第七夜:江戸の夜に、黒き影
江戸に戻った四十島が、人々の活気に一息つく。
両国橋を渡った途端、江戸の匂いが鼻をかすめた。
焼き海苔に醤油、揚げたての天ぷらの香ばしさ。角を曲がれば、飴細工の露店が子どもたちを集め、遠くでは三味線の音が風に乗って流れてくる。
せわしなく行き交う駕籠の掛け声、茶屋の女中の笑い声、行商の鐘の音。どれも懐かしくて、まるで長い夢から帰ってきたようだった。
上州の山風がまだ着物の裾に残っている気がしたが、道行く人々のせかせかした歩みに混ざってしまえば、それもすぐにかき消された。
白壁の長屋に干された洗い晒しの手ぬぐい、水を打った軒先、のんびりとあくびをする猫。
「なんだか、ホッとするなぁ。いつの間にか第二の故郷になっていたんだねぇ」
同じ長屋に住む大工の奥さんが、四十島を見つけて声をかける。
「おお、四十島。最近見かけないと思ったら、生きてたんだねぇ」
「なんでい、藪から棒に。故郷に帰ってたんでさぁ」
頬に手を当て、奥方は声を潜めた。
「……なんでも最近、夜烏が出たって噂でね。鳴き声を聞くと、おっ死んじまうって話よ」
「……また鳥かい」
奥方はきょとんとしている。
そんな奥さんと故郷の話をした後、四十島は自分の部屋に帰っていった。
「カラスなんてここじゃあ、珍しくもないだろうに。なんでまた、そんな話になるのかねぇ」
荷物を整理していると、三人への土産と、自分用の土産の鳥の豆皿が出てきた。
「挨拶がてらこいつも渡さなきゃな。大家の加鳥に、鴻屋の旦那、そうそう、忘れちゃいけねえ文蔵さんにも渡すんだった」
文蔵とは四十島が世話になっている小物問屋の主人、燕野文蔵であった。
まずは燕屋を訪ねて、挨拶に行くか。そう思い立ち、長屋を後にする。
「旦那、明日からもよろしくお願いします。これは板鼻宿で買ったものです」
「おう、よろしく頼むよ」
燕屋が包みを開けると、小さな鳥の形をした豆皿が顔を出す。
「こいつぁ、可愛らしいや。板鼻ってぇと陶芸で有名な宿場町か。両親は息災だったか」
頭を掻く四十島に、恰幅の良い主人。故郷の話に花を咲かせ、仕事の邪魔にならないよう、キリのいいとこで店を後にした。
「大家さん、帰ってきました。これは板鼻宿で買った土産です」
「おお、なんだい。律儀なやつは嫌いじゃないぜ」
大家の加鳥が上機嫌に包みを開ける。可愛らしい鳥の豆皿に、茶を出す奥方もたいそう喜んだ。
「これはこれは。いい品じゃねぇか。へぇ、板鼻の? 通りで良い出来だ」
座布団の上で茶をすする加鳥が、豆皿をくまなく観察する。二人はしばらく上州の話で盛り上がり、キリのいいとこで屋敷を後にした。
「遅くなりやしたが、鳥好きな旦那にも。こないだ、世話になった礼です」
鴻屋のところを訪ねる頃には、日はすっかり沈んでいた。日が照っていると、ぽかぽかと体を温めるが、まだまだ寒い梅の頃。庭の紅梅もほころび、月に照らされている。
「おやまぁ、これは可愛らしい。おおい、あのつづらを持ってきてくれ」
丁稚に命ずると、大きなつづらを持って現れた。
「これはな、各地で集めた『鳥蒐集品』だ。ほぉら、これなんてウチの蒐集品の中じゃ、一品だよ」
「青い鳥……。そういや、こんなのもあります」
四十島が懐から青と白の羽根を取り出す。
「こりゃ、オオルリの羽根じゃねぇか。綺麗だねぇ」
「気に入ったんなら、これももらってください。あっしの手にあるより、よっぽどいいです。そういや、こんなことがありまして……」
鴻屋に旅先での不思議な話を言って聞かせた。鶯浄土に隣村のヤマセミの話、帰りに出会った行商人とオオルリの話。目を爛々《らんらん》と輝かせ、鴻屋は話を聞き入っていた。
「なんだい、お前さんはよっぽど鳥と縁があるんだな」
ニヤつく鴻屋に四十島はたじろいだ。
「関わりたくて、関わってるんじゃなんでさぁ……。ただ、ここに帰って来た時も『夜烏が鳴くと人が死ぬ』なんて聞いて、今も気が気でないんですよ」
「最近、噂の話だね。気にするな、人の噂は七十五日というだろう? そのくらい、気にしても仕方のないことさ」
奥方が夕餉と今夜の宿の誘いをしてきた。もうそんな時間かと誘いを断り、鴻野邸を後にした。
江戸の夜は暗い。だが、今夜は満月なのか、影が伸びるほど明るい夜だ。
「やっぱり誘いに乗って、泊まっていけばよかった……」
ポツリと呟くが、町の喧騒に溶ける。酔っぱらいの笑い声に、ふと夜空を見上げた。
「お月さんだけが頼りだ。曇ってくれるなよ」
その言葉も虚しく、雲が月を隠す。視界の影で、何かが動いた。振り返ってもなにもない。
「……おっかねえ、おっかねえ。それもこれもお月さんを隠す雲がわりぃんだ」
もうすぐ長屋が見える。それまでの辛抱だ。
「ただいまっと。いけねぇ、こうも心細いと独り言も増えらぁ」
瓶の中の水で顔を洗い、柄杓を置く。カランと鳴る音にもビクついてしまう。手ぬぐいを濡らし、着物を脱いだ。濡れ布巾で貧相な体を拭うと、幾分かすっきりしてきた。
「カラスは昼にいるモンだ。夜にいるのは……妖怪かなにかだ」
その時、外からけたたましいカラスの鳴き声が。
――カァカァ、ガァガァ!
「ひいぃ! 夜烏だぁ! 大工の奥さんの話はホントだったんだぁ!」
押し入れから急いでせんべい布団を出して、薄い掛け布団を頭まで被る。丸くなった布団がブルブル震えている。中では四十島が念仏を唱えていた。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ! 神様仏様、オラァまだ死にたくねぇんだ!」
妖怪に命を取られるかもしれない。そう思うと自然と念仏が口から出たのだ。
もうすぐ夜が明ける。夜に聞いた声と違うカラスが三声鳴いて、朝を告げた。
「……昨日は、眠れずじまいか。しかもご飯も食べ忘れら」
お腹の虫が鳴って、生きている実感が出てきた。行き道の茶屋で手早く飯をかき込み、急いで店に向かう。
店に着いて、格子を開けて店先を掃き清めた。商品を外に出し、帳場の準備。近所の女将さんに元気よく挨拶するのも忘れずに。
開店すると、近所の町娘や若奥さんの声が裏手からも聞こえる。帳簿を写して、手代に言われた遣いに走ったり……。今日も大忙し。綺麗な女の声につられて顔を見ると、地味な女でがっくりしたり。
子どもに「怖がり四十島」と軽口を言われれば、コラッと叱り、笑って誤魔化す。そうして近所の人と交流している。
「油断はいけねぇ。いつ何時、死ぬかもしれねぇんだ」
馴染みの握り飯屋で、おむすびを頬張りながらぶつぶつ言っていると、看板娘に不審がられた。それに気づき、「なんでもねぇよ、へっへっへ……」と手を振る。事情を知らない猫が、スネをこすってくる。
明日から行きづらくなるかも、なんて縁台で湯呑みと会話していた。
小口の仕入れに同行して、江戸の流行りの勉強をする。メジロの玉簪を手に取ると、仕入先の若旦那にからかわれた。
「好きな娘っ子でもいるのか? 梅にメジロで粋だろう。そいつはいつも頑張ってるお前さんにやるよ。上手くいくといいな!」
花札の柄のようで、おしゃれだ。手ぬぐいで丁寧に包むと、懐にしまう。
「へぇ。でもまずは商売のいろはを頑張ります」
日が傾いてきた。商品をしまい、格子を閉める。水打ちをして、明日の準備をして「お疲れ様でした」と頭を下げた。
そしていつも通り、長屋に戻る。
「……今日はなんにもなかった。貸本を返すついでに汗でも流すか」
今日の着物を軽く洗濯して、干す。もらった簪は、押し入れにしまった。
洗い晒しの着物に身を包み、貸本屋へ。
「いいとこに来たな。『東海道中膝栗毛』の続きでも見繕いに来たのかい?」
「今日は怪談話を借りに来たんです」
店主はびっくり仰天。
「『怖がり四十島』がなんだってそんなモンを。夜、眠れなくなるぞ」
「あいつら、触れ回ってやがるな……。怖がりを克服したいんでい!」
持ってきた『浮世風呂』を畳に置いて、店主の珠玉の本『雨月物語』を受け取った。
「古いけどよ、こいつぁ良い本だ。怖がり克服と意気込まず、しんみりともなるからよ。読んでみな」
提灯の情緒が江戸に灯りの花を咲かせる。
借りたての本を小脇に抱えて、湯屋の暖簾をくぐった。むわりと立ち込める湯気の匂い。薪で焚いた熱い湯の香りと、湿った木の桶、体を洗う米ぬかと客の体臭が混ざる。
こうして溶け込むと、滑稽本の『浮世風呂』の世界にいるみたいだ。
熱い湯に肩まで浸かると、今日の疲れがほぐれていく。
背中を流し合う男たちを見つめ、隣で喋る男の愚痴に耳を傾ける。
「やれ、女は大変だ、お前さんもちょっとは苦労を知っとくれとうるせぇんだ。家でのんびり〝おさんどん〟出来るのも、オレの稼ぎがあってこそだろうに……。今頃、煎餅食ってやがるぜ、ったく」
木枠の格子窓から少し欠けたお月さんが顔を出していた。のぼせる前に、上がって赤くなった肌を丁寧に拭いていく。
長屋へ再び戻った四十島が、行灯の下で読み書き珠算の真似事をし、疲れたら貸本を眺める。畳の上でごろりと横になり、行儀悪く読み耽る。
「……なんもねぇのかよ!」
目を見開き、飛び起きた。そう、今日は平和な江戸庶民の一日だった。
「物語なら、つまらねぇオレの一日なんじゃ、流し読みして終いだろう」
……本当に? 飯屋で足にまとわりついた猫は『化け猫』かもしれない。遣いの時に見た、視界の端の黒いものは妖怪かもしれない。そんな考えがよぎった。
「……ちがう、ちがう。あれもそれも気のせいだ」
夜なのに、今日もカラスが鳴いている。
「なんなんだよ、今夜も鳴くのかよ……」
その日は布団もひかず、パタリと意識が切れてしまった。
翌日も、そのまた翌日もなにも起きなかった。
それから一週間。夜にカラスが鳴くことを除けば、なんてない日常を送る。
「で、ここに来たと」
大家の加鳥の屋敷に四十島がいた。そばには燕屋と鴻屋の姿も。
「カラスの話が気になって夜も寝れねぇなんて、子どもじゃあるめぇし。お前さんはやっぱり『怖がり四十島』だな」
加鳥がケラケラ笑う。燕屋も呆れてため息をつく。
「こいつはホントに小心者でね。加鳥さんには苦労をかけます……」
鴻屋の反応は違った。
「怪異なんてのは、コワイコワイと思う気持ちが具現化したんだろうさ。燕の若いのみたいに、怖がりがいるから色んな怖い話ができるのさ」
自分の言葉に頷き、茶をすする。
「カラスってのは、あれだ。薄明薄暮性といって、夜明けや夕方に活動が活発になる時期がある。猫なんかもそうだろう? カラスは卵を産む繁殖期に、その傾向があるんだよ」
鴻屋は着物の袖に腕を通し、座り直した。
「どうせギャーギャー鳴いていたんだろう? それは気が立って、声を荒げているだけだ」
「……やっぱりただの気のせいと?」
四十島は居心地悪そうに縮こまる。
「そうだよ。夜が明るいなら夜中も鳴くだろうが、そんな話、聞いたこともねぇ」
鴻屋の言葉にすっかり安心した四十島が、加鳥の屋敷を後にする。
「カラスの習性ってやつか、なぁんだ」
鼻歌交じりで歩いていると、瓦屋根に黒い影が。
それは「カァ」とひと鳴きすると、空に消えていった。赤い目をしたカラスだった。
「……カラスって目ぇ、赤かったっけ?」
四十島は急いで加鳥の屋敷に駆けていく。
こうして『怖がり四十島』の話が江戸を駆け回っていくのだ。




