2 権威と伝統への身体的拒絶
朱花の金属的な匂いから解放された小川沿いでは、ようやく正常な空気が吸えた。村はずれを流れる幅三メートルの清流は、朱花の影響を受けていない数少ない場所の一つだった。午前九時、儀式が終了してから二時間半後、アキラとユウカは川岸の平たい石の上に腰を下ろしていた。
涼しい風が頬を撫でていく。鳥のさえずりが聞こえ、川のせせらぎが心を落ち着かせる。ここだけは正常な自然の匂いに満ちていた。青い空の匂い、緑の草の匂い、清涼な水の匂い。アキラの嗅覚に、ようやく安息が訪れる。
朱花園からの距離は約二キロメートル。この距離であれば、アカニンの濃度は通常レベルの0.001ppm以下まで下がる。アキラの超嗅覚でも、ここでは朱花の影響をほとんど感じない。
しかし、完全に解放されたわけではなかった。恩田タケシの光化現象の衝撃が、まだアキラの心に重くのしかかっている。あの美しい死の瞬間。村民たちの純粋な讃美。そして、その真実を知覚できるのは自分だけという孤独感。
ユウカが心配そうにアキラを見つめている。
「アキラ、さっきの儀式、また気分悪そうやったなぁ。あの花の匂い、ほんまに苦手なんやね」
彼女の薄紫の匂い—バニラとキンモクセイの混合—が微風に乗って届く。しかし、朱花園を離れても、その匂いに含まれる朱色の要素は消えていない。むしろ、清浄な環境で分析すると、朱色の混入がより明確に感じ取れる。約2.3%の朱色要素が、彼女の本来の匂いを変質させ始めている。
この数値は、昨日の朝の時点では0.1%だった。わずか一日で、症状が急激に進行している。
「ユウカには分からないかもしれないけど、あの匂いは...普通じゃない。みんなが『美しい』って言うけど、僕には毒の匂いがする」
ユウカは眉をひそめる。困惑と軽い苛立ちが混じった表情。
「毒?そんなアホな。村のみんなで何十年も大事に育ててきた花やで。毒やったら、とっくに誰か死んでるやろ」
誰かが死んでいる。今朝、目の前で恩田タケシが死んだ。しかし、それを説明することはできない。村民たちにとって、あれは美しい昇華の瞬間だった。死ではなく、より高次の存在への変容として受け入れられている。
アキラは言葉に詰まる。真実を話したところで、ユウカには理解してもらえないだろう。彼女の認識能力も、既に朱花の影響を受け始めている。
「でも、僕には本当に毒の匂いがするんだ。体調が悪くなる」
「アキラだけやね、そんなこと言うの。みんな朱花大好きやのに」
みんな朱花大好き。その言葉に、アキラは深い孤独感を覚える。村民全員が朱花を愛し、朱花を神聖視している。その中で、自分だけが異常を感じている。
ユウカがスケッチブックを開いて見せる。
「ほら、この朱色。十二色の中でも一番好きな色や。なんでか分からんけど、描いてると幸せな気分になるねん」
アキラは絶句した。ページいっぱいに朱色で描かれた花の絵が広がっている。他の十一色—青、緑、黄、橙、紫、茶、黒、白、桃、灰、水色—はほとんど使われていない。朱色だけが異常なまでに多用されている。
それは明らかに症状の進行を示していた。色彩感覚の変化。朱色への病的な執着。アキラの知識では、アカニン中毒の典型的な初期症状だった。しかも、絵の中の朱色は単調ではない。微妙な濃淡の違いで複雑な模様を描いている。これは症状が単純な感覚鈍麻ではなく、朱色に対する異常な感受性の亢進であることを示している。
「ユウカ、他の色は使わないの?」
「使うで。でも、なんか朱色が一番しっくりくるねん。見てるだけで、心が穏やかになるような気がして」
心が穏やかになる。それは朱色、すなわちアカニンが脳内の神経伝達物質に作用していることを意味している。セロトニンやドーパミンの分泌バランスが変化し、朱色への依存性が形成されている。
「最近、他の色がぼんやり見えることない?」
アキラは慎重に質問する。
「ぼんやり?」
ユウカは首を傾げる。
「んー、言われてみれば、青とか緑とか、前ほどはっきり見えへんかも。でも、朱色はすっごく鮮やかに見える。なんでやろ?」
完全に症状が進行している。色彩識別能力の選択的変化。朱色以外の色に対する感受性が低下し、朱色のみが異常に鮮明に知覚される状態。
川のせせらぎが続く中、二人は暫く無言で座っていた。アキラは必死に考えを巡らせる。ユウカを朱花の影響から守る方法はないのか。村を出ることはできないのか。しかし、境界線を越えることは禁じられている。
「アキラ」
ユウカが振り返る。
「私、時々変な夢見るねん。朱色の海の中を泳いでる夢。すごく気持ちよくて、目が覚めるのが嫌になる」
アキラの背筋に冷たいものが走る。それは夢ではない。意識の深層で起こっている変化の兆候だった。アカニンが神経系統に作用し、色彩認識と感情制御に影響を与え始めている証拠。
「ユウカ、その夢はいつ頃から見るようになった?」
「んー、二週間くらい前からかな。最初はぼんやりしてたけど、最近はすごく鮮明になってきた。朱色がきれいで、その中にいると全部忘れられるねん」
二週間前。それは朱花の開花が最盛期に入った時期と一致している。アカニンの放出量が増加し、村全体の濃度が上昇した時期だった。そして、恩田タケシの症状が顕著になり始めた時期でもある。
「全部忘れられるって、何を?」
「うーん、嫌なこととか、心配事とか。朱色の海の中にいると、そんなのどうでもよくなるねん。すっごく平和な気持ちになる」
感情の平板化。これも中毒症状の特徴だった。悩みや不安といった負の感情だけでなく、喜びや驚きといった正の感情も次第に失われていく。最終的には、朱色への陶酔以外の感情を失う。
アキラは拳を握り締める。愛する人が目の前で変化していく。それなのに、自分にはそれを止める力がない。この村の誰も、朱花を疑問視しない。宗像監督官も、村の長老たちも、皆が朱花を神聖視している。
「アキラ、どないしたん?顔色またおかしなってるで」
ユウカの心配そうな声に、アキラは我に返る。
「ごめん。考え事をしてた」
「なんか深刻な顔してたで。私に言えんような悩み事?」
アキラは首を振る。
「そんなことない。ユウカが一番大切だ」
その言葉は偽りではなかった。しかし、その大切な人を守る術が見つからないのが辛い。
小川の向こう側から、重い足音が聞こえてくる。アキラの嗅覚が、接近する人物の匂いを捉える。灰色の匂い—権威と不安が混在した、宗像監督官の匂いだった。
「玖珂アキラ、そこにいるのか」
二人は振り返る。監督官が川岸に立っている。神道装束から普段着に着替えているが、威圧的な雰囲気は変わらない。その灰色の匂いに、苛立ちが強く混じっている。
「監督官様」
アキラは立ち上がって頭を下げる。ユウカも同様に礼をする。
「朝の儀式での君の態度は看過できない。村の秩序を乱す行為だ」
監督官の匂いを詳しく分析すると、権威への固執だけでなく、深い不安も混在している。何かを隠そうとする焦り。アキラの行動が、何らかの計画に支障をきたしているのかもしれない。
「申し訳ありませんでした」
「朱花は我々の村の象徴だ。その美しさを理解できないということは、村民としての資質に欠けるということだ」
監督官の言葉は威圧的だったが、アキラには別の意味に聞こえた。「朱花を疑うな」「異常を感じるな」「従順であれ」という命令。
しかし、その命令の裏に隠された恐怖も感じ取れる。監督官は何かを知っている。朱花の真実を。そして、その真実が暴露されることを恐れている。
「監督官様、恩田タケシさんは...」
アキラが口を開きかけると、監督官の表情が急変した。
「タケシのことか?彼は朱花と一つになり、より高次の存在になられた。それは我々にとって最高の栄誉だ」
より高次の存在。アキラには、その言葉の欺瞞が痛いほど分かる。タケシは死んだのだ。朱花に殺されたのだ。しかし、監督官はそれを美化し、神秘化している。
「はい」
表面上は従順を装いながら、アキラは内心で反発していた。美しさの定義を他人に押し付けられることの理不尽さ。自分の感覚を否定されることの屈辱。
「ユウカ」
監督官がユウカに視線を向ける。
「君は朱花の美しさを理解している。アキラにも教えてやってくれ」
「はい、監督官様」
ユウカは素直に答える。しかし、アキラには彼女の匂いに微妙な変化が感じられた。薄紫の中の朱色の要素が、監督官の言葉に反応して濃くなっている。権威への服従反応が、朱花への依存を強化している。
監督官の匂いをより詳しく分析すると、複雑な感情の層が見えてくる。表面的な権威の匂いの下に、息子タロウへの愛情と心配が隠されている。そして、その更に奥に、深い罪悪感が潜んでいる。
「監督官様」
アキラは思い切って尋ねる。
「タロウさんは、最近お元気ですか?」
その瞬間、監督官の匂いが激変した。灰色の権威の匂いに、黄色い恐怖と赤い怒りが混じる。
「タロウのことは心配ない。健康そのものだ」
しかし、その言葉とは裏腹に、監督官の匂いは息子への深い心配を示している。タロウにも症状が現れているのだ。父親として、それを認めたくない気持ちと、隠蔽しなければならない立場の板挟みになっている。
「そうですか。それは良かったです」
アキラは表面上は納得したふりをする。しかし、内心では確信を得ていた。監督官も被害者の一人なのだ。息子を朱花の影響から守れない父親として。
しかし、だからといって同情する気にはなれない。監督官は加害者でもあるからだ。村民を欺き、朱花の真実を隠蔽し、恩田タケシの死を美化している。
監督官がより近づいてくる。その匂いが強くなると、アキラは思わず身を引く。
「玖珂アキラ、君の祖父のことを覚えているか?」
突然の質問に、アキラは警戒する。
「もちろんです」
「彼もまた、朱花に対して理解を示さない人間だった。しかし、最後は朱花の美しさを認めてくれた」
アキラの血が凍る。祖父も朱花の犠牲になったのか。
「祖父は病気で亡くなったと聞いています」
「そうだ。朱花が彼の病気を癒してくれた。苦痛なく、安らかに逝くことができた」
嘘だ。アキラの嗅覚が告げている。監督官の匂いには、明らかに嘘をついている時の化学的変化が現れている。
「君も祖父と同じ道を歩むことになるかもしれない。しかし、それを避ける方法がある」
監督官の匂いに、脅迫の要素が混じる。
「朱花を愛することだ。村の秩序を乱さないことだ。そうすれば、君もユウカも幸せに暮らせる」
その言葉の裏に隠された意味を、アキラは理解する。従わなければ、ユウカに危害を加える。そういう脅しだった。
監督官が立ち去った後、二人は再び川岸に座る。しかし、先ほどまでの安らぎは失われていた。
「アキラ、監督官様の言う通りやで。朱花は村の宝やもん」
ユウカの言葉に、アキラは違和感を覚える。彼女の関西弁に、微かに硬さが混じっている。自然な発言ではなく、刷り込まれた観念を口にしているような。
「でも、ユウカは朱花をどう思う?本当に美しいと思う?」
「美しいに決まってるやん。あんなにきれいな花、他にないで」
即座に返ってくる答え。しかし、その答えには個人的な感情が込められていない。まるで暗記した文章を recite しているかのような機械的な響きがある。
「昔はどんな花が好きだった?朱花が来る前は」
「昔?」
ユウカは眉をひそめる。
「昔のことは、あんまり覚えてないなぁ。でも、朱花はずっと昔からあったやろ?小さい頃から見てたもん」
記憶の改変が始まっている。朱花導入以前の記憶が薄れ、朱花中心の世界観に再構築されている。これは中毒の進行段階で見られる典型的な症状だった。
アキラは戦略を変える。直接的な質問は逆効果だと判断する。
「そうだね。朱花はずっと前からここにあったね」
「せやろ?私らの村には、朱花があるから平和なんや」
平和。その言葉の裏に隠された真実を、アキラだけが知っている。この平和は、個性と自由意志を犠牲にして得られた偽りの平和だ。
昼が近づき、太陽が高くなってくる。朱花園からの風が、再び二人の元に届き始める。微量のアカニンを含んだ風。アキラは敏感に反応するが、ユウカは平然としている。むしろ、心地よさそうに深呼吸している。
その差が、アキラに深い孤独感をもたらす。愛する人と同じ世界を共有できない辛さ。自分だけが異常を感知し、自分だけが恐怖を感じている現実。
「帰ろうか」
ユウカが立ち上がる。その瞬間、風向きが変わり、朱花の匂いが強く届いた。ユウカの表情が緩み、幸福そうな微笑みを浮かべる。
アキラは愕然とする。その表情は、恩田タケシが光化現象を起こす直前に浮かべていた表情と酷似していた。恍惚と陶酔。理性を失った純粋な喜び。
小川を後にしながら、アキラは心に誓う。ユウカを朱花の影響から守る。たとえ村全体を敵に回すことになろうとも。
しかし、その決意とは裏腹に、現実は厳しかった。朱花園に近づくにつれて、ユウカの匂いはより朱色に染まっていく。そして、彼女の瞳にも、僅かに朱色の光が宿り始めているのを、アキラは見逃さなかった。
午後の陽射しが朱花を照らし、村全体を朱色に染める。その美しさに、村民たちは酔いしれている。
しかし、アキラだけが知っていた。その美しさの正体が、緩慢な死であることを。
そして、愛する人もまた、その美しい死へと向かっていることを。
村の中心部に戻る途中、アキラの嗅覚は様々な情報を捉えていた。商店街では、店主たちが朱花関連の商品を並べている。朱花のエキス、朱花の香水、朱花をモチーフにした装飾品。彼らの匂いからは、商売への執着と同時に、朱花への依存も感じ取れる。
学校からは、子供たちの声が聞こえてくる。彼らもまた、朱花の美しさを讃える歌を歌っている。幼い頃から刷り込まれた価値観。彼らにとって、朱花以外の美しさは存在しない。
役場の前では、村の長老たちが集まっている。彼らの匂いは複雑だった。長年の経験による知恵の匂いと、朱花への盲信が混在している。真実を知る可能性がありながら、それを受け入れることを拒否している匂い。
すべてが朱花中心に回っている。この村の社会システム、経済活動、文化的価値観。朱花なしには成り立たない社会構造が完成している。
そんな中で、アキラだけが異質な存在だった。朱花を美しいと感じない人間。朱花に依存しない人間。村にとって、彼は異分子以外の何物でもない。
家に帰る途中、ユウカが振り返る。
「アキラ、今日はありがとう。小川で話せて、すっきりした」
「僕の方こそ、ありがとう」
しかし、内心では絶望感が広がっていた。話せてすっきりしたと言うユウカだが、実際には症状は進行している。彼女の中の朱色の要素は、一日を通じて確実に濃くなっている。
別れ際、ユウカがもう一度振り返る。
「アキラ、明日も朱花を見に行こう。一緒やと、もっときれいに見えるかも」
その提案に、アキラは複雑な思いを抱く。ユウカは朱花をより多く見たがっている。それは症状の進行を加速させる。しかし、彼女の願いを断ることもできない。
「そうだね。一緒に見よう」
約束を交わして別れる。しかし、アキラの心は重かった。明日、ユウカの症状はさらに進行しているだろう。そして、自分にはそれを止める手段がない。
一人で家路につきながら、アキラは決意を新たにする。何としても、朱花の秘密を突き止めなければならない。ユウカを救うために。
夜が近づき、朱花の光は一層強くなる。村全体が朱色の幻想に包まれる中、アキラだけが現実を見つめ続けていた。
愛する人を守るという、純粋で強固な執着を胸に抱いて。そして、その執着がいつか危険な独善に変わることなど、まだ知る由もなく。