47.事実は小説よりもただひたすらに残酷で……
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「ジョセフさん。
全てを捨ててこの世界から消えてしまいたい。二人の後を追ってしまいたい。
そのお気持ちはよく分かります。
私も、既に妻を病で亡くしてますからね。
ですが、そんなことをして奥様と娘さんは果たして喜んでくれるでしょうか?
ジョセフさんを笑顔で迎えてくれるでしょうか?
そもそも、それで二人と同じ所に行けるでしょうか?
……いや、すみません。追い詰めるつもりはないのです。
どうか心を捨てないでください。殺さないでください。
貴方には、まだ生きる意味があるはずです。
亡くなったお二人は、何を望んでいるでしょうか。
ジョセフさん。貴方は、何を望んでいるでしょうか。
……まずは、そうですね。
こうなった原因を究明していく、あるいは原因を排除していくことが必要なのかもしれませんね……」
「……原……因……。排、除……?」
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「マウロが、ジョセフの診療をしていた精神科医だった?」
「……くそっ」
なぜ気付かなかった。
担当医に関しては調べたはず……いや、調べたのは俺が銀狼になってからか。
そのときには何も出てこなかったが、既に情報は消されていたか。
当時は何も疑うことなくこの男からの診察を受けた。というより、そんなことを考える余裕もなかった。
妻と子を喪い、俺の心は確かに死にかけていたから。
その後、銀狼となることを決め、心が落ち着いた俺に担当医はもう来なくて大丈夫だと言った。
その後、念のためと調べたときには別の病院に移ったとだけ情報があったが、当時はよくあることかと気にも止めなかった。
だが、過去に面識があったのに俺が気付けなかった?
……いや、奴は顔を変えたと言っていた。
顔も声も体型も、あるいは身長さえ変えていたかもしれない。
ゼットのように神がかった変装などではなく、単純に外科手術で。
まったくの他人に成り済まし、俺を銀狼にするために誘導したというのか。
全ては博士の悲願のために。
『私は博士の指示のもと、銀狼を仕上げたのだ。
想定よりも銀狼が人間になっていて作業はなかなかに困難を極めたがね。
まさかあそこまで心を病んでしまうとは。
それを壊さないように、それでも復讐へと目を向けるように。
気付かれないように少しずつ炎を燃やしていくのは実に骨が折れた。
だが、銀狼は無事に完成した。
そして、銀狼が完成してすぐ、私は地下に潜った。
私にはキャシーがいたから、万が一にも死ぬわけにはいかなかったのだ。
事がバレれば私は銀狼に殺されるだろうからね』
始めから、だったのだ。
全ては俺を銀狼にするために。
そのためにあのクソジジイはこの男を、『作品』を逃がすための駒に使った。そのあとに俺の担当医に据えるために。
精神科医であるマウロを使って、俺が復讐をする方向に向くように。
そのために、マウロを逃がし役に選んだ。
『……しかし、私は社会の裏側に潜ったことを後悔した。
ボスを頼ったことを、心底後悔したのだ。
そのせいでボスはキャシーに執着するようになり、キャシーにとってはホームにいた頃よりも凄惨な地獄に身を落とすことになったのだ……』
そして、これだ。
なぜボスはそこまでイブに執着するのか。
文面から察するに、俺を銀狼にしてのち、マウロとイブがボスと合流するまでボスはイブに興味を持っていなかったようだ。
もしかしたら存在自体を知らなかった可能性もある。
それなのに、なぜここまで急激にイブにこだわるようになったのか。
『裏社会との繋がりを完全に絶って表社会に溶け込んだ私には、再び足を踏み入れても裏社会に居場所がなかった。
仕事もなく、金も減っていき、キャシーだけでも何とかしてやりたいと思い、私はボスを頼ったのだ。
始めはキャシーに興味を持っていなかったボスだったが、キャシーを実験体に使われないように、彼女を守るために私はボスにキャシーのことを話した。
……それがいけなかった。
ボスは最初は適当に話を聞いていたが、その意味を理解した瞬間、目の色を変えた。
そしてキャシーに寵愛を与えるようになり、より優しく、より冷たく、より甘く、より厳しくなっていった。
育てながら愛でるように。
そして私はすぐ、キャシーとは引き離されて会えなくなってしまった……』
……マウロはいったいイブの何をボスに話したというのか。
あの冷徹で冷酷なボスがこれほどまでに執着し、寵愛する意味は……。
『さて、このことについて説明するにはさらなるネタバラシが必要となるだろう。
人類の最高到達点を作ろうとしていた博士だが、実は秘密裏にもう一つの研究を進めていたのだ』
「……もう一つの研究、だと?」
「そんな研究をしていた形跡なんて、どこにもなかったわよ?」
リザも驚いている。
情報操作・諜報活動に長けたリザは当然調査の方も優秀だ。
そのリザに一切の痕跡を見せずに研究をしていたなど、普通では考えられない。
外部との接触を絶っていた『ホーム』関連の施設でさえ突き止め、俺が破壊したのだから。
『その研究については誰も知ることはなかっただろう。
なぜなら、銀狼が誕生した頃には博士はもうその研究をほとんど諦めていたから。
銀狼が完成し、博士はほとんど満足してしまっていたから。
私としては、もう一つのその悪魔の研究は廃棄されて良かったのだろうとは思うがね』
「なるほど。
俺たちの調査が本格化する前に廃棄された研究か。
それでも痕跡を全く残さずに消し去るのはさすがとしか言えないな」
しかし、あのクソジジイが人類の最高到達点を作ること以外に心血を注ぐことがあったとは。
そして悪魔の研究とは、いったい。
『さて、その博士が推し進めていたもう一つの研究だが、それは博士の年齢に起因する。
博士は高齢だった。
ともすれば最強を作る前に自身の寿命が尽きてしまいかねかった。
そこで、彼は一つの発想に行き着いた。
自分が死ぬ前に、自分を作ってしまえばいい、と。
そう。彼のもう一つの研究とは、クローン技術の確立だったのだ』
「……クローン、か」
言われてみると納得するな。
確かに奴は当時すでに高齢だった。
ああいう研究者が不老不死を夢見るのもお決まりだしな。
『実際、彼は自らの遺伝子から自分によく似た生体を作り上げることには成功していた。
そのほとんどが胎児から生育していくものだが。それには確かに生命が宿っていた。
だが、彼は自分が生きたかったのだ。
肉体は作れた。
そんな彼が次に考えたのは、精神の移し換えだった。
それこそが最大の難点でもあったと言えるだろう』
「そ、そんなバカみたいなこと……」
「そんな絵空事を本気でやろうとするのがアイツなんだよ」
とはいえ、そんな研究は……。
『……だが、それはうまくいかなかった。
当然だ。
そもそもが科学的に精神だの魂だのという存在が物質として確定されていないのだ。
存在しないものを移動させることはできない。
博士は絶望した。
が、そんな彼に光明が差した。
それはやはり、幼き銀狼との邂逅であった』
「……ここで、また俺か」
俺の存在が、奴のもう一つの研究に与えた影響とは……。
『完全記憶能力。
その能力の存在を認識したことで、博士は考え方を変えた。
人の精神とは、魂とは記憶なのだと。
生まれてから現在までの記憶。
その膨大な情報こそが、肉体と精神に刻まれた記憶こそが、その人間を構成しているのだと。
つまり、博士と同じ遺伝子を持つ肉体が、彼が生まれてから現在までの全ての体験を記憶したとしたら、それはもはや自分と同じなのではないかと博士は考えのだ』
「……まさに、悪魔の研究だな」
「それはつまり、生み出したクローン体に強制的にその体験をさせていったってことよね」
「だろうな」
「……生命を、なんだと思ってるの」
「だから、アイツはクソジジイなんだよ……」
『実際にそれをやっていくのは困難を極めた。
まずは銀狼の能力を研究しながら、博士自身の記憶を全て絞り出すことから始まったのだ。
博士は電気刺激や催眠術なので心身ともにボロボロになりながらも、何とか自身の記憶のほとんどを抽出した。
そしてそれを自身の遺伝子から作り出したクローンに追体験させていったのだ。
とはいえ、数十年もの年月を再び体験させていく時間は博士にはない。ただでさえクローン体の育成に時間が必要だったからね。
そこで、情報体を圧縮してクローンの脳に一気に流したのだ。
肉体には記憶と同様の電気刺激を与えながらね。
何体も死んだよ。
膨大な情報の急激な投与に脳が耐えられずに。あるいは肉体の崩壊で。
クローンも量産できるわけではないから研究はなかなか進まなかった』
「……本当に、狂気ね。
でもそれって、成功したとしても本当にそれが博士と同一人物であるとは言えないんじゃ。
博士自身はまだそこにいるわけだし」
「奴もそれは理解していただろうな。
だが、そう思い込んで没頭することで無理やり自分を納得させたのだろう。
細い糸を何とか掴もうとするように」
『ボスは、そのクローン体の中の一人だった。
しかし、情報圧縮体の注入前に事故で頬に傷を負ってしまい、博士のクローンとしての資格を失った。それによって第二世代としてホームに移送されることになったのだ。
博士はせめて肉体だけでも完璧を求めていたからな。少しでも過去の自分と異なる肉体を持った者は別の研究に使われたのだ。
だが、ボスはそれでも博士を敬愛していた。自分が捨てられたと分かっていても。
陰で博士のことを父親と呼び、舞台が変わっても彼の役に立つことだけを考えて訓練を受け続けた。
博士はそれに気付いていて、わざとボスの前で銀狼を寵愛し続けて、ボスに復讐心を芽生えさせたようだがね』
「……ボスは、クソジジイのクローンだったのか」
しかし、肉体の損傷でその役目を失った。
それでもクソジジイに心酔し続けたのは自分が奴のクローンだからだろうか。
『さて、そこまで進んだ研究だが、それは結局成功しなかった。
どのクローン体も情報の受容に耐えきれなかったのだ。
そして、そうこうしている内に銀狼の方が、銀狼としての器が出来上がったのだ。まだ表社会には出していない時の銀狼だが。
博士はその出来映えに満足してしまった。
それで完成でいいと。行く末を見届けなくていいと、そう思ってしまったのだ。いや、その最後の仕上げを、自分を捧げることで成したい、と。
その時点で博士はクローン研究を取り止めた。
銀狼の完全な完成に注力することにしたのだ』
「だから俺たちが調べた時にはその研究の欠片も残っていなかったわけか」
俺が『ホーム』を抜け出して銀狼になるまでに十年以上経っている。
証拠を消すには十分か。
『……しかし、その悪魔の研究は再度、日の目を見ることになる。
表社会に出た銀狼が結婚し、子を成したという一報が博士の耳に届いたのだ』
「!」
そこまで読んで、俺はある可能性を考えついてしまった。
いや、まさか……そんなこと……。
『「その手があったか」
私は、博士がそう呟いたのを今でも覚えている。
最強の存在たる銀狼。
しかし彼もまた、いずれは老い、朽ち、果てる。
博士は当初、いずれ銀狼自身にもクローン技術を使い、永世的にこの世界に君臨させ続けようとしていたのだ。
そしてそれを、自分自身が見届けようと。
人類の最高到達点。最終進化。その果てを。
だがしかし、博士は新たな着想を得た。原点に帰結したとも言うべきか。
それは連綿と続く人類の営み。
最強を、子孫に受け継がせるという発想。
博士は考えた。
銀狼の子供を略取して最強に育てるか?
いやしかし、それは銀狼を最強にするのに必要な要素。必要な犠牲。
ならば、どうやって銀狼の遺伝子を継いだ次代の最強を作るか。
そうだ。作ればいい。
最強の存在たる銀狼の遺伝子から、自分も銀狼の子を作ればいい。
その技術が自分にはある。
博士は、その答えに行き着いた。
もう理解しただろう?
これが最後のネタバラシだ。
銀狼とその妻。二人の遺伝子を掛け合わせて人工的に作られた生命体。銀狼の、もう一人の娘。
それがキャシーだ』
「……っ!」
「そんなっ」
俺とマリアの遺伝子で作られた、もう一人の、俺たちの子?
それが今の、もう一人のイブ……。
「……そういえば、ゼットは今のあのイブちゃんこそがショッピングセンター爆破テロ事件で亡くなったはずのイブちゃんなんじゃないかって言ってたわ。
それほどに、似ていると」
「!」
人類最高峰の頭脳を持ち、神がかった変装技術を持つゼットがそう評したのか……。
「私たちは遺体を確認しているから否定したけど、そのときに気付いたの。今のイブちゃんの方が、もともとのイブちゃんがそのまま育った時よりも少しだけ幼いんだって……」
「……俺の子が生まれてから作られたのだから、当然そうなるわけか」
辻褄が合ってしまうわけだ。
『博士がなぜ銀狼だけでなく、その妻の遺伝子も加えたのかは分からない。
単一遺伝子の連続複製の脆弱性を危惧したのか、いずれ銀狼とキャシーを邂逅させた時に、妻の面影を入れ込むことで銀狼の怒りと憎しみをさらに増大させる狙いがあったのか。あるいはその両方か。
だが、結果として生まれたそれは、銀狼の娘と瓜二つであった。
私は資料でしか娘を見てはいないが、それでも二人の類似性は確認できた。
博士曰く、「そうなるように作った」そうだから当然とも言えるが』
「……」
「ジョ、ジョセフ……」
「……すまない。今はとにかく先を読もう」
「う、うん……」
今は、気持ちの整理がつかない……。
『さて、かくして生まれたキャシーだが、ホームの職員たちの間で彼女に対して議論が生まれていた。
果たしてキャシーは人間なのか、という議論だ。
そもそもがクローン技術によって生まれた生体を人間と定義するかどうかさえ定まっていないのだ。
その上で、さらにはキャシーは原理的にはクローンでさえないのだ。
言うなれば、二種の異なる遺伝子を持つ生物から生まれた合成獣。
そう考える者も中にはいたのだ。
精子と卵子による人工受精ではなく、培養した遺伝子の掛け合わせというのが災いしたのだろう。
職員によっては、キャシーを人間扱いせずに酷い仕打ちをする者すら現れた。
だが、博士はそれを許さなかった。
「私は人間を作ったのだよ。彼女は人間で、銀狼の娘なのだよ。よって、当然のように彼女を人間として尊重し、丁重に扱う。命とは尊重されるべきだ。
全ては至上の到達点のために。
彼女は次代の最強となるべき存在なのだからね」
博士のその言葉でホームはキャシーを一人の人間として育成していくことになった。
キャシー自身にはそのことを秘密にして、一人の少女として、ね。
彼女は頑張ったよ。
身寄りがなくて博士に引き取られたのだと説明された彼女は、その期待に応えるように厳しい訓練に身を費やした。
それはまるで、かつての銀狼のようだった』
「……」
その気持ちは俺には分かる。
自分にはここしかない。ここ以外に居場所はない。
見捨てられたら自分の世界が終わる。
そう思って、俺は懸命に訓練に打ち込んだんだ。
……こいつも、きっとそうだったのだろう。
『キャシーは厳しい訓練を懸命にこなした。
本当ならばとうに心を失くしてもおかしくないと思えるほどの訓練だったが、彼女は当時はよく笑った。
訓練のとき以外は世話係の者とよく話していたし、同世代の子供たちともよく遊んでいた。
私はそれを微笑ましく見ていたよ。
……そのあとの訓練のことなど忘れて、ね』
「……仕上げ、か」
「仕上げ?」
「人を殺すためのハードルを下げるための、心を深く冷たく沈めるための最終訓練だ」
「……それは、いったい……」
「……」
『そして幾年の時が過ぎた頃、ついに銀狼を完成させる日程が決まったと博士が告げてきた。
それに伴い、博士はキャシーのことも仕上げることにした。
キャシーと特に仲の良かった子供たちと世話係を、キャシーの手で殺させたのだ』
「……この男は、どこまでもっ!」
「……俺と同じだ」
「ジョセフ……」
クソジジイは、俺と同じプロセスを辿らせようとしていたのだ。
『そうしてキャシーは心を失くし、感情を失くした。
そして、博士は私にキャシーを連れて逃げろと言ってきた。
やがて銀狼が全てを滅ぼしに来るからと。
キャシーにも表社会で光を与えて、再び心を宿せと。
与えて奪い、奪って与え、そしてまた奪い、銀狼を超える最強に仕上げろと。
……それが、私が最後に聞いた博士からの言葉だ』
「……それで俺はクソジジイを殺し、まんまと最強の銀狼になり、マウロは次なる銀狼を連れて表社会に逃げたわけか」
拳を強く握る。
「……ジョセフ」
「……続きを読むぞ」
「う、うん……」
『その後、私はキャシーとともに平和に過ごした。
訓練はせず、自宅で勉強だけは教えながらのんびりと暮らした。
少しずつだが、キャシーにも笑顔が戻りつつあった。
その頃には、私にもキャシーに対して親心のようなものが芽生えていた。
……だが、そんな時間は本当にすぐに終わりを告げた。
ショッピングセンター爆破テロ事件によって銀狼の妻子が死に、私が銀狼の担当医となったのだ。
私は博士の言葉に従って銀狼を銀狼にするべく誘導した。再び裏社会に潜る準備を進めながら。
キャシーも薄々感じていたのだろう。
再び感情はなくなっていき、笑顔も減り、口数も少なくなった。
そうして銀狼を誕生させた私はキャシーを連れて逃げた。
そして、流れ流れてボスのもとへ。
そこで、私はキャシーを守るためにボスにキャシーの出生の秘密を話した。
キャシーが銀狼の遺伝子を継いだ次代の最強であり、博士の最後の作品であると。
ボスが運営していた箱庭では、人を人として扱わないような訓練が多かったから。
恐怖と暴力で縛り付け、ただボスの命令を聞くだけの兵隊を作るような施設だったから。
博士によって作られた特別な存在だと知れば、キャシーに対して酷い仕打ちはしないだろうと思ったから。
……結果として、ボスはキャシーを寵愛した。
お互い人間かどうか定かではない者同士。
博士によって生み出された仲間。家族。兄妹。
ボスは、キャシーこそが自分の唯一の肉親だとして、家族として全力でキャシーを愛した。
教育と称して、より激化した訓練を与えながら。
そうしてキャシーの心は完全に死に、表情を変えることのない人形のような彼女が出来上がったのだ。
これが、ボスがキャシーを特別視する理由だ』
「イブちゃん……」
リザが涙を流す。
リザは優しい。経緯はどうあれ、あいつに同情しているのだろう。
「……俺とは違う形で、あいつも仕上がったわけだ」
「……」
リザが不安そうにこちらを見ているが、気付かないフリをする。
リザも気付いているのだ。俺が、あいつをイブと呼べていないことを。
『その後、私はキャシーを連れてボスのもとから逃げることになる。
ボスの常軌を逸した訓練と寵愛を見てられなくなったというのもあるが、それ以上に危険だと思ったのだ。
ボスがキャシーの出生の秘密を、キャシー自身に話そうとしていたから』
「!」
なんて馬鹿なことを。
それはかねてから議論されていることだ。
極めて危険なことであろうと。
『自我を持つクローンに自身がクローンであることを伝えることは危険を伴う。
形成されていた自己アイデンティティを真っ向から否定され、人格が崩壊する可能性が高いからだ。
オリジナリティの損失はそれだけ知的生命体の精神へのダメージが大きい。
人格形成時からそれを告げられていたボスはまだしも、一個の人格として確立されたキャシーにそんなことをしたら、キャシーは今度こそ……』
「……」
ボスはだからこそ、あんな狂った人間性を持ってしまったのかもしれない。
生まれたときからお前は人間ではないと言われてきたから。
同時に、自身のオリジナルであるクソジジイへの敬愛も抱くことに。
そして、あいつにも自分との同一性を求めた……。
『だから私は逃げた。
かねてより準備はしていたのだ。
我が子を取り返すために。
幸いにも、志を同じくする者がいた。
箱庭で子供たちの世話をしていた女性たちだ。
ボスは博士のように教育を施すことはできない。
だから、彼女たちが子供たちに同情心を抱くのを防げなかった。
私は彼女たちの手を借りて箱庭の壁を破壊し、子供たちを逃がした。
彼女たちには、全ての子供を逃がすと話して……。
子供たちは、囮だった……。
ボスたちが地上に逃げた子供たちを確保、あるいは処分している間に、私はキャシーとたまたま近くにいた双子を連れて下水道から逃げたのだ。
その真実を知っていたのは私とともに逃げた二人の女性職員だけだった。私と同年代の女性と、老年の女性。
私たちは手を貸してくれた他の女性職員たちと子供たちを犠牲にして逃げたのだ。
そうして表社会に再び潜り込んだ私は二人の女性職員をそれぞれ妻と母と位置付け、三人の子供たちを自分の子供として戸籍を偽造し、潜んだ。
私は心理学者であり医者でもある。
表社会では仕事に困ることはない。
私たちは、再び仮初めの平和を手にしたのだ。
家族に囲まれ、キャシーを含めた子供たちにも再び笑顔が戻り始めたのだ』
「……だが、それはやはり仮初めだったわけか」
そこまで寵愛する存在をボスが逃がすわけがない。
とはいえ、俺が銀狼になってからマウロの事件が起こるまでそれなりの年数が経過している。
マウロたちが逃げたのがいつかは分からないが、その仮初めの家族を家族と呼べるぐらいの年月は平和に過ごせたのではないだろうか。
……その分、失うときの重さもまた、積み重なっているのだが。
『……私は表社会で医者として活動しながらも、裏社会の情報は集め続けた。調べ屋マウロとして。
そして銀狼の活躍が耳に入ってくるとともに、ボスの手が迫っていることも知った。
私たちはいずれ殺される。
そしてキャシーは再びあの地獄に連れ戻される。
私たちは覚悟を決めた。
母も妻も、双子も、理解していた。覚悟していた。
キャシーだけでも生かそうと。
地獄のような日々を過ごしてきたキャシーには幸せになってほしいと。
皆、キャシーのあのツラすぎる日々を見ていたから。見ていて、何も出来なかったから……。
その後、私はその日を特定した。
ボスの刺客がやってくると思われる日だ。
しかしその前に、私はギリギリの所で一つの策を思い付いた。
私は、銀狼に依頼したのだ。
私たち家族の抹殺を。
……結果的には思い付くのが遅かったのだが』
「……あの依頼主は、マウロ自身だったのか」
「……巧妙に依頼主が分からないように工作されていたわね。
それでもプロセスや依頼内容、報酬に至るまで何の問題もなかったから依頼を通したのだけど」
「……まさか自分を殺せと依頼してくる依頼主がいるとはな」
『策としては銀狼が私たちを殺しに来たときに、銀狼にキャシーの保護を頼むというものだった。私自身が依頼主だと明かして。
最強の殺し屋として名を馳せる銀狼ならば、ボスの手からキャシーを守れるのではないかと。
それに私は銀狼の正体を知っている。
彼の表の顔を使えばより確実にキャシーを保護できるだろう。
真実を伝えなくとも、ボスから逃げてきた子供だと説明すれば安易にキャシーを殺さない程度には、銀狼は話が通じることも知っていたから。ボスの居場所を知る可能性のある貴重な情報源でもあるしな。
まもなくボスの手の者が来ると伝えれば、口封じに我々を殺してキャシーを連れていってくれるだろうと。あるいは刺客を始末してくれるだろうと思ったのだ。
……まあ、結局は依頼はギリギリとなり、ボスの刺客と銀狼のどちらが先に来るか分からない状況になってしまった。
どちらかというと刺客の方が先に来る可能性が高いだろう。
だから私はその可能性を考慮して、キャシーだけをおつかいと称して外に逃がした。
……私は今、刺客を待ちながらこれを書いている。
家族はリビングでその時を待っている。
双子は泣いている。覚悟をしたとはいえ、やはり怖いのだろう。そんな感情を発露できるほど、あの子たちも人間になった……。
母と妻はそれに寄り添ってくれている。私も、これを書いたら皆のもとへ行こう。
キャシーには遠くのスーパーをいくつか回らなければならないようにしてある。
事が終わるまで帰ってはこないだろう。
銀狼はやはり間に合わない。リアルタイムで情報を仕入れているが、刺客の動きが早い。
おそらくは私たちが刺客に襲われ、キャシーが帰宅したあとに銀狼が到着するだろう。
ならば、私はすぐに死ぬわけにはいかない。
血糊は用意した。
刺客はおそらく反撃を恐れて私を最初に殺すだろう。
そのときに即死だけは避けねば。
致命傷を負ったとしても、死んだと見せかけて倒れるのだ。
……そして、他の家族たちが殺されるのを黙って眺め、刺客が仕事を終えて去るのを待つのだ。……皆の遺体とともに。キャシーの帰宅を……。
キャシーが帰ってきたら、私たちをバラバラにさせる。
そこにキャシー自身の髪や爪を紛れ込ませて、キャシーの死を偽装するのだ。
警察には証人保護プログラムがある。
きっと私のやろうとしていることを理解し、一家全員が死んだと発表してくれるだろう。
何より、銀狼がそうしてくれるはずだ。
私たちを殺した刺客は警察の発表を知って激昂したボスに殺されるだろうな。おそらくキャシーだけは殺すなと言われていただろうから。刺客がキャシーはいなかったと言ってもボスは信じないだろうしな。
だが、それでいい。
ボスにはキャシーは刺客に過って殺されたと誤認させるのだ。
ボスにはキャシーは死んだと思わせ、警察と銀狼の手によって裏社会から切り離して守る。
これでキャシーは安全なはずだ。
キャシーに、最期に言葉を遺そう。
銀狼こそが、キャシーの父親なのだと。
だからこそ、銀狼としての彼を殺してあげてほしいと。
娘として側にいて、彼を普通の父親に戻してやってほしいと。
クローンだとかキメラだとか、科学的な意見などどうでもいいのだ。
キャシーは彼の娘だ。
私がそう断言しよう。
だから絶対に銀狼を殺し、二人で普通に生きてほしいのだと。
ボスのことなど忘れて、親子で手を取り合って幸せに生きてほしいのだ、と。
それを伝えるまで、私は冷たくなった家族のもとに行くのを我慢しよう。
このメモリースティックを入れたクマのぬいぐるみをキャシーに託そう。これだけは手放さないようにと告げて。
メモリースティックのことはキャシーには秘密にしておこう。
今はまだ、彼女にはこの事実は酷だろうから。
……今、これを読んでいるのは誰だろうか。
これを読んでいるのがキャシーに託された者で、かつそれが銀狼であったのなら、あるいは銀狼に連なる者であったのなら、私は嬉しい。
だが、そうなるとキャシーはボスの手に落ちている可能性が高い。
ボスはきっと、キャシーの出生の秘密をキャシー自身に話すだろう。
キャシーの心は今、ボロボロのはずだ。
銀狼。
貴方はキャシーを助けに行くだろう?
いや、すぐに答えは出せずとも、目的がボスへの復讐だとしても、キャシーのもとへ行くのだろう?
どうか行ってあげてほしい。
そして、最初に彼女の名前を呼んであげてほしい。
きっと、彼女の心は冷たく沈んでしまっているから。
今にも砕けそうなほどに弱っているだろうから。
君がどう思おうと、世界がどう思おうと、私はこう言うよ。
君とキャシーは親子だ。
だからどうか、キャシーを、娘を救ってくれ。
仮初めとはいえ、娘を守れなかった愚かな父親から、本当の父親への最期の願いだ。
どうか……どうか……』
「……」
「ジョセフ……」
「……」
「……う、うう……」
「……なんでリザが泣く」
俺は、何をイライラとした口調で。
違う。こんなことを言いたいわけじゃない。
リザにそんなことを言って何になる。
「……貴方が泣かないから、私が代わりに泣くのよ」
「……」
そうだ。
リザはいつだってそうだった。
マリアたちの遺体の前でも涙一つ流さない俺に、俺の隣で号泣しながらリザはそのときも同じことを言っていた。
涙など子供のときにとうに失くした俺だったが、リザのおかげで俺はこの世界が二人が死んだ世界なのだと理解したんだ。
「ジョセフ……行くわよね?」
「……」
「イブちゃんを、助けに行くわよね?」
「……」
「ねえ……」
俺は……。
「……すまない。今はまだ、答えを出せない」
「ジョセフ……」
俺の娘? もう一人の?
いきなりそんなことを言われて受け入れられるわけがない。
俺の娘は一人だけだ。
その娘と同じ名前をつけておきながら何を今さらと自分でも思うが、それでもこうして真実を告げられると、それを受け入れられない自分がいる。
クローンだからとか、人間じゃないからとか、そんなことではない。
俺の娘はイブだけだ。
マリアとの愛の結晶である、幼きイブだけ……。
……だから、俺は今はあいつをイブとは呼べないのか……。
認められないから。
認めたくないから。
「……だが、俺のそもそもの目的はボスへの復讐だ。
だからアジトには行く。
そしてボスを殺す。
今はそれに集中する。
……あいつのことは、それからだ。
……いや、道中、少し頭を冷やして気持ちを整理しようとは、思う」
今は、そう答えるのが精一杯だ。
リザには、正直でいたいから。
「……そっか。
そうよね。いきなり娘だなんて言われても整理がつかないわよね。
うん、分かった」
リザはいつも分かってくれる。
気持ちを汲んでくれる。
俺は、それにどれだけ救われてきたか。
「……ねえ、ジョセフ」
「なんだ?」
「……ちゃんと、帰ってきてよね」
「!」
不安そうな、でも信じてくれていると分かる瞳。
「当然だ。
俺は最強の殺し屋銀狼だからな」
「……イブちゃんも、一緒にね」
「……ああ。リザのためにもな」
「貴方のためにも、よ」
「……」
俺のためにも、か。
俺は、あいつを助けたいと思っているのだろうか。
娘だから?
いや、それはまだ分からないな。
だが……
「……答えはまだ出せないが、あいつのことは救い出す。
不肖の弟子の面倒を見るのは師の役目だからな」
「……ふふ。うん、今はそれでもいいと思うわ」
リザが笑ってくれると心が軽くなるような気がする。
「……あのときは俺しか帰ってこれなかった。
今度は俺はもちろん、きちんとあいつも連れて帰ってくるさ」
俺たちの帰りを待ってくれていたリザに、今もまた待ってくれるリザに、もうあんな悲しい思いはさせない。マリアたちの遺体と茫然自失とした俺を迎えたリザの顔を、もう見るつもりはない。
「うん。大丈夫。
貴方を疑ったことなんてないわ。
銀狼の実力を、そして何より貴方のことを、誰よりも信じてるもの、ジョセフ」
「……リザ。ありがとう」
リザのもとに帰るまでには、俺も答えを出せるようにするつもりだ。
おまけ
「よーし。キャシー。
今日の訓練の相手はこいつだ!」
「い、いやだっ!」
「……」
嬉々とした表情のボス。
冷たい台に寝かされて拘束された、子供。
無表情のイブ。
「こいつは訓練で過って転んだな。
それだけならまだしも、そんなこいつにキャシーは手を差しのべた。
訓練でへまをしただけでなく、キャシーの手を煩わせたのだ。
それは到底、許されるべきではない!」
前半はイブに笑顔を向け、後半は目を見開いて子供を見下ろすボス。
「今日は外傷性ショックで相手を始末する訓練だー」
「ひいっ!」
「……」
イブはその意味をすぐに理解するが、一切の表情を外には出さない。
「いいか。必ず外傷性ショックで始末するんだ。
死因を指定してくる依頼もたまにあるからな。
失敗すれば別のやつがまた連れてこられる。
失血で死なないように手当てはしてやる。
理解したか、キャシー?」
「……はい。ボス」
イブは表情を変えない。
「よーし。いい子だー」
優しい笑顔でイブの頭を撫でるボス。
「キャ、キャシー……」
「……」
すがるような目でイブを見上げる子供を、イブは無感情に見下ろす。
「……」
ごめんねと謝ることもできない。
涙を流すこともできない。
抗うこともできない。
それらは結局、余計に相手を苦しめることになるから。
「……」
イブはナイフを手に取る。
それで自分の心臓を抉るように、心を殺しながら。
「……」
ボスはそんな様子を、ただ嬉しそうに眺めていた……。