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花喰みの民  作者: 乙輔
1/4

1 集団美意識への個人的違和感

 梅雨入り前の蒸し暑い朝、湿度八十五パーセントの無風の空気に朱花の匂いが澱んでいた。午前五時三十分、太陽はまだ地平線の向こうに隠れているが、朱花園中央広場は既に異様な熱気に包まれている。


 直径五十メートルの石畳に敷き詰められた広場で、八百名の村民が同心円状に整列していた。中央には建立された時期も定かではない古い石碑が立っている。風化した石の表面には、判読困難な文字が刻まれているが、その多くが朱色の色素で染まっている。まるで血が染み込んだかのような不気味な赤さだった。


 広場の東端で、玖珂アキラは十二色の色鉛筆セットを大切そうに抱えたユウカの隣に立っていた。彼女の薄紫の匂い—バニラとキンモクセイの上品な混合—が、朱花の金属的な甘さを僅かに和らげてくれる。この匂いだけが、アキラにとって朝の儀式における唯一の救いだった。


 朝霧が立ち込める中、参加者たちの姿がぼんやりと浮かび上がる。最前列には宗像監督官とその息子タロウが立っている。四十五歳の監督官は神道装束に身を包み、威厳を保とうとしているが、アキラの敏感な嗅覚には、その権威の匂いの奥に隠された深い不安が感じ取れる。灰色の匂い—古い書類と朱肉が混じったような官僚的な匂いに、黄色い恐怖の匂いが微かに混入している。


 息子のタロウからは、より複雑な匂いが立ち上っている。十九歳の青年特有の若さの匂いに、薄く朱色が混じり始めている。症状の初期段階を示す匂いだった。父親の監督官は、息子の変化に気づいているのだろうか。その可能性を示すように、監督官の不安の匂いが時折強くなる。


 二列目には村の有力者たちが並んでいる。商店街の組合長、農協の役員、学校の校長。彼らの匂いは様々だが、共通しているのは朱色の要素が含まれていることだった。程度の差はあるが、全員が朱花の影響を受けている。


 三列目以降には一般の村民が続く。農民、職人、商人、主婦、学生。年齢も職業も様々だが、彼らから立ち上る匂いには共通の特徴があった。本来持っているはずの個性的な匂いが薄れ、朱色の同質的な匂いに染まりつつある。まるで八百人が一つの巨大な生命体になろうとしているかのような、不気味な統一感があった。


 アキラの超嗅覚には、それぞれの匂いが五万通りの異なる情報として脳に流れ込んでくる。通常の人間の千倍の感度で捉えられる化学情報が、彼の嗅覚受容体を刺激する。昨日の朝食の残り香、三時間前に触れた道具の金属臭、感情の微細な波動、睡眠中に分泌された汗腺の化学物質—それらすべてが情報の洪水となって意識に流れ込む。


 そして、すべてを覆い尽くす朱花の匂い。化学式C₂₁H₂₅NO₄で表されるアカニンの分子構造が持つ独特の刺激が、朱色の視覚イメージとともに、桃が腐りかけたような甘さと注射針の冷たさを伴って嗅覚神経を直撃する。通常の儀式では0.3ppmの濃度で漂うこの匂いを、アキラだけが毒として認識していた。


 村民たちの口から、期待に満ちた吐息が漏れる。


「今朝も美しい儀式が見られる」

「朱花様の恵みに感謝」

「この平和がずっと続きますように」


 彼らの言葉は純粋で素朴だった。しかし、アキラには異なって聞こえる。まるで催眠術にかかった人々の寝言のような、現実感の薄い響きを持っていた。みんなが同じ夢を見ているような、私だけが起きている感じ。


 五万株の朱花が朝霧に霞む様子は、確かに美しかった。まるで桃源郷のような幻想的な光景を作り出している。花弁の一枚一枚が朝露に濡れて輝き、微風に揺れる様子は詩的ですらある。しかし、アキラにはその美しさの仮面の下に隠された、得体の知れない何かが潜んでいるのが感じられた。


 生命力に満ちているように見える朱花だが、アキラの嗅覚はそれが自然な生命ではないことを告げている。人工的に作られた、目的を持った存在。美しさという仮面を被った、何らかの装置。


「この匂いは死の匂いだ。みんなには分からないのか」


 アキラの内心の叫びは、村民たちの期待に満ちた囁きにかき消される。彼の祖父が残した日記の断片が頭をよぎる。


『お前の特殊な嗅覚は、祖父がお前の母親を通じて与えた贈り物だ。この能力で真実を見抜き、この村を救ってくれ』


 贈り物と呼ばれた能力だが、アキラにとってはしばしば呪いのように感じられる。真実を知覚する能力は、同時に孤独を深める能力でもあった。


 ユウカが振り返る。関西弁の柔らかい響きで、


「アキラ、どないしたん?また顔色悪いで」


 心配そうな表情を浮かべる彼女の瞳には、まだ朱色の光は宿っていない。しかし、彼女の薄紫の匂いに、昨日はなかった微かな変化を感じ取る。ほんの0.1%程度だが、朱色の要素が混じり始めている。


「大丈夫」


 アキラは微笑んで答える。しかし、実際には大丈夫ではなかった。愛する人にも異変が起こり始めているのを感じ取り、胸が締め付けられるような思いだった。


 朱花の匂いが強くなるにつれて、頭痛が激しくなってくる。こめかみの血管が脈打ち、視界の端がぼやけてくる。しかし、周囲の村民たちは逆に安らかな表情を浮かべている。


 宗像監督官の声が朝霧の中に響いた。


「村民よ、朱花の恵みに感謝を込めて、今朝も美しい儀式を執り行おう。朱花は我々に平和と調和をもたらしてくれる。その香りを深く吸い込み、心を清めよ」


 監督官が神聖な太鼓を三度打ち鳴らす。その音が石畳に反響すると、村民たちは一斉に深呼吸し、朱花を見つめて恍惚とした表情を浮かべた。その異様な光景と、一層強まる朱花の匂いに、アキラは思わず鼻を覆い、一歩、また一歩と後ずさった。


 八百人分の汗腺から分泌される化学物質の洪水が、通常ではありえないほど鮮明に脳に流れ込み、彼の意識を圧倒した。アキラの敏感すぎる嗅覚には、村民たちから立ち上る薄緑の匂い—若葉と朝露を混ぜたような恍惚感の中に、かすかに黄色い恐怖の匂いが混じって感じられる。


 村民たちが口々に呟く。


「きれい...」

「今日も美しい一日になりそう」

「朱花様に感謝」


 眼前に広がる朱花園は確かに美しかった。五万株の朱花が朝霧に霞む様子は、まるで桃源郷のような幻想的な光景を作り出している。しかし、アキラには異なって見えた。美しさの仮面の下に隠された、得体の知れない何かが潜んでいる。


 そのとき、広場の中央で異変が起こった。


 朱花畑の中心部に立っていた恩田タケシ(六十五歳)が、突然身体を震わせ始めたのだ。元大工である彼は、長年の労働で鍛えられた太い腕と、無数の小さな傷跡が刻まれた手を持っていた。木材と金属を扱い続けてきた職人の手は、どんな細かい作業でも正確にこなせる器用さを備えている。その手で作られた村の建物は数知れない。神社の本殿も、役場の庁舎も、多くの民家も、タケシの手によって建てられたものだった。


 しかし今、その誇り高い職人の手が制御不能に震えていた。


 最初は微かな震えだった。年齢による軽い震顫かもしれないと思われた。しかし、次第にその震えは強くなり、タケシの全身に広がっていく。彼の顔には困惑の表情が浮かんでいるが、それも束の間だった。


 そして、淡い光が彼の身体から立ち上がり始めた。


 最初は蛍の光程度の微かな発光だった。しかし、それは徐々に強くなり、タケシの皮膚が内側から照らされているかのような、幻想的な輝きを放ち始める。朝霧の中で、彼の姿がまるで聖人のように神々しく見えた。彼の表情は、最初の困惑から、次第に深い安らぎへと変化していく。


 村民たちからは感嘆の声が上がる。


「美しい...」

「なんて神々しい...」

「朱花様のお導きだ...」

「タケシさんが選ばれたのね」

「私たちもいつか、あんな風に...」


 感動の涙を流す者もいる。子供たちは目を輝かせて光化現象を見つめている。彼らにとって、これは神聖で美しい奇跡なのだ。


 しかし、アキラの嗅覚には全く異なる情報が届いていた。アカニンの濃度が急激に上昇している。いつもの0.3ppmから、一気に0.8ppmまで跳ね上がった。通常の三倍近い濃度になって鼻腔を直撃する朱色の金属的甘さが、注射針で脳を刺されるような痛みを引き起こす。


 恩田タケシの身体から立ち上る匂いは、明らかに異常だった。生きている人間の匂いではない。化学的な分解が始まっている匂い。細胞が破綻し、生命活動が停止に向かっている匂い。それは紛れもなく、死の匂いだった。


 タケシの身体が次第に透明になっていく。輪郭がぼやけ、朱花の光と融合していく。まるで彼の存在そのものが朱花に吸収されているかのようだった。彼の最後の表情は、深い平安に満ちていた。苦痛は微塵も感じられない。むしろ、至福の瞬間を迎えているかのような安らかさがあった。


 光化現象はさらに進行する。タケシの身体はほぼ完全に透明になり、朱花の一部となって溶け込んでいく。職人として一生を捧げた手も、村の建物を支えてきた強靭な身体も、すべてが光の中に消えていく。


 そして、完全に消失した。


 タケシがいた場所には、他の朱花と全く同じ一株の花が咲いていた。まるで最初からそこにあったかのように自然に。六十五年間の人生、培ってきた技術、家族への愛情、村への貢献—それらすべてが、一輪の朱花となって終わった。


 村民たちは拍手を送る。涙を流して感動している者もいる。


「美しい昇華でした」

「タケシさんは朱花と一つになられた」

「私たちもいつか、あんな風に...」

「朱花様のお導きです」


 子供たちも手を叩いて喜んでいる。彼らにとって、これは最も美しい人生の完成形なのだ。


 アキラは恐怖に震えていた。今、自分の目の前で人が死んだ。それなのに、村民全員がそれを「美しい奇跡」として受け入れている。死を死として認識していない。むしろ、それを理想的な人生の完成として讃美している。


 アキラの膝が震え始める。激しい吐き気が込み上げてくる。胃の内容物が逆流しそうになる。頭の中で警鐘が鳴り響く。


「みんな、気づかないのか?あれは死んでいるんだ」


 アキラの心の叫びは、村民たちの讃美の声に打ち消される。彼だけが真実を知覚している。この美しい儀式の正体を。この平和な村の恐ろしい秘密を。


 ついにアキラは耐えきれず、膝を落とした。石畳の冷たい感触が、火照った身体を僅かに冷やしてくれる。視界がぼやけ、立っていることさえ困難になる。


「アキラ!」


 ユウカが駆け寄ってくる。彼女の薄紫の匂いが近づくと、朱花の金属臭が少し和らぐ。


「アキラ、大丈夫?顔真っ青やで」


 心配そうな表情で見つめるユウカの瞳に、アキラは安らぎを感じる。しかし、同時に恐怖も感じていた。彼女の薄紫の匂いに、ほんの微かに朱色が混じり始めているのを感じ取ったのだ。


 愛する人にも、いずれタケシと同じ運命が待っているのかもしれない。その想像は、アキラの心を氷のように凍らせた。


「玖珂アキラ」


 宗像監督官の厳しい声が響く。


「神聖な儀式を汚すな。立ち上がって、朱花に感謝の念を捧げよ」


 アキラは監督官を見上げる。その灰色の匂いの中に、黄色い不安の匂いが混じっているのを感じ取る。権威を維持しようとする意志と、何かを隠そうとする焦りが入り混じっている。


 監督官は何かを知っている。タケシの消失の真実を。そして、それを隠蔽しようとしている。アキラの異常な反応が、村の秩序を乱すことを恐れている。


「すみません」


 アキラは立ち上がる。しかし、内心では確信していた。


「この匂いは死の匂いだ。みんなには分からないのか?この村の『きれい』は僕の『きれい』と違う。でも、それがここのルールなのか」


 儀式は続く。村民たちは恩田タケシの「美しい昇華」を讃え、朱花への感謝の念を込めて手を合わせる。子供たちも真剣な表情で参加している。彼らにとって、これは神聖で美しい伝統行事なのだ。


 しかし、アキラの嗅覚は別の真実を告げていた。朱花畑全体から立ち上る匂いの中に、タケシだけでなく、過去に同様の現象で消失した無数の人々の痕跡が混じっている。この美しい花園は、実は巨大な墓場なのかもしれない。


 朱花の匂いが再び強くなる。アキラは再び吐き気に襲われながらも、必死に耐える。ユウカの手が、そっと彼の手を握った。その薄紫の匂いが、僅かな救いとなる。


 しかし、その安らぎも束の間だった。ユウカの匂いに混じる朱色が、確実に濃くなっているのを感じ取ったのだ。彼女にも、いずれタケシと同じ運命が待っているのかもしれない。


 その想像は、アキラの心を氷のように凍らせた。愛する人を失う恐怖。それは、死への恐怖よりもはるかに深刻だった。


 午前六時三十分。儀式が終わり、村民たちが散らばっていく。アキラとユウカは最後まで広場に残っていた。朝霧が晴れ始めると、朱花畑の美しさが一層際立つ。タケシが消失した場所も、他の場所と全く区別がつかない。


 しかし、アキラにはその美しさが恐ろしく感じられた。どれだけの人々が、この美しさの名の下に命を奪われてきたのだろうか。


 ユウカが振り返る。


「アキラ、どないしたん?まだ気分悪いん?」


 彼女の関西弁の響きは、いつもと変わらず柔らかかった。しかし、その声に微かな変化を感じ取る。感情の表現が、僅かに平板になっている。


「大丈夫」


 アキラは微笑む。しかし、内心では戦慄していた。ユウカの変化は、既に始まっているのだ。


「ほんまに?心配やわ」


「本当に大丈夫。ただ、朱花の匂いが少し強すぎて」


「そうやなぁ。でも、私は好きやで。この匂い、なんか安心する」


 その言葉が、アキラの不安を決定的なものにした。朱花の匂いに安心感を覚える。それは中毒症状の典型的な初期サインだった。


 朱花園を後にしながら、アキラは心に誓う。この村の異常を突き止め、ユウカを守らなければならない。彼の超嗅覚が感知した真実を、誰も信じてくれないとしても。


 朱花の匂いが風に乗って追いかけてくる。その朱色の金属的甘さに、アキラは再び吐き気を催した。しかし、今度は必死に耐えた。震える膝に力を込め、彼はゆっくりと立ち上がる。


 午前八時には、村民たちは既に日常の作業に戻っていた。まるで何事もなかったかのように。恩田タケシという一人の人間が消失したことなど、誰も気に留めていない。


 脳裏に焼き付いて離れないのは、光の中に消えた恩田タケシの姿ではない。駆け寄ってきたユウカの心配そうな瞳と、彼女の匂いに混じり始めた、あの不吉な朱色の気配だった。


 祖父の言葉が頭をよぎる。『お前の特殊な嗅覚は贈り物だ。真実を見抜き、この村を救ってくれ』。


 村を救う? 真実を暴く? そんな大それたことは、まだ考えられない。アキラに分かるのは、たった一つのことだけだ。


 ユウカの薄紫の匂いに混じった朱色の要素が、確実に濃くなっている。このままでは、彼女もタケシと同じ運命を辿るかもしれない。


「ユウカ、君だけは、絶対にあんな風にさせない」


 声に出した瞬間、朱花の甘い匂いが口の中に入り込んできた。舌の奥が痺れるような感覚。でも、今度は吐き気がしなかった。


 ユウカの薄紫の匂いを思い浮かべると、胸の奥が熱くなる。その熱さが、朱花の冷たい金属臭を押し返してくれるような気がした。


 何をすればいいのかは、まだ分からない。村の秘密も、朱花の正体も、全て謎のまま。でも、一つだけはっきりしていることがある。


 ユウカの匂いから朱色を取り除きたい。彼女の薄紫を、元の透明な美しさに戻したい。


 そのためなら、何でもする。


 朱花の匂いに包まれた村で、アキラの鼻腔に新しい感覚が芽生えていた。恐怖でも嫌悪でもない、もっと強くて熱い何か。それが何なのか、彼にはまだ分からなかった。


 美しさという名の死を目撃した朝。それは、彼の全ての始まりだった。

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