60.繋ぎ止めていたのは一人の少女
「……」
向かってきた七本の糸。
だが、本命は一本のみのようだ。
六本を目眩ましに使った必殺の一撃って所か。
「……」
右手人差し指の一本による袈裟斬り。
軌道は俺から見て左上からの一撃。
速く、鋭い。
今までに見た攻撃の中で最も鋭い一撃と言えるだろう。
その代わり他の糸の動きはおざなりだ。あれに当たってもたいしたダメージにはならないだろう。おそらく服の布地さえ切り裂けない。
そういえば、ヤツはあの指での攻撃を多用していたな。最も得意な繰り指なのだろう。
「死ねっ!」
「……」
ずいぶん必死な表情だ。まるで自分に言い聞かせているような。
死の手応えを感じるのが怖いのだろうか。相手が仇だとしても。
だが、残念ながら殺されてやるわけにはいかない。
俺はまだ死ねないし、彼女に俺を殺されるわけにもいかないから。
「……よし」
糸が迫り来る。
正面から受ければ人間の肉体など容易に切り裂くだろう。
だが、一本ならば都合がいい。
俺はスッと腕を挙げ、両手を糸に向けた。他の糸は無視でいい。
「バカめっ! 腕ごと真っ二つだ!」
ひきつった笑い。
覚悟はあるが恐れもある、か。
「……」
集中。
目を凝らし、迫り来る糸に神経を集中する。
世界が色を失い、時間の流れが遅延するような感覚になる。
完全記憶能力の副産物のようなものだ。
目に映る全てを、五感で感ずる全てを記憶するというのは脳に多大な負担を強いる。
なので通常、人は無意識に情報の取捨選択を行い、視覚で得た情報は特に選り分けて脳が処理する。
だが、俺はその全てを完璧に記憶する。してしまう、とも言えるが。
街を一望できる展望台から景色を観たときなどは、家の配置や道行く人の服装、窓から見えるライトの色でさえ、ありとあらゆる全てを記憶してしまう。幼い頃はそれで何度も倒れたのを覚えている。
だが、訓練でその記憶すべき情報を意図的に絞ることが可能になった。
恣意的に行っていた取捨選択を自らの意思で行えるようにしたのだ。
そしてそれを、五感全てで行えるようにした。
その結果、その最中は動体視力を含めたさまざまな感覚機能が上昇し、擬似的に時間を遅延させたような感覚を手に入れるに至ったのだ。
それを知ったときは、あのクソジジイはえらく喜んでいたな……。『時間の圧縮は最も望むべきものなのだよ』などと言って。
まあ、あくまで感覚器官の話で、自分の肉体がそれに合わせて高速移動できるわけではないがな。
「……」
今は目の前に迫る一本の糸にのみ集中した。
色もいらない。
糸の動きと音、あとは自分の肉体の感覚だけあればいい。マドカへの警戒も最低限。ヤツもその糸に集中しているからな。周囲への警戒はすでに終えている。
迫り来る一本の糸以外を意図的に切り捨てることで、目の前の高速で迫る糸をスローモーションのように感じることが可能になった。
「……今だ」
タイミングを見計らって腕を動かす。
自分の肉体も脳の指令とは裏腹に動きが緩慢になるから、その感覚に慣れるのには時間がかかった。今では問題なく動けるが。
降りてくる糸を優しく挟むように、包むようにして迎え入れる。
左上からの糸を両手で左右から挟むように。真剣白刃取りってやつだな。
正面から受ければ切れてしまう。
だが、この類いのモノは横からのアクションには効果が弱い。
「……」
そして、糸の動きと手を同期させたら、迫り来る糸に対して左腕が前になるように、体を横に向けながら糸を受けていく。
必然的に左手が前、右手が後ろに。糸は顔の横まで降りてくる。
そのまま糸の落下に合わせるように、左手を糸の左側面に添えながら軽く押しつつ軌道を緩め、上から軽く触れながら摘まんでいく。
同時に右手で糸を下から挟むように掴みながら、糸の動きに合わせて右腕を下にさげていく。それに合わせて膝を曲げて姿勢も低くしていく。
そのままでは右手を斬られてしまうので、糸の落下に合わせて指を糸の左側から滑らせながら、糸を上から掴むようにしてコントロールを奪う。薙刀を下から振るようなポーズだ。
そのまま膝を落とし、右膝を地面につける。
俺は片膝立ちの状態で、両手でマドカの放った一本の糸を掴んでいた。
「なっ!?」
マドカがようやく異変に気が付く。
集中が戻り、世界に色が戻ったことでその声を耳が拾ったようだ。
「く、っそ!」
マドカが慌てて糸の主導権を取り戻そうと腕を振る。
「させるか」
俺は左手の指で糸を強く握り固定。もう勢いは十分に減衰させたから掴んでも斬れはしない。
右手は右手で、掴んだ部分を強く引いて両手の間の糸をピンと伸ばした。右手の先には四メートルほど糸が余っている。気が急いてずいぶん糸を長く飛ばしていたようだ。
フレイルや鎖鎌を形作るイメージ。
左手で固定。左手と右手の間の糸は一本の棒。その先の糸は鞭や鎖のように。
「こうだ」
俺は右手の先に伸びた糸をしならせて振り、マドカに向かわせた。襲ってきた糸を返したのだ。
「なっ!?」
飛んだ糸はマドカの指先に弧を描いて進む。
狙い通りだ。
マドカは驚いて動けていない。
糸が吸い込まれるように、マドカの右手人差し指の先に伸びる自身の糸に向かう。
「きゃっ!」
糸は自らの根元となる、マドカの人差し指の先に伸びた自身の糸を切断した。
マドカはバランスを崩してよろける。
これで残りは六本。
「ぶっつけ本番だったが上手くいったな」
奪った糸を繰る。
懐かしい感覚が甦ってくる。
糸を繰っている場面をよく観察させてもらったおかげで、自身の手足のように糸を操れる。
「……お前……使えるのか」
マドカが驚きながらこちらを睨み付けてくる。
どうやら気付いたようだ。まあ、そりゃそうか。
「……操糸術。
ずいぶん珍しい技術を会得したものだ。
達人ともなれば細糸一本で大岩を吊り上げ、切り裂くというが、習得は非常に難しく、現代では使い手は極端に少ない」
銃の登場でこういう中距離武器は一斉に淘汰された。
今では暗殺者が凶器を隠して使うために習得しようとするぐらいだ。まあ、その人数もごく少数だが。
「……なんで、知ってるのよ」
一応は秘伝らしいな。
「愚問だな。
俺は銀狼だ。
わずかな古い文献と口伝のみで伝えられてきたものであっても、それを知るだけで、あとは自身で検証して実践していけば習得は難しくない。俺にとってはな」
ま、操糸術は幼少期に、実際にクソジジイが連れてきた男に教わったんだがな。
たしか宗家の当主とか言っていたか。
俺に技を教え、習得していくのをずいぶん喜んでいたのを覚えている。
……最期に俺がその技でそいつを殺しても、そいつは笑って喜んでいた。
『博士のためならば、是非もなく!』などと叫びながら。
今にして思えばクソジジイに『教育』されていたのだろうな。
そのあと別の当主を立てたと聞いたが、あの流派はしばらくバタついたことだろう。
「が、習得したのはずいぶん前だ。それこそ十年以上もな。
だから思い出し、勘を取り戻すために技を見させてもらった。
広い所に狭い所。上下左右に跋扈する敵への攻撃、防御。その対応。
おかげでお前のレベルも計れたし、どういうものか思い出すことが出来た」
「……そんな。
見た、だけで……」
実際は技術的な部分は全て覚えていたわけだが、それを肉体にフィードバックさせてアウトプットさせるには実際にこの目で技を見る方が早かったわけだがな。
目で見てイメージさえすれば、それを自身の肉体で再現するのは俺にはそう難しくない。
それを再現できるだけの肉体にさせられたしな。
とはいえ、とうに全盛期は過ぎた身。念のためにと可能な限りの技を見させてもらったが、体が感覚を思い出せば俺の中の全ての技とリンクさせるのはそう難しいことではなさそうだ。
「……ふむ」
奪った糸を繰る。
ヒュンヒュンと風を切る音が心地よくさえ思える。
カーボンナノチューブか。確かに強靭だが、その割に恐ろしく軽い。
簡単に取り回すことが出来、なおかつ少しの力で強烈な斬撃に変えることが出来る。
これは暗殺に十分に役立つだろうな。
髪を縛る紐としてでも使えばいい。相手に凶器を気取られず、凶器を所持したまま潜入できる。
万が一警察に怪しまれても凶器は分からない。古くてマイナーな武芸だからな。
ボスは彼女にそういう仕事を期待して教えたのだろう。結局は狙撃専門のスナイパーになったようだが。
「簡単な話だ。
お前が俺を殺す前に俺はお前の糸を全て切り、行動を封じてしまえばいい。それで終わりだ」
「……くそ。化け物じゃん」
「ふっ。よく言われるよ。
お前はその化け物に無力化されるんだ」
「……」
不安定な精神性は威圧や煽りに脆弱だ。
マドカの精神がまさにそれ。
その精神性を保つために、
「……やれるもんならやってみろよ!」
虚勢を張り、視界はより狭くなる。
マドカが再び糸を舞わせる。
「……」
六本にまで減った糸。
今度は五本の糸を、文字通り全て放ってきた。
先ほどの一本より威力は劣るが、五本の威力はどれも均一。
当たれば十分に死ねるだろう。
追い込まれていても頭の一部はやはり冷静。あるいは基本に忠実なのか。イレギュラーに対応できるよう、必ず一本は手元に残している。
これだけ頭が熱くなっていてもこれか。
才能は十分なんだがな。
「……」
放たれた五本の糸。
左下、左上、真上、右上、右下。それぞれの方向から襲い来る曲線斬撃。
糸との距離は遠くない。後ろに下がって回避するのは難しい。そして、ヤツは糸を一本残してあるので前進突破も厳しい。
回避不可の一網打尽攻撃。
「そんな一本でこれは防げないでしょ!」
「……」
焦りで判断が弱い。
俺が先ほど糸など使わずに対処したことも忘れて。
いや、あるいは一本の対処に両手を使ったからか。
いずれにせよ、銀狼をナメてもらっては困るな。
「……」
高速で迫り来る五本の糸。
だが、今はもう集中も必要ないだろう。
「……」
手に持つ一本の糸を繰り、振るう。
真上から向かってきている一本をそれで相殺。糸は互いに明後日の方向に飛び、コントロールを失う。
「はっ! 一本どうにかしただけじゃん!」
「……」
虚勢。
『糸薙ぎ』という、向かってくる糸を横方向からまとめて打ち落としていく技があることも知っているだろうに。
俺があえてそれをしなかったことなど考えもせず。
「今度こそバラバラになれっ!」
もう敵わないことは理解しているのだろう。
だが、それを受け入れたくない。受け入れられない。
受け入れれば自分には何もなくなる。
そう思っているのか。
あるいは、これで殉じるのなら本望と……。
「……そうはさせないけどな」
殺させないし、死なせない。
それが、壊し屋の依頼(願い)だから。
「……」
左右上下から降りかかる四本。
五本同時に別軌道での糸繰りは無理があったのだろう。
速度もタイミングも全て同じ。腕と指の振りが全て同時だったわけだ。
操糸術の真髄はどれが斬れる糸か分からない所にあるというのに。
しかもそれぞれの威力にはムラがある。
ま、合わせる方としてはこの方がやりにくいんだがな。
対処する腕は二本しかないわけだからタイミングがずれていた方がやりやすい。
まあ、そのために一本削ったわけだが。
「……」
四本を同時に捉える。
軽く跳躍。
着地点が下の左右の二本の、通過後の到達点になるように。
同時に両手を左右に構え、ちょうど肩口に向かってくる左右の二本を迎え撃つ。
腕を伸ばし、高速で迫る糸を親指と人差し指で左右から挟んで摘みながら腕を曲げる。
さらに、腕を引きつつ指を絡めて減速。威力を減衰。この時点でコントロールは完全に簒奪した。
指を巧みに操作して糸を繰る。このまま糸を断ち切ってもいいが、ヤツと繋がっていた方が『返し』やすいか。
跳躍中に上からの二本の糸を奪い、そのまま落下。
落下地点には通り過ぎてクロスした下側の二本の糸。
「よっ、と」
その糸を踏みつけて止める。
切断面でなければただの糸だ。人の体重で容易に動きを止める。
「ふんっ!」
そのまま足を強く踏み込み、威力が完全に死ぬ前に糸のベクトルを変えて上に跳ね上げる。
「よっ」
クロスしながら上にあがってきた糸をそれぞれ左右の手で掴む。
片手にそれぞれ二本の糸を持っている状態。
「またっ……このっ!」
マドカは糸を繰り、奪われた糸を奪い返そうとする。
「遅いな」
「!?」
マドカの力の伝播が到達する前に糸を繰る。
熟練度は俺の方が上だ。
奪い返されて指を切られるようなヘマはしない。
俺は指を動かし、四本の糸にそれぞれ別の動きをさせた。
一本は蛇行して左から。一本は曲線を描いて右上から。一本は真っ直ぐ一直線に。最後の一本は地を這うようにして彼女に飛ばす。
と同時に俺自身も彼女に向けて前進する。
「なっ! ……くそっ!」
マドカは異なる軌道の四本の糸に驚きながらも、残った一本で何とか迎撃しようと最速の正面の一本にまず糸を向かわせた。
「残念」
「なっ!?」
だが、俺は真っ直ぐ飛ばしていた糸の軌道を途中で変更させ、地を這う糸と同じように地面を這わせた。
彼女の足元を狙って。
外れた彼女の糸が宙を舞う。
「きゃっ!?」
やがてすぐに糸が彼女を捉える。
左から向かわせた糸が彼女の右腕をまず捕らえた。切断はしない。ぐるぐると巻きついていく。
「くっ! ちょっ!?」
右上からの糸も左腕を捕らえる。そのまま糸を動かして腕を後ろに持っていかせる。
右腕を巻きつけていた糸と合流させて巻き込み、両腕を後ろ手に拘束。
すぐに地を這う二本も足に到達。
同じように両足を揃えて縛り付け、完全に拘束した。
「きゃっ!」
「おっと」
バランスを崩してマドカが前に倒れる。
糸を放つと同時に前進していた俺はすでに彼女の前に到達していた。
顔面から地面に激突しないように足を差し出す。
「痛っ」
衝撃は緩和させたが靴の甲の部分に顔面をぶつけて横に倒れる。
殺し合いをしていたんだ。これぐらいの扱いは勘弁してもらおう。
「く、このっ……くそっ! ……もう!」
マドカは両手両足を縛られた状態で何とか脱出しようとジタバタともがくが、完全に拘束してあるので抜けることは出来ない。
マドカの指と糸が繋ったままにしてあることが余計に脱出を困難なものにしている。
「無駄だ。俺の糸の拘束からは逃れられない」
何せ宗家の当主でさえ脱出できなかったんだからな。
「さて、これで終わりだな」
こうなってしまえば何も出来ない。
生殺与奪の権は握った。
まずは話を……
「……なぜ、殺さない」
「!」
「捕らえたりせずにすぐに殺せばいいだろ」
「……」
拘束されて地べたに這いつくばってなお、こちらを睨み付けるか。
たいした度胸だ。
「……女か?」
「?」
「それなら好きにすればいい。
私は噛みついてでもお前を殺すけどな」
「……」
マドカは拘束されながらも懸命に身をよじらせて仰向けになり、両膝を立たせた。
制服のスカートの隙間から彼女の下着が見える。
女として使いたいから生かしていると思っているのか。
こんな世界で生きる以上、その覚悟もしているとでも言いたいのか。
「……はぁ」
「きゃっ!」
ため息を吐きつつ糸を繰って彼女の両足を引っ張る。
曲げた膝を伸ばし、仰向けの状態で真っ直ぐ地面に寝かせる。腕は後ろ手のままだ。
「ナメられたものだな」
そう言うと、マドカはつまらなそうにため息を吐いた。
「……分かってるわよ。
銀狼はそんなことはしない。そんな甘くないもの」
分かっていてやったのか。
こんな若い娘に手を出す趣味はないし、そんな隙だらけになるようなことをするわけがない。
銀狼の過去の実績を調べているのならそれは承知の上だろう。
それでも、それでわずかにでも俺を殺せる可能性が生まれるのなら、といった所か。
「話をしたいだけだ。
舌は噛み切るなよ? その前に糸を猿ぐつわにすることなど造作もないからな」
「……ちっ」
自決などさせない。
話を終えたあとは、どうするかは彼女次第だが……。
「……はぁ。
分かったわよ。私の負け。
敗者は勝者に従う。
それが壊し屋の教え。
話でも何でもすればいいわ」
「……」
マドカは諦めたようにため息を吐いた。
実際どうすることも出来ないが、さすがに潔すぎる気もする。
何か狙いがあるのか。
「……残った糸も預かっておく」
「……くそ」
念のため、彼女が残していた一本を指輪ごと抜き取って預かる。
自分の指にはめて操作すると、シュルシュルと糸が巻き取られて指輪に収まった。
なるほど、なかなか便利なものだ。これは大きさが合わないが、自分の指のサイズに合わせたものならば手指を扱うように糸を繰れそうだ。
指輪を外して上着のポケットにしまう。
彼女を拘束してある糸の指輪は彼女の指にはめたまま。
コントロールは俺が完全に掌握してあるからこの状況から奪い返されることはない。
「……で?
話ってなんなのよ」
「……」
どうやら今度は本当に話を聞くつもりのようだ。
ならば、
「きゃっ!」
俺は糸を操作して彼女の上半身を起こした。
腕が後ろ手のままだから仰向けはキツいだろう。
「……どーも」
マドカは不服そうだったが、足をたたんで座り直した。女性がよくやる座り方だ。
「一応言っておくが、手足が後ろにあっても何かすれば糸を通じて俺には分かるからな」
俺からは彼女の手足が見えない。
だが、卓越した操糸術は先端の糸の変化さえ感じ取る。
彼女が糸を繰ろうとしたり、隠していた武器を取り出そうとすれば俺には分かる。
彼女にはもうそのつもりはないのだろうが、念のため釘をさしておく。
「はいはい。いいから早く話とやらにいきなさいよ。
どうしておっさんってこう前置きが長いのかしら」
「……」
壊し屋も苦労してたんだな。
「……まあいい。
ではまず、お前の誤解から解いていかなければならないだろう」
「……誤解?」
話を聞く姿勢になったとはいえ、このままでは俺の話を素直に受け入れられないだろう。
「……なに?
壊し屋の仇は自分じゃないとでも言うの?」
鋭くなる視線。
当然、怒りと憎しみが消えたわけではないからな。
「そうではない。
壊し屋は確かに俺が殺した」
「……」
鋭い殺意を今は気付かないフリをしよう。
「お前は言ったな。
お前たちの情報を搾り取るために、俺が壊し屋を尋問して拷問することで吐かせたのだろう、と」
「……ええ。貴方が殺したのだから、その前に情報を得るにはそうなるじゃない」
なるほど。そうなるか。確かに当然の理屈だ。
だが、そうなると、
「……壊し屋の遺体は、痛め付けられていたのか?」
つまりはそういうことだろう。
だから、その遺体を見た彼女は俺が壊し屋を拷問したのだと判断した。
「……酷かった。
いろんな所の骨は折れてたし、内臓も引きずり出されてて、顔なんて凹凸がなくなってた……」
……奴らは、本当にどこまでも……。
「……そう、か」
「……貴方、じゃないの?」
困惑したような、微かにすがるような眼差し。
「ああ。
感情論で話をしても仕方ないから方法論でいくが、俺なら情報を吐かせるのにそんな手間のかかるやり方はしない。
肉体に傷をつけずに情報を吐かせる方法などいくらでもある。
それにヤツは外からの痛みをほとんど感じなくなっていた。そういう類いの拷問は無意味だろう。
俺なら、そうだな。濡らしたハンカチでも使って吐かせるさ」
痛みを感じなくとも、呼吸が出来なければ苦しさは感じるだろうからな。
「……そう言われれば、そうかも。
最強の殺し屋銀狼は無意味に相手を痛め付けることはしないって話だもの」
「そういうことだな。
殺せる時にさっさと殺す。それが俺だ」
やっていないことを証明するのは難しい。
アリバイなどという次元の話でもないしな。実際殺したのは俺だし。
だが、幸いなことに彼女には銀狼に関するデータがある。
俺がそんな無駄なことをするような甘い存在ではないということは分かってもらえるだろう。
「……でも、遺体は損壊してた。
最初は見たくなかったけど、やっぱり最後に顔を見たくてこっそり見に行った。
……そしたら、顔も、よく分からなくなってて……でも、あんな肉体はあの人しか……」
「……」
実験と研究か。
奴らは壊し屋の肉体を参考にして脳内発火薬『花火』を開発していた。
そのために壊し屋の肉体を解剖したのだろう。
「……おそらく、お前に見せてから遺体をバラそうとしたのだろう。
せめてもの配慮、なわけないな。お前の復讐心を燃え上がらせるためか。原形を留めていないと意味がないしな。
だが、お前は見ないと言った。だから自分たちのために壊し屋の遺体を解剖した。
そのあとにお前が見に行ったのだろう」
解剖以上に遺体が余計に傷付けられていたのは、アイツの趣味だろうな。
「……じゃあ、それをやったのは……」
「まあ、解体屋だろうな。ボスの命令でな」
アジトの場所を特定するためとはいえ、アイツを逃がしたのは口惜しかったな。
今度は必ず始末しよう。
「……くそ。私を騙しやがって」
「……」
ボスからしたら嬉しい誤算だったかもな。
その勘違いが、彼女のさらなる復讐の炎となったのだから。
「ちなみに言っておくが、俺がやったのは両足の腱とこめかみだ。足はナイフで、頭は銃でやった」
「……それ、言わなくてもよくない?」
呆れたような表情。
「いや、俺が潔白というわけではないことは忘れるな。
壊し屋を殺したのはあくまで俺だ」
「……」
これは誠意でもある。
正直に打ち明けることで俺の話の信憑性を上げる意味も。
そして、彼女の生きる意味にもなればとも思う。
俺が勝ってもボスが勝っても、彼女の仇はまだこの世にいるのだという……。
「……壊し屋とは、尋常の勝負だったのね?」
「……そうだ。
一対一。銃もなし。こちらはナイフ。あちらは素手。
それがヤツの要求、望みだった」
「望み……あの人は、やっぱりもう長くなかったのね?」
「……」
「だから貴方に、銀狼に殺してほしかった。そうなのね?」
「……」
「…………そう」
悲しそうな、泣き出しそうな表情。
なんと答えればいいか迷っていたが、彼女はそれをイエスと受け取ってくれたようだ。
父のように慕っていた人物が自身の死を願っていた。
それは、彼女からしたらショックだろう。
「……良かった」
「!」
「あの人がもう限界なのは分かってた。
私じゃ、本当の家族の代わりになれないことも……。
私じゃ……彼の命を繋ぎ止めて、おけないんだって…………分かってたのよ」
「……」
マドカの右頬に雫が流れる。
壊し屋は度重なる薬物による肉体改造で、肉体も精神も限界を迎えていた。
常人ならば自我が崩壊するほどに。
だが、彼は持ち前の薬物耐性と強靭な精神力によってそれに堪えていた。
おそらく毎分毎秒終わることのない激痛に苛まれていたであろうに。
そんな彼の精神を支えていたのが事故で目覚めることのない眠りについていた妻子だった。
植物状態の彼女たちを延命するだけでも莫大な金がかかる。
壊し屋はその金を稼ぐためにも壊し屋であり続けた。まともであり続けた。
しかし、妻子は死んだ。
彼の精神を支えていたものがなくなった。
壊し屋はそれを、同じような境遇にいる人々へ寄付をするという形で補った。
だが、所詮は名も知らぬ赤の他人。
そんなことで愛する妻子によって支えられていた精神が保てるわけもなく……だが、だからこそ。
「……だからこそ、なんだよ」
「……え?」
「あ、すまない」
声に出していたようだ。
「自分と同じように事故や事件で家族が傷付き、そんな家族のために懸命に生きる人々に壊し屋が寄付をしていたことは知っている。
それを支えにしていたこともな」
「……私も知ってる。
そのせいでいつも金がないって言ってた。
そのくせ、私にはいつも何か買ってきて……いらないって言ってるのに……」
「……だがな。
それだけでやっていけるほど人間は高尚な生き物じゃないんだよ。
極論、自分とは関係のない奴らだからな」
「……」
「壊し屋の妻子が亡くなったのはここ一年の話ではないのだろう?
それだけの長期間、寄付などという行為だけで精神を保っていけるほどヤツの痛みは生易しいものではないし、人間はそんな善なる生き物ではない」
「……」
「お前なんだよ」
「……!」
猫のような目が大きく見開かれる。
「何よりも家族のように思っていたお前がいたからこそ、ヤツはやれたんだ。頑張れたんだ。
……ヒトで、いられたんだ」
「……そんなの、わかんないじゃん……」
伏せられる瞳。
「毎日送り出し、送り出され、出迎え、出迎えられ……」
「!」
「ヤツが毎日メシを用意していたのは誰だ?
何か買っていってやろうと思わせたのは誰だ?
アイツが、帰るべき場所であってくれたのは誰だ?
居場所であってくれたのは、誰だ?」
「……」
「お前なんだよ。
他の誰でもない。
お前がいたからこそ、アイツはまともでいられた。
一度崩壊寸前までいった精神を確かに元には戻せなかったかもしれない。
だが、それはもはや不可逆だったんだ。
それでもギリギリの所で引き止めていてくれたのは、お前なんだ……と、俺は思う」
「……なんで、あんたにそんなことが……」
なぜ俺にそんなことが分かるのか、か……。
「……なぜ、壊し屋は最期に俺に勝負を挑んだと思う。
まあ、銀狼ならば確実に自分を殺してくれるだろうという思いはあっただろうが、アイツにはそれ以上の動機があった」
「……?」
今ならきっと、信じてもらえるだろう。
「俺に依頼をしたかったからだ。
最強の殺し屋銀狼相手にな」
「……」
「アイツからの依頼は、『組織を潰すことになっても、マドカという少女だけは殺さないでやってくれ』というものだった」
「……!」
「……俺も、一応は父親の端くれだったから気持ちは分かる。
愛する娘には、家族には、生きていてほしい。幸せになってほしい。
もし自分にそれが出来ないのなら、そう願わずにはいられない。
父親ってのは、そういうもんなんだよ」
「……」
俯いていてその表情を窺うことは出来ない。
「……バカ。
ホンット、バカ。
そこに貴方がいなきゃ、なんの意味もないのに……」
「……」
二つの雨が地面を濡らす。
渇ききった左の瞳からも、これまでの傷を癒すかのように雫がこぼれる。
ポタポタと地面が濡れていく。
彼女が、一人の少女に戻った瞬間だった。
「ひひゃっ!
あれあれー。マドカちゃん泣いちゃってんのー?」
「!?」
「!」
が、余韻を引き裂くような、この場に相応しくない下卑た笑い声が響く。
「……解体屋ぁっ!」
彼女の叫びに応じるように、その瞳に再び炎が燃え盛るのを確かに感じた。
おまけ
「……」
マドカはテレビを観ていた。
学校は休み。仕事もない。
特にやることもない。
眠ることにも飽きて、ただダラダラとテレビを観ていた。
「……」
テレビでは話題のスイーツについての特集が放送されていた。
「……美味しそう」
マドカはその中の、ふわとろプリンに釘付けになっていた。
「なんだ? 気になんのか?」
「ひゃっ!?」
突然、背後から声が聞こえて、マドカはビクリと体を揺らした。
「ね、寝てたんじゃないの?」
そこには寝癖がついた頭をがしがしと掻く壊し屋が立っていた。
昨夜は遅くまで表の土木作業員の仕事をしていたようだ。
「あー、これからボスの方の仕事でな。ちょっと行ってくるわー」
壊し屋は寝癖はそのままに上着を羽織った。
「ちょっと待ちなさいよ。寝癖直すから」
「んー? あー、いつも悪いなー」
マドカに言われて壊し屋は膝を折った。
マドカは手馴れた様子で壊し屋の寝癖をサッと直す。
マドカはその時間が嫌いではなかった。
「……ねえ」
「ん?」
寝癖を直してもらって玄関に向かう壊し屋にマドカが声をかける。
「……さっきの、買ってこないでいいからね」
壊し屋はマドカが気になったものをすぐに買ってくる。
マドカはそれが申し訳なくて、気付かれた時はこうして釘を差している。
「おー。分かってる分かってる。
いってきまーす」
「あ、ちょっ! いってらっしゃい!」
適当に手を振って壊し屋はさっさと出ていってしまった。
「……絶対買ってきてくれちゃうじゃん」
仕事終わり、どれだけ疲れていても壊し屋はさっきのスイーツを買ってくる。
長年の経験からマドカにはそれが分かっていた。
「……しょーがない。
夕飯ぐらい用意しといてやるか」
マドカはやれやれと身支度をすると、夕飯の材料を買いに出掛けた。壊し屋の好物を作るために。
「世話のやけるヤツよね、ホンット」
そう言って歩いていくマドカはどこか嬉しそうだった。