第二話「乾杯」
佐藤は都会のマンションに住んでいた。私は佐藤に肩を貸してもらい、ふらふらの状態で彼女の部屋へ向かっていた。歩いている最中、私のしゃっくりとふらつきが止まることはなく、何度か階段から転げ落ちそうにもなった。
「もう……ちゃんと歩いてください」
佐藤は面倒臭そうに顔を引き攣らせつつ、自分より大きい私の身体をその細い腕で引っ張っていった。しかし、不思議だ。今この瞬間にも、彼女に迷惑を掛けているはずなのに、不思議と申し訳なさを感じない。罪悪感が全くないのだ。私はそんな自分に鳥肌さえ覚えた。しかし、少なくとも彼女は迷惑に感じているだろう。理解出来なくとも、一言言わなくてはならない。
「……分かっている」
「はぁ?」
謝罪ではないその言葉に、彼女は苛立った。私は何故か、謝罪しようにもその言葉が出てこなかった。本当の言葉は喉の下まで来ていたが、偽の言葉がそれを邪魔した。それでも彼女は私を捨てなかった。私も細い枝のような感覚を持つ足を、無理矢理前に出し続けた。私は酒には強い方だが、流石に今日は飲みすぎた。久しぶりに旧友にあったというのに、早速迷惑をかけている。本当に何をやっているのだろう。
彼女の部屋の前まで来た。扉を開ける前、彼女は私の顔を見ずに、部屋の鍵を開けながら一言言い放った。
「羽山先輩……変わりましたね」
冷気の漂うような声で、彼女が苛立っている事をすぐに理解した。靴を脱いでそのままリビングに入り、ソファーの前に座った。その座るまでさえも、佐藤に支えられていた。ここまでされると流石に情けなくなる。部屋に入る時も、常識的な挨拶の言葉が出て来なかった。
佐藤はエアコンをつけ、部屋が暖かくなった状態でローテーブルの向かい側に座り、少し苛立った声で私に一言訊ねた。
「で、何があったんですか?」
「……たい」
私は魂の抜けた顔で、また力ない震えた声を出す。
「は?」
彼女は聞き返した。
「とりあえず……酒が飲みたい」
佐藤はその答えに、思わず顔に手を当てて、呆れた表情で溜息を吐いた。
「はぁ、先輩……あなたねえ、お酒の飲み過ぎで潰れたんじゃないんですか?それで歩けなくなってここに来たんじゃないんですか?どうせお酒にお金使いすぎてタクシーにも乗れなくなったんでしょ!それで寒さと焦りを紛らわすために、とりあえず缶コーヒーを飲んだ……。……どうですか?間違ってますか?」
佐藤の推測は、まるでずっと私を監視していたかのように当てはまっていた。何故、裏路地にいた。何故、缶コーヒーを飲んでいたかの理由を含めて全てだ。まるでエスパーのような彼女に対し、一瞬引きながらも目を逸らして言葉を溢す。
「……まるでずっと見ていたかのようだな、正解だよ」
「全く……分かりました。でもノンアルコールにしておきましょう。これ以上は危険です」
佐藤は再び溜息を吐き、立ち上がって冷蔵庫の方へ向かった。
「ああ、それで構わない」
そう言って彼女は私に気を遣ってノンアルコール飲料を出した。
「どうぞ」
私は缶を出されると一言、
「悪いな」
と、言った。これが彼女に対する初めての謝罪の言葉であった。それでも、これが正しい謝罪の言葉とは言えないだろう。
「それで、本当に何があったんですか?」
と、佐藤は再び同じ質問をするが、私はそれを誤魔化すように立ち上がり、
「……その前に御手洗いを貸してくれ」
「……玄関の横です」
と言われると、玄関の方へ向かっていった。私は彼女に背を向けていたが、研ぎ澄まされた無数の針が背中に刺さっていく事に気づいた。
用を足してスッキリした私が戻ってくると、私は彼女の目を見て一言礼を言い、缶の酒を取る。
「……。ありがとう」
これは気のせいだろうが、佐藤の目には私の酔いが別人のように少し醒めている気がして、怒りが少し静まった。
「さて、戴こう」
缶の蓋を開けた瞬間、炭酸の飛沫が飛び散った。その音と飛沫により、飲みたい意欲が更に増す。
「乾杯」
缶を口元に持っていこうとすると、佐藤がほんの少し微笑んだ顔で、自分の手に持つ缶を出してきた。彼女の持つ缶は、ノンアルコール飲料ではなく、酎ハイであった。
「……ああ、乾杯」
私と佐藤はお互いの缶を軽くぶつけ、乾杯した。二人は一気に半分まで飲んだ。その瞬間、身体に電気が走った。先程のコーヒーよりもずっと美味だ。
これほど炭酸飲料を気持ちよく飲んだ事があるだろうか。いや、無かった。これほど炭酸飲料が美味しいと思った事もない。
「こうしてみると、大学時代を思い出しますね」
彼女の頬に、桃が実っていた。それにより、少し色っぽさが増していた。私はそんな彼女を見て、大学時代を思い出していた。
「ああ。よく居酒屋でこうして二人で酒を飲んでたな」
私と佐藤は大学時代、サークルもバイト先も同じだった。バイト帰りにもよく居酒屋でこうして飲んでいたのだ。
「……本当は何があったのか聞こうと思いましたけど、話したくないことのようですね」
佐藤は私を見つめた。改めて見ると、彼女の目に映る私の身なりは酷いものであった。癖毛のように乱れた髪。病人のように少し痩せた顔。死んだ魚のような目。気を遣った佐藤は、これ以上何も聞かなかった。
「そうしてくれると助かる」
「先にお風呂入りますね」
「ああ」
彼女が浴室に向かった後、シャワーを浴びる音が良く聞こえた。路頭に彷徨っていた私には、その音さえも心地よく感じた。
しかし、一つ気付いた事がある。妙に部屋が片付いていないのだ。あまり帰ってないのだろうか?いや、私もあまり家にいる時間はなかったが、部屋を綺麗にするように心掛けていた。それから、ゴミ箱の中。異様にコンビニ弁当のゴミが多い。弁当の他に、カット野菜やおにぎり、缶コーヒーにエナジードリンク。不健康につながる物ばかりだ。今思えば、彼女の目には隈があった。既に危ういかもしれない。
「……」
しばらくすると、彼女は浴室から出てきた。化粧が落ちて別人のようになる事を予想していたが、あまり変わっていない事には正直驚いた。
「お待たせしました。次、どうぞ。凍えてるから、しっかり温まったほうがいいですよ。コーヒーぐらい用意しておきますから」
「そうさせてもらう」
「それから着替えは……ないですね」
「構わない、どうせ明日には帰る」
「……そうですね」
私も浴室に向かい、シャワーを浴びた。この温かい水に、私は脳を刺激する妙な感覚を感じた。この得体の知れない感覚が、まだ分からない。しかし自分自身が、何かを欲しているのは確かだ。それに、この感覚は初めてではなかった。
浴室を出ると、彼女はコーヒーを差し出した。飲んだ瞬間、再び妙な感覚を感じた。それに、先程の缶コーヒーの方が美味しく感じた。味は変わらないはずなのに、何故なのか全く理解出来ない。
私は彼女にリビングのソファーで寝てもいいと言われ、そこで寝る事にした。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
佐藤はソファーで寝る私にそっと毛布を掛けてくれた。その時にもまた、得体の知れない感覚が私を襲った。
翌日の朝だ。ばたばたとした音で私は目を覚ました。昨日飲みすぎたせいか、少し頭が痛い。ソファーから起き上がると、既に朝食が用意されていた。味噌汁の少し安っぽい香りを感じた。