7 オルターエゴ
道なき道の草原を抜ける。
どちらが西か東かもわからない草原を、ラトレイアについて歩く。
少女には自分たちが今どこにいるのかわかっているようだ。
『その辺りはテオリア・オンラインの正規ルートね。ちょうど〈ロア・ルンド〉への道中という感じ。本来ならば〈修辞の聖堂〉を抜けて、最初のダンジョン〈偶像捨ての砦〉をクリアした後ね』
いつの間にか正規ルートに戻っていたようだ。
しかし、ダンジョンとは、どういうことなのだろうか。この世界が現実なら、ボスとはいえ1つの生命体だ。
倒したらそれでもうボスは復活しないはず。
少ないとはいえ、テオリア・オンラインには先に進もうとするプレイヤーがいるのだから、当然、クリアしてあるダンジョンは簡単に素通りできるのではないか。
「アルタリアルは実世界だからダンジョンも誰かがクリアしたらもう全員素通り出来るんじゃないのか?」
『ダンジョンは別なの。〈デザイナー〉が作った空間魔法だから、個別に空間が割り当てられる』
ダンジョンは個人個人が別の場所に飛ばされ、それぞれが己の力で突破する必要がある。
しかも死亡すればキャラロストという状態で。
正規ルート……〈偶像捨ての砦〉を越えて〈ロア・ルンド〉に到達することは容易ではない。
本来、黒貂たちがいるところに到達するには、テオリア・オンラインをある程度やり込む必要があるわけだ。
「〈偶像捨ての砦〉がソロプレイになるのはわかった。じゃ、最初のボスステージ〈修辞の聖堂〉に何人かで同時に入ることは?」
〈修辞の聖堂〉のボス〈巡礼の偶像〉のダメージは引き継ぎであることがわかっているから、空間魔法などでは無いはずだ。
黒貂自身、グリッチ状態になって〈逆打ちの巡礼教会〉に到達したわけであるし……。
理論上は同時にキャラメイクを終えれば、同時にゲームを始めることが出来る。
『出来ない。サーバーがいっぱいです。順番を待っています、が出て入れないから』
そういう都合の表記が出来るわけだ。
同時にキャラメイクを終えても、反映されなければ意味がない。
つまり、どうあがいても〈ロア・ルンド〉までは協力プレイは出来ない、ということか……と黒貂は1人納得する。
道中で待ち合わせは出来るかもしれないが、結局は〈ロア・ルンド〉に行かない限り、序盤のマルチプレイはかなり難しいだろう。
待っている間にモブモンスター……魔族に襲われないという保証は無い。
トリルと話しながらラトレイアについていくと、霧のようなモヤが溢れている森に到達した。
〈霧隠しの森〉という表記が視界に現れる。
「この森を抜けたら〈ロア・ルンド〉です」
自身の〈アーツ〉である無明〈エコー〉を使って、辺りを探る。
なんとなく、殺気を感じたからだ。
「ラトレイア、待って」
小声で伝える。無明〈エコー〉に人影が映る……。
長い紫色の髪の男。
彼が足蹴にしていた何かを、踏み潰す影が。
「結構逃げたなー。ま、こんなもんか」
黒貂は様子を伺う。
「ふ、黒貂さん……」
何かを目にして息を呑む少女。
背後に隠れたラトレイアが黒貂の裾を引く。
男が足蹴にしていたのは、人間……いや、プレイヤーの頭部らしきものであった。
足元に首の無いアバターがあり、すぐに光り輝いて消えた。
あれがテオリア・オンラインにおける死……。
『紅き微笑のルルベール……最悪。こんなやつが出るなんて……』
トリルの呟きに黒貂は応える。
「何者だ」
『このゲームは魂が繋がっているから、現実の肉体が死を迎えれば、ゲーム側の体であるアバターに移る……つまり転生する』
「それは身をもって知ってる」
この異世界アルタリアルはゲームのフィールドではなく、実際に存在する実世界だ。
テオリア・オンラインは異世界に魂を繋いで、アバターと呼ばれる造られた肉体を操作している。
現実の身体が失われれば、行き場を失った魂はアバターに移行する。
トリルはこれを廃人化と呼んだ。
事実、黒貂もまた廃人になった一人である。
『廃人になって転生する……それは一般プレイヤーも例外じゃない』
黒貂のようにアバターの身体に魂を移行させ、異世界アルタリアルでログアウトの存在しない生き方を続ける……それは一般プレイヤーでも可能なのだ。
『……こいつは初心者狩りに没頭しすぎて、寝食も忘れて肉体が死んで、魂が異世界に移行した元プレイヤーよ』
狂っている……。
いや、狂っているからこそ、成し得た廃人化だ。
狂ったゲーム廃人なのは黒貂自身もそうであるから、何も言えないのだが。
『こういったPK〈プレイヤーキラー〉はオルターエゴって呼ばれている』
オルターエゴ。
現実世界の人生を捨てて、テオリア・オンラインの中でプレイヤーキラーに没頭する……。
『もっともオルターエゴの存在は都市伝説と思われているから、真実を知っているのは一部だけれど』
もっともだ。
黒貂自身、この転生……廃人化を行なっていなければ信じていなかっただろう。
PKプレイヤー……オルターエゴである〈紅き微笑のルルベール〉。
彼は全てを捨て、殺人の快楽に身を任せた狂気のプレイヤーなのだ。
もっともその狂気は黒貂も紙一重なのかもしれないが。
〈霧隠しの森〉はその名の通り、深い霧に覆われ、背の高い草花が黒貂たちの姿を隠した。
ラトレイアの手を繋ぎ、見つからないように……腰をかがめ、ゆっくりと歩く。
〈紅き微笑のルルベール〉は巨大な両刃の戦斧を肩にかけ、辺りの匂いを嗅いだ。
「んん……? いるな……?」
匂い……そう。プレイヤーと異なるのは匂いを感じることが出来る点だ。
フルダイブを可能とするハイエンドPOD以外は、臭いを鮮明に感じることは難しい。
目の前の料理などならば鮮明に感じるだろうが、広い空間で細微な違いを嗅ぎ取ることは基本的には難しい。
〈感覚〉の違い……それこそがオルターエゴや黒貂ら、廃人プレイヤーと一般プレイヤーとの違い。
獣の様に、こちらを見つめるルルベール。
紫の長い髪の隙間から、獲物を狙う怪物の目がギラついている。
身動きが出来ない。ラトレイアも息を必死に殺している。
こちらにはラトレイアがいる……彼女が犠牲になっては元も子もない。
「くそっ」
黒貂は思い切って、駆けた。
獲物の登場にルルベールは狂気的な笑みを浮かべる。
「何だお前……俺の存在に気付いていたな」
ルルベールが認識したことを確認し、黒貂は〈アーツ〉を発動させた。
「幻影〈ファントム〉」
声と同時に、ルルベールの視界は強制的に体の向きに動かされる。
獲物を狙う男が、驚愕の表情を浮かべた。
「!?」
ガクッとルルベールの顔の向きが変化する。
「一瞬ターゲットロックオンが外れた!?」
狂気の男は再度黒貂がいたところを見るが、すでにそこには影も形もなく、消えた方向すら掴む痕跡が無かった。
「どこ行ったァーーー? アイツ!!!」
ルルベールは戦斧を地面に叩きつける。
「なめやがって! 絶対に殺す! 殺す! 殺す!」
精神を集中し、〈アーツ〉を発動させたルルベール。
ここまで〈アーツ〉を使わなかったことには理由がある。
ルルベールは魔力にステータス振りを行っていないのだ。
極限まで筋力と体力に振ることで、低レベルでの一撃必殺を可能にしている。
「狩猟〈ハント〉」
ルルベールの〈アーツ〉……狩猟〈ハント〉はプレイヤーのみを見つけることが出来るもの。
黒貂の無明〈エコー〉と似ているが、無明〈エコー〉が範囲内の物体全てを認識させるのに対し、狩猟〈ハント〉は可視範囲内のプレイヤーを探すものだ。
「見つけた!!」
ルルベールの視界にサーモグラフィーのように表示された黒貂が映る。
再度、黒貂は駆けた。
幻影〈ファントム〉のリチャージはまだ終わっていない。CD……クールダウンまであと20秒ほど。
一方、紫髪の男は落ち着いてから、〈アーツ〉を発動する。
「〈アーツ〉……監視〈レベルチェック〉!」
ルルベールの視界に黒貂のレベル情報が表示された。
「レベル21!? この段階ではかなり高い。だが……」
そして、〈紅き微笑のルルベール〉は一気に地面を蹴り、跳躍した。
黒貂にターゲットロックをかけて。
「流石に15差を埋めることは出来ねぇだろーーー!」
黒貂は背後へ飛びながら、〈アーツ〉のリチャージを見る……あともう少し……5、4、3……。
ドガッ!
幻影〈ファントム〉を発動させたことで、ルルベールの戦斧は黒貂の目の前に落下した。
間一髪。
まさしく、ひとつかみの髪先がハラリ、と刃を受けて落ちる。
「お前……! また……妙な〈アーツ〉を……」
「初心者狩りか……」
黒貂は〈拝啼〉を構えた。
黒刀の切先が相手に向かう。
レベル15差……相手のレベルは36。
ルルベールは本来であれば、この辺りにいるべきプレイヤーではないのだろう。
レベル21の黒貂ですら、〈白鴉〉の烏〈白翼〉と戦った後なのだ。
恐らくこの辺り……〈ロア・ルンド〉手前の適正レベルは、高くて10程だろう。
「初心者狩り……そうとも言うな! いや……俺は教えてやってるのさ。このゲームには……新規プレイヤーなんていらねぇ!」
ルルベールの大ぶりの攻撃が黒貂を襲う。
巨大な戦斧が眼前を過ぎていく。
受ければ、〈拝啼〉は折れてしまうかもしれない。
それだけの強さを思わせる重撃。
「クハハハハ! やめられねー! この感覚、最高だ。一生やっていてぇ……!」
重撃を軽々と繰り返す。
敵にとっては遊びなのだ。
なぶるように、ルルベールは攻撃を続ける。
肉体を失い、完全に異世界に魂を移動させたPK……オルターエゴ。
当たらぬように、されど、逸れないように。
重撃がギリギリのところを過ぎ去っていく。
避け続ける黒貂。
しかし、息が上がり、限界が近付いているのがわかった。
「あぁ……お前もう限界だァ……終わりにしような」
狂気の笑みを浮かべる男。
乾いた返り血をつけたまま、邪悪に微笑む〈紅き微笑のルルベール〉。
大きく振りかぶった一撃が黒貂の頭部に向かう。
黒貂は死を覚悟した。
「〈竜鱗〉!!」
金色の障壁〈バリア〉が黒貂と戦斧の刃を隔てた。
ガリガリ、という鉄と祈力のぶつかる音が響く。
「何だ。女連れだったのかよ!! クハハハハ!」
両手を広げ、祈跡を使うラトレイア。
黒貂と戦斧の間の障壁……〈竜鱗〉。
祈跡。
〈竜鱗〉は障壁を張る祈跡のひとつのようだ。
体重を乗せた戦斧を防ぐ、竜の鱗のようなハニカム構造が見える。
「女ァ!! 祈跡使いか! 男をヤッた後でお前もヤッてやる!!」
〈竜鱗〉にヒビが入る。
「きゃっ!」
ラトレイアの叫声。
ヒビはわずかな裂け目から八方に広がり、ギリギリという音と共に障壁〈バリア〉の限界を告げる──。
黒貂は〈拝啼〉を強く握った。
その時、心臓の鼓動が……ドクン、と鳴った気がした。
「死ね! ガキ!」
ルルベールが嗤う。
狂気の微笑……その口角が、さらに広がり、恐ろしいほどの笑みに変わる。
対して、黒貂は静かな表情を浮かべた。
極限の状態で、黒貂はむしろ、穏やかな心地すら感じた。
「オルターエゴ……。PK狂いか……くだらない……くだらないな」
全身を何か、魔力のようなものが走る感覚を受けた。
体温が上がっていくのを感じる。
怒り……いや、厭世観に近いのかもしれない。
諦観……諦めにも似た……何とも言えない感情が、黒貂の心の内に巣食った。
『!? 黒貂、目が……青く輝いてる……!? オーラみたいのが出てる……』
トリルの声が聞こえた気がした。
黒貂は歩みを進める。
しかし、今はすべての音が、海の中のように抑えられており……ほとんど何も聞こえない。
〈拝啼〉が鋼の音を響かせる──。
「もう防ぎきれません……! 黒貂さんっ!」
ラトレイアの悲鳴にも似た叫び。
〈竜鱗〉が衝撃と共に弾ける。
戦斧は少し軌道を変え、頭部から離れた。
しかし、瞬間、ルルベールは横薙ぎに構え、力を込める。
「さぁ! 逃げろ! 逃げてみろ!」
黒貂はルルベールを見据える。
「逃げるのはもうやめだ」
何かが弾けた。
戦斧が迫る。
しかし、その速度はとても遅く。
さらには、進むであろう軌道が蜃気楼のようにぼんやりと見える。
直感する。
それを避けるだけだと。
「全て見える……」
攻撃を避けられたルルベールは驚愕の声を上げる。
「なんだ! おい! 15レベル差だぞ! どういうことなんだ!?」
先ほどの遊びとは違う。
ルルベールは殺意をもって確実に敵を狙っていた。
だが、しっかりとターゲットロックをかけているというのに。
何故かルルベールの重い斬撃は、獲物を捉えることがない。
1振り、2振り……。
なおも大きく斧を振り、攻撃を加えていく。
しかし、その攻撃はいずれも黒貂の体には届かない。
踊るように、やわらかに、ルルベールの攻撃は全て回避されていく。
紫色の長い髪を揺らし、男は叫んだ。
「ふざけるな!! ふざけるな!!」
黒貂は早い速度で振り回される巨大な斧を、見切り、すんでのところで逸らしていく。
相変わらず右目からは青いオーラを放ちながら。
「見える」
黒貂にとっては全てが止まっているに等しかった。
ルルベールの背後に動く。
追うように、ルルベールは足を動かすが、黒貂を捉えることは出来ない。
黒貂の視界にはルルベールの背中が映っている。
狂気の男……彼の背にはブラックホールのように黒い点が浮かんでいた。
攻撃が遅くなったと同時に、この〈黒点〉は発生したように見える。
黒貂の視界、〈アーツ〉に新しい技が増えていた。
何故かわかる。
あの〈黒点〉に黒刀……〈拝啼〉を……。
そして、黒貂は〈アーツ〉を呟いた。
「命に至る刃〈フェイタル・ナイフ〉」
体が動き、ルルベールの背に生まれた〈黒点〉に刃が吸い込まれた。
いや、確かな感覚を持って、ルルベールを〈拝啼〉が貫いた。
「なんだ!?」
ルルベールが背後から攻撃を受けたことに気付くのに5秒。
彼が事態を理解するのにさらに5秒を要した。
その10秒は彼の人生においてもっとも長い10秒だった。
「俺が……消える……!?」
何年も見せることのなかったルルベールの絶望の表情……それを確認出来るものはいない。
黒貂は倒れ込み、背の高い草花の中、埋もれるように突っ伏していた。
「黒貂さん!」
ラトレイアが駆け寄る。
光となり、消えていく〈紅き微笑のルルベール〉。
後には魔力と祈力で作られた青と金色の残滓が、わずかに輝くだけだ。
「大丈夫ですか?」
ラトレイアは黒貂の耳元で心配そうな声音で、言った。
「ちょっと……いや、かなり疲れた……」
「ごめんなさい……私、何も出来なくて……」
「大丈夫だ……君の使命は戦いじゃない……」
それだけ言うと、黒貂の意識は遠のいていく。
「黒貂さん!」
再度、声をかけるラトレイア。
少女は目に涙をたたえ、金色の髪を揺らす。
そこに、足音。
「……ふむ。オルターエゴを追ってきたのだが……どうやら、違うらしい」
巨大な……大きな影。
怪物? 魔族?
ラトレイアはその影を見上げた。
「君は歩けるかな」
筋骨たくましい巨躯に、下半身だけの鎧。
オーガ?
魔族……鬼〈オーガ〉のようだが、一方で表情は優しく、眼鏡の奥に笑みを浮かべている男。
彼はラトレイアに優しく声をかけた。