妖怪8 生乳
気持ちを切り替えるのは日常的な物。
少なくとも少年にとってはそうだった。
身を低くしながら背の高い草木の中を走る。多少の音は気になるが、その先の争いの音と比べればあってないようなものだった。
右手の中にあるのは逆手に握られたナイフ。
喧噪の音に紛れながら確実に這いよっていく。
「抵抗した奴は嬲り殺せ! 抵抗しない奴は手足を切り落としてから殺せ!」
畜生以下しかいないことを少年は知る。そして、これは何があろうと加害者と被害者を間違えることはないだろうと、心の中で免罪符を得る。もっとも、そんなものがあろうがなかろうが少年の行動は変わらなかった。
心を氷点下に落とす。そんな言葉がしっくりくる。
あれほど鮮やかな表情を浮かべていた少年だが、今はそれこそ能面のようだった。
感情が欠落した・・・といっても差し支えない。
その視線が納めるのは三十センチ先にある人の死体である。
随分と苦しめられた末に殺されたようだ。唇の端から泡を吹いて目を見開いて死んでいた。切り取られた手足は少なくとも生前に施されたものだろう。
『異世界転生物ならありがちだけど』
そもそもトラックに轢かれていない。落ちてきた鉄骨に潰されていない。
とはいえ異世界はここだ。死体は目の前だ。
死体に対する感情は浮かばない。しかし、響く声になけなしの理性は・・・働かなかった。
「いやああぁぁぁぁーーーーー!」
女性がいようがいまいが彼の行動は変わらない。少なくとも心を動かすようなことはなかった。むしろ、その声を利用して視覚に潜り込むべく体を動かしていた。その方が結果として効率的だ。
そう思って匍匐前進を進めようとした瞬間、
轟音。
空気が震え、粉塵が辺りに舞い散った。
「っ!」
少年ですら言葉を失って驚愕した。なぜなら、土煙の先の視界の先に立っていたのは、赤いシルエットだった。そんな馬鹿な、彼女は後ろにいたはずだ。そんな言葉が脳裏を過ぎ去るが目の前の現象は現実であり、変えることのできないありのまま。
同時に思う。まずいと。
彼女と出会ってさほどの時間はたっていない。しかし、血の臭いを感じた。それは少なくとも理由があってのことだろう。理由のないそれなら自身が生きている理由にならない。
だからこそ、彼女にはそんなことをしてほしくないと思った。
なぜなら、人を殺すのは人殺しの役目であって、怪異の仕事ではないのだ。
なので、気配を隠すのをやめておもむろに立ちあがる。
そして、少年の視界に映るのは和傘を振り下ろした姿勢の口裂け女であり、汚い股間をさらしたままのけぞる汚らしい男の姿だった。しかし、赤いシルエットが映す視界に映っているのは衣服をはぎ取られて震える女子供の姿である。もっとも、行為は未遂のようである。
視界に映るのは八人。その人数は敵対対象であり、それ以外は除いている。つまり、口裂け女と半裸の女性以外のすべては殺害対象だ。だが、その印象は間違っていないだろう。誰もが手に持つ獲物を視界の先にいる口裂け女に向けていた、その時点で少年にとっては殲滅対象である。正しかろうが間違っていてもだろうが。
だから、少年は完全にスイッチを入れた。
深く沈み込む。それこそ倒れたかと誤解させるかのような前傾姿勢。地を這うような動きどころではない。蛇が大地をなぞるように走りながら、彼の視界が直前まで収めた光景を脳内で視覚化していく。当然、現実の世界は動くからこそ、聴覚と嗅覚で脳内映像をリアルタイムで修正していく。そして、それは現実と何ら変わらない。
「ひぎっ」
まずは口裂け女に汚いものを晒している人災だ。それこそ蛇のように腕という牙で急所を引き裂きながら草原の奥に引きずり込む。言うまでもなく殺傷を確認してから死体を手放した姿無き暗殺者がすべてを殲滅するまで数分の時間もかからなかった。
細かい描写をするなら、それは野生以上のハンターだ。気が付けば後ろに回り込んでいる。死角から襲い掛かる。しかも、のばされる物は必殺であり確殺。それは刃であり手足でもある。しかし、刃なら頸動脈を切り裂き、手指であれば気道を潰した。足は軟体動物のように絡みつき首の骨を砕くのだ。そのすべてを駆使しながら人型の死神はすべからく命を刈り取っていく。
「あれ?」
女性の悲鳴を聞いて反射的に飛び出した口裂け女は勢いのまま和傘を叩き下ろした。それが思った以上の衝撃と音を鳴らして自分自身でびっくりしていたのだが、気が付けば視界の先にいた野人のような人種が誰一人としていなくなっていたのだ。砂煙が晴れるまでの時間なのだから一、二分の話だろう。しかし、傍らにいる女性を除けば口裂け女の視界には何もいない。ただ、傾いた草木があるだけである。
「驚いて逃げてくれたのかしら?」
「そうみたいです」
言って姿を現すの少年である。
「クロ君大丈夫だったの?!」
「俺は無事ですよ」
慌てて駆け寄った口裂け女が少年の手を取る。いつだったかは手を握っただけで赤面したり失神していたようだが、心配がうわまわれば容易なことらしい。もっとも、正気に戻った瞬間に失神はしそうだが。
「というかカレンさん飛び出さないでください。心臓が飛び出すかと思いましたよ」
そんな少年の言葉に口裂け女は気まずそうに顔をそむけてしまう。
「女の子の悲鳴が聞こえて思わず・・・」
どんだけ男前なんだよ。そんな突っ込みを入れたくなりながらも、少年が選んだ選択肢はほどいた両手で彼女を抱きしめることだった。
「おっふ!」
なんやら女性らしくない奇声は上がったが、それだけの効果はあったらしい。
少年の若干細い体は赤いシルエットを抱きしめた。そして、抱きしめられた口裂け女はこれまでにない以上に体を硬直させていた。そして、思う。
『私、ブラしてないじゃん』
慎まやかな脂肪が密着していた。
「い、いや、私はどうしたら・・・」
半裸の女性は目の前のラブコメに泣きたくなっていた。
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