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後編

 私が付き合う男は八百屋ばかりじゃない。遊び上手な男。便利な男。玉の輿を狙う女性たちが目の色を変える職業についてる男だって何人も。私が好きに生きるために利用できるのならば、どんな男だって構わなかった。




 そして利用できるものを駆使して、手に入れたものがこの二つの小瓶に入った粉末。きめ細かい薄茶の粉と、白い結晶が光る粉。




「足がつかないようにしなきゃなんねぇだろう。刺したほうがラクじゃないか、なんなら俺が」と勇む八百屋を「血の始末が大変でしょう」といさめて手に入れさせたのは薄茶の粉。味も匂いもしない、そういっていた。


 刺したりなんだりじゃ、意味がないのよ。




「いつやるんだ?」


「明日」


「あの犬、閉じ込めておけよ」




 どうして教えてしまったんだろう。八百屋は私の胸に顔をうずめていた。私は薄茶の粉にみとれてた。気づくと口走っていた。息を荒げながら八百屋は私との未来をささやき続ける。近い未来の明日の段取りから始まって、その後の未来の何年か分。ろくに聞いてはいなかった。手の中の小瓶だけを見つめていた。どうして自分がこれを飲まされないと信じているんだろう。どうして彼は私がこんな男と寝ているのを黙認してるんだろう。どうして彼と寝ることができないんだろう。どうして彼といると胃のあたりが苦くなるんだろう。


 私は彼にこれを飲ませてどうしたいんだろう。










 飲み水で誘い出して、キィタを彼の部屋の物置に閉じ込めた。


 彼は庭にいる。


 使用人はみんな帰った。


 私はキッチンで湯をわかしている。


 ピックが現れたけど、テーブルの上に並ぶ二つの小瓶をちらりと見て、そのまま消えた。


 紅茶を入れたことがない。


 紅茶どころか、料理すらまともにしたことがない。


 彼に聞いたことがある。




「目が見えなくても料理をつくる人をテレビで見たけど、あなたもできそうね」




 家の中でなら、彼は目が見えないなんて思えなかったから。




「うーん、どうだろう。やろうと思ったことないからね。必要もなかったし。料理、できる?」


「できない」


「じゃ、同じだね」




 そういって笑った。またぴくりと頬をひきつらせて。




 しゅぅしゅぅとヤカンがかすかに息を吹きだす。


 彼は紅茶をよく飲んでいた。棚にはいくつかの種類の缶がある。彼がいつも飲んでたのはどれなんだろう。一番中身が減っている缶を選ぶ。私は、彼が好きな紅茶も知らない。


 茶さじは缶の傍にあった。ふたを開けると葉の乾燥した香りが鼻をくすぐった。一すくいをポットにいれて、湯を注ぐ。しばらく待ってカップに注ぐと、なんだか色が薄い。一口飲んでみたらお湯の味しかしなかった。


 茶葉ごとポットのお湯を捨てて、もう一度葉をいれる。今度は多めに。カップ一杯分のお湯をいれた。渋くて飲めたものじゃなかった。




「あれ? 紅茶、入れてるの?」




 彼がキッチンに入ってきた。クロッカスを四本、グラスに水を注いで挿す。




「うん。たまには」


「へぇ。いい匂いだね」


「いれたらお部屋に持っていくわよ。一緒に飲みましょう」


「ほんと? うれしいな。じゃあ、これは僕の部屋のテーブルに置こう」




 きっとそのクロッカス、私の部屋の前の廊下においてくれるつもりだったのね。食卓はもちろん、廊下にも使用人が花をいけてくれていて、私の部屋の前の廊下にも立派な花瓶にいけた花があった。その花瓶がのってる花台のわきに、ちょこんとグラスに入った花。季節が変わっても、とぎれなく咲くように植えられている庭の花々。連翹、チューリップ、ダリア、ミニヒマワリ、コスモスにバラ。それぞれ一番に花を咲かせたものが、小さなグラスに入っていた。彼がおいてくれてると知ったのはいつだっただろう。


 前からそうしてたの? と聞いた私に、いや、別にそういうわけじゃないけどと、頭を掻いて言葉を濁していた。




 彼が部屋に戻ってからも、三回淹れなおして、ようやっといい香りのする紅茶がカップに注がれた。透き通った茶色。小瓶の半分、薄茶の粉をいれる。なんなく溶けた。




 ポットとカップ、砂糖とミルクを銀のトレイにいれて階段を上がる。あんまりなみなみと注ぐものではないことがわかった。少しソーサーにこぼれてしまう。


 キィタはまた眠ってしまってるのだろうか。まさか死んでしまっているってことはないだろうけど。


 テーブルにカップを置こうとすると、彼が手を出してきた。おやつが待ちきれない子どもみたい。その手にそっとソーサーごと紅茶を渡す。すこしこぼしてしまったから、ふちの方をもつようにと手を添えて。


 彼はいつもそうするように、口元までカップを持っていって香りをかぐ。


 ポケットの中の白い粉末の入った小瓶を握り締めた。




「香り、違うね」


「そう? 紅茶、入れるの慣れてないから」


「………入れ方が違うのかな」




 飲んでも大丈夫よ。解毒剤はここにある。


 だけど、飲まないで。






 私を、信用しないで。








 キィタが吠えた。全く、あの犬はほんとに眠りすぎだ。




「………ねぇ? 僕は、君のしたいことを止めたことはないし、することをとがめたこともないよね?」


「なぁに? 急に」


「僕は、君がいてくれたら、この家にいてくれたら、それだけでいいと思ったんだ」


「だから、なに?」


「今でも、そう思っているよ」


「だからなんなの?」


「君はそれじゃ、嫌なんだね。僕はこの紅茶を飲むことはできないよ。せっかく君が初めて入れてくれた紅茶だけど」




 目の前の扉がそっと開き、滑り込んできた八百屋の姿に息を呑んだ。


 なにしにきたの。この男。


 吠え続けるキィタ。バカ犬。そんなドア蹴破ってきなさいよ。


 ああ、なんなの。その持ってるナイフ。蛍光灯の明かりをひらめかせて。やめて。めまいがしそう。いっそその毒を飲んで。




「な、なによ。せっかくいれてあげたのに気に入らないっていうの?」


「うん。このやり方は気に入らない。僕の部屋にそいつが入ってきてるのも、気に入らないよ」




 一瞬だった。


 カップが空を舞って、床に落ちて、砕けて、湯気がふわりとたちのぼって、そんな一瞬の間。


 懐にもぐりこんだ八百屋の上に覆いかぶさっていた彼が、ゆっくりと崩れ落ちる。


 八百屋が足を引き抜くときに、体が少しこちらを向いた。


 ここからでもわかる。脈打ちながら流れ出る血液。




「ど、どうすんのよ。これ、どうすんのよ」




 なんてことをしてくれたの。これじゃあ、解毒剤なんてなんの意味もない。




「どうしようもこうしようもあるかよ。こうするしかないだろう」




 わめくキィタ。彼の異変に気づいたんだ。




「黙らせろよ! あの犬!」


「どうやってよ! できるもんならあんたがやりなさいよ! あんたが怖いっていうからあの犬閉じ込めたんでしょうが!」


「怖いなんていってねぇよ!」


「怖いくせに! ばかみたい! あんなよぼよぼの犬に何ができるっていうのよ!」




 そうよ。あれだけ得意げに彼について歩いてたじゃないの。何かやってみせてよ。


 物置の扉にしがみついて鍵をはずした。手が震えている。つまみを回すだけなのに、二度つかみそこねた。早く。




「ほら! こんな犬、何もできやしないわよ!」


「ばかよせよ!」




 キィタは、いつもの緩慢な動きからは考えられないくらいな速さで飛び出してきた。


 ああ、そういえば、彼と初めて会ったときは、これくらい動けていたっけ。


 なんでもいい。賢いってほめられてたじゃないの。得意になってたじゃないの。助けを呼びにいくんでもいい。なんでもいいから。彼の頬なんて舐めてる場合じゃないのよ!




 どうしよう。血だまりが広がっていく。どうしよう。八百屋はまだナイフを握っている。




「どうせ殺すつもりだったんだからいいだろう。同じじゃないか。毒だろうとなんだろうと」


「バカね。こんなに血で汚したら後始末が大変じゃないの。だから毒にしようっていったんでしょうが!」


「別にいいだろう! 誰もこの部屋にいれなきゃいいんだから。最初からその予定だろうが」




 うるさい。うるさい。うるさい。あんたが勝手にたてた計画じゃないの。




「なぁ、そんなに予定は変わっちゃいないだろう? こいつの死体を山の中に埋めて、使用人全部クビにしてよ。こいつは今までだって一度も外にでてきやしなかったんだ。誰も気づきゃしない。こいつがいないことになんて。な? 変わらないだろう? 最初の予定と」




 ええ、ええ、あんたは彼の銀行のパスワードを手に入れろといったわよね。残念ね。そんなもの手に入れてない。あんたの予定なんて知ったことじゃない。どうしよう、どうしたら彼を。考えなきゃ考えなきゃ考えなきゃ落ち着いて考えなきゃ落ち着いてまだ間に合う。彼の手が動いている、動いて、その手を。




「おい。こいつ、まだ生きてるぞ。お前を呼んでやがる」


「………やめてよ」




 どうして。


 どうして、私を。


 どうして私を呼ぶの。








「おやおや、わからないんですか」




 八百屋の後ろ、彼の上、天井すれすれの高さに、ピックがいた。


 腕組みして、人差し指で頬をとんとんとつつきながら。


 うるさいうるさいうるさい。八百屋もあんたもキィタもうるさい。


 彼の声が聞こえない。




「………だめだよ。そいつはだめだ。君に似合わない」




 やめてやめてやめて。何を言っているの。




「そういえば、あなたが犬を嫌いな理由、多分思い出せますよ」




 ピックはくるりと逆さまになる。本当のこうもりみたいにマントをつぼませて。




「俺が似合わない? じゃあ、お前になら似合うっていうのかよ? そのツラで? まぁな。知らないんだろうけどな。見えないほうが幸せってこともあるよな」




 ヒステリックに嘲り笑う八百屋の声。何言ってるのよ。あんたこそ、私程度の女がお似合いじゃないの。




「………やめなさいよ」


「なに? お前、情でも移った?」


「だから、やめてよ。そんなわけないじゃない。このあたしが、こんな」


「だよなぁ………これ、じゃあな」




 八百屋は、まだ震える手にもったナイフを逆手に持ち替えた。ぬらぬらと光る刃先は彼の血にまみれている。


 そうよ、この私が、そんな。




「あと、三秒」




 ピックが時計ももたずにカウントダウンを始めている。




「さっさと片付けるぞ。おまえ、その犬どっかにつれていけよ」




「あと、二秒」




「………いやよ」


「いいからそれくらいしろよ!」




「あと、一秒」




 伸ばされた手。


 私の名を呼ぶ。


 かすれ、途切れ途切れに。


 やめてやめてやめて。


 愛してなんかない。


 私は誰のことだって愛さない。


 あんたが呼んだって、愛したりなんかしないの。




「なによ。やめてよ。あんたなんて、ほんとに愛してるわけないじゃないの」




「ゼロ」




 キィタが跳んだ。


 低く喉を振るわせる唸りをあげて。


 八百屋の首から飛び散った血が、壁に散っていく。






 この光景を見たことがある。


 真っ黒な大きな犬だった。


 短い毛はビロードのように光って、撫でると温かかった。


 私が庭で遊ぶときには、その隅にじっと座っていた。


 振り返るといつも黒い瞳が見つめていて、安心してまた遊びに戻った。


 吠え声なんて聞いたことがなくて、だから、あの低く唸る声なんて、まるで聞いたことがなくて。


 庭に入り込んだ知らない男。


 私の腕をひきちぎりそうな強さで掴んだ。


 真っ黒な犬は、今のキィタのような唸り声をあげて、その男の腕に噛み付いたんだ。


 いつもおとなしくて、私が何をしても吠え声ひとつたてなかった。


 その犬が、まるで全然違う生き物のように、まるで知らない獣のように、血にまみれて、叫び、振り落とそうともがく男の腕に食らいついて離さないでいる。


 怖くて、怖くて、怖くて。






「思い出しましたか? あなた、犬、嫌いじゃなかったでしょう?」




 思い出したくて思い出せなかったことを親切にも教えてやったんだとでもいうような口ぶり。




 ええ、大好きだった。


 その大好きな犬を、怖いからいやだと、そう父に訴えたんだ。


 私を守ろうとした犬を、私は捨てたんだ。








 八百屋の手足が痙攣している。


 キィタがふらりと立ち上がり、よろよろと彼に近づく。


 だらだらと口元から八百屋の血を流し、腹のあたりの黄色い毛が赤黒く染まっていて、そこからもだらだらと。




 遠くから悲鳴が聞こえる。


 誰か、使用人の誰かが戻ってきてくれたんだろうか。一瞬そう思って、悲鳴は自分から出ていることに気づく。気づいたけど、止められない。涙もとめどなく出て、鼻水だって垂れ流して、へたりこんだ手足は自分のものではないかのように重くて。




 動け。動くんだ。




―――そうね。この手の届くもの全てが欲しいわ




 ピック、あんた願いをかなえるって私に言った。


 かなえてもらおう。


 悲鳴をまず抑えて、力を出すんだ。


 ほら、彼の手が呼んでいる。




「強盗が、来たんだよ」




 何言ってるのよ。何言ってるの。違うでしょう。私があなたを殺そうとしたんでしょう。自分が自分でなくなるのが嫌で、愛してるとか愛されてるとかそんなことを考えるのも嫌で、それがなんでなのか考えようともしないで、あなたに香水のこと言われて心臓が跳ね上がってしまったのなんて認めたくもなくて、そのくせ同じ香水をつけ続けて、あなたが私に気づかないのが気に入らないなんて言いたくもなくて。


 違うでしょう。


 あなたは勘違いしてる。


 その手を掴んで、教えるから。


 だからその手をもっと伸ばして。


 あなた力持ちじゃない。


 私を軽々と持ち上げてくれたじゃない。






「契約は契約です」




 ピックの平坦な冷たい声音。


 彼の手が、私に差し伸べられていた手が、キィタの背に乗せられた。






 あとほんの少しだった。


 あとちょっとで、手が届いた。


 声を出せば、彼も気づいてくれただろうか。


 彼が見えないことなんて私だって知ってたのに。


 きちんと、声を出して、伝えればよかったのに。


 いつだって、私の手の届くとこにいたはずだったのに。






 ピックは優雅に一礼をして、そのまま空気に溶けて消えた。



短編「ボクらはいつも」の彼女視点となります。


そちらはキィタ視点です。是非そっちも読んでもらえると僥倖。

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