51.鍵をかけたのが自分ならば、その鍵を開けるのもまた自分で。手にいれて失い、そして生まれる。
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「パパー! こっちこっちー!」
イブがおぼつかない足取りでショッピングセンターの通路を走る。
「あんまり一人で先に行ったら駄目だぞ」
やれやれと娘のあとを追う。
子供というのは本当に不思議な生物だ。
理にかなった言動を取ることの方が少ない。
俺が子供の頃はどう効率的に動けば死なないかしか考えてこなかったから、この年頃の子供が何を考えてどう生きているのか理解するのが難しい。
「あ、イブちゃん! こっちにお菓子売り場があるわよ!」
「わーい! お菓子ー!」
妻のマリアが上手いことイブを引き戻す。
このあたり、妻はやり方が上手い。
だが、
「おい。今日はイブの洋服を見に来たんじゃ……」
「わーいお菓子ー!」
「わーいお菓子ー!」
当初の予定通りにはなかなかいかず、妻は娘とともに目についたものに飛び付いていってしまう。
「……やれやれ」
子供だけじゃないな。妻もまた不思議な生物だ。
女というのはどいつもこいつもこういうものなのだろうか。
「ほらー! パパもおいでー!」
「おいでー!」
「……ったく」
だが、それを悪く思わない自分がいることにも驚きだ。
俺はその不思議な生物たちに振り回されるのを楽しんでいる気がする。
「寄り道も人生の醍醐味なのよ」
目を輝かせながらお菓子を眺めるイブの後ろで、マリアが追い付いた俺にそう話す。
「……そういうものか」
「そういうものよ」
「……そうか」
マリアがウインクしながら微笑む。
こういう所、俺の妻は世界一魅力的なのではないかと思ってみたりもする。
「パパー! たくさんあるー!」
違ったな。
俺にとっての世界一はここにもいた。
驚いたことに、俺には世界一が二人もいるのだ。
「……好きなの選べ。ひとつだけ買ってやろう」
「えー! ひとつー!?」
娘はどうやら不満らしい。
「ひとつだ。
あんまり食べると晩ご飯食べられなくなるからな。
俺がママに怒られるんだ」
「むー。ママのケチー」
イブはむくれながらも納得したらしい。
「……あんたら、本人を前によくそんなこと言えたわね」
……これほどの殺気を感じたのは生まれて初めてだ。
「夕飯、ピーマンづくしにしてあげてもいいのよ?」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさーい!」
俺もイブもピーマンが得意ではなかった。
これを言われたら二人ともすぐに謝るしかなくなる。
「えー。どれにしようかなー」
イブが再び並べられたお菓子に目をキョロキョロさせる。
「……あなたも子供との接し方が分かってきたわね」
「……そうか?」
そんな娘の後ろ姿を眺めながらマリアがポツリと呟く。
言われてみれば、最初の頃はこの弱すぎる物体にどう接すればいいのかまるで分からなかった。
知識では知っていても、実際に子守りというものをするのがこれほど大変だとは思わなかった。
「ええ。今のあなた、立派な旦那様で父親よ」
「……そうか。それは、なんだか嬉しいな。
そう言って笑うマリアが見れるのなら、なおさら」
「ふふふ。そういうとこよね」
「なんだ?」
「なんでもなーい」
「?」
やはり女という生物はよく分からない。
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「警部?
大丈夫っすか?」
「……!」
ハッと我に返る。
ケビンがこちらを覗き込んでいた。
どうやらボーッとしていたようだ。
「……ああ。問題ない」
足は淀みなく動いている。
もうまもなく街境の森の入口に着く。
気を引き締めねば。
「珍しく緊張でもしてるんすか?」
「いや……」
緊張、ではない。
これは懐古だ。
鍵をかけたかつての記憶が、このタイミングで扉を開こうとしている。
「へーい。リラックスリラックスー」
ジンがイカ焼きを差し出してくる。
「……お前はもう少し緊張感を持て」
両手に屋台で買った食べ物を持つジンはどこからどう見ても浮かれた観光客だった。
「……」
だが、ジンたちの言う通りだ。
過去の記憶に引きずられて今に集中できなくては意味がない。
「……っ」
だが、一度開いた扉は否応なしに俺にそれを思い出させる。
完全記憶能力を持つはずの俺が唯一忘れてしまった記憶……いや、忘れようと自ら鍵をかけた記憶が……。
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「しかし、良かったのか?
リザだけ留守番にしてしまって」
本人は親子水入らずで、と言っていたが、気を使わせてしまったのではないだろうか。
「いいのよ。あの子なりに気を回そうとしてくれたんだから。
あれは遠慮じゃなくてプレゼントみたいなものだもの。
勇気を出して渡されたプレゼント、受け取ってあげないわけにはいかないじゃない」
「……そういうものか」
「そういうものよ」
やはり女というのはよく分からない。
「パパー!」
「イブ。だから一人で先に行くなと」
「ならパパもダーッシュ!」
「ったく」
パタパタと先行するイブに追いつく。
子供の相手というのは存外、疲れるものだ。
とうにピークは過ぎたとはいえ、人類最強となるべく育成されていた俺を疲れさせるのだ。子供の無限の体力には本当に驚かされる。
だが、その疲れさえ愛おしいと思ってしまえるあたり、俺はどうやら父親という役目に毒されてしまっているようだ。
「……」
……今にして思えば、ほんの少しだけ違和感はあった。
それは忘れようとしていたかつての本能。本来は生来備えているはずのもの。平和ボケで薄らいでしまった、生存本能というやつだ。
ここにいてはいけない。
俺はなんとなく、そんな気配を肌で感じてはいたのだ。
「……なあ。早くイブの服を買ってここを出ないか?」
だから、俺はそのときそんなことを言ったのかもしれない。
「なあに? お腹すいたの?」
「あ、ああ……」
「なら、このショッピングセンターの上の階にあるレストランで食べればいいじゃない。
買い物が終わったら行きましょ?」
「いや、そういうことではなく……」
だが、確信が持てないその感覚を俺は押し通すことはせず。
「……どうしたの?
なんか嫌な感じでもするの?」
マリアがそう尋ねてくれたというのに。
「……いや、警官としてこれだけ人が集まる場所では何かあるんじゃないかと勘ぐってしまっただけだ。気にしなくていい」
「あらそう?」
俺はかつての血にまみれた過去を忘れようと、その感覚を押し殺してしまった。
マリアには全てを話しているというのに、俺は俺の過去を恥じたのだ。
「ふふ。立派な警察官ね」
「……」
「ママー! パパー!」
「どうしたのー?」
言葉に表せない感情に足を止め、二人を先に行かせてしまった。
今にして思えば、それこそが最大の後悔かもしれない。
「あっちに面白そうなのあるよー!」
「はいはい。ちょっと待ってねー」
そして。
鮮烈に、突然に、その時は訪れる……。
「!?」
はじめは微かな揺れ。
地震でも来たのかと脳が理解しようとした次の瞬間。
「っ!?」
大きな爆発音。
激しい揺れ。
ブレる視界。
地面が、世界が壊れるような感覚。
俺の脳が俺の全ての記憶に瞬時にリンクし、瞬間、理解する。
建物が爆発しているのだと。
「イブ! マリア!!」
俺はすぐに焦点を前方に合わせる。
その瞬間はまるでスローモーションだった。
フロアの床に倒れるイブ。
その手前で、立てずにいても前方のイブに手を伸ばそうとするマリア。
悲鳴と爆発音が響く。
爆弾。複数。規模不明。テロ? 落下する天井。倒壊する柱。悲鳴。炎。黒煙。粉塵。
五感から吸収される数多の情報が俺の脳を混乱させる。
「……っ」
余計な情報が多すぎる。
俺は本能的に、自分が真に必要な情報だけを取り込むように完全記憶能力の機能を一部シャットダウンした。
「……っ!?」
その結果、自分にとって最も重要な情報を俺の目は入手した。
イブの足元の床に、大きなヒビが入っているということを。
「イブっ!!」
瞬間、イブのいる地面が崩れ、床が消え去る。
「……あ」
数瞬あと、イブが重力に導かれるように、消えた床の中に落ちていく。
恐怖しながらも現状を理解していない顔。
イブが消えた瞬間のその表情……。
「イブっ!!」
「!?」
絶望に心を支配されそうな俺を、マリアの叫び声が現実に引き戻した。
「なっ!?」
そして次の瞬間、マリアは揺れる地面を懸命に立ち、イブが落ちた穴に向けて走り出したのだ。
「待てっ! マリアっ!!」
俺はマリアを追って走った。
「くっ!」
揺れる地面に思うように進めない。
普段ならば揺れや凹凸に即座に適応して問題なく走れるはずなのに、無理やり感覚を制限した影響なのか上手く走れない。
やがて、マリアが何の躊躇いもなくポッカリと空いた穴に向けて飛び上がった。マリアの体が何もない宙を泳ぐ。
「駄目だ!」
俺は飛び込み、寸での所で落ち行くマリアの腕を掴んだ。
「くっ……」
穴の淵ギリギリ。顔と腕が淵から出た状態で、何とかマリアの片腕を掴むことができた。
マリアは完全に投げ出され、俺の腕だけを唯一の支えとして、ぶらんと空中に浮かんでいた。
「っ!」
穴は深かった。
ここは五階。おそらく一階まで崩落してしまっている。
「……く、そっ」
この高さから瓦礫とともに落下していたら、イブはもう……。
「……お願い。離して、あなた」
「!」
悲嘆に暮れる俺はマリアの声で再び我に返り、マリアに視線を向ける。
「離して。行かせて」
マリアは真っ直ぐに俺を見ていた。
悲しみと絶望と、それでもまだ諦めないという決意と。
「だ、駄目だ……この高さからでは……イブは……もう……っ」
自分で何を言っているんだと感じる。
イブはもう死んだ? そう言いたいのか?
だからもう見捨てろと?
マリアは諦めていないのに?
「こういう時に、奇跡的に一命を取り留めたって話もあるでしょ?
イブがそうじゃないって言いきれる?
イブを、諦められる?」
「っ!」
そんなことを言われたら……。
「そんなことを言われたら、すがりたくなってしまう……」
涙は出ていないが、この時の俺はたぶん泣いていたのだと思う。
「すがるのよ。
醜くても、無様でも。愛する家族のために奇跡に祈る。賭ける。そして動く。
だから私は行く」
「な、なら俺もっ!」
奇跡に賭けるというのなら、俺もともに行った方が可能性はわずかでも上がるというものだ。
それに……生きるのも、死ぬのも……一緒だ……。
「……ダメよ」
「なぜだっ!」
だが、マリアはそうではなかった。
「……もしかしたら、私はここから落ちたら死ぬかもしれない。
でも、イブは小さいし軽いから、奇跡的に生きるかもしれない。
そうなった時に私もあなたも死んでしまったら、イブは一人になってしまう。
リザがいるけど、両親は二人ともいなくなってしまう。
それはダメよ」
「だ、だがっ!」
嫌だった。
そんなことを考えたくもなかった。
マリアとイブ。
そのどちらもいない。あるいはどちらかがいない。
そんなことを、一ミリたりとも考えたくはなかった。
「あなたは生きて。
生きてここから出て、私たちを探してちょうだい。
もしかしたら、二人して動けなくなってるかもしれない。
だから、あなたは無事にここから脱出してから、私たちを見つけに来て。
もしイブだけが生きてたら、その時は、あの子をよろしくね」
なぜ、そんな顔をして笑えるのか。
「……そんな、ことを……言うな……」
視界が霞む。
噴煙のせいだけではない。
「……なら、せめて俺が行く。
俺の方が生存確率が高い」
俺ならば、この高さから落ちても無事でいられるように対処することができるかもしれない。
暗闇の穴に飛び込んでどうこう出来るとは思いがたいが、それでも俺が行く方がマシだ。
……というか、行きたかった。
生存は絶望的。
マリアもイブもいない世界なんて、想像するだけで悲しかったから。
「……それは、イヤよ」
「なっ!」
「あなたもイブちゃんもいない世界なんて、私には耐えられないもの」
「っ!?」
マリアの手が震えている。
微笑みながらも、その頬には涙が流れていた。
同じだった。
マリアも決死のダイブであることは理解していた。
笑顔に流れた涙が、全てを物語っていた。
「……ごめんね、私はずるい女なのよ。
でも、ちゃんと母親なのよ。
だから、奇跡を信じて行くの」
「……だ、だが……」
それでも俺は……。
「それに実際問題として、もう私を引き上げるのは難しいでしょ?」
「っ!」
バレていた。
俺が体重をかけているこの床も、少しずつ軋み始めていることが。マリアを無理やり持ち上げるようと踏ん張ることができる可能性が低いことが。
「……ありがとね」
「っ」
汗で手が滑る。
焦り、緊張、熱気。
爆発したんだ。火災も発生しているのだろう。
持ち上げることもできず、徐々に繋がれた手が離れていく。
もうマリアも助けられない。
だから……ならば……せめて、俺も一緒に……。
「ダメよ……あなたは、生きて……」
「マ、リア……」
マリアも分かっている。
自分が生き残れる可能性が低いことが。
俺が、ともに行こうとしていることも。
腕もとうに限界なんだろう。
「……あなた、私は、幸せよ……」
「そんな、そんなこと……言うなよ」
そんな、これが最後みたいに……。
「あ、あなた……」
手が滑る。
もはや、指先で指先を掴んで……
「……あ、あなた。安心して……。
あの子だけは……イブだけは、私が必ず、守るから……っ!」
「マリアっ!」
そして指先さえも離れ、マリアの温もりが消える。
「ごめんね、愛してるわ……」
そう言って、マリアは闇の底に消えた。
「マリアっ! イブっ!!」
深淵への叫びに応える者はいない。
「……マリア……イブ……そんな…………」
なぜ、俺はこの手を離してしまったのか。
イブが生きているかも? マリアが助けに? 奇跡? 可能性?
そんな、雲を掴むような可能性のために、俺はマリアを……。
二人とも落ちることになっても、無理やりにでも引き上げれば……。
なぜ……なぜ……なぜ……。
「……俺は……俺は、もう……」
いっそ、このまま二人を追って落ちてしまおうか。
そうすれば、そこに二人はいるんじゃないか。
そうすれば……二人と同じところに……。
『あなたは、生きて……』
「!」
……いや、駄目だ。
「……俺は、生きるぞ」
もしかしたら、ここから落ちても二人とも生きているかもしれない。
怪我をして、すぐには動けないかもしれない。
俺がここから落ちて、俺だけが死ぬかもしれない。
それは駄目だ。それだけは駄目だ。
「俺が、守るんだ……俺が、二人を助けるんだ」
そうだ。
奇跡を、可能性を、信じろ。
「……くっ」
体を起こす。
地面が軋む。
床が崩落しないように慎重に、かつ迅速に。
「……生きろ」
噴煙と炎が包む世界に俺は歩き出す。
かつての感覚を全開にして、自分が生きることに全力を注ぐ。
「……マリア、イブ……愛してるぞ……」
愛する家族を、助けるために……。
……その後、建物内に戻ろうとする俺を警官と救急隊が懸命に押さえつけ、俺は病院へと運ばれた。
数日後、搬送先の病院でマリアとイブの遺体が発見されたと報告を受けた……。
その時にはもう、俺にはショッピングセンター内での記憶がほとんどなくなっていた。
担当の精神科医には精神的ショックによる一時的な健忘だと言われた。
記憶は戻らなくていいと思った。
いっそ、全ての記憶を持っていってほしいと願った。
幸せであったことさえ忘れてしまえば、これ以上嘆くこともないから……。
「ジョセフさん。
こうなってしまった原因はなんでしょう。
何のせいで、誰のせいで、こうなってしまったのか」
「……誰の、せいで……」
「嘆くのではなく、燃やすのです。
悲しむのではなく、怒るのです。
それが、今の貴方に必要なことかもしれませんよ」
「……怒る……復讐……」
「そうです。それでいいのです……」
「……そう、か……」
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おまけ
「おい。
今日はお前の洋服を買いに来たんだ」
血溜まりの中にいた少女。
それを引き取り、今日はこいつ用の服を買いに来た。
いい加減、同じワンピースばかり着せるわけにもいかないからな。
「……おい。何を見ている」
だが、こいつときたら先ほどからあちらこちらに立ち寄っては興味深そうに眺めるものだから、なかなか目的を達成できない。
「……お菓子」
「あ?」
そして、しばらく歩くと菓子売り場でちょこんと腰を下ろした。
どうやらそいつが気になったらしい。
「おい、さっさと行くぞ」
「……」
声をかけても動く気配がない。
無表情でよく分からないが、心なしか目を輝かせている気もする。
リザと買い物に行ったときもそうだったが、女という生き物は皆こうなのだろうか。
そういえば、マリアもこんな感じだったような気がする。
「……何か、買ってやろうか?」
「いいの!?」
「!」
なぜ俺はこんなことを。
こいつに優しさなど見せるメリットはないはず。
だが、なぜだろう。
前にもこんなことが……。
「……ひとつだけだぞ」
「三時間待て!」
「……長すぎるだろ」
結局、三十分間悩み続けたこいつの背中を、俺はただじっと眺めながら待っていたのだった。