言われる、言われる、海の声に、波声に、泣声に、怒鳴り声に。
海の声が聞こえる。
軽やかな音色の海の声。
和やかな、潮風に吹かされ、飛んでくる。
小さな高等学校の、2年茜組。
その教室の窓側の席、海は自分を見つめている。
嫌になってくる、この教室も教師も。
細かいことまでガミガミと注意してくるのだ。
だが、こんな田舎それを守る人も少なく、この教室も少し荒れている。
まだ真面目な自分と秋葉は、教師のストレス発散窓口のような立場だ。守っているというのに、注意してくる、ネチネチと。教師として失格だ。
「めんくせぇねぃ」
コソっと秋葉が話しかけてくる。
いつの間にか、彼は他人のノートに落書きしていた。
「なんしとぉ?しても、下手っぴやに」
彼はむっと顔をしかめて、消しゴムで消し始める。
どうやら、不服なようだ。
おそらくイノシシであろう落書きが薄く消えた時、秋葉は耳打ちした。
「な、脱走しょ?」
一瞬、耳を疑った。
なにかの言い間違いかと、問い質すと、彼はニヤッと笑った。
どうやら、本気のようだ。
「んなことして、後はどうすんやぃ」
そう聞くと、秋葉は勢いよく立ち上がって、秋葉が事もなげに言ってのけた。
「先生ぃ!俺ら、サボったりや!!」
それを聞いて、教師は大声で怒鳴った。
自分たちは面倒臭い教室から飛び出して、一目散に廊下を駆け抜けた。
少し遠くの方から、同級生の笑い声が聞こえる。
遂に、あの二人も、反抗したかと。待ちわびていたというような雰囲気の笑い声だ。
今日は、晴天。雲一つない晴天。
学校から走ってきたせいで、汗が流れ出てくる。
運動不足のせいで、少し頭が痛くなる。
だが、それよりも、なにか爽快感のようなものを自分は感じた。
「こんからの人生、んな事ねいや」
本当に。
学校を抜け出すなど、怠惰な罪だ。
だからこそ、今この時を、楽しむほうが良い。
「春馬」
彼が、水平線を見つめながら、呼びかける。
波の音が大きく聞こえるのは、錯覚だろうか。
「ん?なんやぃ」
体が、彼の方向へ向かなかった。
何か、このまま目を合わせずに会話したほうが良いと、本能的に察知したのだろう。
先程より、波の音が酷く聞こえる。
この自分が、緊張しているのだろうか。
水平線から、目が離せない。
一体、どうしたというのだろう。
彼は、言葉が詰まっているようだった。
言って良いものか、悪いものか、一生懸命に考えているようで、ただ淡々と静かな時間が過ぎていく。
「海夏祭りん時、話がんのやぃ」
秋葉らしくない、力の抜けた、弱々しい声だった。
何か、深刻そうな事でもありそうだが、それと同時に、なにか虚しく悲しい事でもありそうだ。
「わがったぁ」
しばらくすると、遠くから、おばあさんの声が聞こえてきた。
年を召されているというのに、無理して早く歩いてきているようだ。
「ばっちゃん!無理せんでぃ!自分らんがそんち行くやぃ!」
小走りでおばあさんの元へと駆けつける。
おばあさんが少し焦った様子で、話しだす。
「春馬、秋葉、早ぐうちに入りんさぃ」
おばあさんが駄菓子屋の奥にある扉を開けて、自分たちを押し詰めようとする。
「どったどったん?!」
「ばっちゃん、なにがあっやぃ?」
そう聞くと、おばあさんは先生が来ると一言いった。
秋葉はクスクスと口を押さえて笑っている。
まあ、そうか、来るに決まっている。
生徒が急に逃げ出したんだ、来るに決まっている。
扉の向こう側から、話し声が聞こえる。
「永久さん、二人を知りゃせんけぃ?」
「二人、一体誰の事やぃ?」
「榊春馬、湊秋葉でさ」
「あぁ、あん二人かね、二人がどんかしまったかぃな」
「学校かんら脱走しゃしてね」
「ふん、脱走しとって、んがあけぇのかぃ?」
「学校は仕事のんなもんでし」
「はあ、出て行きなぃ、営業妨害やぃ」
「んせ、奥にいんだろぅ?」
「ねいなぁ」
「永久さん、そぅ意地張ってんとぅ」
「やぁね。張ってねいやぃ。どんかいけぃ」
「はえはえ、わかりゃった」
どこかに、去っていった。
「ありとう、ばっちゃん」
別に良いんだよと頭を撫でてくれた。
おばあさんは和室に上がり、これでも飲んで、ゆっくりしなと茶と菓子を出してくれた。
「そんしても、あの先生はんごく頭が固いんやぃ」
呆れたように煎餅をかじりながら、おばあさんは言う。
激しく同意する秋葉を尻目に、自分はおばあさんに聞いた。
「ありゃ、わかりとうて去ってったんやぃ?」
おばあさんは、ゆっくりと頷く。
ブラウン管テレビから、音質の悪い音が聞こえてくる。ノイズの混じった音だ。
カチャカチャと、おばあさんがチャンネルを変える。
「どんにもなんねげな、ありゃ」
煎餅を片手に、秋葉が吐き捨てるように言った。
テレビには近くの町の広報が流れている。
近頃、隣町は物騒なようだ。
殺人事件だの誘拐事件だの、なんだの、行方不明事件などが多発しているらしい。
事の始まりは公園の女の子の死亡が原因らしいが、正直なところを言えば、自分が住んでいる町ではないだけあって、あまり思い入れがない。
そんな殺人鬼がいるのだから、大人は少しピリピリしている。
子供にとっては人が死ぬことは現実的でないからか、大人とは違いあまり警戒しておらず、のほほんとしているようだ。
「いってぇ、誰んがこんなごと」
テレビを注視しながら秋葉は呟く。
おばあさんはすこし暗い顔をして、答えた。
「なんがねぇ団体的らしいがぃ。名前はだしがぁ、あ、あ、なんだげか?」
眉間を抑えながら、えっとえっとと屋根を見ている。
どうやら忘れてしまったようだ。
「歳のせいやに、無理は禁物がさ」
そう言われておばあさんは、ありがとうと微笑んだ。
そうして、どんどんと和やかに時間は過ぎていった。
いつの間にか、夕方となって、おばあさんはハッと気づいて言った。
「そろそろ帰えらねどなぁ、話し相手なっとくれでありとぅねぃ」
ゆらゆら揺れる小さな手が遠くに見える。
自分は海の方へと顔を向けた。
紅く街を照らす夕陽は、静かに燃えている。
あまりの明るさに、自分達は顔を顰めた。
今日はなぜか、波が静かにこちらを見ている。
今日もやはり、海の声はうるさかった。