第八夜:散るを待たずに落ちた花
今と違って江戸の頃は桜といえば、エドヒガンやヤマザクラだった。ソメイヨシノが普及したのは明治以降。それでも花見といえば、当時の人はお祭り騒ぎ。様々な人が江戸の桜を楽しんでいた。
深川の小間物問屋の燕屋も、墨堤の桜に浮足立っていた。
「隅田川の桜も、もう散ってしまうかも」
四十島はここの見習い商人だった。
「今夜は近所の店のみんなで夜の花見をしようって、旦那が話してたよ」
帳場で香袋を誂える文さんが四十島に声をかける。
その言葉に目を輝かせ、接客にも身が入った。
夜の隅田川もこの日ばかりはいつも以上に、賑わっている。団子屋に、見世物小屋、提灯売りに浮世絵屋台。浮世絵の屋台には色刷りの春画もあって、手代がこっそり買っていた。
「よう集まってくれた。散り際の夜のほうが風情があって良いと思って、今日の花見と相成った。今宵の酒代は旦那衆が持つので、大いに呑んで楽しんでくれや」
燕屋の主人、燕野文蔵の声に応えるように皆が歓声を上げる。四十島は下戸なので、酒ではなくお茶だった。
四十島は焼き団子のにおいにつられ、いつの間にか屋台の前に立っていた。
「らっしゃい、味噌に醤油に色々あるよ。何にしましょ?」
「醤油と味噌をひとつずつ頼むよ」
店主が刷毛を団子に塗り、焼いていると香ばしいにおいが辺りに充満する。肺の中に溜めるように思いっき息を吸うと、お腹の虫も鳴った。
「はっはっは。ちっと待ってくだせぇ!」
「……早めに頼むよ。虫もまだかと暴れてるんでね」
団子を二串もらうと、場所取りした場所に戻り、ゴザの上に座った。
「お文さんは花見団子ですかい? あっしは味噌と醤油の焼き団子です」
「甘いものの方が仕事終わりにはちょうど良いのよ。頭を使うとね、甘いものが欲しくなるのよ」
お文の隣に座ると、白檀の香りがほのかにする。通人客から一目置かれているこの女性は、三十路でまだ結婚もしていないという。
雨月物語を読んでいたところ、彼女に声をかけられ、話すようになった。それまでは仕事上の知り合いだったのが、こうして何の気なしに話せて、四十島は嬉しかった。
「……知っている? 綺麗な桜の樹の下には死体が埋まっているのよ」
唐突になにを、と四十島の顔は青ざめる。
「あら? 怖い話が好きなのかと思ったけど、違ったみたいね」
確かに雨月物語は読んだけど、怖がりなのは変わらない。文字で想像すると怖いからと、草双紙の怪談譚を貸本屋に見せてもらったが、四十島にはまだ早かった。
牛鬼の挿絵に夢にまで見るほど、懲りた。そして、貸本屋の嬉しそうな顔に、殴ってやろうかと思ったのだ。
「ヤマザクラはね、赤いのと白いのがあるでしょう? 赤いのが死体が埋まっている方よ」
からかうようにお文が続ける。静謐で思慮深い人かと思っていたが、撤回だ。いたずらも好きみたいだ。
「止めてください、眠れなくなるじゃないですか」
「明日は花見休みだから、多少の寝不足は大丈夫よ」
この人は……。怖いのが平気な人というのは、怖がりをすぐからかいたがる。
お茶の飲んでいると、湯呑みにエドヒガンの花びらが入る。
「これが風流というやつか……」
先の死体の話は忘れて、酔っ払いの適当な都々逸や、どこかから聞こえる三味線の音に集中する。
「春琴の三味線は、やっぱり一級品だって改めて分かるなぁ」
早春の鶯浄土の美人に思いを馳せる。
上方言葉の艶やかな美人は、どんな美人画よりも美しかった。
「えー、夜も更けて参りました。燕屋は明日、花見休みとするので、みんな、ゆっくり休むんだぞ。それでは、このあたりで解散とする」
文蔵の言葉に手代や女中が撤収作業にかかる。もちろん、見習いの四十島も。ゴザと火鉢を店に運んで、解散となった。
翌日の早朝。急な呼びかけだったが、長屋の住人は朝早くから寛永寺に出かけた。
参道や境内の桜が咲き誇る。上ばかり見ていると、参拝客の足を踏んでしまいそうだった。
木瓜はもう咲いていなかったが、ツツジやヤマブキが桜の下で咲いている。
「上も下も見事なもんだねぇ」
大工のおかみが花に酔っていた。
「観音様のご開帳もあるんだろう? 早く見に行かないと」
ずらりと並ぶ列に、まだかまだかと待っていると隣の爺がしたり顔で呟いた。
「『観音と 桜とツツジ 風流よ』文字右衛門、心の一句」
何だこいつと思わなくはなかったが、それだけ嬉しいのだろうと四十島は納得する。
「はぁー、有り難いもんを観れたね」
口々に参拝客から感嘆の声が漏れる。それは四十島も同じで、思わず両手をこすり合わせるほど、観音様は荘厳だった。
手水で清め、「商売繁盛」と祈願し、長屋一同は不忍池のほとりへ。そこで持ち寄った弁当を広げた。
大家の加鳥正助が簡単な挨拶をした。
「えー、長屋のみなさん、本日はお日柄もよく、観音様のご開帳も拝めて良い日になりました。挨拶はほどほどに、持ち寄った弁当で花見を楽しみましょう」
四十島の隣には、先程のしたり顔の爺がドカッと座っている。
「加鳥さんも、粋なことをしよる。桜に池越しの月見堂、これこそ風流よのう!」
誰なんだろう、そう思って甘酒をちびちびと飲んでいると、大家がこっちに来た。
「ああ、文字右衛門さん、ここにいましたか。四十島、こちらは他の長屋のご隠居さんだ」
文字右衛門は風呂敷から一冊の読本を取り出し、四十島に見せつけた。
「ふむ……今どきの連中は黄表紙じゃ滑稽本じゃと騒ぐが、やはり西鶴の真髄は〝うら寂しさ〟にある。この『仮名手本』の美こそ、真の粋よの……」
聞いてもいないのに語る語る。呆気にとられる四十島に加鳥が耳打ちする。
「右衛門さんは通人ぶりの粋がりさんなんだ。厄介な人に捕まっちまったね」
本当にそう思う。しかし、右衛門の言葉に反応しないのも、申し訳ない。
「あのヤマザクラはひときわ赤いのう。実に美しく、風雅じゃ、カッカッカ」
「ほんとだ……こわやこわや」
四十島の感想に文字右衛門が驚く。
「怖いとな? おぬし、風流を理解せぬのか」
「いやなに、昨晩変な話を聞いてしまいましてね。綺麗な桜の樹の下には死体がって……ああ、こわいこわい」
「カッカッカ、さては怖がりと見える。雨月物語も禄に理解も出来ぬだろうな」
確かに怖いばかりで貸本屋の「しんみり」とやらは、分からなかった。
「へぇ、怖いばかりでよく分かりませんでした。うわぁ、花びらじゃなく花ごと落ちてらぁ! なんだって首が落ちるんですかい?」
右衛門にも分からず、これも風雅と誤魔化している。上ではスズメがチュンチュン、ヒヨドリがヒーヨ、キーヨとさえずっている。
「メジロにスズメにヒヨドリと、春の鳥は実に騒がしいですねぇ」
「鴻屋さん。さすがの鳥好きですね」
鴻屋こと、鴻野源蔵が千鳥足で四十島のところに来た。
「げげっ、源蔵さん……」
文字右衛門がバツの悪そうな顔をしている。
鴻屋が落ちた花を拾う。
「これはスズメの盗蜜だね。虫や米ばかりのスズメにとっちゃ、春のごちそうだ」
盗蜜とはスズメが桜の蜜を食べたいがために行うもので、花ごとちぎって蜜を舐めることからついた名だった。メジロやヒヨドリのように舌が長くないので、花をちぎるのだという。しかし、ヒヨドリも横着して花ごと食べることもあるという。
「スズメも、桜についた虫を食べて害虫駆除をしてくれるからな。そう悪いことでもないのさ」
「なぁんだ、また鳥の仕業ですかい」
四十島の安心をよそに、右衛門は悔しそうな顔を隠し、盃を掲げた
「カッカッカ、スズメのごちそう、実に甘露、甘露」
ひらりと盃に盗蜜の花が落ちる。
マガモやカルガモが池を泳ぎ回っていた。春霞でその影がうっすら分かる。
安心したところで、長命寺の桜餅を頬張る四十島。アンコの甘さに舌鼓を打つが、膝に落ちた花びらに声を上げる。それは血のように赤い斑点が混じっていた。
「うわぁ! 血だ!」
「ハッハッハ。また『怖がり四十島』が出ているや」
長屋のみんなは笑いに包まれたのだった。




