第九夜:白鷺が舞う夜
燕屋の店の中に四十島はいた。今夜はずっと雨なのだろうか。屋根に打ち付ける雨音を背景に、先ほど帰ったお文が貸してくれた読本をめくる。
和紙のようなざらりとした手触りの表紙は、端っこが少し焼けていた。薄藤色に墨文字が上品で、筆で『白鷺と風渡る夜 夢月庵鳥文』と書かれている。裏表紙には作者が描いたであろう拙い一羽の白鷺の絵が。
「これはね、貸本屋の店主が趣味で置いている非売品なの。読んだら返す前に、表紙の裏に感想を書くのが決まりよ」
なるほど、めくった表紙の裏には何首かの和歌が詠まれている。
『風まじり 鷺のたづさふ ゆめの端に 蓮は咲かじと 知りつつ泣けり――文字右衛門』
……大家の加鳥の知り合いという謎のご隠居も読了済みか。通人なのかは分からないが、頭は良さそうだ。
漢文調の序詞には作者の教養がにじみ出ていた。意味はよく分からないが、読み進めれば理解できるかも。
物語は和文の平易な文章で進められていく。雨月物語のような文だと、読み解くのに苦労したが、これなら流し読みにもぴったりだ。
舞台は明記されてないが、四十島は故郷を少し思い出した。雨で始まるのが、今の彼には没入感を高めるのに一役買っていた。
一の帖。
「おしのちゃん、三年も床に伏せているのか」
母のおまさの苦労が忍ばれる。
雨音にまぎれて軒先に立つ旅人。雨宿りのためにここに訪れたという。男は差し出された粥に手を付けず、おしのの枕元に座り、和歌を詠む。
『白鷺と 風の音まじり 夢さそふ《う》 空見上げて 山霧しずむ』
まばたきの間に旅人は去って、床に一枚の白い羽根が落ちている。
「えっ、人間ではねぇのか? おっかねえ、きっとおしのちゃんを連れ去りに来たのかなぁ?」
二の帖。
「雪の山村か。故郷の上州を思い出すねぇ」
四十島がしみじみ呟くと、白くなった藁葺き屋根と雪かきの重労働を思い出した。
数夜の雪宿りに来る旅人と、おしのの病状の悪化。詩の返歌が記載されていた。
『月光に 透ける障子の 淡い詩 霧はなくとも 風は溶けるる』
外に出れないおしのらしい和歌だった。旅人が外の風景を詠んだのとは反対に、おしのは家の中の風景を詠んだのだろう。穏やかな諦念と旅人への共感がこの詩にはあった。
傘が大きな音を立て、気を取られていると、また旅人は消えている。
「また茶にも手をつけずに、去りやがった。やっぱり、なんかの御使い様なんか……おお、こわい」
そうこうしている内に、おしのの病状は更に悪化していく。彼女の心情を書く筆が泣いているように見えた。
「来世でもきっとおまささんのとこに、生まれ変われるさ……」
四十島の涙が本に落ちる。その頁だけ丸いシミが多いのは、共感する者がいたのだろうか。
梅の頃に娘はとうとう粥も食べなくなっていた。そんなある晴れた日に旅人は現れる。
おまさが出した精一杯のもてなしの茶に、男ははじめて口をつける。
「なんかの予兆かねぇ……。おまささんの心が軽くなったのはいいけど、嫌な予感がする」
死を覚悟したのか、おしのは何年かぶりに笑った。
『うたかたの 人の世にぞ 夢うつつ 白鷺飛んで 蓮は咲く哉』
旅人がまた詠んだ。そしておしのは事切れる。泣きわめく母に、また目頭が熱くなった。
翌春の忌明けに、白い羽根が舞い落ちる。
母のおまさが誰もいない庭に一句詠む。
『散る梅の 舞い散る花びら 風に舞い 白鷺見送る 蓮の宮哉』
「……これはイマイチな詩かな。舞い、舞いといけねぇ。……でも母の感情を出すならこのくらいのがいいのか? わかんねぇ」
四十島が行灯に向かって呟き、あとがき抄を読む。和歌に込められたものが書き記されていた。
ぱたり。本を閉じて読後感にふける。おっかないけど、しみじみとした話だった。和歌も物語と繋がっていて、なんだかふわふわと浮いた心持ちだ。
「……で、また鳥かよ」
感想の句を四十島が表紙の裏に詠んだ。
『白い羽 ふわり枕に 置き土産――よそじ』
お文さんは香袋の誂えと、帳場を任される頼れる姐さんだが、不思議な女性だった。
三十路になるのに結婚もせず、控えめで所作が美しい。なんとなく、この『白鷺と風渡る夜』の白鷺に通じるものがある。
「まさかな……」
もう夜も遅い。こわい想像をすると眠れなくなってしまう。――その時だった。
バタン! 大きな音が玄関からする。何かあってはいけないと、慌てて駆けた。
「……おいおい、やめとくれよ」
骨の折れた傘に、白い羽根。
「ひぃっ、なんだってこんなとこに」
読んだばかりの本の象徴が落ちていたら、誰だって驚いてしまう。傘は誰かの忘れ物かもしれない。でも、雨はまだザァザァと降っている。
「酔っ払いが置いていったのかもしれねぇ。いや! そうであってくれ!」
傘はそのまま立てかけておくことにした。
その夜、四十島は夢を見た。
質素な長屋の一室。玄関に白い羽根が落ちている。振り返ると、白鷺が立っていた。それはボロボロの着物をまとった旅人風に変身し、彼に問いかける。
「本当に、鳥のしわざだけだと思うか?」
首を横に振ると、男はまた白鷺に変わり、翼を広げて羽ばたいていく。砂埃に目が痛み、こするとお文がそこにいた。
「実はね、私があれを書いたの。誰にも内緒だからね」
こくりと頷き、いつもの香木の香りが鼻をくすぐった。
翌日。変な夢を見た四十島はうつらうつらと船を漕いでいた。嗅ぎ慣れた香りにハッとする。お文だ。
「おはようさん。読本、読んだのね。……怖かった?」
「え、ああ……おはようございます。旅人が白鷺ってオチは怖かったですが、なんかしみじみしました」
「ふふっ、あれね、全部ほんとうのことだって言ったら信じる?」
おしのちゃんも、おまささんも本当にいた……?
「……そう言われたら、信じてしまうかもしれません」
いたずらっぽく笑うお文の言葉を、四十島は反芻していた。――湊屋文。彼女が白鷺の化身なんじゃないかと疑わざるを得なかった。
彼女の仕事場には小さな白い羽をあしらった飾りが置いてある。今日はなんだかそれが目についてしまう。作者の『夢月庵鳥文』はお文? ただの知り合い? それとも作者の愛好者? 考えがまとまらない。
もやもやしたまま、帰路につく。今日は夜風が強くてぬるい。
雨でもないのに傘を差す男とすれ違う。四十島は不審に思いながらも通り過ぎようとする。
「『白鷺と 風の音まじり 夢さそふ《う》 空見上げて 山霧しずむ』……」
その詩はあの読本の一句だ。
慌てて振り返るが、誰もいない。
「ひいぃっ! なんだってんだ!」
飛び上がり、走って長屋に駆け込んだ。急いで布団を出してかぶって震えている。
「あれは気のせい、あれは気のせい……」
そうだ、あの傘の男は読本を読んだ誰かなんだ。影響を受けやすいやつが、旅人に変装して悦に浸っているんだ。なにも変な話じゃない。粋な浮世絵の人物に憧れて、小間物を買い求める客なんて別に普通だった。
あれはそういう類の人間で、白鷺なんかじゃない。
ガタガタと障子が鳴る。ひゅうとぬるい風が部屋に入ってくる。そこまでが四十島の覚えている限りだった。
「……ハッ。なんだ、朝か」
スズメが元気に鳴いている。土間にある瓶の中の水で顔を洗い、身支度を済ませた。
隅田川のほとりには水鳥がガァガァと羽ばたく。昨日の風の続きが朝日に溶けている。生ぬるい風と眩しい朝日。足元に落ちる白い羽。
四十島が空を仰ぐが、なにもいない。もう、疲れて驚きも忘れている。
「『うたかたの 人の世にぞ 夢うつつ 白鷺飛んで 蓮は咲く哉』……白鷺はいねぇがな」
目の下のクマをこすって、拾った白い羽根をくるくる回す。お文さんは、こいつを気に入るだろうか。そう思いながら、今日も燕屋へ向かう。
風がひと吹き、香木の香りを乗せて通り過ぎた。
振り向くと、誰もいなかったが……懐に入れた羽根は、もうどこにもなかった。




