その3
続きやねん
「んで、ピーター坊やは俺らについて来て、何がしたいんかのぅ」
夜の始まり。森の中で一同は焚き火を囲んでいた。
「よく……分かりません」
大木のようなタルフに真横に陣取られ、窮屈そうに座りながら答える。
「領主様のご意向に沿わなかったばかりか、隊を抜け出したのですから……今更戻っても縛り首、家に言っても助けてもらえないでしょう。これからどうすれば良いのか……」
「士官も大変だな」
更に反対側はタケルが陣取り、窮屈この上ない。
「ま、どこまでも逃げるしかないな。頑張れー」
パチパチと音を立てる焚き火に枯木をくべながら、全く関心のない口調で告げる。
ピーターにとってみれば藁をもすがる想いで接触したのだ。
それをタケルに冷たい態度であしらわれて嫌な感情が浮かばないわけではなかったが、今日会ったばかりの人間には関係のない話なのだ。
しかも、自分があわよくば助けを乞おうとしていたのだと気付かされ、急に恥ずかしくなった。
だが、同時に自分という器が知れて開き直れたのかも知れない。
「……恥を承知でお聞きします。皆さんはこの領地の外から来られたのですよね?」
爆ぜながら火の粉が舞うその向こう、対面の倒木に腰掛ける3人に向けても、語りかける。
「ええ。その通り」
口を開いたのは若い2人に支えられるように弱々しく座る老人。しかし声にはピンと張った力があった。
「ある目的のために旅をしておりましてな。みな、儂の家族です」
「えっ……」
意外な言葉だった。目的があって旅をしている事ではない。人種もバラバラのこの一行が、家族。
「といっても全員血縁などありませぬ。ああ、今は一緒に居りませんが、このクリストフとその兄は別ですが……」
「オヤジ——!」
遮ろうとしたタルフの声に、一切の動揺もなく老人はゆっくり右の掌を向けて、タルフに静止するよう合図を送る。
「構わんて。心配してくれるのは有り難いが、苦しんでいる若者を助けぬと有ればそれこそ儂は終わりじゃ……」
気づけばクリストフ……身なりの良い金髪の青年も老人の傍らで心配そうに見つめている。
それすらも予見していたかの様に青年の膝にぽんと左の手を添える老人。
「自己紹介を致します。先ず儂の事はアタハンとお呼び下さい」
「呼び捨てにするなよ。必ず老師か、様を付けて呼べ」
右隣のタケルが釘を刺す。
——老師とは?と引っかかる事はあるが、この両隣にいる猛と牛の猛牛兄弟と違って全て答えてくれそうなこの老人の言葉に一縷の望みを感じ、黙って聞く事を選択する。
「ただのみすぼらしい僧侶です。お気になさらず。どうか——」
「老師様はデスタブールの大僧正にあらせられます」
急にクリストフが口を開いた。
「は……!?デスタブールの大僧正!?あのっ、トルキス帝国の!?」
飛び上がりそうになった所を両側の猛牛にがしりと肩を掴まれ抑止される。
大トルキス帝国——。そう呼ぶ程の大陸の覇者がある。
大陸の中心に鎮座し、首都デスタブールは交易商が死ぬ前に一度は訪れたいこの世の楽園と呼ばれ、
西に覇を称えるエールズなど吹けば飛ぶような超大国。千年の歴史を誇り、未だ衰えを知らず、
数多の国を飲み込み続ける世界の頂点。
そしてトルキス正教の大僧正といえばこの世界で最も位の高い僧侶だ。その人が目の前にいるとは、そしてみすぼらしい老人の格好でピーターと言葉を交わしているとは、にわかに信じ難い。
では、両隣の屈強な猛牛は伝え聞くデスタブールの武僧兵だろうか?
などと思考が高速回転を始める。知らず知らずのうちに両の手は堅く拳を握っていた。
「こっ、これは大変なご無礼を……!アタハン老師!わたしは貿易商ベン・クライムの三男、ピーターと申し……」
「もはや老師などではございませぬ。大僧正の地位も、侍る武僧兵も持ちませぬ。ただの老人、昔少しばかり偉そうな説教をしていただけの年寄りでございます」
アタハン師に深々と頭を下げられ、頭が真っ白になるピーター。
時と場合によってはトルキス帝よりも発言力のあるとされる殿上人が脱走兵の自分に礼を見せた。無論エールズにそのような頭を下げる文化などないが、実家が交易商だったためその意味が理解できてしまう——
もっと無知であればどれほど良かったか。
目眩がしそうな感覚に自失しそうになりながら再び思考がぐるぐると巡る。
「ピーターさん、自己紹介を遮ってしまい、あいすみませぬ。この年寄りにどれだけのお手伝いができるか分かりかねますが、お困りのようでしたら暫し、儂らを頼っていただければ如何かと」
「……はい」
流々と語りかけるアタハンとは対照的にピーターの喉は猛烈に乾いていく。
しかし思考は止まらない。大僧正に元とは何か?引退があるなど聞いた事がない。
先代の崩御の際はエールズからも公式に追悼団を送っている。
では失脚はどうか。それも断じてあり得ない。確かにトルキス帝こそが最高権力者だ。だが歴代トルキス帝は全てトルキス正教徒であり、大僧正の弟子なのだから。
「師匠」
タケルが割って入る。タケルはお師匠、タルフは親父、クリストフは老師様で呼ぶらしい。
「こいつ助けたらこの土地の貴族と話ができねえんじゃねえの?」
安価で動きやすい革鎧の下に着た麻シャツの襟首を、首の後ろから掴まれぐいと灯りに照らすよう顔を火の前に近づけられる。少し顔が熱い。ピーターは苦しそうに表情を歪めた。
「よさんか」
初めて、好々爺に見えた老師の眼を見た。
瞳が、白く濁っている。
——目が見えないのだろうか。
しかしその拍圧たるや。
「……分かってるよ。見殺しになんて出来ねえ。それは俺も同じさ。だけど——」
「お前の心配もわかる。儂に残された時間はもう、そう長くはない。だがそれは世界にとって大きな問題ではない」
………。
見つめ合う2人と長い沈黙。
パチリと大きく生木が爆ぜる。
「……わーかった。オヤジの言う通りだ。喩え道が困難になろうとも正しいことをしろ。だろ?」
溜め息まじりに折れたのはタルフだった。
一拍遅れてタケルの手から襟が解放される。顔に当たる夜風が涼しい。
だが——
2人、アタハンとタケルは睨み合ったままだ。
「お腹すいた……」
想像するよりはるかに幼い声だった。
黒髪の少女、人種の垣根を越えてオリエンタルな美しさをもつ少女が発した声だった。
「兄弟」
完全に気持ちを切り替えたのか、タルフが催促するように笑顔でタケルに合図する。
「……わかったよ」
まだ何か言いたげな表情ではあるが、観念したという素振りで立ち上がる。
男2人に挟まれていた、その右の片側から人が退いたので、急に右半身だけ涼しくなる。
「悪いが今日は狩りの時間なんて無くてな。缶詰かカップラーメンだぞ」
「おおお!流石は兄弟!」
「わ、わたくしは”れとるとかれえ”を!」
「……あたしラーメン食べたい」
何やら大歓喜している。利発そうに見えたクリストフまでタケルの方に身を乗り出し頬を紅潮させ瞳は無邪気に輝いている。変わり身の早さに呆気にとられたが、何か保存食の名前には違いない。
一行がそれほど空腹で追い詰められているようには見えなかったが、随分な喜び様である。
「あの……塩漬け肉ならば私も持っておりますが……」
……。
急に全員が静かになった。というより、煩かったのはタルフとクリストフだったが。
「……あれ?」
保存食の話ではないのか?急に盛り上がりに水を差した気がして血の気が引いた。
がしり、音で言うならこういった所か。
気づけばタケルが先程までの定位置に戻って今度は肩を組んできた。
「……豚?」
平常時ならば即答出来た質問だが、タケルが怖くてしどろもどろになる。
「ひつっ、羊で……す。ぶっ……た……の燻製もあります」
「良くやった。」
真顔で肩をぽんと叩かれ褒められたかと思えば、鎧の上から腰に巻きつけた布の中の保存食を強引にひん剥かれる。
「喜べよピーター。戦場では食えないような美味いもん食わせてやる。」
再び立ち上がるとこちらの方を半身で振り返り、見下ろしながらニッと笑った。
思えばこの男がピーターに笑いかけてみせたのはこれが初めてだった。
「こんな味の料理は食べたことがありません。美味いです。本当に美味い。恐らく人生で一番美味い」
硬く筋ばかりだったピーターの塩漬け肉は、口の中でホロホロと解ける柔らかさになっていた。
肉がこんな食感になるとは生まれてこの方経験したことが無かった。しかも塩抜きをしたと言っていたが、塩味が抑えられ、臭みもまったく無い。
羊とはこんなに美味いものだったのかと感動すら覚える。
それよりも何よりもこの不思議なスープである。
シチューらしいが、まずドロドロとしている事に驚き、更にその味の奥深さに驚く。
何らか獣の肉を煮込んだものに、恐らく野菜も数種類、溶けるほど煮こんであるようだ。
そんな貴族の料理のような仕込みに何日もかかる手の込んだ調理はしていない筈なのに。
「パンにつけて食うと美味いぜ」
タケルが金属の筒をよこす。
「パン?」
渡された金属の筒は意外にも軽く、空の容器かと思うほどだ。
「この中にパンが?」
「その……缶の開け方わかるか?」
手渡された金属の容器、軽く握れば凹みそうなほど薄い感触。
「ナイフを使うのでしょうか?斬る?」
「あー、貸せ。やってやる」
言って取り上げると底にあるつまみのようなものに指をかけてぱかりと底を外す。
「そうやって開けるのですか!」
初めて見るものにいちいち感動を覚える。何もかもに。先のクリストフの事など言えないほどの表情になっているだろう。だがそれさえも気付かないほどに夢中になった。
ほらよと再び戻された容器の中には、ピタリと同じ型のパンらしきものが見えた。
「おお、これは」
そっと指でつまんでみると、これもとても柔らかい。
慎重に、まだ千切らないようにと丁寧に、何度か危ない瞬間はあったが無事に全体を取り出す事に成功した。
「お前、器用だな」
タケルに言われて悪い気はしなかった。
軽く笑みを返すとまじまじと手に持ったそれを見つめる。
円柱状の綺麗な型に焼かれたパンだ。それは間違いない。だがもうこの美しい芸術を崩さねばならない。
このパンがどれほどのものか、食さずにはいられない。
タケルはシチューをつけて食べる為にくれたものだが、構うものかと指で千切って口に運ぶ。
「んー、うん、うん」
その柔らかさに笑みが溢れる。綿のようではないかと。
思えば馬なら半日の場所まで二日間も歩いて行軍し(行きは馬に装備や食糧を運ばせる為、人は乗れない)、恐ろしい目に遭い、更に半日は歩いた。
疲労していたし、食事も粗末な携行食だった。
「これは本当にパンですか!トルキスではこんなに美味いパンがあるとは…」
ふとシチューに目がいく。ピーターの内心を代弁するならば、よしよし、お前をこのパンで試してやろう。と言った具合か。
汁気の少ないシチューにこの上等なパンを浸し、いや、”つけて”口の中に放り込む。
当然だが美味い。予想通りに美味い。普段彼が食べてきた味の薄い、塩味だけのとろみのないスープとパンでさえ美味かったのだ。
不味くなるはずがなかった。
再び夢中で食べ進め、パンもシチューも無くなる頃にはとうに腹は満たされていた。
まだ始まったばっかりやねん