16.満月の夜に森に入ってはいけない。狼は狩りの邪魔をされるのを嫌うから。
「チッ! 別ルートからの侵入と脱出だと!?
あそこには正面入口からしか入れないのではなかったのか!?」
警察幹部の執務室。
部下からの報告書を読んだ男は書類を机に叩きつけた。
「くそっ! 役に立たん奴らめ! 何が特安の精鋭だ! 給料泥棒め!」
男は神経質に爪を噛みながら頭をぐしゃぐしゃとかいた。
「やっとだ。やっと特安で上に行けるチャンスを掴んだのだ。警察ではこれ以上の出世は見込めない。ならば俺は、こっちで上に行くしかないんだ!」
男は机を乱暴に拳で叩くと窓から外を見た。
高層階に位置する、一部の幹部にしか与えられない個室。
男は警察での役職は警視だったが、同期との出世争いに敗れた。
その折に、男の上司だった者から特安に誘われたのだ。
「……初めは騙されているのかと思ったが、な」
国家を守る超法規的組織。
主に警察官によって構成された裏の警察。
よもや、そんな絵空事のような組織が本当に存在したとは。男は実際に仕事を始めるまで、それが信じられなかった。
「……だが、こんな何でもありな組織。はっきり言って警察よりも上だ。俺が、この国を守るんだ」
国を守るためならばどんな手段でも使う。
男は出世欲の塊のような人物だが、愛国心だけは強かった。
男の上司はそれを見込んで彼を特安に誘ったようだ。
「……そのためにも、まずは手柄だ。
特別対策室が作られながら、長年その姿を拝むことさえできていない最強の殺し屋『銀狼』。
俺がその対策室の室長である時に銀狼を捕らえることができれば大手柄だ!
いずれは特安の上位陣さえ目指せるぞ!」
男の目は野心で燃えていた。
特安と銀狼との関係性は男にも少なからず伝えられていたはずだが、どうやら自分にとって都合の良い情報以外はシャットアウトする質らしい。それによって警察内での出世争いに敗れたというのに。
「……ん?」
そのとき、備え付けの電話のベルが鳴った。
男は不機嫌ながらもしぶしぶ受話器を取る。
「……私だ」
『……』
「……誰だ?」
男は電話の表示を確認する。
ここの電話は登録してある連絡先からしか連絡を受けない。そのため、かかってきた電話番号とともに登録してある番号主の名前もともに表示されるのだ。
「……本当に誰だ?」
『……』
しかし、そこには番号も名前も表示されておらず、ただ『通知不可能』とだけ記載されていた。
「通知不可能? ここの電話にそんな連絡ができるヤツなんて……」
『さて、誰だろうな?』
「!」
電話から聴こえてきたのは男の声だった。
聞き覚えのない三十代以上と思われる男性。おそらく五十歳以下。非常に落ち着いている声だ。
周囲の音は一切聴こえない。
「……」
『……』
男は懸命に頭を働かせた。
この電話に正体不明でかけてこられる人物。
特安の上層部? いや、それならばこんな回りくどいことをする意味がない。
イタズラか? ……それも無理か。これは、そんなレベルのセキュリティの電話ではないはず。
国家レベルのセキュリティをぶち破って、わざわざ自分に電話をかけてくる人物。
銀狼特別対策室の室長である自分に……。
「……まさか……銀狼、か?」
『お見事』
「そ、そんなバカな……」
まさかと思って口にした答えは果たして正解だった。
だが、男は信じられないという気持ちが強かった。
今まで憶測はあれど、年齢も性別も判明していなかった銀狼が自分に電話をしてきたという事実を。
三十~五十歳程の男性。
それだけでも大きな収穫。
さらにはここの電話は全て自動録音される。
あとで音声データを解析すれば、背丈や健康状態、発信場所、そして声紋も取ることができる。
「……」
男はすぐに信じられないという気持ちを切り替え、これはチャンスだと口角を上げた。
もはやこの情報だけでも出世間違いなし。
輝く自身の未来に男は期待に胸を膨らませた。
しかし、そんな淡い期待の一抹は早々に泡となって消えることとなる。
『ああ。ちなみに、この音声は録音できていないからな。別機器で録音しようとしてもノイズしか残らないようにもなっている』
「……は?」
そんなことが可能なのか?
だが、銀狼ならばやってのけるような気もする。
男はもはや何が正しくて何が違うのか、判断がつかなくなりつつあった。
『……さて、なぜおまえにここまでの情報を与えたか、分かるか?』
「……」
男は考えるべき情報に溺れそうになりながら懸命に頭を捻るが、答えは出なかった。
『簡単なことだ。死体はしゃべらない。それだけだ』
「……お、俺を、殺すのか?」
冷たく発せられた言葉に男は自分の血の気が一気に引いていくのを感じた。
最強の殺し屋『銀狼』に命を狙われて生きていた者はいない。
それは、特安内で知らない者はいない事実。
『いきなり室長に任命されて図に乗ったか?
少しやりすぎたな。
狼のテリトリーに踏み込みすぎると喉を噛み千切られると教わらなかったか?
満月の夜に森に入ってはいけないんだよ。狼は、狩りを邪魔されるのを嫌う』
「そ、それは……」
男はそれは自分を出世させないために上司がついた嘘だと思っていた。
有能な男がいつか自分の地位を脅かすのではないかと、特安に誘ったことを後悔した上司が苦し紛れに言い放った妄言だと。
『……自分の都合のいいようにしか解釈しないタイプか』
「……ぐ」
それが本当に忠告であったことを、男は今さらながらに理解した。
『お前のようなタイプ、特段相手にする必要もないんだが、面倒なタイミングで面倒な横槍を入れてくるタイプでもある。
余計なことをされる前にさっさとご退場願おう』
「……お、お、俺は、殺せないぞ!」
『ん?』
男はこの状況で銀狼に対して虚勢を張ってみせた。
「こ、こ、ここの窓はな! 特殊強化防弾ガラスなんだ! ライフルの弾だって弾き返す特別な仕様なんだ! そうだ! 特別だ!」
男はまるで自分が選ばれた特別な存在なのだと主張しているかのようだった。
『そうなのか。貴重な情報をありがとう』
「はうあっ!?」
図らずも情報漏洩してしまったと気付いた男は大いに慌てた。
『まあ心配するな。別に窓を撃ち抜かなくてもお前を殺すことぐらいできる』
「な、なにぃっ!?」
男は慌てて周囲を見渡す。
窓からの狙撃ではないということは、この部屋に侵入してくるということだ。
あの『銀狼』の恐怖が、ここに、直接……。
「ひ、ひぃっ!」
男は銀狼対策室室長になるにあたって、『銀狼』に関する資料には嫌と言うほど目を通してきた。
その完璧性と正確性、そして、やると決めた時の恐ろしいほどの冷酷さを。
「ど、どど、ど、どこだっ!
いったいどこから来るっ!?」
男は受話器を手放して腰にさげた銃を取り出す。
窓に背中を預けて銃口を振り回し、どこから銀狼が来ても即座に撃てるように体を強ばらせた。
『おっ。よく見えるよ。ありがとう』
「へ? ……がっ!!」
しかし、銀狼が部屋に現れることはなく、窓ガラスをぶち破ってきた弾丸が男の眉間を後頭部から無慈悲に貫いただけだった。
『別に、窓を撃ち抜いてもお前を殺すことはできるんでな』
男が血と脳漿をぶちまけながら倒れていくのを確認すると、銀狼は静かに電話を切ったのだった。
「あ、警部。お疲れ様です」
「ああ……」
部屋に入ると血の匂いを感じた。
鑑識たちに挨拶しながら現場に入る。
窓際に男の遺体。
それを調べていたケビンが俺の来訪に顔をあげる。
「……これ、防弾だよな」
やけにぶ厚い窓ガラスには二センチほどの円形の穴。
その穴を起点に広がった亀裂が、その衝撃の強さを物語っている。
俺はすでにその窓が防弾であることを知っているが、あえてケビンに尋ねる。
警部であるところの俺は幹部専用個室の窓が防弾であるかどうかを把握していないから。
「そうっすね。
なんならライフルの弾丸でも弾き返すほどの強化防弾ガラスらしいです」
「……それを貫いてみせたわけか」
俺は小さく丸く貫かれた窓と、眉間を貫かれた遺体。そして、その射線の先を観察した。
弾丸は被害者を貫通。部屋の壁に弾痕。ほぼ水平方向への狙撃。
「……弾は?」
「被害者の頭の内部に一発。あとは入口近くの壁に二発ですね。壁の方はだいぶひしゃげてたっす。
弾は三発あるのに窓には一発分の穴だけですね」
「……連弾か」
「そうですね。信じがたいですけど」
銀狼は……というか俺は、特殊強化防弾ガラスの窓をライフルの連続射撃でぶち抜いた。完全な力業だ。
いわゆるボルトアクションタイプではなく連射型のSVD。連射型は命中精度がやや落ちるが、今回は向かいのビルがそこまで遠くなかったから問題なく狙撃することができた。
同じ箇所に、ほぼ同タイミングで三発。
防弾ガラスといっても魔法のように弾丸を弾き返すわけではない。弾丸が窓を破れずに落ちる前に次の弾丸を押し込めばいい。
初めから窓を破って狙撃するために、男をわざと窓際に誘導したわけだ。
「……こんな離れ技。やはり銀狼だろうな」
普通ならだいぶ難易度が高いが、銀狼なら不可能ではない。
「まあ、そうっすねー……」
「?」
ケビンの様子が少しおかしい。
少し上の空というか、違うことを考えている?
「……」
「……」
遺体を見ている?
……ああ、そうか。
「……ケビン。少しいいか」
「へ? あ、はい」
俺はケビンを部屋の隅に連れていった。
ここなら鑑識たちに声が届かない。
「……この被害者。特安か?」
「!」
ケビンはひどく驚いた顔をした。
俺が特安の話を持ち出したからだろう。
ケビンに忘れなければ殺すと暗に言われたにも関わらず名前を出したから。
だが、これは初めから決めていたことだ。
せっかくケビンが特安だと知ったのだ。
それを利用しない手はない。
「……特に出世コースにもない警視が特別個室。その窓は特殊強化防弾ガラス。いくらなんでも厚待遇すぎる。
そしてお前の反応。
そっち側の顔見知りなんだろ?」
さすがに感傷に浸ったか?
そんなタイプには思えないが。
「……」
ケビンは答えない。
ただ無表情で俺の言葉の真意を探っている。
だが答えないのなら、引き出すまでだ。
「ふむ。銀狼に始末されるような特別個室を持つ特安の人間。特安での地位はそれなりに高いということ。
ま、銀狼特別対策室の室長といったところか」
「……なんで警部が特別対策室のことを知ってるんすか」
ケビンの眼がどんどん暗く沈んでいく。
こいつの頭の中では、いかにして俺を始末するかが巡っているのだろう。
「知らないさ」
「へ?」
が、俺の予想外の返答にケビンはきょとんとした反応を返す。
虚をついて思考をずらすのは大事だ。
「そういうものがあるんだろうなと想像はしていた。が、どうやらお前のその反応ではそうみたいだな」
「……ズルいですよ」
ケビンは不服そうだが騙される方が悪い。
それに、どのみち俺は知っていたのだしな。
「まあそう言うな。それで? どうなんだ?」
「……ハァ」
俺が詰めるとケビンは諦めたように息を吐いた。
「正解ですね。この人は最近、室長に抜擢されたばかりの人です」
「……功を急いたか」
「ま、そんなとこでしょうね」
室長になるぐらいだから当然、銀狼と特安との関係性は承知のはず。
にも関わらず銀狼を特定しようとしたのは出世に目が眩んだからに他ならないだろう。
「……ふむ」
俺はそこで少し考えるフリをする。
警部であるところの俺が知っている情報からその推論を導き出すには、多少の推考が必要だからだ。
「……おまえ、この前の夜の見張り、もしかして朝まであそこにいたのか?」
「……警部~」
ケビンは勘弁してくれといった顔をしている。これ以上、特安であるところのケビンとして話をしたくないのだろう。
「べつに構わないだろ? 俺にそこまでの情熱はないことは分かっているはずだ」
「そうっすけど~」
特安であるところのケビンが本気で手を回せば、おそらく俺を警察での銀狼担当から外すことはそう難しくはないはずだ。
コイツがそれをしないのは、俺が本当に全力で銀狼を追おうとしていないことを見抜いているからだろう。それはもちろん、俺が銀狼だということを見抜いているという意味ではない。
俺が命がけで、何がなんでも銀狼を捕まえてやろうと奮闘するほどの情熱をもって捜査していないという意味だ。
仕事だから捜査はするが、べつに捕まえられなくても構わない。
ケビンには、そう見えるようなスタンスを取ってきた。それはコイツが特安であると分かる前からだが、今回はそれが功を奏したな。
ケビンの目には、今の俺がただの興味本意で尋ねている、考察しているとしか映っていない。
カラクリが解ければそれ以上は首を突っ込んでこない。
そう思わせられれば俺の勝ちだ。
実際、警官一人を始末するのは意外とめんどくさい。
銀狼は依頼や理由なく人を殺したりはしないから、銀狼レベルになってくるともはや天災にでも遭ったと思われたりもするが、いくら超法規的組織とはいえ、ケビンが俺を始末するのはかなりハードルが高い。
俺は警察内でも対人格闘術、逮捕術の成績はそこそこ良い。隠しすぎるのも大変だし、ナメられても面倒だからな。
さらには銀行強盗相手に大捕物を演じた経験もある。
ケビンの性質からして、俺を始末することはできるだけ避けたいはずだ。
情報は与えたくないが、まったく与えないとめんどくさい。少し与えてやれば大人しくなる。
ケビンにとっての俺がその立ち位置に来るようになれればベストだ。
「……はぁ~~~」
ケビンはやたらと長いため息を吐いた。
どうやら観念したようだ。
「そうっすね。
あの日は朝に漁師が倉庫に来て、遺体を発見して警察に通報するまで、俺たちはあそこにいて監視を続けてました。上からのお達しだったんで。
ま、俺も先輩たちも途中から寝たりして、まともに見張りしてなかったですけどね」
「……ふむ」
思ったよりも教えてくれたな。
上、というのは今回殺された室長のことだろう。
しかし、対策室の人間は自分も含めてそこまで徹底するつもりがない。
つまり、出世欲に目が眩んだ室長の独走であり、それ以外はそれに付き合わされただけ。
つまりケビンは、特安の銀狼特別対策室というものがハリボテであることを俺に教えてくれたわけだ。
特安と銀狼は蜜月関係、とまではいかないまでも、銀狼の存在が特安にとってプラスに働くこともある。
だから頭の硬い一部のお上連中のために対策室を作ったが、実態は八百長の鬼ごっこを演じているだけ。
ケビンが言いたいことは、『だからこれ以上特安をつついても何も出ないぞ』だろう。
あとは、『お前もそこまで首を突っ込むつもりもないだろう? そういうことだから、さっさと食指を引っ込めろよ』かな。
「……」
ケビンは困ったもんだと肩をすくめているが、その目の奥の光は鈍く沈んだままだ。
このあたりがラインだろう。
これ以上は、面倒だけど動かなければならない、と思わせてしまう可能性がある。
「そうか。お前も大変だな」
俺は興味を失ったフリをして、ケビンに背を向けて遺体を調べ始める。
「……そうなんすよ~」
少しして、ケビンは一瞬だけホッとしたような様子を覗かせたあと、いつものヘラヘラした顔で俺についてきた。
どうやら審査は無事に通過できたようだ。
俺の部下になったとき、ケビンの過去についてはリザに頼んで軽く調べた。
コイツには病弱な母親がいる。幼い弟妹たちも。
父親はいない。コイツが一番の稼ぎ頭で、母親の入院費の大半をケビンが負担している。
特安は給料がいい(らしい)。おまけに今は警察としての給料まで出る。
ケビンの目的は簡単に言えば長生きだ。
普通の警察よりも殉職する可能性の高い特安において、ケビンは誰よりも長生きすることを第一目的としている。
コイツの飄々とした、のらりくらりとした態度はそのためだろう。
掴み所が少なく、出世欲もあまりない。
あまり敵を作らないタイプだ。
全ては長生きして、母親と弟妹のために金を稼ぐため。
そう考えると、今の銀狼特別対策室というのはある意味天職だな。
真面目に仕事をしているフリをすればいいのだから。銀狼に迫りすぎなければ死ぬことなく金を稼げるんだからな。
コイツからすれば、最強の殺し屋を追うという仕事が最も安全な仕事でもあるのだ。
お互いにそれが茶番であると理解しているから。
だから、今回室長が殺されたのを目の当たりにして少し様子がおかしかったのか。
余計なことをして場を荒らした室長への苛立ちか、安全だと思っていた場所が薄氷であると気を引き締めたのかは分からないが。あるいは、その両方か。
ともかく、ケビンはやるときにはおそらく容赦なく動くが、動くまでのハードルが他よりも高い。特に俺に対しては。
相手は複数の銀行強盗を相手取ってみせた警官。下手すると返り討ちにあう可能性もあるからな。
つまり俺は、このままケビンのラインを超えないように少しずつ情報をもらっていけばいいってわけだ。
とはいえ、リザの調査でも特安であることがバレなかった男だ。
あくまで参考程度に情報を集めるぐらいに留めておくのが妥当だろう。
「これも銀狼の仕業でした、で終わりっすかね」
「そうだな」
一通り捜査を終え、俺とケビンは現場をあとにする。
鑑識の結果待ちでもあるが、この事件も銀狼による仕事で片がつきそうだ。
追ってはいても捕まえられない以上、それがほぼ銀狼の仕業であることを確定させれば、俺たちの仕事は終わる。
『銀狼でした。では、引き続き捜査を……』
そう言うための捜査だ。
「じゃあ、報告書は任せる」
「了解っす」
現場を出て、ケビンと別れながら告げる。
被害者が特安である以上、ケビンが報告書を書いた方が面倒が少ないだろう。
まあ、そうでなくてもいつも押し付けているんだが。
俺はこのあとも用があるしな。
「あ、そうそう」
「はい?」
俺は思い出したかのように、歩きだそうとしていたケビンに声をかける。
ケビンが立ち止まって振り返る。
「今後も、何か気になることがあったら尋ねるからよろしく頼むな」
「へ? ……え!?」
ケビンは少ししてからそれが特安に関することだと気が付く。
「じゃあな」
が、俺はそんなケビンの顔を見ることなく逆方向に歩きだして、片手だけを軽く振ってその場を去った。
「え! ちょっと! け、警部~~!!」
俺がいなくなった通路でケビンの叫び声だけが響いたのだった。
「さて……」
署をあとにした俺はその足で、とある屋敷にやってきた。
やたら大きな屋敷には門の前に二人の男が立っている。
一人はガタイのいい長身の男。
もう一人は細身の若い男。見たことがないから新人だろう。
「よお」
「あ! これはどうも!」
長身の男の方は俺が声をかけるなり、強面な顔を崩して人懐っこい笑顔を見せた。
「あいつはいるか?」
「あ、はい! いま話を通してくるのでお待ちください!」
長身の男は九十度に腰を曲げてお辞儀をすると、すぐに門の中へと入っていった。
「……」
もう一人の若い男は不審な目で俺を見ている。
先輩が急にあんな態度を取るような人物が訪ねてきたら、それは確かにそうなるか。
「……」
細身だが、体幹はしっかりしている。
そして、この立ち方に筋肉のつき方は……。
「……元ボクサーか」
「え! なんで分かるんですか!?」
俺が呟くと男は目を真ん丸にして驚いた。
「筋肉のつき方や立ち方でだいたい分かる。だが、左腰を庇うような立ち方。
故障で引退したか」
「そうです! 全部分かるじゃないですか!」
男はスゲースゲーと感心しっぱなしだった。
わりと素直で純粋な奴のようだ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ああ」
中に報せに行っていた男が帰ってきたので門の中へ。
長身の男は、まだスゲースゲーと言っている若い男に門番の継続を命じて一緒に中に戻る。どうやら案内してくれるようだ。
「……あの新人、どうですか?」
部屋まで案内してもらっている途中、長身の男が先ほどの若い男について尋ねてきた。
「ふむ。素直だし忠誠心もありそうだ。なかなか悪くはないだろう。
ただ、少し純真すぎるな。悪い奴に騙されないようによく見ておいてやった方がよさそうだ。あるいは、あえてそういう環境に置いて鍛える手もあるか」
「なるほど。勉強になります」
長身の男は胸に手を当てて軽く会釈する。
この男は人に敬意を払うということをわきまえている。
相手の話をきちんと目を見て聴く。
真摯な姿勢を崩さない。
部下をしっかりと教育する。
ここの連中は、クズが多いその世界では珍しく、組員の端までしっかりと教育が行き届いている。
あの若い男もすぐに一人前になるだろう。
「ああ、そうだ。これ、差し入れだ」
「あっ、すみません。ありがとうございます!」
来る途中で買っておいた菓子折りを渡す。
ここのボスが好きな甘味だ。
今日は詫びも兼ねてるからな。最低限の礼儀はあって然るべきだろう。
「こちらです」
部屋につくと男が扉をノックする。
すぐに中から「入れ」と返答があった。
「よお。久しぶりだな、ダンナ」
「ダンナと言うほど年離れてないだろ」
「まあ、いいじゃねえか」
部屋にいた奴とお決まりのやり取りをして入室する。
案内してくれた男は茶を淹れてくるようだ。
「土足でいいのか?」
「構わねえよ。オヤジは怒るけどな」
「ならいいか」
「はっはっはっ! オヤジ相手にそう言えるのはダンナぐらいだよ」
俺の返しに大笑いする男の前へ。
部屋はここのボスの趣味で畳が使用されていた。
この部屋のドアや屋敷自体は洋風だが、部屋に入ると所謂和風の内装が現れる。なんとも不可思議な光景だ。
「まあ座れよ」
勧められた座布団の上で胡座をかく。
床に直接座るのなら確かに靴は邪魔だが、殺し屋という性質上、他人の家で素足になる気にはなれない。
というか、目の前の男も普通に靴を履いているから、本当にべつに構わないのだろう。
先ほどの男が二人分の茶を持ってきた。
静かに置くとさっさと退室。
再び門に戻って、さっきの若い男に俺のことを軽く説明するのだろう。
ここにはたまに来るからな。俺のことは覚えておいてもらった方が話が早くていい。
「ま、用件はだいたい分かってるよ」
目の前の男は茶をずずと啜ると話を切り出した。
この男はロイ・ガードナー。
ガタイのいい肉体にさっぱりと刈り上げた短髪。今日もハイブランドのスーツを身に付けている。
眼光は鋭いが、今はリラックスしているようだ。
「……護り屋がついていた方は、あんたのところの組員だろ?」
俺が特安から依頼を受けて、イブとともに始末した取引をしていた者たち。
そのうちの片方、護り屋がついていた方の組織はロイが所属する組織だ。
「……まあな」
ロイはタバコに火をつけながらそっけなく答える。
そういや、俺はしばらくタバコを吸っていないな。
「依頼だったのだから、別にどうこうというわけではないんだが、一応、一言挨拶はしとこうと思ってな」
俺はこいつらとは敵対していない。
だが、敵対していないというだけで、味方というわけでも友好関係にあるというわけでもない。
付かず離れず、というよりは、敵にならなければ敵にはならない。
俺とこの組織はおおかたそのような関係性だ。
「ふん。義理は通すってか。ダンナらしいな」
ロイは少しだけ口角を上げた。
この組織は今どき珍しく、義理やら仁義やらを重んじる。
道理に合わないことはしない。
それが、ここのボスの方針らしい。
この組織は所謂マフィアの類いだ。
裏社会で生きる組織。
だが、こいつらは自分たちがマフィアと呼ばれるのを嫌う。
こいつらは自分たちをファミリーと呼ぶ。
なんでも、契りを交わした組員は家族なのだそうだ。
「まあ、べつに構わねえよ。
八割方、ダンナの仕事だろうとは思ってたしな。
それに今回の取引はキナ臭かった。だからウチからは過去にミスって、もう後がない奴に行かせた。
ウチからしたら生きて帰ってきても、そうでなくても構わない奴らだ」
こいつらの関係性は不思議だ。
自分たちをファミリーと呼び、組員を家族同然に扱いながら、それを蔑ろにしたり裏切ったりする組員には極端に厳しい。
規律を守るためには必要なんだろうが、こいつらは家族をいとも簡単に切り捨てる。
まあ、切り捨てられる方が先に裏切ってるのだから文句は言えないだろうが。
今回の取引に来ていたのは、つまりはそういう奴らだったのだ。
どうりで歯ごたえがなかったわけだ。イブもまったく苦戦しなかったようだしな。
それに、こいつらは此度の取引が特安にバレていたことを事前に掴んでいたわけだ。
それでも取引を決行したのは、厄介者を排除したかったからか、あるいは特安の情報を入手していることを特安に感付かれたくなかったからか。
わざわざ護り屋を雇ってブツだけは回収したぐらいだ。あるいはそのどちらも、なのかもな。
「……そうか。それなら良かった」
初めからそう言われるとは思っていたが、無事にお許しをいただけたようだ。
「まあ、事故にでも遭ったと思っておくさ。実際、ブツは無事だったしな」
「……ふっ」
ロイはタバコを掲げながら肩をすくめ、とぼけたような仕草を見せる。
『銀狼の仕事に遭ったら天災にでも遭ったと思え』
こっち側の世界で使われる軽口だ。
銀狼にやられたのなら仕方ない。
それが、この世界での共通認識となっている。
ロイは俺が銀狼であることを知らない……ということになっている。
実際は状況的にも俺がそうなんだと確信を持っているのだろうが、お互いにあえてそれを口にはしない。
関わりすぎない。近付きすぎない。
この世界では、存外そのスタンスでいた方がいいことの方が多い。
下手に知ると因果を生むからだ。
そこまでの義理立てをする間柄ではない。
俺とこいつらとは、そんな関係値が最も適切だ。
そしてそれは、向こうもよく分かっている。
だからこそ、ブツさえ無事なら切り捨ての組員のことなど構わないと言うのだろう。
「ま、この話はこれで終わりだ」
ロイはタバコを近くにあった灰皿に押し潰す。
「そういや、ボスは元気か?」
「……」
「……ん?」
ロイが話を終わらせたので別の話題へ。
だが、この組織のボスの話を持ち出したらロイの顔が曇った。
「……じつは、そんなに元気ではない」
「……そうなのか」
ここのボスは高齢だ。
圧倒的な実力とカリスマでこの組織を高みに導いたが寄る年波には勝てず、今は名だけを置いて、実質的にはロイが組織を仕切っている。
本来ならば組織の弱みを他人に教えることなどあり得ないが、俺に話してくれたのはわざわざ詫びを入れにきたことへの礼だろう。俺もべつに他言したりなんかしないしな。
「じゃあ、そろそろあんたがボスを引き継ぐのか?」
「そうだ。今は各所に挨拶回りをしてる。今後、ますます忙しくなるだろうな」
ロイはやれやれと肩をもんだ。
現状、すでに実務のほとんどを担っているのだろうが、実際に組織の看板を丸ごと背負うとなると、やはり精神的な負担は大きいのだろう。
「……」
「……?」
ロイはそこでしばらく黙った。下を向いて、考え事をしているようだった。
そして、少しして何かを決意したように顔を上げる。
「……近々、オヤジがダンナに依頼を出すだろう」
「!」
「……その時は、宜しく頼む」
ロイは畳に額をつけて深く頭を下げた。
言葉の端が少し震えているように感じられた。
「……分かった」
俺はそれだけ返すと席を立つ。
話が終われば長居は無用。
そろそろ帰ってゆっくり休みたいしな。
「あ、そうだ」
「あん?」
俺が席を立って扉まで歩くと、ロイは思い出したように顔を上げた。
俺も立ち止まって振り返る。
「この前、ローズと会う機会があってな。
ダンナに会うことがあったら、そろそろ自分とも会ってほしいと伝えてくれと言われていたんだった」
「……そうか」
「ったく。もう少し嬉しそうにしたらどうだ?
この世界の花形様だぞ」
「……あんたは、その花形に会いたいと言われて嬉しいのか?」
「ん? 俺はべつにどうにも。あいつは、ダンナに会いたいんだぞ?」
「……そうか」
俺は肩をすくめる男をしり目に部屋をあとにする。
ローズというのは俺とロイの共通の知り合いで、やはり殺し屋だ。
そのローズはロイのことを想っているのだが、肝心のロイ自身はそれにまったく気付いていない。
ローズ自身も自分の仕事に引け目を感じているから積極的に出ることが出来ず、俺に連絡を取るという名目でロイと接触している。
だが、ロイはそのせいでローズはしきりに俺に会いたがっていると勘違いしている。
正直、そのすれ違いを見ているのは個人的には面白いが、俺を巻き込まない形でやってもらいたいものだ。
屋敷を出て門に着くと、先ほどの若い男もやたらと礼儀正しくなっていた。
隣の長身の男がぐっと親指を立てているが、いったいどんな説明をしたのやら。
俺は半ば呆れながら、そいつらに適当に返して屋敷を離れた。
「……ローズか」
俺に会いたいと言うことは、ある程度見通しが立ったのだろう。
イブの新たな訓練も兼ねて会ってみるか。
「……あまり、良い予感はしないけどな……」
おまけ
「……イブさんお暇ー」
ジョセフが室長を始末しに出掛けたあと、一人部屋に残されたイブは暇をもて余していた。
ジョセフには寝ていろと言われたが、仕事の余韻でまだ眠気がやってこなかった。
「料理もダメ。掃除もダメ。洗濯も、この前ジョセフのお気にのシャツをやっちまってからダメ。外に出るのもダメ。
イブさんはお暇で死にそうです」
イブはソファーの上でゴロゴロ転がりながら、ぶつぶつと独り言を呟いていた。
「……」
そして、ふいに体を起こすと誰もいない、しんとした部屋を見回す。
「……一人の、静かすぎる部屋は、イヤ……」
喋る者のいなくなった血にまみれた部屋。
その静けさを思い出してしまうから。
「……」
「やほー! いるー?」
「!」
その時、リザが勝手に鍵を開けて部屋に入ってきた。
「バインバイン来た!」
「きゃっ!? イ、イブちゃん! いきなり!?」
リザの姿を見るなり、イブはリザの豊満な胸に飛び込んだ。
「バインバインバインバインバインバイン」
「ちょ、ちょっと~。会って早々それなの? 別にいいけどさ~」
「バインバインバインバイン……」
「……イブちゃん?」
イブは途中で手を止めて、その手をリザの背中に回す。
いつもなら小一時間はやるのに珍しいなとリザが思っていると、
「……暇、だった」
「……」
リザの胸に顔を埋めたまま、イブはリザの背中をぎゅっと掴んだ。
「……そっか」
リザはそんなイブに優しく微笑み、上から包み込むようにして抱きしめてあげた。
「……苦しい」
「ふふふ。離してあげないもんね~!」
「やめろ。離せ。死ぬ」
「まだまだ~! ぎゅぎゅー!!」
「わー」
「うふふふふふ」
ジョセフが帰ってくるまで、部屋には賑やかで楽しそうな声が響いたのだった。