3.殺し屋の修行は蜜の味?
真夜中の教会。
教会のステンドグラスをどしゃ降りの雨が叩く。
轟く雷鳴が漆黒の夜空を切り裂く。
教会の中は真っ暗で誰もいなかった。
静かで冷たくて、時おり煌めく雷光が教会の中を稀に照らすだけ。
そんな教会の扉が開かれる。
そこに入ってきたのは1人の少女。
少女はどしゃ降りの雨に濡れていた。
少女は真っ白なワンピースを着ていた。
しかし、今はそのワンピースは真っ赤に染まっていた。
それは誰かの血だった。
少女はまるで頭から血を浴びたかのように全身を血に染めていたのだ。
少女の体から滴り落ちるのが雨なのか血なのか、もはやそれを判別することは難しい。
「おや?
君は……っ! ……ど、どうしたのかな?」
扉が開く音を聞いた神父が奥から出てきた。
神父は血濡れの少女に顔をひきつらせたが、神父としての役割を思い出したかのように穏やかな笑みを見せ、少女に尋ねた。
「……」
しかし、少女は何も答えず、すたすたと神父に近付く。
どうやら靴も履いていないようだ。
「……え、と?」
神父が困った顔でいると、少女はそのまま神父にもたれ掛かった。
神父は戸惑ったが、少女には温もりが必要なのだろうと少女を抱きしめてあげようとした。
が、
「……ぐっ! ……が……」
神父は苦悶の表情を浮かべる。
少女に胸を刺されたからだ。
少女が持つナイフからポタポタと血が滴る。
真っ赤に染まった真っ白なワンピースに、また新たな赤が染まる。
「……な、ぜ……っ」
神父は少女にすがるように手を伸ばしたまま、その場に崩れ落ちる。
少女はその場にしゃがみこむと神父の顔を覗き込んだ。
そして、その死を確認すると首をゆっくりと傾けた。
「……なぜ?
……さあ?
あなたが次の依頼のターゲットだったから。
それだけ」
少女はそれだけ呟くと、すたすたと入ってきた扉に向かって歩いていく。
その瞳からはいっさいの感情が感じ取れなかった。
「……え、と、次の依頼は」
少女はそんなことを呟きながら教会を後にし、再びどしゃ降りの闇へと消えていく。
無常に煌めく雷鳴が血濡れの教会に轟く。
それは、神も祈りも切り裂くかのような稲妻だった。
これは少女のいつか。
これが過去のことなのか、未来のことなのか、それはまだ分からない……。
「……う~ん」
目覚まし時計の音が頭の中に響く。
機械から発せられた音が俺の鼓膜を侵略し、脳みそに起きろと発破をかけてくる。
このままそれに抗い続け、心地よい温もりに身を任せられたならどれだけ幸せだろうか。
だが、そんなことは夢幻であることは理解している。
俺は大人だ。
目覚まし時計が鳴れば起きる。
そして社会の歯車として動き出す。
そんなことは分かりきっている。
だが、少しぐらいそれに抵抗してみてもいいじゃないか。
「……朝、起きて」
「……う~ん」
目覚まし時計以外の音が俺の鼓膜にするりと侵入してきた。
今まではなかった音だ。
「……起きなきゃ殺す」
「……あと5分……」
俺は不穏なことを呟く幼い声に最後の抵抗を試みる。
「……それは5分前に聞いた。
で、5分経った」
どうやら過去の俺は現在の俺と同じ手段をすでにとっていたようだ。
さすがは過去の俺だ。
完全記憶能力を持っている俺が覚えていないんだ、きっと無意識で言ったのだろう。
「……起きろ。
殺すぞ」
「……やだ」
もはや意地だ。
こうなりゃ意地でもあと5分眠ってやろうではないか。
過去の俺に負けるわけにはいかない。
「……よし、死ね」
「……ん? ……ぐほぁっ!」
突然、腹にとんでもない衝撃。
数十キロの重量の塊が俺の腹に落とされたかのようだ。
まずい、これは死ぬ……。
「……おい、なにしてんだイブ」
俺は目を開けて、それを落とした犯人であり、それ自体である少女の名前を呼んだ。
「……ジョセフが起きないから私を腹に落とした。
死んだ?」
「……ああ、ある意味な。
だが、これは2度とやるな。
もう少しズレていたら違う意味でも死ねた。
朝イチ、男にはいろいろと事情があるんだ」
俺は自分の腹の上からイブを下ろし、布団を腹の下にかけ直した。
「……そうか、もう少しズラせば死んだのか。
次回に期待」
「やめろ!
明日からは絶対に起きる!」
「……なら早く支度して。
ジョセフが今日は遠くへ行くと言った。
朝ごはんは用意してある」
イブはそう言うと、すたすたと部屋を出ていった。
「……そうか、今日からだったな」
俺は自分の記憶を引っ張り出しながら、ようやく覚醒してきた頭を振る。
そして、そこでハッと我に返る。
あいつは最後に何て言った?
『朝ごはんは用意してある』
俺の顔から血の気が引いていく。
「イブ!
早まるな!」
そして、俺の朝は焼け焦げたコンロの掃除から始まるのだった。
「さて、では訓練を始めるか」
「よろしくお願いします」
イブがぺこりと頭を下げる。
こういう時は立場をわきまえるんだな。
俺たちは山奥に来ていた。
ここは俺が所有している山の1つだ。
もともとの所有者であった老夫婦から大金で買い取ったものだ。
殺し屋である俺にはこういう、人に知られることなく技を磨ける場所が必要だった。
日ごろのトレーニングは当然として、殺し屋としての技術を人知れず鍛練するには私有地の山というのはすこぶる都合が良かったのだ。
とはいえ、表では一警部でしかない俺があまり多くの土地を所有しているのもおかしな話なので、土地の所有者は前の所有者の名義のままだったり、架空の名義を使用したりしている。
この山の所有者である老夫婦は買ってくれるのならばとやかく言わないというタイプだったので、相場の倍の金を支払ったら喜んで名義貸しに協力してくれた。
今ごろは夫婦仲良く世界旅行を楽しんでいる所だろう。
中には脅しを使わなければならない者もいるが、基本的には話の分かる者が多くて助かっている。
そして、そんな人里離れた山の奥地で、俺はこの少女に殺し屋としての技術を教える。
「では、まずは基本となる体術からだが、おまえはもうそれなりに動けるみたいだな」
「そうなの?」
「そうなのだよ」
イブは岩から岩へ、木から木へと跳び移りながら移動する俺に難なくついてきた。
自分の体の動かし方を知っているんだろう。
「なので、体術に関しては俺からはあまり余計な知識を入れないようにする。
体格も体力も全然違う俺が改めて教えても逆効果になる可能性が高いからな」
「そうなの?」
「そうなのだよ」
少女特有の柔軟性と敏捷性。
それを活かした動きがイブの骨頂だろう。
イブはそれの使い方をよく分かっているようだ。
ならば、それをむざむざ潰してしまうようなことを教える必要はない。
殺し屋ってやつは、結局は自分に合ったスタイルでやるのが一番いいんだ。
「……それなら、イブはジョセフから何を学ぶ?」
「ふむ。
単純な技術でいうと、次はこれだ」
そう言って、俺は腰に差していたナイフを取り出す。
愛用の刃渡り17cmの新型ザ・レザーネック(タントー)。
刀身も持ち手も真っ黒。
直刀で、剣先は斜めに切ったかのように尖っている。
「ナイフ」
「そうナイフだ」
イブが俺のナイフをじっと見つめる。
こいつは武器を見つめる時、目が暗く深く冷たく沈む。
おそらく、こいつなりのスイッチなのだろう。
殺し屋には殺しのためのスイッチを入れる習慣のようなものを持つヤツがいる。
こいつの場合は武器を見つめることがそれなのだろう。
「……ほれ」
だが、俺は俺がそれに気が付いていることをイブには気付かせない。
イブが本当は俺の命を狙う殺し屋なのだということに俺は気が付いている。
だが、それにイブは気付いていない。
イブは事件の被害者であり、自分が死にたくないと思うために俺から殺しの技術を教わる哀れな少女。
そういう体で、こいつは俺の元にいる。
表向きは俺に殺されるために。
本当は、いつか俺を殺すために。
そして、俺はイブにそんな依頼をした馬鹿を突き止めるためにこいつを側に置く。
表向きは警部として被害者を保護するという名目で。
本当は、いつか依頼者もろともこいつを殺すために……。
だから俺は、こいつに人を殺す術を教える。
「……ん」
俺が放ったナイフが、前に出したイブの両手にポトッと落ちる。
イブはそれを手に持つと物珍しげに観察した。
「……ジョセフのと違う」
「そりゃそうだ。
おまえに渡したのはバックナイフ103スペシャルだ。
グリップが細めで、おまえのような小さな手でも握りやすいし、ブラッドグルーブ(血抜きしやすい溝)もついているから連続使用しやすい。
あとは俺のと同じフルタング仕様で、持ち手側での殴打も可能だ」
イブは俺の説明を聞いていないかのように渡されたナイフを隅から隅まで眺めている。
「……少し重い。
あと、ジョセフのと違って黒くない」
「重い、が、頑丈だ。
肉体的な弱さをカバーするには武器を強くするしかない。
それに重いのに慣れておけば、使える武器の幅が広がる。
黒は確かに闇に紛れるが、初めからそれに頼るな。
光を反射する素材でも相手に気付かれないように、瞬間的に仕留められるようになれ」
「……むう」
イブは不服なのだろうか。
眉間に皺を寄せている。
「…… 」
「なんだ?」
「……なんでもない」
なんなんだ?
これだからガキは。
「じゃあ、まずは軽く組み手するか。
互いにナイフを持った状態で戦う」
「……」
そう言っても、イブはナイフをぶすっと見つめたままだ。
さっきの殺し屋の目ではなく、ただの子供の目のように見える。
「……おい」
「……勝ったらご褒美」
「……は?」
なんだって?
「……私が勝ったらパンケーキ食べたい」
「……あん?」
「……はちみつホイップたっぷり8段重ね」
「……」
「……」
無言の圧力。
「……わーったよ。
おまえが勝ったら、しこたま焼いてやる」
「……」
イブは黙ったまま俺から距離を取った。
「さ、早くやろう。
ほら、早く」
こいつ……。
「パンケーキ、パンケーキ、パンケーキ……」
うるせえな。
あれ?
というか、俺が教えてやってんだよな?
なんで俺がご褒美まで用意してやんなきゃなんねぇんだ?
「パンケーキ、パンケーキ、パンケーキ……」
「……はぁ。
まあいいか」
俺はなんとなく上がった口角に気が付かずにナイフを構えた。
「……来い」
「……ん」
「……ほう」
そして、いざ構えるとイブの目付きが変わった。
深く暗く冷たく、静か。
こんな、ガキが、なぁ……。
まぁ、まだマシか。
人を殺す時に心が後ろ暗くなるからこんな目になる。
それすら慣れてしまえば、わざわざスイッチを切り替える必要すらなくなる。
まるで呼吸をするように人を殺すのだ。
俺のようにな……。
「……ん!」
「おっと」
イブが小さな足を強く蹴って近付いてきた。
良いバネだ。
「……ふむ」
そして、顔に向けて容赦なく右手に持ったナイフを突き出してくる。
当然、背が届かないので小さくジャンプしている。
思ったより速い。
体が小さいから、まるでナイフだけが飛んでくるかのようだ。
俺はナイフを持っていない左手でイブのナイフを腕ごと払おうとした。
「……ん」
「おおっ」
が、イブは手首を返してナイフの先を俺の左手に向けた。
このまま払えば俺の手のひらに風穴が空く。
俺は右手に持ったナイフを瞬時に腰にある鞘にしまい、ナイフが向いていない側から右手でイブの手首をつかんで、一本背負いのようにぶん投げた。
「わっ」
イブは突然空中に投げ出されて驚いていたが、冷静につかまれた腕を外し、くるりと一回転して着地した。
そして、俺は再びナイフを取り出し構える。
「届かないからといって正面から安易に飛び上がるのはいただけない。
そのあとの対応は良かったが、軽いおまえはつかまれれば投げられるし固められる。
もっと足を使え。
撹乱しろ。
おまえの足と判断力なら出来るはずだ」
「……わかった」
イブは俺の助言を自身の中で噛みしめるように頷いた。
イブの頭の中では次なる戦略が巡っているのだろう。
「……ん!」
そして、イブは再び動き出した。
「……ふむ」
しかし、それは先ほどと同じ攻撃だった。
接近し、俺の顔面目掛けてナイフを突き出す。
……いや、これは。
俺は先ほどのイブの状態を記憶から引き出し、今の状態と重ねる。
少しだけ、今回の方が高さがない、か。
それはつまり、跳んでいないということだろう。
地に足がついている状態。
なるほど。
先ほどの失敗を生かし、逆に利用してきたか。
相手は先ほどと同じ攻撃だと油断する。
子供だからと安易にそう結論を出す者もいるだろう。
……少し付き合ってみるか。
俺はイブの取った作戦にのっかってみることにした。
向かってくるイブに対し、先ほどと同じように左手でイブのナイフをさばこうとする。
イブは先ほどと同じように手首を返し、刃先を俺の左手に向ける。
俺はそれを見てからナイフをしまい、右手でイブの手首をつかみにかかる。
「うおっ」
が、イブが突然姿を消す。
さまざまな可能性の情報処理に俺の脳が一瞬止まる。
そして、導き出した結論に準じて下を向くと、イブは地面を這うように回転しながら俺の足を切ろうとしていた。
「ちっ」
俺はバックステップでそれを避ける。
が、イブはそれを想定していたようで、さらにもう一回転してナイフを俺に向けて投げてきた。
「……くそっ!」
俺は自分のナイフを取り出してそれを弾く。
イブはその隙を逃すまいと再び俺に躍りかかる。
「ははっ! ……あん?」
俺はイブの予想以上の動きに思わず笑みがこぼれたが、イブは懐をごそごそしたまま俺の胸に飛び込んできた。
「……あ、他に武器ないんだった」
「……おい」
そして、俺はイブを見事にキャッチしてみせた。
「……」
「……」
「……おろして」
「……はいよ」
俺はお姫様だっこ状態だったイブをそっと地面におろしてやった。
「……まあ、セカンドウエポンは常識だからな。
今回は仕方ないだろう」
「……うん」
なんだか何とも言えない空気だったが、気を取り直して、その後も俺たちは日が暮れるまで訓練を続けた。
「はーっ、はーっ……」
日が傾き始めた頃、イブの体力も限界を迎えたようだった。
地面に仰向けになり、胸を上下させながら息を整えていた。
「そろそろ終わりだな。
今日は帰るか」
「……結局、1回も勝てなかった」
イブは心なしか悔しそうにしているように見えた。
あまり感情を見せないイブのこんな顔は初めて見た。
「当然だ。
だが、俺は今日はナイフを使わないつもりだった。
それを使わせただけでも十分だろう」
「……くそう。
パンケーキ……」
「……」
こいつ、それで悔しがってたのか。
「……わかったよ。
パンケーキは焼いてやる」
「マジか!
やった!」
体が動かないはずなのに、イブは震える手を掲げてガッツポーズをしてみせた。
「……ふっ。現金なヤツだ」
そんな姿に思わず笑みがこぼれる。
「だが、その前によく聞け。
いいか。
おまえは敏捷性と判断力は良い。
だが、体力と筋力がどうしても追い付かない。
まずはそれ最優先で鍛えろ。
ただし、女性の、少女としてのしなやかさを失わないようにだ。
具体的なトレーニング方法はあとで教える。
あとは技のレパートリーを増やせ。
一般人を一撃で仕留めるならいいかもしれなが、たとえば同業相手で長引いてくると途端に不利になる」
……まあ、組織への報復を恐れて子供の殺し屋には多くを教えないことも多いようだがな。
子供の殺し屋はそれなりにいるが、しょせんは使い捨て程度にしか思われていないんだろう。
……おそらく、それはイブも……。
「……」
「……おい、聞いてんのか?」
「……すぴー、すぴー」
「……おい」
寝てやがる!
ずいぶん静かに聞いてるなと思ったら、俺のアドバイスなんてまったく聞いてねえじゃねえか!
「……むにゃ、パンケーキ……」
「……ったく」
俺は幸せそうに眠るイブを自分の背中に背負い、山を降りていった。
帰るのはもちろん、俺たちの家だ。
「……ん?」
…………。
「……ふん」
ジョセフたちから1キロ以上離れた山の中腹で、1人の男が草木に紛れて双眼鏡を構えていた。
「……あぶないあぶない。
まさかこの距離でも見られそうになると気付くのか。
誰も正体が分からないはずだ。
こりゃあ、これ以上の監視は無意味だな」
それだけ呟くと、男は双眼鏡を覗くのを諦めて山中に消えていった。
おまけ
「……しかし、こいつマジでぐっすり寝てやがるな」
「……ううん、パンケーキ、おかわり」
「ん?
ははっ、寝言かよ」
「……うーん、ジョセフ、ご苦労。
待て。
お手。
伏せ。
……よし。
良い子
……むにゃ」
「……よし、捨ててこう」
「……ジョセフ、ふふ、一緒に家に、帰る……」
「…………くそ」
「……むにゃむにゃ」