第十二夜:貸本屋に通う娘
風呂屋の帰り。
いつものように貸本屋とり文に立ち寄ると、暖簾の下には若い女性の姿があった。
四十島は店の中に入り、店主、鴉沢の与八とビードロの簪の女性が本について話している。
「黄表紙なんかは、読みやすくていいわね。あたしでもスイスイ読み進めるのだもの」
「ははっ、お露さんは今日はこの本を読むんで?」
「ええ、でも後ろの方も借りたがってますし……」
チラリと流し目を四十島に送り、申し訳なさそうにする。
四十島はその色っぽい所作に目を奪われたが、なぜ読みたい本が分かったのかと驚く。
「えっ、あの。おれぁ、お露さんのあとでも構いませんので」
そう告げると、お露は口元をほころばせる。
「あら、そう? それじゃあ、遠慮なく借りますね。すぐに読み終わるので、安心してくださいまし」
借りた読本を胸に抱き、跳ねるように店をあとにするお露。
店主が彼女の足元を、一瞬だけ見る。
四十島とすれ違った瞬間、沈香に似た香りが風に溶けた。
雨上がりの夜気のように冷たく、人の肌のにおいは感じられなかった。
「べっぴんさんだなぁ……」
湯冷めしたはずの四十島の肌が熱を帯び、その場に立ち尽くす。
店主の鴉沢は黒の羽織の袖の中で腕を組む。
「最近、よく来るべっぴんさんさ。お露って言って、お前んとこのお文さんといい勝負だな」
確かにあの若さで、あの色気は狙って出せるもんじゃない。
十代後半にしては落ち着きがあり、引いた紅の赤色と切れ長の目元にほくろがなんとも艶っぽかった。
「……それにしても、若いのに濃色の着物とは渋い趣味だったなぁ」
寝る前の本の内容も、読んでいるのに入ってこない。
「あの沈香、お文さんも扱っていたな」
藤の香りも同時に思い出す。
通ぶる粋人、文字右衛門なら鼻の下を伸ばして、一句詠んでそうだ。
その後も、貸本屋とり文のお露との顔合わせは続いた。
ある日は人情本。別の日には文人系の読本。
ことごとく、四十島の趣味と被っていた。
「まぁ、四十島さんは雨月物語もお読みになったの?」
「へぇ。でも小難しくて店の姐さんに解説してもらいやした」
首を傾げ、笑う娘に四十島はしだいに惹かれていく。
好きな本の趣味が合うっていうのは、こんなにも楽しい時間なのか。
「お二人さん。そろそろ、借りる本を決めてくれませんかね」
鴉沢の言葉に、思わず二人はハッとする。
店主は「お熱いこって」と嬉しそうだ。
いつも四十島の借りようとする本を借りていく娘。
聞くと、色んな種類の本をたくさん読みたいと言っている。
「……それなら、江戸生艶気蒲焼なんてどうだい? 黄表紙だし読みやすくて、読み応えもある。最後は……おっと、いけねぇ!」
「まぁ、なんです? それじゃあ、読みたくなるじゃないですか。与八さん、あります?」
店主はやれやれと肩を落とし、在庫を確認する。
「上中下巻、全部ありますが、どうします?」
「それじゃあ、上巻だけ借りたいわ」
チャリンと銭を渡し、本を受け取るお露。
「それじゃ、またとり文でね。四十島さん」
満面の笑みに沈香の甘い香り。
もう、四十島は彼女に夢中だった。
「……で、燕の色男はなにを借りるんで?」
「たまには洒落本なんかも、借りようかな」
恋の駆け引きとは無縁の、怖がり四十島が洒落本を借りたと、町の噂になるのだった。
「なんだか、浮いた話が町を桃色に染めているわね」
燕屋の玄関を掃いていると、お文の手が四十島の肩を叩く。
「お文さんっ。いやぁ、貸本屋に若い娘がいましてね。その子とちょっとだけ喋るようになっただけですよ」
お文は意地悪く笑う。
「ふぅん。怖がり四十島に色の話って、噂になっているわよ。詳しく聞かせなさいよ」
箒の掃く音と、四十島の声が秋の風に混じる。
町人は二人の話に少しだけ、聞き耳を立てていた。
「……それで、沈香のかおりがして、流し目がまた色っぽくて」
「随分、気が合う人なんですね」
笑顔がやけに怖かった。
なんでこんなに棘のある言い方をするのだろう。
「姐さん、嫉妬です――」
口元に彼女の人差し指が遮る。
「あら、どうしてそう思うのかしら。私は気をつけたほうがいいと思っただけなのに」
町人たちがざわめきだす。
四十島の恋にお文が参戦したぞと。
彼も年増とはいえ、美人に嫉妬されていると思うと、満更でもない。
耳が熱い。世の春は秋の哀愁が運んできたのだ。
それからの数日は四十島にとって、人生の春だった。
お露とは貸本屋でたびたび顔を合わせ、お文には面白くない顔をされ……。
浮足立ち、寒さも四十島には平気に思えた。
ある雨の夜。
この日は暖かく、羽織もいらないほどであった。
貸本屋への道すがら、傘と提灯で塞がった手が湿気で濡れている。
脇に抱えた読本が、湿気でダメにならないかと気を揉んでいると、お露の姿がとり文の軒先にあった。
「あら、四十島さん。こんばんは」
暖かいというのに濃色の羽織を深く着て、本を片手に立っている。
しかし、本も着物も濡れてはいない。
「……こんばんは。お露さんも本を返しに? それとも……」
「返しに来たら、この雨ですもの。どうしようかと思っていたところですよ」
――妙だ。
朝から降っていたはずなのに、今降ったように言うのだ。
お露の声はよく通る。
カラカラと笑う声が、掠れていた。
「あたし、本が大好き。だって、人間にしかない文化なのだもの!」
お露の後ろ姿が、灯りで背が細く見えた。
「そいつぁ、いいことだ」
言葉にはできぬ違和感が、確かに四十島の胸先をかすめた。
「らっしゃい。お二人さん」
暖簾をくぐり、二人一緒に入店すると、今日はなんだか店主の様子がおかしい。
お露のことを見向きもせず、四十島ばかりに話を振る。
「今日はなに借りるんだい?」
目線はお露の足元に。なにかを隠しているようだった。
「ああ、人情本を借りようかな……」
声色は平坦に調整され、時折、彼女の目を伺う。
「それじゃ、これなんてどうだい?」
薦められた本は、四十島の趣味にぴったりだった。
お露は黙って本を返し、その様子を見ている。
終始その調子なので、四十島もあまり彼女とは話さず、店をあとにした。
「……なんだったんだ」
心がぽっかり空いた感覚だ。
今夜は灯りもつけずに床につき、暗い暗い闇の夢を見るのだった。
雀が朝を告げる。
「もう、朝か」
借りた読本の頁を開くと、道によく落ちている黒い羽根が挟まっていた。
「カラスの、羽根?」
軸をクルクルまわし、観察すると黒い羽根が紫や緑に見える。
「きれいなモンだ」
この読本は昨日、お露が返していったものだ。
「お露は……いや、まさか」
また鳥かと言いかけて、色っぽい流し目を思い出す。
沈香の 木の深みぞ 消えるるも 甘い紅は 心の内に
翌晩の貸本屋。
お露の姿はそこにはなかった。
「……鴉沢さん、お露さんは今日は来なかったんです?」
どこからともなく、かおるはずのない沈香が鼻をかすめた。
「ああ、今日は来てないね」
店主は四十島の浮かない顔を見て、言葉を続ける。
「あの娘が人だと思っているなら、深く関わらん方がいい」
鴉沢が黒い羽根を取り出し、告げる。
「気づいているんだろ? これが証拠さね」
そんなはずはない。
今日は本も借りずに、店を出た。
暗がりの裏道に見知った簪の女が歩いている。
ビードロ、お露だ。
四十島はこっそり後をつけることにした。
人を避けるように裏道を歩き、寺の裏、川沿いまで来た。
左右を確認する彼女は、人が見てないことを知ると、ふと姿を消す。
「――!」
カァカァと上空にカラスが飛び立ち、お露がいた場所には、黒い羽根が落ちていた。
「お露はやはり、カラスだったのか」
「――ということが、ありまして」
鴻屋の主人、鴻野源蔵が四十島の話に耳を傾ける。
「ああ、それは本好きのカラスでしょうな」
あっけらかんと言うものだから、四十島は固まってしまう。
「ええ……? そんなバカな」
「字を覚えたカラスは、時々そういう真似をするのさ。燕の小僧」
あいつがいくら賢くても、字なんて読めやしないだろう。
それは八咫烏みたいな神の使いに違いない。
「あんな美人に化けてまで、本が読みたいと?」
鴻屋はお茶をすすり、一息入れる。
「そうさ。でもな、人の情に近づきすぎると、碌なことにならないからね。ま、美人には注意することだな」
カカカッと笑う鴻屋に、怖がり四十島は「また鳥だったのか」と肩をすくむのだった。
そして、四十島が振られたと、木枯らしと共に駆け回るのだ。




