第十夜:番外編「白鷺と風渡る夜」夢月庵鳥文 作
※これは第九夜に登場する「読本」の全文を読者に提示するための番外編です。
四十島が感じた幻想を、あなたの目でも確かめてみてください。
『白鷺と風渡る夜』
作:夢月庵 鳥文
【序詞】
白鷺者,風之精也。感人心,導死者往蓮之国也。
(=白鷺とは風の精である。人の心に感応し、死者を蓮の国へ導くものなり。)
【一の帖】風の客人
雨はしとしとと、藁屋根を打つ。山かげにあるこの村は、暮れ六つを待たずしてあたりが薄墨に沈み、人の声も鳥の鳴きも聞こえなくなる。
夜半より風が立つと聞いた。軒のしずくが竹筒に落ちる音が、時折、寝静まった家の内にこだました。
おしのが病の床につくようになって、もう三とせが過ぎる。
初めは咳ひとつ、熱ひとつだったものが、次第に起きられぬほどになり、やがて手足の先も冷えたまま戻らぬ日が増えていった。
その晩のこと。
しずかな雨音にまぎれて、戸口のほうから音がした。
母のおまさが、囲炉裏の灰をそっと寄せる手を止めて顔を上げたときには、もう男が、軒先に立っていた。
ぼろの蓑に雨が落ちて、足もとはどろんこ。けれど、傘をたたむ仕草はどこか丁寧で、言葉も柔らかだった。
「旅の途中にて、急に雨に降られ申した。少しばかり、雨宿りを……」
おまさは、しばし男の顔を見ていた。
痩せた男だった。けれど、その目ばかりは、夜の山よりも静かに光っていた。
「おまえさん、名は?」
男は無言を貫く。
おまさは不審に思いながらも、骨の折れた傘を受け取り、雨垂れを丁寧に拭く。
ケンケン、コンコン。おしのの咳が激しくなる。旅人の傘を戸に立てかけ、娘の元に駆け寄った。苦しそうに唸る娘の額を、濡らした手拭いで汗を拭う。
雨の音と、おしのの咳が暗がりの空間を支配していた。
いつの間にか男が娘の枕元に正座している。気配もなく、座っているので、おまさは目を丸くしていた。
寡黙な旅人は、小さな農家の家屋には不相応なほど所作が洗練されている。伸びた背はピンと張って、鶴のよう。囲炉裏の火に照らされた男は、黙っておしのを見つめている。
おしのが目を開ける。おまさが娘と男の分の粥を用意し、振る舞った。
「お構いもできませんですみませんが、これを」
おまさは粥を娘の口に運ぶ。一口ずつ冷ましてやると、おしのがゆっくり嚥下し、粥を腹にためていく。
ふと、目をやると男はこちらを見つめたまま、粥に手もつけない。粗末な飯に気を悪くしたか……そう思ったが、娘の世話で手一杯だった。
「口に合いませんでしたか? それなら、これは下げさせてもらいます」
そう言って粥を鍋に戻し、自分の欠けた茶碗に粥をつぎ、腹を満たす。
雨はまだ降り続いている。おしのの顔は疲労の色が見えた。
「風の音に、鳥の音がまぎれていた」
男がポツリと呟いた。おしのが顔を上げる。
「小さい頃、白鷺を見かけました。真っ白い体に……、浅黄色のくちばしと目が田んぼに映えて……美しかったのです。そして……、わたしにだけ目を向けていました」
時折、咳き込みながら、言葉を紡いだ。
「白鷺は、人の心のやわらかいところを見抜くという」
『白鷺と 風の音まじり 夢さそふ 空を見上げて 山霧しずむ』
男が和歌を詠む。呆気にとられるおまさとおしのが、まばたきの間に旅人はいなくなっていた。
床に一枚の白い羽根だけが落ちていた。
【二の帖】夜明けの羽音
雪の山村。白く閉ざされた空間に、またあの旅人の姿があった。おまさも、音もなく訪れる男にもう驚かない。
しんしんと降る雪が音を消していく。そんな日に、いつもの旅人が雪宿りに来るのだ。
数夜ごとの訪れを繰り返していくが、おしのの病状は悪化していくばかり。
「おかあ、わたし……怖くありません。仏様のもとに還れるのならば、この苦しみからも解き放たれるでしょう」
「おしの、気を弱くするんじゃないよ。孫の顔を見せるまで生きとくれ」
炭のにおいと白湯が立つ音。旅人は黙って見守っている。
「旅人さん、いつかの詩の返歌です」
『月光に 透ける障子の 淡い詩 霧はなくとも 風は溶けるる』
傘が転けて、大きな音を立てる。その間に、男は姿を消した。
「また茶にも手をつけずに行ってしまったね」
「おかあ、あれはきっと……」
おしのが言う間もなく、意識が混濁してしまう。
医者も薬も、旅の祈祷師も痩せこけた娘の前では、まるで霧に筆を走らせるようなものであった。
頬がこけ、胸は骨が浮き、手足は冷えて筋張っていく。滋養に良い葉も、猪肉も娘の病態を良くしない。おまさが娘の背中を拭くと、死人のように冷たかった。
「せめて温かくしておかないとね」
涙ながらにおしのにすがりついても、支える筋力もなかった。額を、くぼんだ目を、こけた頬を撫でても仕方ない。
夫も娘もおまさの手からこぼれていく。その事実に毎夜、枕を濡らした。
おしのが目を覚ます。看病に疲れたおまさが隣で寝ている。
母が心身をすり減らしているけど、この身はいずれ散っていく。親不孝を仏様は咎めるだろう。賽の河原で石を積んでも、母には悔いを打つのみでしょう。
地蔵様、できればまた母のもとで健康な身で、生まれ変わりたいです。そして、孝行を存分にさせてほしい。苦労はもう、かけたくありません。
あの不思議な旅人さん。あれは、きっと……。
梅がほころび、村にも香りを届けてくれる頃。雪は溶け始めて、川になっていく。
春雨が雪解けを急かしてくれる。陽が照らしてくれる日は暖かいが、こんな日はまだ寒い。風は冷たくないけれど、ほのかな花の香りが人々をふっと息つかせてくれる。
桃色の空が障子を照らす。
「せめて粥だけでも食べてくれないか……」
憔悴したおまさが乞うように、呟いた。ぜぇぜぇとした呼吸だけがこだまする。おしのの返事はそれだっけだった。
かたり、雨でもないのに戸から音が鳴る。
「すまない。旅の者だが、泊まれせてくれないか」
骨の折れた傘のいつもの旅人だった。
「なんもお構い出来ませんけど」
手をつけられないだろう茶を出す。亡くなった夫と旅先で買った梅の湯呑みに、出がらしの茶だ。客人に申し訳ないと思いつつも、精一杯のもてなしだった。
すると旅人が湯呑みに手をつける。ズズッとすすると、男がため息をつく。
「心さえこもっていれば、立派なもてなしだ」
おまさの心のつかえが取れた。
紺色の空にお月様がひとつ浮かんでいた。
おしのの顔は穏やかだ。
「この世とあの世のあわいに、いのちの羽が舞う時が来た」
男がそう言うと、娘は何年ぶりに笑ってみせた。
「ええ、もう寂しくありません」
『うたかたの 人の世にぞ 夢うつつ 白鷺飛んで 蓮が咲く哉』
男の和歌を聞いた後、微笑みをたたえて娘は事切れた。
おまさは泣きじゃくり、床に白い羽根がいくつか落ちているのを気づいたのは、もう夜遅くだった。
翌春、おしのの忌明けの朝。
おまさが屋根を見上げると、朝日を浴びた白い羽根がひらりと舞い落ちていた。
誰もいない庭に、暖かな風がひと吹き渡っていく。
『散る梅の 舞い散る花びら 風に舞い 白鷺見送る 蓮の宮哉』
名もなき旅人が亡き娘を、仏の元へと見送ってくれたことをおまさは悟っていた。それは白い体に浅黄色のくちばしの、美しい鳥なのだろう。
赤い目の奥は澄んでいた。
【あとがき抄】
一の帖より、旅人の詠み歌(おしのの枕元にて)
『白鷺と 風の音まじり 夢さそふ 空を見上げて 山霧しずむ』
白鷺と風が交じる幻想的な夜を詠みました。
二の帖より、おしのの返歌(臨終の数日前)
『月光に 透ける障子の 淡い詩 霧はなくとも 風は溶けるる』
あの世とこの世を隔てる〝障子〟越しの風景。霧がなくても、風は静かに心を溶かしていく。
二の帖より、旅人の詠み歌(娘の死の直前)
『うたかたの 人の世にぞ 夢うつつ 白鷺飛んで 蓮が咲く哉』
娘の魂を蓮の咲く極楽へと送り届ける瞬間。
二の帖より、おまさの返歌(忌明けの朝)
『散る梅の 舞い散る花びら 風に舞い 白鷺見送る 蓮の宮哉』
春を迎えた庭で、娘の魂が静かに旅立つのを見送りながら、母が手を合わせるように詠んだ歌。白鷺は、風に舞い、やがて仏の蓮の宮へ──。