第十一夜:夜織る鶴の夢
湿度のこもった夜番の日。雨はあがって、誰も傘を差していなかった。
四十島は帳場で頬杖をついている。
「ふあぁ……」
「大きなあくびね。旦那様に見つからないようにしなさいね」
横を見るとお文が大きな包みを手に立っていた。反物だろうか、こんな夜更けにどこに行くのだろう?
「お文さん、そいつは反物ですか? 言ってくだすったら、あっしが持ちますのに」
下駄をカラコロと鳴らし、彼女が首を横に振る。
「これはね、鴻屋さんに卸している、特別なものなのよ。それじゃ、夜番、がんばって」
手を振り、格子の影に消えてしまった。
高級商家、鴻屋。鴻野源蔵が営む、高級織物や反物の店だ。あの旦那には、四十島も世話になっている。鳥の好事家だけあり、知識と物が自然と集まってくるらしい。
「お文さん、何者なんだろ……」
読本の作者とも繋がっているし、織女とも繋がりがある。粋な女性というのは、神秘的なものを持っているのかもしれない。
翌日、納品に訪れた近所の手習所の先生から、とある話を耳にする。
「今朝、やっと『鴻の絹』の端切れが手に入ってね。もうかみさんが喜んで、いつまでも布を抱きしめていたよ」
「へえ、そんなすごいものがあるんですか」
「知らないのかい?『鴻屋の鴻の絹』。なんでも夜にだけ織られてね、不思議な手触りなのさ。手からこぼれ落ちるほど、柔らかで頬ずりしそうになるのさ」
鴻屋か。昨夜のお文の反物を思い出す。
「んで、目の良い人には、鳥の羽ばたきが織り文様に見えるだと。わたしは目が悪くなってしまっているから、見えないがね」
「いやぁ、夜に織るなんて、鶴が織って白鷺が運んでいるんじゃないないですか?」
「そうかもしれねぇな!」
それじゃと納品された羽織紐を見ると、丁寧な仕事ぶりに目を奪われる。
「なんだ、じゃあこれは見ないで作ったってことなのか……?」
手工業の人の「目が見えない」は嘘だと四十島は思うのだった。
白鷺が運ぶのは魂から反物になったのか、読本に影響された脳内には、鶴と鷺が会話していた。
「鶴さん、鶴さん。鴻屋から催促が来てますよ」
「人間はせっかちだねぇ。燕が巣立つ頃には出来るって伝えておくれよ、白鷺さん」
「なんでも『鴻の絹』って文句で売って、仕入れては即完売するそうですよ」
「鶴が織るのに鴻(※ガチョウ)とは、無粋なモンだね。欲をかかなきゃまた売ってやると伝えなさい」
「水辺に棲まう鳥ならなんでも良いんですよ。鶴さんも湿原にいるから一緒です」
「そうは言っても鷺さんや。こちとら験担ぎの鶴ですよ」
「それならこっちは神の遣いですよ。わたしみたいな全身白いのは、古来より縁起が良いとされています」
不毛な会話が頭の中で繰り返される。今日も今日とて「また鳥か」と呟いた。
「明日はまた夜番か」
天井から水滴が落ち、ポチャリと湯船に溶けていく。手拭いで剃ったばかりの月代を拭いて、頭に乗せる。
熱い湯は江戸に来たばかりは慣れなかったが、今ではこれじゃなきゃ疲れがとれない。
「鶴の反物を白鷺が運ぶなんて言ったが、なんだか胸がざわつくな」
昼の夢は、うなじの綺麗な織女の反物を、お文が受け取る……までに至った。ついでに美しい女同士が絡むさまを想像しては、下半身に熱がこもってしまう。
「お文さんはそんな人じゃない!」
勢いよく立ち上がって注目を集めてしまった。
「すみません……」
そそくさと脱衣所に行き、いそいそと帰路についた。
翌晩。行灯の近くで香袋の仕上げをするお文の手つきを、四十島は見つめている。鼻をくすぐるお香のかおり。小さな布を針ですくい、引っ張ってはかがりを繰り返す。
「見られていると、恥ずかしいのだけど」
「すみません、いつもながら奇術のようだったもんで……」
香袋の誂えもお文にかかれば、あっという間だった。
「それじゃあ、夜番、がんばって」
手をひらひらさせて、彼女は格子の戸を閉める。
……なにかある気がする。心のざわつきを確かめるため、四十島はお文をつけることにした。
(女ひとりだってのに、なんでまた人を避けるような道を選ぶんだろう……)
通りは人も少なく、狭かった。一本横にそれると、人も多いのに不自然だ。碁盤の目なのだから近道よりも、襲われる心配をしたほうが安全なのに。
(それにここ……鴻屋の裏手の通りだ)
鴻屋の裏に着いたと思ったら、お文の姿が見えなくなっていた。
「……あれ? 確かに見ていたのに」
闇に紛れて羽音がする。顔を上げると暗くても白と分かる、大きな鳥が反物を背に夜空に舞い上がっていた。
「白鷺? 鶴? お文さんは?」
彼女の姿は消えていた。
もやもやしたまま、数日が経つ。お文もいつも通り帳場の仕事と香の誂えの仕事をこなしていた。
「やはり、お文の選ぶ香袋は一品じゃ。ここで一句。『燕屋の 香袋の 選定や 粋な町人 うならす一品』。どうじゃ? おぬしなら、どう返す?」
「相変わらずですね、文字右衛門さん。うーん……それなら『選び香 うなるもよしや 町人どの 花と気づかず 根を愛しけり』なんて、どうでしょ?」
黒い羽織の老人が笑い、お文も口元を隠す。
「カッカッカ! 実に良い句である! それではまた、よしなに」
「はーい」
四十島に粋は分からない。けれども、彼女が老人を体よくいなしたのは、なんとなく分かった。
「ほれ、ぼさっとしてないで、これを鴻屋に持っていけ」
手代に急かされ、外に放り出されてしまう。持たされた風呂敷を抱えて、走った。
「客とのやり取りも見て勉強しろって言ってたのに……。あの人は言ってる事とやってる事が滅茶苦茶だ」
ぶつくさ言いながら鴻屋の裏手に向かう。
「おお、燕の。また怖い話かい?」
裏手門にお目当ての鴻野源蔵が出てきた。茶色い羽織に緑の平打紐がしゃれている。老年手前にしては若々しく、腰も曲がっていなかった。
「いえ、これを届けに……っと、よければ噂の『鴻の絹』について聞かせてくれませんかね」
「? 構わねえよ。そんなら実物を見せてやろうかね」
源蔵は中に入ると、縁側に腰掛け、隣に座るよう促される。申し訳なさそうに四十島が座ると、彼は茶でもてなした。
「どうせ、手代に押し付けられたんだろう。見てごらん、鳥小物の山だ」
四十島が渡した風呂敷からは、鳳凰のかんざしやら、スズメの櫛やらが出てくる。女物が多かったが、鴨の根付は渋く、男でも身につけられそうだった。
「鴨の根付……これなら男でもつけられそうですね」
「はっはっは、マガモの雄がこんな模様をしているな。そうだ、『鴻の絹』だったな。少し待っておくれ。おぉーい!」
彼は小僧に『鴻の絹』の見本を持ってくるよう言いつけ、待っている間に片手で茶をすする。しばらくすると、小僧が見本の布切れを持ってきて、奥に下がった。
「これが『鴻の絹』……」
艶やかな絹は、一見すると無地に見える。しかし、光の角度で羽のような織り文様が浮かんでいた。四十島は絹の美しさに息を呑んだ。
「これはね、夜にだけ織られると聞いたよ。不思議な話さ。機織りは昼にやるもんだろうに」
「織った人をご存知で?」
「さあね。だが、鶴が夜中に織ってるなんて言う者もおるな」
顔も語気にも嘘はなかった。ただ文様を見ていると、お文の羽飾りを思い出す。なんとなく、似ているような、そんな気もした。
その晩のこと。
暗がりの機場に、長い袖を翻す白衣の女が機を織っている。
トントンカラリ、トンカラリ。トントンカラリ、トンカラリ。
規則正しく機が鳴る。横にはもう一人、女が座っていた。暗がりでよく見えない。
提灯を手に近づくと、帯に香袋が目に入る。藤の香りがほのかに漂う。灯りに照らされたそれは、一見すると無地に見えた。目を凝らすと、羽の文様が。
女の顔を確認すると、とろんとした目のお文だった。
「なぜ、ここに?」
何度か目をしばたくと、お文も、織女もいなくなっていた。ただ、鳥の羽ばたきだけが残っている。
白鷺が夜風に乗って飛び立つのを見送ると、耳元でお文の声がした。
「見たな」
四十島が薄くなった布団から飛び起き、辺りを見回す。
「ゆ、夢?」
すきま風は初夏の香りを運んでいた。
翌朝、いつものようにお文が出勤する。
「おはようございます。……昨日、鴻屋に行っていましたよね?」
口元に微笑みをたたえ、彼女は返事をする。
「さあ? なにかの夢でも見たんじゃない?」
お文の帯の香袋は夢で見たのと同じだ。すれ違うと甘く軽やかな藤が香る。
彼女は四十島の考えなど袖に振って、いつも通りに振る舞っていた。
怖がり四十島の眠れぬ種がまたできたのだった。