26.盤上で駒は狼と踊る
「……ふむ。キャシーと警官を少し泳がせろと?」
とあるホテルの一室。
ボスが頬の傷をなぞりながら腰掛けたソファーの背もたれに身を預ける。
「うむ。そうなのだよ」
テーブルを挟んだ向かいのソファーに腰掛けるのはゼット。
裏では紳士の名で屈指の調べ屋として活躍している、世界一の名探偵ゼットその人である。
黒淵メガネは以前のままだが、今日は緑色の髪をポニーテールにした快活な少女の姿をしていた。学生服もセーラー服だ。ジョセフの前に現れた時よりも肉付きは控えめになっている。
老若男女さまざまな姿に変装できるゼットは姿を変え声を変え、自らの真の姿を他人に悟らせない。
ボスと最初に接触した時はスーツ姿の壮年の男性だった。黒淵メガネだけはそのままに。
このメガネがボス相手の紳士である証となっている。姿を変える自分が紳士である証明として、ゼットは最初に依頼主に固定アイテムを提示する。
どんな姿で現れても、その依頼主と会う時にはそれだけは必ず身につけるのだ。それが紳士たる身分証だから。
「……なぜだ?」
ボスはゼットの容姿の変化に特段反応を示さず、葉巻をカットして火をつけると、ジロリと目の前の少女に冷たい視線を向けた。
ボスが吸った葉巻の先が赤く燃ゆる。
「思ったより彼女の警護をしている警官が手強くてね。
戦闘面もさることながら、何より警戒心が強い。素人の尾行など一発で見破るだろうね。
私やカイトでも細心の注意が必要なのだよ」
ゼットはジョセフとの密約を経て、ひとまず時間を稼ぐことにしていた。
まずは銀狼を平常運転させる。ジョセフが自分たちの監視下にある状況で。
それによってジョセフイコール銀狼という可能性を可能な限りボスから排除したいという狙いがあったのだ。
そしてそれと同時に、ジョセフ側にボスのことを調べさせる時間的余裕を与えようとしているのだ。
「……だから?」
「……だから、とは?」
「それは奴らを泳がす理由の説明にはならねえよな?」
「……」
が、ボスはゼットの提案を一蹴する。
その冷たい視線はゼットの体を強ばらせたが、紳士として余裕のある態度を崩すことはしなかった。僅かばかりも疑われるわけにはいかない。
戦闘能力という点においてはその辺の一般男性にも劣る自分が敵認定を受けるわけにはいかない。
ゼットはあくまで紳士としての、ボスの味方としての提案であることを強調していくことにした。
「……ふっ」
そして、ゼットは笑う。
余裕は自信の顕れ。
この世界はナメられたら終わりなのだ。
「こちらにも準備が必要だということさ。
君はカイトに警官を始末させてキャシーなるあの少女を連れ出そうとしているのかもしれないが、調査面に秀でたカイトではそれは難しいのではないかということだ」
「……準備とは?」
ボスはゼットから視線を外す。
どうやら詳しく話を聞く許可は得たようだ。
ゼットはプレッシャーから解放された安堵を表に出さないように自制した。
「君も数で押すのは好ましくないと考えているのだろう? ならば、あの警官の相手をするのはそれなりの実力者でないといけない。この組織だとマドカか壊し屋といったところか。
しかし、マドカは学業との両立であまり自由に動けない。そして、壊し屋は別件で今は手を離せない。
ならば、機を見て動けるようになるまで泳がせてみようというわけだ。
もちろん監視は続けるし、行けると思えばカイトを動かそう。しかし、そこに義務性を持たせないでほしいというわけだ」
「……ふー」
ボスが天を仰いで葉巻の煙を吐き出す。
ゼットの提案を検討しているようだ。
そして、
「……あまり、俺たちを調べるなよ」
「……」
ボスは天井を見上げたまま呟く。
マドカの立場も壊し屋の動向も、ボスはゼットに話していない。にもかかわらずゼットはそれを把握していた。ボスはまずはそれを警戒したのだ。
「いやなに、動かせる盤上の駒のスケジュールは把握しておきたくてね。不確定要素は失敗の最大の要因なのだよ」
ゼットはこの忠告への回避回答をあらかじめ用意していた。
そしてそれは、自分はあくまでチェスの駒の動かし方をサポートするアドバイザーであり、ボスの駒ではなく、組織に深く関わるつもりはないという明示でもあった。
「……まあいい」
そしてその明示は正しくボスに伝わり、どうやらその件に関しての査定は通過したようだった。
「……カイトはどう思う?」
「んー? そうだねー」
「!」
その時、ゼットの背後でのんびりとした声が現れた。ゼットが慌てて振り返ると、ナイフのホルダーに手をかけたカイトがすぐ後ろに立っていた。
「まあ、俺も賛成かなー。正直、不意を突いてもあの警官を確実に殺せる自信はないかも。最大限に警戒されてるから不意を突くなんてことも難しいだろうし。
それに俺は一度接触しちゃってるしねー」
カイトはジョセフと対峙して逃げてきたことをボスに報告していた。内情を漏らしたことは言わず、速度に任せて全力で逃げたと。
「……ふむ。いいだろう。
壊し屋の手が空き次第、そちらに合流させる。それまでは奴らを泳がせてやろう。
銀狼の調査の方は引き続き行え」
カイトの意見を受けて、ボスはようやく首を縦に振った。
「……理解してもらえたようで嬉しいよ。
委細承知した」
自分は疑われていた。
提案がボスの意にそぐわなければ、カイトは自分が気付く間もなくこの首を切っていただろう。
ゼットは内心、非常に安堵していた。
「……ただし、監視に不定期でマドカも混ぜる。こちらは単独で、お前らとも別で、だ」
「!」
「あー、俺は別にいいけどねー」
ゼットは理解した。
ボスは自分だけではなく、全てを疑っているのだと。
カイトが自分と組んでいる可能性。それさえ考慮して第三者を投入してみせたのだ。
実際、本当にマドカを動かす必要もない。
自分とカイト以外の誰かも動いている。そう思わせるだけで不審な行動は抑制できるからだ。
「……いいだろう。思考の片隅に置いておくとしよう」
ゼットは話は終わったとばかりに立ち上がる。
正直、ボスに一杯食わされたという感覚は否めなかった。
思考力で後れをとった。
ゼットからしたら、それは甚だ遺憾であるとともに、ボスに対する警戒心を最大限に引き上げることになった。
悪意や猜疑心という点においては自分よりも上。
そういった認識で見なければ、いつ命を刈り取られるか分からない。
ゼットは、やはり自分は間違っていなかったと確信した。
ここにいては危険だと。
さっさと銀狼にこの化け物を喰ってもらわなければと。
「では、監視に戻るとするよ。
カイト。二時間後に交代だ。ちゃんと寝坊せずに来てくれたまえ」
ゼットの言葉にカイトは「頑張るー」と適当に返して手を振った。
ゼットはそれを見ずに部屋の出口に向かった。もう振り返りたくないという思いもあったからだ。
「……なあ、紳士」
「……なんだね」
扉のドアノブに手をかけたゼットにボスが声をかけた。
体と声を震わせないようにゼットは動きを止めた。
「……お前のそのしゃべり方、親父の真似なのか?」
「!」
「……お前、第三世代だろ」
「……私にとっての知恵者と言えば彼だ。それを模倣してみることは当然の帰結と言えるだろう」
「……」
図らずも、それは博士を信奉するボスに対する回答としてはベストであった。
「そうか。俺はお前をそこそこ気に入っている。せいぜい働け。報酬は弾む」
「……ああ。存分に踊るさ」
ゼットは部屋を出ていく。
ボスの「お前も俺の駒だ」という発言を甘んじて受け入れて。
「……」
生き残るためならば盤上で踊ってみせよう。
ゼットはそう決意を固める。
盤上から飛び出した狼がボスの喉を喰い破る、その時まで。
「帰ったぞ……で、なぜお前がここにいる」
「あら、おかえりジョセフ」
「うむ、おかえりジョセフ氏」
リザが俺を出迎える。
そのリザと同じセリフを吐く輩が一人。
「なぜ居るのかと聞いている」
「やれやれ。ツレないではないか」
そこにいたのはゼットだった。
今日は黒淵メガネをかけていない。それどころか髪色は赤。瞳は黒。おまけにパンツスタイルのスーツに身を包んだ大人の女性の姿をしていた。
「……リザ。イブはどうした?」
俺はひとまずゼットを無視してリザにイブの所在を尋ねた。
「寝室で寝てるわ。ご飯食べてお腹いっぱいになったら眠くなっちゃったみたい」
「……そうか」
寝室のイブの気配を探る。どうやら本当に眠っているようだ。
「それよりもジョセフよ。よくコレが私だと分かったものだね」
ゼットがスーツのワイシャツの胸元を広げるようにして自身を示した。
以前よりも明らかにサイズアップした胸が主張している。
「……わざとだろうが、所作は以前のゼットのままだ。声も話し方もな。
あと顔のパーツも前の学生の時とほとんど変わっていない」
「ふむ。さすがは完全記憶能力だな」
ゼットは満足そうにこくこくと首を縦に動かした。
「……よく、ここに来られたな」
「!」
俺がそう言うと、ゼットはかすかに表情を引き締めた。
「ふむ。ある程度あちらの動向は予想していたかね」
どうやらゼットの方も俺の発言の意図に気付いたようだ。
「ああ。疑われただろ?
おおかた、不定期に第三者による介入がついた、といった所か」
俺がゼットの計らいによって銀狼としての依頼を再開してから幾日かたった。
ひとまずは俺イコール銀狼という疑いが生まれる可能性は下げられた。
だが、いつまでも同じ手が通じるわけがない。
とはいえ、こちらもまだボスに対してアプローチできる状態にはない。
それを理解しているゼットは、おそらくボスに時間を稼ぐための提案をしたはず。
だが、それがボスにとって悪くない提案であっても、可能性のひとつとしてボスがゼットやカイトの裏切りを想起するには十分な提案だ。ボスはおそらく慎重で疑り深い性質のようだしな。
が、それはあくまで可能性のひとつとしての懸念であって、大幅にリソースを割く必要性はない。
ならば、ゼットたちにも分からないタイミングで監視が追加されるという心理的な拘束が妥当といった所。
ゼットたちはそれが本当に施行されるとは思わなくとも襟を正さないわけにはいかない。仮にもし本当にそれが行われて何らかの疑念が発生すれば、ボスはおそらく簡単にゼットたちの命を刈り取ろうとするから。
「……ふむ。さすがだね。その通りだよ」
ゼットは笑みを浮かべて頷く。
ゼットの狙いも分かっている。
ボスに対してそこまで危険なことをした自分に対する信用度を上げろと言いたいのだろう。
自らの命の危険を賭けて、俺が銀狼として動くための時間を稼いでやったのだ、と。
「……ようは、さっさとボスの居場所を突き止めて始末しろってことか」
「うむ。話が早くて助かるよ」
それはこちらのセリフでもあるけどな。
一を説明するだけで十まで理解するゼット相手ならば、たとえ単語だけであっても会話が成立するだろう。
「ああ。ちなみに匿ってもらう必要はないよ。これでも尻尾を掴ませずに踊るのは得意でね」
「……そうか」
ゼットがウインクをしながらそう告げる。
こちらが提案しようとしたことを事前に察知して回答してきた。
いざとなれば俺の隠れ家のひとつを提供して身を隠させるつもりではあったが、どうやらそれは必要ないようだ。
「それで?
奴らの本部。『箱庭』のある組織の場所は特定できたのかね?」
ゼットが話題を次に移す。
心なしか急いでいるように見受けられる。
カイトとの交代の時間。そして第三者による監視を警戒してのことだろう。ここに来たということは今は尾行されていないということだろうが。
実際、俺が仕事を終えてここに着くまでの間、監視はなかった。
ゼットもカイトもボスのもとにいたからだろう。
「……それが難航していてな」
俺はリザに目線を送る。
「いや、ホント、見事なものよ。
軍の衛星にハッキングまでして探してるのに、それらしい施設はいっこうに見つからないんだから。
本当ならこれだけの時間があれば、個人所有のビルの一角で夜な夜な行われてる商売やら大統領の隠し子の人数でさえ特定できるのに」
リザがやれやれとお手上げのポーズをとる。
情報屋であるリザがあらゆる手段を用いてもいまだに特定できないのだから、相当厳重に存在を隠匿されているのだろう。
「急いでくれたまえよ。君たちを泳がしておくのにも限界はある。
早くしないと、カイト以上の手練れが派遣されてくる。いくらなんでも、一介の警察官が単体で倒すには難しいレベルの者がね」
「……手練れか。誰か分かっているのか?」
そいつを倒してしまえば俺がただの武闘派警官だと思ってもらえなくなるってことか。
「通称、『壊し屋』と呼ばれる男だ。そちら側でも名の知れた男だろう?」
「……壊し屋か」
たしかにその名は聞いたことがある。
「片手で人の頭を握り潰しただの、銃弾を腕で弾いただの、ビルを拳で破壊しただの、戦車を素手でスクラップにしただの、眉唾物の噂話には事欠かない奴だな」
「うむ。尾ひれがついている話も多いだろうが、ようは異常発達した筋力で全てを破壊していくというスタイルなのは確かだな」
「筋力の異常発達……」
その一芸特化はつまり……。
「うむ。壊し屋は第三世代と呼ばれる者たちの生き残りなのだよ」
「……ゼット。お前の同期というわけか」
「おや? それも気付いていたのかね」
ゼットが意外そうな顔をした。
「その喋り方は耳に染み付いている。嫌でも分かるさ」
俺にとっては憎き仇であると同時に育ての親でもあるのだからな。
「なるほどなるほど。君にとっては耳にするのも嫌な話し方だったかな。それはすまないね」
「……いや、それは別に構わない」
今さら死人に憎しみなどない。
「……だが、壊し屋はそれなりに年齢が上だったと思うのだが。少なくとも俺よりは年上のベテランだったと記憶している」
リザの方を見ると、こくりと頷いて肯定していた。
博士は幼少期から育成するため、第二世代以降の人間は全て俺より年下のはず。
ゼットの実年齢は分からないが、案外最初に出会った学生の姿が彼女の本来の姿なのではないかと思っている。
「ああ。彼はね、もともと『ホーム』の職員だったのだよ」
「!」
「ちょうど博士が次の育成方法を試す者を選別している時に、彼に適性があることが分かって、彼は嬉々としてそれに立候補したのだよ。
死ぬよりツラい目に遭う可能性の方が高いというのにね」
「……ああ。職員も含めて連中は全て博士による洗脳を受けているからな。たとえ自殺志願だとしても博士のためならば喜んで手を挙げるだろうな」
俺がホームに乗り込んだ時には壊し屋はいなかった。外で仕事をしていたか、あるいは博士があえて逃がしたか。
「ともあれ、君なら分かるだろう。ホーム出身の人間は手強い。特に第三世代相手に奴らのグラウンドで戦ってはいけない。
条件次第では君に匹敵する能力を持つのが我々第三世代だからね」
「……ふむ」
それは、たしかにその通りなのだろう。
ゼットならば頭脳。壊し屋ならば腕力というように、第三世代は一つの分野が圧倒的に突出している。
おそらく博士はそれらの粋をかき集めて、最終的に第四世代で集大成を造るつもりだったのだろう。
そして、それを俺にぶつけて真の最強を造りたかったのだろう。まあ、その前に俺に潰されたわけだが。
とはいえ、万が一そいつと戦闘になったとしたら、完全された第三世代と戦うのは初めてだな。ホームにいたのはまだ育成途中の者たちばかりだったから。
「……なんにせよ、警官としての俺が壊し屋と戦うことになる事態は避けたいわけだ。俺が勝っても負けても不利益しか生まないから」
「そういうことだね」
負ければ当然死ぬ。しかし勝ってもボスに俺が銀狼だとバレる、か。
いっそのことバラしてしまって、向こうから俺の前に姿を現してもらうという手もあるのかもしれないが、それは得策ではないだろう。
そうなれば奴はおそらく手段を選ばない。
この国全てを破壊するなり人質にするなりして、俺を奴のホームグラウンドに引き込もうとするだろう。
あるいは俺の周囲の人間全てを惨殺しようとするか。博士のように……。
いずれにせよ、相手にこちらの手の内を晒すのは悪手だ。
殺し屋というものは暗殺者に近い。
こちらの情報は与えず、相手の情報は丸裸にして、優位性を保った状態で相手を殺す。静かに、確実に。それが殺し屋だ。
そのためにも、俺が銀狼であるとボスにバレる前に連中のアジトを突き止め、箱庭の人間を含めた組織の者たちを根絶やしにしなければならない。
おそらくはホーム同様、奴らもボスによる洗脳を受けているだろうからな。余計な禍根を残せばあとあと面倒だ。
「……ちなみに、お前がアジトの場所を教えてくれたりはしないんだよな?」
「うむ。そもそも教えてもらってないしな。私がボスと会うときは大抵どこかのホテルの一室か人気のない廃工場の類いだ。それも指定されるのは会う直前。おまけに手練れの護衛付きときたものだ。
所詮、外注の人間は信用されていないのだよ。いや、ボスは自分以外誰も信用していないのだろうな」
「……慎重な奴だな」
だが、やるとなったら大胆な行動にも出る。
非常に厄介な相手だ。
「ちなみに探偵ゼットとして調べることもできないぞ。ゼットは依頼がないと動けないし、依頼主は当然、奴らに調べられる。
依頼主が君だとしても銀狼名義だとしても怪しい。ゼットが銀狼の依頼を受けるとは思えないしね。そして他の者の名を使えば、その者が消されることになるだろうね」
「……お前からしたら、関係ないところから奴らを潰してもらうしかないってわけか」
「うむ。関わってしまった時点で私は奴らに深入りできなくなったのだよ」
ゼットのことだ。
ボスから依頼を受けた時点でボスの組織について独自で調査するはず。
今回の件でおそらくそれを咎められたか。
言われた以上、それ以降は行動が著しく制限される。それでもなお調査を進めればそれは裏切りと取られかねないからな。
「……用件は分かった。
こちらは銀狼としての依頼をこなしつつ、早急に奴らの本拠地を突き止めて襲撃する手はずを整えよう」
「うむ。また私だけの監視日時が確定次第、順次そちらに伝えよう。君はそこから好きな日時を選んで依頼を遂行したまえ。
壊し屋が動くようならまた追って連絡する」
「ああ」
ゼットがリザの方を見やると、二人は互いに頷いた。
基本的に連絡はリザを経由して行っている。
そしてゼット側から監視の日程を送ってもらい、そこから俺が銀狼として動ける時をランダムで選ぶことでゼット側に具体的な活動日時を漏らさないようにしている。
ゼットに待機を告げるのは当日だ。
その連絡を受けたゼットはその時点で俺の追跡・監視を行わない。その際、ゼットは分かりやすく停止したことを俺に示し、俺はそれを気配で察する。
それがあと何回できるか分からないが、壊し屋とやらが派遣されるまではその流れでいいだろう。ゼットたちの監視とやらがつくとしても、ゼットはそれを最大限に警戒しているだろうしな。
「では、私はこれで。
あと三十分ほどでカイトがこの部屋を見張りに来る。一応、その時に他の監視がいないか探ってみてくれたまえ。
まあ、室内からそれを気取られるほど追加要員は愚鈍ではないだろうがね」
「分かった」
ゼットが席をたつ。
その追加要員、実際にはほとんど出てこないのだろうが、ゼットたちの裏切りが発生した際の始末屋の役割も担うのだろうからおそらく腕がたつのだろう。
監視要員の監視要員を特定するなど不可能に近い。とはいえ、やるだけやってはみるか。
「では、健闘を祈る」
ゼットはそれだけ告げると颯爽と玄関から出ていった。
おそらくもう違う顔に変装しているのだろう。今度は俺でさえ判別できないほどの別人に。
「私もちょっと外すわ。
ローズの方の進捗を確認してみる」
「頼む」
リザも、そう言うと玄関から出ていった。
リザの仕事場はこの近くにもある。そこで情報の再収集と、俺がローズに依頼している奴らの本拠地の特定の進捗確認をしに行ったようだ。
「……さて」
俺は二人が完全に部屋から離れたことを確認すると、おもむろに席をたった。
さっきから気付いてはいた。
気付いていたが、向こうがリザとゼットに気取られないようにしているようだったのでそのままにしておいた。
「……二人は出ていったぞ。
出てきたらどうだ、イブ?」
「……やっぱりバレてた?」
俺が声をかけると寝室のドアがガチャリと音をたてて開き、中からイブが姿を現した。
イブが首をこてんと傾げている。
仕草は変わっていないが、その目は初めて出会った時のように冷たく、暗い瞳だった。
そう。気付いてはいた。
目を覚ました時からその身に纏っている殺気には。
「どういうつもりだ?」
「……」
返答はない。
鋭く、薄く、研ぎ澄まされた殺気。
けれども極端に薄く、儚く、まるで薄氷の硝子のような繊細な殺気。
叩けばいとも簡単に壊れてしまいそうなのに、触れればこちらの手など容易く切り裂かれそうなほどに鋭く、脆い。
人を殺したことのある者が、人を殺そうとする時に放つ殺気と眼光。
それが今、静かに俺に向けられていた。
「……どういうつもりだと聞いている」
そう。
気付いてはいた。
静かに俺を見据えるイブの手に、俺が渡したナイフが握られていることに。
おまけ
「うまっうまっ!」
「はっはっはっ。じつによく食べる」
「あなたの持ってきてくれたメープルシロップが気に入ったみたいね」
ジョセフが帰る前、リザとイブが留守番をしている部屋にゼットが訪ねてきた。
ちょうどリザがパンケーキを焼いていたので、ゼットの手土産であるメープルシロップをかけたところ、イブさんのフォークがノンストップになったのだった。
「うむ。よくやった。褒めてつかわす」
「なんか、ゼットの話し方がうつってない?」
「はっはっはっ。お褒めに与り光栄だね」
美味しそうにパンケーキを頬張るイブにゼットは大きく口を開けて笑った。
「それで? 今日は何しに来たのよ」
ノンストップイブさんにパンケーキを次々投入しながらリザはソファーで寛ぐゼットに尋ねる。
「いやなに。いくつか申し送りがあってね」
「はぁ」
「余は満腹ぞ」
「はいはい。お粗末様」
イブがパンパンになった腹をポンポンと叩く。
「眠い……」
「ちゃんと歯を磨いてから寝てね」
「うゆ……」
席をたってふらふらと寝室に行こうとするイブにリザが声をかけると、イブは方向を変えて洗面所に向かった。
少しして洗面所を出てきたイブはそのまま寝室へと直行したのだった。
「……まるで、母親だな」
「……悪い?」
「!」
慈しむような視線をイブに送るゼットだったが、その呟きに対してリザはトゲのある返事を返してきた。
「む? いや、すまない。他意はなかったのだが」
「……ううん。なんでもないわ」
「……ふむ」
ゼットが謝るとリザはハッと我に返り、気まずそうに俯いた。
ゼットは何やら事情があるように感じたが、下手に首を突っ込むのはやめようと、そのままジョセフの帰りを待つことにしたのだった。