第四夜:音谷無限《おとだにむげん》
主人に「帰郷でもして、孝行してやれ」と梅の頃にお暇をもらった四十島は、峠の茶屋で足を休めていた。
「急に言うんだから、燕の旦那は」
可愛らしいお給仕が持ってくる団子を載せた皿を受け取ろうと、白魚の手に触れてしまい、四十島の心は高鳴った。
「……柔らかかったなぁ。それにしても、繁盛してら」
席は満員だった。きっと、給仕の娘が目当てに違いない。そう結論づけると、地元の人らしき男たちがなにやら話をしている。
「まさかあの子が番付に載るとはねぇ。可愛らしいもんなぁ。でもよ、この先の山寺の『音だけの谷』の女はもっと色っぺえの!」
「音谷の寺か。そこのウグイスはこの時期くらいから、変な声で鳴くらしいじゃねえか。まぁ、行っても下手っぴなのと上手いのとがいるばかりで、なんも変ではなかったがな。そいで、『音だけの谷』てのはなんでい?」
「その変な声が聞けたら、その谷に行くことが出来るってよ。そこにいる女がまた綺麗のなんのって」
四十島はクチャクチャと団子を楽しみながら、その話に耳を傾けていた。
(また、鳥か。最近どうも鳥に縁があるらしいな)
この茶屋の娘より綺麗な女か。瓜実顔に可愛らしい目鼻でもついてて、体躯もスラリとしてるのかしら。うなじが綺麗でこちらを振り向くと、妖艶に流し目で笑うのかしら。
四十島の頭の中には、押し入れの奥に入れた美人画の絵が浮かんでいた。いつの世も美しい女は男を狂わすものだ。
小銭を給仕に渡し、そそくさと茶屋を後にするのだった。
山に差し掛かると、道は春霞がたなびいている。
「美人もどうせ、この霞のようにあってないもんだろう」
頭では分かっているが、もしかしてと思うと拝まずにはいられない。農民に道を尋ね、音谷寺へと足を進める。口では泊まる場所を探していると、聞かれてもいないのに喋り、内心では美人の香しさを妄想していた。
霞はやがて小雨へと変わる。山道を歩くのは慣れていた。むしろ、懐かしさに心が弾んでいた。湿った樹の匂い、でこぼこでぬかるんだ地面の感触。山野を駆け回った幼少期を四十島は偲んだ。
「なっつかしいなぁ。多少の寄り道くらい、オレの足なら大丈夫だろう」
山頂付近の丘に寂れた寺が見えた。拓けた場所なのに、禄に手入れもされていない。生え放題の藪の中に小さな影がある。ウグイスの谷渡りが山に響く。
「ケキョケキョケキョ……」
「おお、すまねぇな。今日はここで休ませてもらいたいんだ」
ウグイスには人の言葉は分からない。
四十島が雨宿りがてら、縁側に腰掛ける。埃っぽいので手で払うと、掌が汚れた。荷物の入った風呂敷を横に置き、手ぬぐいで顔や体を拭く。
しとしとと降る雨はもうすぐ止みそうだ。
「春の山はいいねぇ。風情がある」
地鳴きの小鳥が囀ろうと、急いている。
「ホー……ケキョ!」
「いいぞ、もうちょっとだ」
「ホー……ホケピョ!」
屋根に当たる雨だれの音が止んだ。
「あそこの土産屋で鶯笛でも買っときゃよかった。今時期は下手っぴが多くてやきもきしちまう」
モテる男は歌が上手い。鳥の世界ではこれが真理なのだろう。ジャッジャッという地鳴きと、下手くそなさえずり。時たま、ケキョケキョという谷渡りが静かな山にこだました。
「ホーキー……ベカコン!」
そんな声が四十島の耳に入る。
「なんでい、変なのが混じってら……」
朦朧とする意識。座っているのも危ないと感じ、縁側にもたれて横になった。それでもなお、ぐわんぐわんと目が回る。程なく、四十島の意識は事切れた。
暗い霧の中。何も見えない。頼りになるのは耳だけだ。
「……三味線の音? とりあえず、行ってみるか」
ドン、チン、テンテン。上品な音に水面を歩くかのような四十島の足音が、隙間を埋める。
ドン、チン、テンテン。
ピチャ、ピチャ。
霧の奥、一人の女が座して三味線を抱えている。女は白粉を塗ったように白い肌と、艷やかな黒髪を持ち、眉目秀麗で気品に溢れていた。座してもピンと背中が立っており、それが四十島を圧倒した。まるでこちらも背筋を伸ばさなければいけないと思うほどに。
圧倒されたのは姿勢だけではない。高級遊女でもめったに見ないほどの、美貌の君であった。
着物も高級品だ。紅梅に似せた小紋の帷子に、白地に紅の絞りの羽織を重ねて、帯は灰色地に薄紅の梅を散らした染帯を締めていた。
これを鴻屋に見せたら、驚くだろう。綺麗なおべべに凛とした姿勢。まるで人形のような美しさだ。
「こりゃ……名のあるお嬢さんにちげえねえ」
ポツリと呟くと、三味線の音が止まる。
「よう来はったなぁ。せやけど、妾のそばには寄らんといておくれやす。おまはんみたいな、頼りないお方の気がうつったら、困りますさかい」
見た目に見合ったチリチリと鳴る鈴の音の声だ。しかし、丁寧な物腰に反して、棘のある言葉に四十島はゾクリとした。
「ええ、ええ。もちろんです。こんなべっぴんさん、近寄れもしねぇさ」
顔に熱が溜まる。上方の物言いの珍しさにあてられたせいだろうか。
「ここは鶯浄土や。音だけが頼りの、盲の妾の世界どす。妾の名、どこかで聞きはったこと、あらしまへんか? 鵙屋春琴――ちょいと名の知れた、琴台を待つばかりの三味線弾きどすえ」
ホーキーベカコンと変わった声でウグイスがさえずる。まるで、三味線を待ちわびてるかのように。
「佐助はまだ戻りはりまへんさかい、こうして三味線をつまびきながら、ホーキン、ベカコンと鳴くウグイスといっしょに、待たせてもろてますのや」
琴台というのは佐助のことだろうか。風情のある言い回しに四十島は感心した。
「へぇ。あっしは小物問屋の燕屋の、見習い商人でさぁ。不勉強ですまねぇが、そちらさん言う鵙屋という名には、聞き覚えがありません。それにこんなべっぴんさんなら、江戸でも話題になってるはずですぜ」
春琴は少し考え込み、四十島の言葉を理解した。
「おまはんも、問屋の見習いさんかいな。それで佐助と見間違うたんかもしれまへんなぁ。
妾はただ、琴台を待つばかりの女どす。佐助の情に報いとうて、ここで三味線をつまびいて、慰めておりますのや」
テンテンと三味線を弾く。
「せやさかい、こんなとこ来たかて、おもろうもあらしまへんやろ? おまはんの目ぇには、妾はどない映ってますやろな。神さんにお頼み申して、顔の火傷、きれいにしてもろたんどす。綺麗やと仰ってくれはるんやったら、それが妾には本望どすえ。――妾の琴台には、醜い顔など、よう見せまへんさかいな」
美貌の君は、四十島の理解は求めていないようだった。しかし、目を開けた春琴の美しさに、目を奪われるばかり。
「この鶯浄土には、時の流れちゅうもんは、おまへんのや。妾の名かて、いずれ現では風に流れてしまいまっしゃろ。今はまだ、妾もこの世に生まれておらへん。けど――いつか誰ぞが、妾と琴台との恋を、どこかで書いてくれはるんやろなぁ……」
鈴を転がす声が、現実を曖昧にする。
どこでも見守ってくださる八百万の誰かが、いずれ生まれるであろう美貌の君をここに鎮座させたのか。佐助がもう現にいるのかもしれない。
鶯浄土で未来を見る。
理解の及ばない現象に、四十島は両手を擦り合わせ、春琴を拝む。
「春琴さん、出来ればあっしが生きてる内に、名前を轟かせてくだせえ」
伏し目の春琴は見えてもいない四十島を見据える。目でなく、音で見ているのだろう。
「見えへんでも、見えてますのや。小物屋の見習いさん……。拝まんでも、妾は、いずれ生まれる運命どす。いつ生まれるんかは、妾にも分かりまへんけどな。せやけど――物語のなかやったら、また会える気ぃがしますのや。……おまはんかて、文字の中の人やないの?」
その言葉にガツンと頭を撃ち抜かれた。
撃ち抜かれた拍子に、地面が崩れ、なにもない空間に放り出される。四十島の手が空を掴む。三味線の音、ホーキーベカコン、音だけが支配していた。
「うー、いてて……。春琴さんは?」
下手っぴなウグイスが、さえずりの練習をしている。ホーキーベカコンはいない。
「音谷寺の鶯浄土か。音しかねぇ、美人だけ鎮座する不思議な場所だったなぁ。……ん?」
懐に手を入れる。そこにはなぜか一片の三味線の駒が。
「手土産たぁ、粋だねぇ。もし春琴が名を上げたら、これをみてニンマリしてるんだろうな」
四十島が微笑む。
鵙屋春琴が実在したのか、誰も知らない。ただ、音谷では今も春になると「ホーキーベカコン」と鳴く声が聞こえるのだとか。
◆作者コメント◆
本作は谷崎潤一郎の『春琴抄』から着想を得た、オマージュ作品です。
構成・登場人物・設定などはすべて創作であり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




