59.閃光は全てを切り裂くが、当たらなければ切ることはできない。
「くっ!」
マドカの放った閃光が目の前に迫る。
咄嗟にナイフで受けるようにして腕を振り上げる。
「なっ!?」
しかし、ナイフは閃光に触れると同時に、スパッと刀身部分が切り裂かれた。
「ちっ」
迫る閃光が自分に当たる前に後ろに下がる。
「……」
弧を描いて飛んできた閃光。
軌道からもここまでは届かない。
ギリギリのところで回避することには成功したが、
「……」
切られたナイフの断面を見ると、見事に両断されていた。
断面はとても綺麗だ。
まるでウォーターカッターかなにかで切り裂いたように切断されている。
「……」
鉄の塊を切り裂く何か。
見えない何か。
凄まじい切れ味。
そして、弧を描いてかすかにひらめく閃光。
これは……
「……なるほど。糸か」
「!」
改めてマドカの指先を見ると、両手の各指の先端から細い糸状のものが垂れ下がっているのが分かった。よく見ると細い指輪のようなものを身に付けている。
そこから出ているのか。
「極細の糸、いや、鋼鉄製のワイヤーか何かか。ご丁寧にツヤ消しまで塗ってあるとは」
反射したかすかな閃光も、普通ならば気付くこともできないだろう。
「……初見で見破られるとはね。
というか、今のを突発的に受けて無傷だったのはお前が初めてよ」
マドカはあっさりとタネ明かしをした。
彼女がやれやれと両手を上げると、たしかに指先から計十本の糸がだらりと流れていた。
「正確にはカーボンナノチューブ? とかいうやつらしいわ。極細のね。
私にはよく分からないけど、ボスと解体屋が熱心に研究して作ったみたい」
おそらくは博士の技術を流用したのだろう。
『ホーム』を潰した時に奴の研究資料は全て消したつもりだが、ボスや壊し屋を始め、生き残りがいた以上はわずかに資料の痕跡が残っていたのだろうな。
「……」
しかし、糸か。
考えられたものだ。
彼女のものであろう、向こうの樹に立て掛けられたギターケース。
仕事のとき以外はスナイパーライフルを持ち歩くわけにもいかないのだろう。学生のようだしな。
普段はあの糸を指輪に収納し、ギターケースにでも入れているのだろう。
万一、警官なんかに職務質問されても中身が指輪や糸なら言い訳が立つ。
それなりの硬度もあるだろうから、仕込み糸に気付かれてもギターの弦だとでも言えばいいだろう。
スナイパーライフルによる狙撃に、糸による近接戦。当然、拳銃の類いも使えるだろうから、遠中近距離の全てにおいて戦闘を行えることになる。
見たところフィジカルはあまり強くないようだから、超近接戦を避ける意味でも糸なのか。
「……なかなかな強敵だな」
お世辞抜きにそう言えるだろう。
ここまで手駒を揃えている殺し屋はそういない。
「……そう思うのは、お前が私を殺さないようにしてるからだろ」
「!」
強い怒り。
ナメられていると思っているのか。いや、違うな。それだけではなく、イラつきや戸惑いを含めた、さまざまな感情が雑多に入り交じっている。
「なんで銃を使わない。
話す前に蜂の巣にすればいいだろ。
私は弾丸を糸で防げない。
撃てば勝てる。
なぜ撃たないんだよ」
「……」
通常、銃を使う相手にはあの糸は使わないのだろう。あるいは自分も銃を併用するのか。
怒り心頭、だが、どこか泣きそうな顔。
俺を殺したいのに、それだけではない……。
「……お前、殺してほしいのか?」
「!?」
驚いたような、でも確信を得たような。
自分でも気付いていなかったのか?
「そ、そんなわけない!
私はお前を殺したい!
壊し屋の仇!
絶対に殺す!」
まるで、自分にそう言い聞かせるように……。
マドカが腕を回す。
十本の糸が縦横無尽に舞う。
軌道を読み切るのは難しい。
「殺す!
殺すんだよ!」
「……」
右の瞳から涙。
感情のコントロールが出来ていない。
何に怒っているのかも分からなくなった子供のようだ。
「だからお前もちゃんと戦え!
殺しに来い!
そうだ!
殺し屋のお前をちゃんと殺して仇をとる! 私はそれがしたいんだ!」
ようやく思い付いた、無理やりこじつけた理由ってところか。
「……」
あくまで復讐者でいたい、か。
まともでいるためにはそれだけの理由が必要……まるで壊し屋や、かつての俺を見ているようだな。
……まあいい。
「……いいだろう」
「!?」
切られたナイフを捨て、懐から別のナイフを取り出す。
右手で順手に握る。
「殺しに来る相手を殺さずにいるなど、そもそもが無理な話だ。俺にとってはな。
来いよ。
銀狼に殺意を向けたことを後悔するといい」
「っ!?」
お返しにと殺意を向けてやると少し驚いた表情を見せた。
俺がその気になってくれるとは思っていなかったのだろうか。
「……上等」
だが、すぐにニヤリと笑った。
覚悟はできているわけだ。
「……」
だが、まだだ。
まだ、そのときではない。
「死ねっ!」
「!」
マドカが腕を振るう。
目を凝らすと軌道が見えた。
三本。三方向からの攻撃。
左から足元を、右からは胴を、そして真上から頭を狙った曲線軌道。
指だけでこれほど異なる動きをさせるとは、相当の練度。
「ふっ!」
「!」
膝を曲げ、真上、やや後方に高く跳躍。
これで左右の二本は回避できる。
ヤツの糸はその性質上、クリーンヒットさせなければ有効的な効果は得られない。
糸を鞭のようにしならせて強力な切断力を発揮しているようだが、その判定は鞭の類いよりもシビアだろう。
つまり、避けられてしまえば途中で軌道を変えるのは難しいということだ。
多少ならば矯正はできるだろうが、この場合は左右の糸の軌道を修正するよりも……。
「バカめっ! 頭から真っ二つにしてやる!」
こうやって、回避しきれていない直上からの一撃を当てようとする。わざとそれを残すようにして避けたことにも気が付かず。
やや後方に跳躍したが、それでもまだヤツの有効射程のようだ。
芯を外しても俺を頭から両断できるレベルの技。なかなかに極めている。
「……」
左右の二本の軌道は変わらず。そのまま何もない空間を通過するようだ。
止めるよりも振り抜いた方が負担が少ない。あるいは一度放った糸は止めるのが難しい、ってところか。
「……ふむ」
真上から降ってくる一筋の光に目をやる。
速い。
まさに閃光だ。
「よっ」
俺は持っていたナイフを逆手に持ち変え、先ほどのように、糸をガードするように頭の上に腕を持っていき、ナイフで糸を迎え撃った。
「はっ! またナイフごと切り裂いてやるよっ!」
マドカは勝ち誇った顔をしている。実に愉しそうに。
その顔は危険だ。
ここで俺が殺されれば彼女は堕ちる。それはダメだ。
「……」
目を凝らし、集中する。
糸がナイフに触れる瞬間。その刹那を見極める。
……今だ。
「なっ!?」
糸がナイフに触れる瞬間に体を右に向けると同時に、ナイフを腕ごと右下に払う。
糸の軌道を導くように、糸をナイフで撫でるように、いなして回避。
糸はそのままナイフに沿って俺の横をすり抜けて下に落ちる。
マドカが驚いた表情を見せる。
真っ向から回避されたのは初めてのようだ。
「……まだだ!
まだ私の糸は届くっ!」
「!」
マドカは再び腕を振った。
今度は一本。
左上からの袈裟斬り。さっきよりも速い。
数よりも速度を重視したか。
それはつまり、あの位置からでは後ろに跳んだ俺への攻撃がまもなく届かなくなるということ。
おそらく、一から八メートル。それがヤツの攻撃の有効射程。かなり広い攻撃範囲だ。
「……まだだな。まだ、もう少し」
再び襲い来る閃光に目をやる。
俺の落下速度も計算に入れて、きっちり俺の心臓を切り裂ける軌道で放ってきている。
再びナイフでいなしてもいいが、別の方法も試してみるか。
「……」
俺は地面に向けて落下しながら、何も持っていない左腕を糸に向けた。
前腕で糸を受けるように。
「ははっ! 私の糸は骨も切り裂く!
そのまま体ごと斬ってやる!」
……笑っている。やはりこのままではダメだな。
だが、もう少し。もう少しだけ……。
「……」
今度は流したりせずに、そのまま腕で糸を受ける。
ここはもう有効射程ギリギリ。
このままでもいけるはずだ。
「死ねっ…………なっ!?」
「よし」
糸を受けた左腕の袖が裂ける。
が、糸が斬ったのは服の袖だけ。
「そ、それは……」
切られた袖から仕込んでおいたトンファーブレードが現れる。トンファーの打撃部分が刃になっているものだ。
今回はこれを腕に紐でくくりつけていた。
ヤツの射程からは外れたようで、俺はそのまま地面に着地した。
「……仕込み武器を用意してるなんてね」
マドカが忌々しそうに舌打ちをする。
「どっかのちっこいのの真似をしてみたんだが、意外と上手くいくものだな」
「……護り屋か」
ジンのことも知っていたか。
今回は俺の全てをかけた戦いだ。
できることは何でもやるつもりだ。
だから可能な限り下準備もしてきた。
「……ふむ」
収納していたトンファーブレードの持ち手を引き出して固定。
袖から出して左手に持ち直す。
糸を受けた刃部分を見るが、傷がついていない。
クリーンヒットでなければやはり切断力は極端に落ちる。
だが、あちらの糸も切れていない。かなりの強度。
さて、
「そんなものか」
「……あ?」
分析は終えた。
ならば、あとは慣れるだけ。
それにはもう少しヤツの技を見る必要がある。
だから、
「お前の覚悟とやらはその程度かと言ったんだ。
この程度の技で、本当に銀狼を殺そうとしたのか?
愚かとしか言えないな」
「……貴様」
猫のような目がつり上がる。顔を赤くする。ギリ、と歯を食いしばる。
憤怒の感情。
「……殺す」
十本の糸が宙を舞う。
そのままゆっくり前進してくるので、それに合わせて後退する。ヤツの射程圏内には入らないように。
冷静の激情。
若いな。
このぐらいの煽りで目の前を赤く染めるか。
もうひと押しだな。
「……」
マドカが先ほど俺が跳躍したあたりまで進んだのを確認してから、俺は一時的にナイフを左手で持つと懐から拳銃を取り出した。
持ち手を腹部に当てて片手で弾を装填。安全装置を外してマドカに向ける。
「……はっ。結局銃かよ」
驚いた表情のあとに嘲るような表情。
虚勢か。
「……」
俺は銃をマドカ、の足元に向けた。
照準を合わせるとすぐに引き金を引く。
「っ!」
発砲音にマドカがびくりと体を揺らす。
放たれた弾丸はマドカの足元の地面に向かう。
そして、そこに落ちていたナイフの破片を跳ね上げた。
「なっ!?」
空中に飛んだ破片は彼女が操る糸の一本を切り裂いた。
タイミングを合わせなければこの程度で切れてしまうほどに糸は細い。それゆえに鋭いとも言えるが。
「なるほど。切ろうと思えばこちらも容易に切り裂ける。
つまり、お前が俺を切り刻む前にお前のご自慢の糸を全て切り裂いてしまえばいいわけだ。
たいしたことないゲームだな」
銃を仕舞い、ナイフを右手に持ち直して、さらに煽る。
「…………」
長い沈黙。
だが、怒りが表情に出ている。
「……殺す」
九本の糸が舞う。
これでいい。
これで彼女は全力で糸を放ってくる。
もっと技を見せてくれる。
もう少しだ。
「死ねっ!」
「!」
今度は五本。
いつの間にか射程圏内まで距離を詰めていたのか。
激情に駆られているように見えて頭の一部分は冷静なのか。いや、そこは切り離して思考するタイプか。
「……」
全て受けるのは面倒だ。
俺はバックステップで距離をとった。
そのまま森に逃げ込む。
「逃がさねーよ!」
俺がいた空間を五本の糸が舞う。
何もせずにいたら文字通りバラバラになっていただろう。
マドカは糸を繰りながら向かってきた。
糸を放つ瞬間は移動できないが、扱いながら移動することは可能なようだ。
「……ふむ」
木々の間を縫うように走る。
マドカは周囲の枝葉を糸で払いながら追ってくる。
糸が触れた枝葉は綺麗に切り裂かれて宙を舞う。
台風のようなヤツだ。
「待てっ!」
「おっと」
木々を抜けて飛んできた糸をかわす。
遮蔽物が多くてもその間を縫って糸が飛んでくる。
多様な環境での訓練は経験済みか。
「逃げるなっ!」
「無理言うな」
彼女が着ている制服のスカート。そこから伸びる足が枝に引っかかって切れる。
だが、彼女はそれを意に介さずに追ってきた。
あまり長引かせると自分の糸で自分を切ってしまいそうだな。
「よっ」
「!?」
隙を見てトンファーブレードを持ち変えて鎌のように持ち、足元の地面に落ちていた木の枝をすくってマドカに向けて投げつける。
「ちっ!」
「……」
マドカは煩わしそうに糸で枝を切り払った。
右手中指の糸による下からの切り上げ。
突発的な攻撃にも即時対応。技が早い。
「ちょこまかっ、逃げるなっ!」
「おっと」
地を這うように三本の糸が襲ってくる。そんな動きもあるのか。
だが、ここは射程ギリギリ。
手ごろな位置にあった枝を掴んで跳び、樹上に移動すれば糸は届かない。
「くっ、そっ!」
「……」
樹の上から彼女を見下ろす。
もう息が上がってきている。
やはりフィジカルは強くない。
一般的な女子学生に毛が生えた程度か。
速度を抑えて走っても追い付かれる気がしない。
「死ねっ!」
「……」
しばらく枝に留まっていると、追い付いたマドカが上下から糸を向かわせてきた。
上下三本ずつ。片腕につき三本。左右の腕で上下を撃ち分けた曲線軌道。
狙い澄ました攻撃は片腕につき一つの軌道しか出せないのか。
なかなかの練度だが、完成してはいないのか。
「……」
ならば、こうしたらどうするのか。
「なっ!?」
俺は向かってくる糸に構わず、ナイフをマドカに向けて投げた。
木に登るときにナイフを投擲用のスローイングナイフに換えていたのだ。
ヤツはそれに気付く余裕もなかったようだ。
「くっ、そっ!」
マドカは右手を切り返すと、真っ直ぐに自分の心臓に向かってくるナイフを残っていた糸で弾いた。
「……なるほど」
右手で繰っていた上からの三本の糸がコントロールを失い、明後日の方向に散る。
糸が十本あっても、それらを同時に別々の方向に繰るのは難しいようだ。
さっきは三本を三方向から放ってきた。
おそらく違う角度から一度に放てる糸は四方向なのだろう。
それでも十分凄いがな。
「……」
残った下からの三本はそのまま正確に俺を狙ってくる。
だが、上下で挟まれていないのなら、
「よっ」
俺は接地していた木の枝を強く蹴り、前へと、マドカの方向へと跳んだ。
向かうはマドカとの間にある別の木の枝だ。
下からの三本の糸は俺がいた枝を綺麗に切り裂いた。
やはりクリーンヒットした時の威力は凄まじい。
「このっ!」
マドカは右手の糸のコントロールを取り戻し、俺が着地しようとしている木へと再び糸を放った。
「遅い」
だが、俺は着地した瞬間に再び枝を蹴り、次の木へと跳んだ。
放たれた糸が誰もいない枝を切り刻む。
「く、っそぉ!」
マドカは両手を賢明に動かして何とか空中にいる俺を捉えようとするが、俺はそれよりも速く樹上を移動していった。
「もうっ!」
そしてそのままマドカの頭上を通りすぎる。
マドカが振り返りながら糸を振るうが、真上への攻撃は慣れていないようだ。
「じゃあな」
俺はそのままマドカを置いて来た道を戻っていった。
「ま、待てっ!」
マドカが慌てて追いかけてくる。
たいして警戒もせずに追ってくるとは。焦りで冷静な判断が出来ていないな。
「……そろそろいいか」
マドカと邂逅した場所に戻っていく。
あそこは視界が晴れている。
ヤツの技にはだいぶ慣れた。
ヤツも、俺を殺すことよりも捕らえることに夢中になっている。ヤツ自身は気付いていないがな。
この状態で抑えれば多少は冷静になるだろう。
「……よし」
マドカが追ってきているのを確認すると、俺は地上に降り立った。
マドカのギターケースが置いてある木の側だ。
「……はぁはぁはぁ」
しばらくして、息を切らしたマドカが姿を現した。
途中で引っかけたのだろう。
糸がさらに二本減って、全部で七本になっている。
むき出しの足にもまた傷が増えている。途中で転んだか。
もう、終わらせるとしよう。
「……はぁはぁ」
俺に追い付くとマドカは膝に手を置いて息を整えた。
恐ろしく無防備だが待ってやる。
「ちょ、ちょこまかと……」
スナイパーなのだから持久力はあるのだろうが、やはり瞬発的な体力はあまりないようだ。
もともと近接戦に向いていないから狙撃を選んだのだろう。
「……もういい」
呆れたような表情で。
「あ?」
「珍しい技を使うからどれほどのものかと思ったが、所詮は子供。この程度か」
ため息を聞こえるように漏らす。
「……貴様」
明らかな怒りの感情。
「お前の復讐心はその程度なんだな。
壊し屋のことも、本当はたいして慕ってなどいなかったんだろ」
少し煽りすぎかもしれないが、彼女の全力を受けなければ納得はしないだろう。
「黙れっ!」
「……」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れっ!
壊し屋を語るなっ!
アイツは……アイツは唯一、私を下心なしにちゃんと心配してくれたんだ!」
右の瞳から涙。
長時間スコープを覗いたままでいないといけない性質上、そちらの目だけ涙腺が弛いのだろう。目薬要らずか。
だが、今はそれのせいでそこだけ感情の抑制が利いていない。
「返り血を心配してくれて!
ちょっとの怪我でも大騒ぎして!
ターゲットが変態だったと分かると泣きそうな顔して!
いつも私の好きなもの作ってくれて!
野菜ちゃんと食べろって言ってくれて!
私が仕事に行くときは、いつもちょっと悲しそうな顔をして!」
両手をぐっと握って賢明に声を絞り出す。
それは、ようやく吐き出すことのできた本音に聞こえた。
「……それを私は、ウザいとか言って……」
声のトーンが落ちる。
反省、後悔、自己嫌悪。
「……もっと、ありがとうって言えば良かった……もっと、もっと……大好きって……」
止まらない右目からの涙。
抑えていた感情が溢れているようだ。
「……それを、お前が殺した」
「……」
強い憎しみ。
だが、どこか淀みが消えたようにも感じる。
激情を向けるべき先が定まったような。
本当は、彼女も分かっているのだろう。
壊し屋の、残り時間のことを。
「ならば、俺を殺すか?
お前程度が?
壊し屋でも無理だったのにか?」
「……それはもういい」
煽っているのに気付かれたか?
いや、吹っ切ったのか。
「……私は私の全力でお前を殺す。
糸で人を殺すのは初めてだ」
「!」
「狙撃はゲームみたいなものだ。
死の実感を感じずに相手を殺せる。
でも、これは違う」
指から垂れた糸を無感情に見下ろす。
「間違いなく私が殺してる。
きっと、その手応えを感じる。
……私は、これで子供を殺せなかった。
だから私は『箱庭』を卒業させられた。
ボスの求める人材じゃないから。
ま、有用だからそのあとも始末されずに使われてるけど」
「……」
そうか。
彼女は完全に堕ちてはいないのか。
殺してはいるが、まだ戻れる。
だから、壊し屋は……。
「……だけど、私は今日この糸で初めて人を殺す。
壊し屋を殺した銀狼を殺す。
銀狼こそが私がこの糸で、この手で殺す、最初で最後の存在だ」
「……」
覚悟を決めた顔。
「……だから、私は私の全力でもって、お前を殺す」
七本になった糸が舞う。
間合いは五メートル。おそらくヤツにとってベストの射程圏。
「……」
「!」
俺は持っていたトンファーブレードを地面に落とし、ナイフを懐にしまった。
両手を広げ、真っ直ぐにマドカを見つめる。
「来いよ」
「……死ね」
マドカは舞わせた七本の糸を全てこちらに放ってきた。
もう、終わらせるとしよう。
おまけ
「……」
深夜。
マドカは仕事で、とある民家に侵入していた。
ボスから下された命令は『この家にいる人間を皆殺しにしろ』だった。
すでに夫婦と思われる男女二人を狙撃で始末していた。
リビングには二人の死体が転がっている。
ずいぶん遅い時間に起きているものだと思ったが、マドカにとっては狙撃もしやすく都合が良かった。
「……これだけかしらね」
その後、屋内に侵入。
他に住人がいないか確認していた。
スコープで視た限りでは他に存在は確認できなかったが、ボスの命令は絶対。万が一生き残りがいたら自分が殺されるかもしれないと思い、マドカは糸が収納された指輪を身につけて家の中を確認しに来たのだ。
「……帰ろ」
物音もせず、どうやら他に住人はいないと悟り、内心ほっとしながらマドカは踵を返した。
「ママー? パパー?」
「!?」
が、そのとき、背後から幼い声がマドカに届く。
マドカは糸を引き出しながら慌てて振り返る。
「おねーちゃん誰ー?」
「っ!?」
だが、そこにいたのは瞼をこする幼い少女だった。
糸を振ろうとしていた腕がピタリと止まる。
「……くっ」
ここは二階。
夫婦の死体は一階のリビング。
「ママとパパはー?」
「……」
マドカはどうするべきか迷う。
が、すぐに結論付ける。
ボスの命令は絶対だと。
「……ごめんね」
マドカは糸を舞わせた。
子供の柔首など一瞬。痛みさえ感じないだろう。
マドカは最大限の速度で糸を振るおうとした。
「……キレイねー」
「!?」
だが、キラキラとした少女の眼差しに思わず手が止まった。
「おねーちゃんの周りにキラキラお星さまが回ってるー」
当時はまだ糸にツヤ消しを塗っておらず、暗い室内に月の光が差し込んで、マドカの糸をキラキラと輝かせていた。
「……っ」
マドカはそこで認識してしまった。
自分はこの糸で、目の前の子供を殺すのか、と。
こんなキラキラした目の少女を、この手で殺すのかと。
「……くっ」
そう考えた途端、マドカの腕は動かなくなった。
少女の首を、落とすことが出来なくなった。
「……あ、そうだ。ママたちはー」
「……二人は、ちょっとお買い物に行ってるわ。
私はママのお友達で、お留守番を頼まれたのよ」
「……んー、そうなんだー……」
少女は眠そうに目をこする。
どうやら物音に目を覚ましただけのようだ。
「ベッドに戻りましょ。起きたら二人も帰ってきてるわ」
「んー。わかったー」
「……」
部屋に促すと少女はおとなしく従った。
ついてしまった嘘にマドカの心はチクリと痛んだ。
「……ごめんね」
「んー?」
「ううん。おやすみ」
「おやすみー」
「……」
翌朝。少女は警察に保護され、祖父母の家に引き取られることになる。
マドカのことは覚えていないようだった。