な決意を固める。
明日から、本格的な調査を開始する。朱花の秘密を完全に解明し、対抗手段を見つける。そして、ユウカを朱花の影響から解放する。
それがどれほど困難で危険な道のりであろうとも、愛する人を守るためなら、何でもする。
個人的な愛情が、やがて村全体を巻き込む巨大な戦いへと発展していくことを、この時のアキラはまだ知らない。純粋な愛が独善的な使命感に変わり、正義という名の暴走を始めることも。
しかし今は、ただユウカを守りたいという純粋な想いだけがあった。その想いが、彼の世界観を形成し、今後の行動の原動力となる。
朱花の光に包まれた村で、一人の青年が新たな戦いの準備を始めていた。愛する人を守るという、個人的で切実な動機を胸に秘めて。
夜が更けるにつれて、朱花の光は一層強くなる。しかし、アキラの心には、朱花に対抗する新たな光が灯っていた。真実を知った者だけが持つ、強く熱い意志の光が。
それは希望の光でもあり、同時に危険な炎でもあった。愛という名の執着が、いずれどこまで燃え広がるのか、誰にも予想できなかった。