カンヅメ工場の少女
第1章 発掘
「ですが御前さま、それはちと無理かと」
「やれ」
「仮に技術的には可能といたしましても、経費のほうがいささか」
「やるのじゃ」
「それに時間のほうが間に合いましょうか?」
「たわけ! その時間こそが問題なのじゃ! わかっておろうが? こうして一分一秒を無駄にしてるあいだにもマリ子が、わしのかわいい孫娘が……うう、ううう」
「ですから警察はもちろん政府もフル活動しております。アメリカ政府もインターポールも、とうに捜査を開始いたしておりますし、お言い付けどおりに全国の名だたる探偵ならびに調査機関にも手配済みでございます。それなのにまだそのようなことが必要なのでございましょうか」
「くどい! ぬしも松前家の総番頭ならば当主の命に従うべし!」
「ははっ!」
「すぐに掘れ」
「で、では誰を掘り出すのか、ご指名を」
「風間小太郎」
「かか、風間ですと! 以前に御前さまの周囲をかき乱した無礼者の風間を?」
「どのくらいかかるか?」
「御前さま! それはまずうござりましょう。運よく自殺してくれたからいいようなものの、きゃつはすんでのところで御前さまの名に傷をつけるところでしたぞ? そのようなものが蘇ったとしてもどうして松前家に協力いたしましょうか。だいいち、ほんとに死者が生き返ることなどできるものでしょうか?」
「黒崎! マリ子が消えてもう三十時間だぞ! 指名はした。早くいけ!」
「ははっ!」
東京の郊外にある松前家の屋敷はごったがえしていた。
財界の伝説的巨頭の孫娘が行方不明になり一日たつことはそろそろマスコミにも知られ始めていた。当主の松前正吉にどなりたおされた秘書兼総番頭の黒崎はあぶら汗をぬぐいもせず矢継ぎ早に指示を出している。
「いいかみんな、飲み込めたな? 幹細胞研究開発助成の名目で内閣に臨時予算を組ませるのは特に急がせろ。それと例の幹細胞研究所の所長をつかまえるのは三分以内だからな。おっと、サイバネティクス開発室の者も忘れずに呼ぶのだぞ、わかってるな。さてと、では肝心のターゲットだが」
黒崎総番頭はここで大きく一息ついて、あとははきだすようにどなった。
「ターゲットは風間小太郎だ。三十年前に自殺した探偵のあの風間だぞ。大至急、風間の遺体の一部を採取せよ」
大広間に集まった一同が初めてざわついた。
「余計な質問は一切なしだ。黙って行動に移れ。まずは埋葬場所の特定だ。急げ」
くもの子を散らすように一同がかけ出すなか、ひときわ背の高い男が黒崎に呼びかけた。
「黒崎さま」
「情報室長か。なんだ、時間はないぞ」
「風間の埋葬地は岐阜であります」
「ほんとか!」
「三十年前の葬儀には私も潜入監視いたしておりました。少なくともその後十年間は遺体は他所へ移されておりません」
「やはり火葬だったか」
「いえ、土葬であります。白木の桶に入れられて土をかぶせられました」
「そ、それなら脳も残っているのか!」
「たぶん」
「すぐに土木班を連れて急行してくれ! あなたが指揮をとってな。自治体のほうはこちらで処理しておくから当地へ直接たのむ。あのヘリなら四時間でなんとかなろう?」
「それがひとつ問題が」
「なんだ」
「埋葬の際に参列した者はみな一様に山伏のようないでたちをしておりまして」
「山伏、とは何の話だ?」
「葬儀のほうも見慣れぬ密教風のものでしたので」
「単刀直入に言ってほしい、情報局長」
「は。やつの生前からそうだったのですが、死後に改めて調査しましても風間の経歴には不明な点が多すぎまして」
「なあ頼む。そんな詮索の余裕はないんだ。我々がほしいのはきゃつの推理力なんだよ。不世出の名探偵とうたわれたその頭脳なんだ。要はマリ子お嬢さまが無事に見つかればいい。無事にな」
「では念のため護衛班を動員してもよろしいでしょうか」
「ああ、すべてあなたにまかせるから急いでくれ。頼みましたぞ」
最新鋭ジェットヘリ2機が富士山方面へ姿を消したころ、黒崎番頭はようやく数人の技術者を松前老の部屋に押しこむことができた。
松前正吉はいらだっていた。
「そろったのか黒崎?」
「はい」
「ではまず、きみらのスポンサーが誰なのかを確認しておきたい」
普段なら松前氏の前では許されようのないラフな姿で、中には機械油まみれの作業服のまま引っ張ってこられた技術者たちは初めて目にする大ボスの前で縮み上がっている。
「それはわしじゃ!」
みな下を向いて目をつぶった。
「この先は異議なぞいっさい認めぬ。よく聞け。きみらの仕事はこれだ」
松前老の依頼を聞き終えた科学者たちは再度ふるえあがった。
死者ひとりをこれから生き返らせなくてはならないのだ。それも大急ぎで。百パーセントの成功率で。そのためならどんな高額経費もいとわない。そのためならどんな道徳律を逸脱してもかまわない。
だから彼らがふるえたのは恐怖や良心のためではなかった。それは喜びにうちふるえる武者ぶるい。待ちに待った人体実験のチャンスをつかんだ歓喜の波に彼らは身をまかせていたのだった。
第2章 小太郎参上
岐阜山中。この村の近くには有名な温泉地があって、ここものどかな田園風景が広がっている。
「さおり。きょうは高校を早退させちまってまでおらっちの畑仕事さ手伝わせたは申し訳ねえと思うとる。じゃがのう、さっきからおめえ、よそ見ばーっかしとっちゃ、日暮れまでに終わらんでのう、さおり」
「ねえ、おじいさん。まさかと思ったけど、やっぱりあれ、ヘリコプターだよ」
「ああん? どうせ太一のじいさまがまたヘリで農薬散布やらかすんじゃろ。うちの村は有機農法で立て直すんじゃて、いっくら説明しても太一のじいさんときたら」
「ちがうよちがうよ。だってふたつもいるもん。音だってやけにうるさいし。あ、ほら、あんなに大きいよ。ああっ、おじいさん見て! あんなとこへ降りていく!」
「はあ? おおっ! よもや墓ンとこじゃあるめえな? いや、あそこの丘を着陸目標にしとる! いかん、さおり! 緊急陣形! 急ぎ非常召集の鐘を打てっ!」
「ええ? 非常? は、はい! かしこまりました!」
キン、キン、キン。
耳ざわりな鐘の乱打に村じゅうが凍りついた。
畑の手入れをする者、自転車で買い物に行く者、ジョギングをする者、自分の愛車を洗っている者、それらすべての人々が動きを止めた。
次の瞬間、皆はいっせいに走り出す。自宅へ走り何かを取り出してまた外へ飛び出してくる者もいたが、大半はその場からヘリコプターが着陸した丘めがけて一直線に全力疾走していた。
そのころ丘ではヘリコプターから続々と松前家の者が降りて作業を進めていた。この小高い丘には豊かな緑のなかに古風な墓標がいくつも平和に並んでいる。
「リーダー、見つかりました。これでしょうか?」
「うん、そうだな。たしか、これだったよ。よし、全員で掘りあげろ。五分で終わらせるぞ」
松前家の土木班と呼ばれる男たちは大小さまざまの工具をたくみに扱い、すばやく、しかしていねいに土を除いていく。みるみる作業ははかどり、薄茶けた桶が姿を現した。
「オーケー。その桶には振動を与えずに、そのままヘリの中へ運べ。すべての確認は空中にておこなう。うん? 何をしてる? 休んでるひまはないぞ。時間がおしいと言ってるだろう。おい、どうした!」
作業員のひとりが桶の天板に顔をくっつけている。するとさらにもうひとりがうつむせになってその上におおいかぶさる。その隣ではひとりが糸の切れた操り人形のように穴の中にしゃがみこみ、またその隣では男がまるで棒切れのように音もなく後ろに倒れた。
「護衛班! 応援たのみます! 土木班が襲撃を受けているもよう!」
アメリカのスワットチームに似た服装の男たちが黒光りする自動小銃をかかえて飛び出してきた。ところが周囲には誰の姿もみあたらず、護衛班はキョロキョロとするばかりだった。
「隊長。敵影を目視できません。熱センサーにも反応はなし……いや、あります! 右二十度の木上にかすかですが熱」
そう言いかけた護衛班の男の首は宙に飛んでいた。
続けざまに、ひとつふたつとさらに護衛班の首が宙を舞っていく。この作業でリーダーをつとめる松前家情報室長はあせった。
「どういうことだ。いったいどこから……うっ」
「動くと首が切れるぞ」
後ろをとられたリーダーはただ呆然としている。
「よし。そのまま動かずに生き残りを集めろ。聞こえないのか、早く!」
「わ、わかった。助けてくれ。なにも命をかけてまでやろうって仕事じゃないんだ。成りゆきなんだ。な? わかるだろ? 助けてくれよ」
「なんだとお? こっちは命がけだぞ! 早く集めないか!」
「や、やるよ。総員! 掘った穴のところへ集合せよ。抵抗するな」
残りの二十名ばかりの男たちが掘り出されたばかりの桶の前に集まった。
「きさまら何者か。なぜ墓を荒らす」
「か、風間小太郎の助力がいるんだ」
「なに! 小太郎さまのご墓所と知っての所業か。死者に力を貸せとはどういうことだ。答えろ」
「あんたたち、風間の親戚ですか? だったらお礼は十分にしますから」
「この、くそだあけめ! 風魔の統領の亡きがらに代価があるか!」
「フーマとは? あっ、風魔! そうか、お前たちそうなのか!」
「どこの者か早く言わんと、きさまも。お? ぐえっ!」
情報室長はすさまじい肩車の投げ技で背後の男を地面にたたきつけるが早いか、四方にむかって白いボールのようなものを投げた。するとそれぞれのボールからは猛烈な火炎が吹き出して、あっという間に林を火の海にした。
「うわあーっ」
叫び声をあげながらいくつもの影が火だるまになりながら木の上から落下していく。情報室長はどなった。
「全員で桶を機内へ入れろ! 緊急離脱! 煙幕はれえ!」
煙は松前家生き残りの男たちを隠したが、その煙の中へ村人たちはとびこんでいった。おそろしい叫び声と銃声が交錯したが、その音も発進するヘリの爆音にかき消されていった。
その何分か後、1機のヘリコプターが富士山上空を通過し、そのまま松前家へと急速接近していた。
「監視セクターより報告。当家のヘリ1機が帰投したものと思われます」
監視室から松前老の部屋に連絡が入った。総番頭の黒崎が応じる。
「思われます、とはどういう意味か。はっきりしないのか?」
監視室の連中の声はひどく緊張してるな、と黒崎はいぶかしがった。
「それが、機体は当家のものですが一切応答がありません」
松前老の目が光った。
「よもや失敗ではあるまいな!」
「え? いえ、まさか、そのような……あっ、また監視室からです。どうした?」
「ヘリから信号が入りました」
「信号だと? はっきり言ってくれ」
「しばらくお待ちください」
明らかに監視室は動転している。
「おい、これは着陸誘導自動制御牽引ビームの要請信号じゃないか? ばか言え。そんなの今まで一度もなかったじゃねえか。じゃ見てくれよ。あ、ほんとだ。何だと? おれにも確認させろ。おいおい、マジだぜこりゃあ。ちくしょう、それじゃ誰も乗ってないってことか? 冗談じゃねえぞ」
「こら! 皆でいっぺんに話すな。こちら黒崎。しっかり報告せんか!」
「す、すみません。ヘリから着陸を自動誘導してほしい旨の緊急入電です。ですが……」「ですがどうした!」
「こんなの例がありません。あいかわらずこちらの問いかけには応答がありませんが許可いたしますか? それとも迎撃しますか? あと十秒で迎撃可能エリアを通過して当家敷地内に侵入します」
「ばか! とりあえず滞空させるよう」
「まて黒崎」
「は?」
さっきとうってかわり松前老は静かに言った。
「つけさせろ」
ヘリは庭のヘリポートにやや乱暴に着陸した。無造作にプロペラが止まり機体もしずまったがドアは閉まったまま、誰も降りくる気配がない。黒崎がとまどいながら聞いた。
「御前さま、いかがいたしましょうか?」
「バカモン!」
松前老がまた爆発した。
「時間がないと何度きさまに言えばわかるんじゃあ!」
「ははっ!」
黒崎の陣頭指揮でヘリの扉がこじあけられる。だが扉が開くと同時に死体が五、六体どさどさと転がり落ちてきた。胸を撃たれたり、首を折られたり、先のとがった鉄棒が背中を貫いていたり、なかには首のない死体まである。しかし黒崎番頭は顔色を変えることなくこう言い放った。
「ここはほっとけ! 機内の捜索を急ぐんだ!」
銃を構えた男たちが十人ほどヘリの中に突入する。
緊迫ではちきれんばかりの静寂の中、数分が経つと、やがて機内から報告の声が聞こえてきた。
「生存者ありません。半数は当家の人間ですが残りは不明です。どうやら一般人らしいですが機内は血の海であります」
「それだけか」
「いえ。かなり大きな樽のようなものがひとつあります。爆発物とは思われません。かすかに異臭を放っておりますが毒性はなしと確認。以上です」
「おおっ、やったか! そのまま待て、この黒崎が中身をあらためるぞ」
黒崎はヘリによじ登り桶のふたが開けられる様子をにらみつけるように見守っていた。ふたが開くと、そこにはうずくまり膝を抱えた姿勢の男の死骸が一体あった。
黒崎はその顔に見覚えがある。思わず彼はつぶやいていた。
「風間……」
そのとき黒崎は背後に言いようのない鋭い気配を感じてびくりとした。思わず振り返ると、ヘリの扉の外では松前老がきびしい顔をして、じっと立っていた。
第3章 タイムトラベラー
翌日、松前正吉の前には先日依頼を受けた技術者たち三人が直立不動で並んでいた。
「白骨化せずに遺体が残っていたのはまったく幸運でした。おかげさまで献体のゲノム解析もほぼ完璧にできました。大量のES細胞とEG細胞を投入してオリジナルの細胞から原型を復元中ですし、それと同時にクローン増殖も別に進行しております」
とくとくとしゃべるのは幹細胞研究所の鳩山所長だ。五十がらみの精力的な顔が小太り気味にテラテラと脂ぎっている。
その隣でいかにも自信なさげに下ばかり向いているやせた男が、それでも意を決したように口を開いた。まだ青年とでも呼べるような青白い顔立ちだ。
「ぼ、ぼく、いえ、わたくしのほうはヒト胚ではなく成人の幹細胞で、つ、つまり神経幹細胞を使用しました。の、脳の復元に集中してですね、その、か、体のほうは、アンドロイドでとりあえず代用ということで、ええと」
これはサイバネティクス研究所の加藤研究主任補佐。昨日の席にはいなかった人物だ。肝心の責任者は急病ということだった。これではサイバネ研が初めからライバルの幹細胞研究所に勝負をゆずったと受け取られてもしかたがなかった。
「ほう、加藤くんとこも幹細胞をねえ。はっ、時代遅れのサイバネティクス研が」
鳩山の侮辱にサイバネ研の加藤補佐は顔を赤くしてまたうつむいてしまった。ここで松前老の怒りが爆発した。
「うぬらの争いなぞ聞いてるヒマはないんじゃ! 場所をわきまえんか、この若造どもが! それにもっとわかる言葉で話せんのか! いいか、もう五十時間なんだぞ! 脅迫状も来ない。有望な情報もあがってこない。今となってはおぬしらが最後の頼みの綱だということがわかっとるのかあ!」
松前老は葉巻を口へつっこんだ。
「それになんだ? 白骨化してないことばかり喜びおって。人体オタクめが」
「しかしながら御前さま」
「ん? なんじゃ黒崎」
「それはわたくしめも驚いた点でして。風間めの死体はまるでつい先ほど埋葬されたみたいに真新しい印象を受けました。いえ、それどころかツルツルの肌と申しますか、とても死者のものとは思えぬ肌のつやで。おそらく年に一度、あるいは半年に一度は何らかのケアが施されていたに相違ございませぬ。これは少し異常ではありませんか? ほんとにあのような者にすがってよろしいので?」
「いったい何度いえばわかるのじゃ! 時間じゃ、時間がすべてなんじゃ。手遅れでマリ子に何かあったら、きさまら八つ裂きだぞ! ほんとに肉を引き裂いてやるからな! さあ、どうなんじゃい? いつ結果が出るのか? 正直に言ってみろ」
「いつ? ですか」
幹細胞研究所の鳩山はロマンスグレーのもみあげをひきつらせるように下卑た笑いをしてみせた。
「もう連れてきておりますよ。ご紹介してもよろしいでしょうか?」
「なんじゃと? 早よ見せてみい!」
ドアが開くと、スラリとした長身の男がダークスーツに身をかため、ゆったりと腕組みをして立っていた。少し長めの髪にはウエーブがかかり、どこかほほえんだような表情をうかべてこちらを見ている。三十代半ばというところか。
「風間……小太郎」
松前老と黒崎は息をのんだ。
ところが黒崎がすぐにさわぎだした。
「おい、その後ろにいるのは誰だ! その包帯でぐるぐる巻きにしているやつは何者だ! どうやってここへ入って来たんだ!」
「ま、待ってください。こ、これは、あれです。あ、だから、つまり」
サイバネ研の加藤があわてて走り出し、まるで透明人間のような包帯だらけの人物の前にかばうように立った。
「つまり何だというのだ! 御前の部屋に不審者を入れるとは何事だ!」
加藤青年は完全に言葉につまってしまった。そのとき包帯人間の右手が、まるで黒崎を制するように静かに挙がった。目立たない地味な動作なのに、皆の目は一斉にそこへ惹きつけられた。
「ぼくから説明しましょう」
包帯人間がしゃべっていた。
「加藤くん、この包帯はもう取ってもいいんでしょう?」
その声はやけに澄みきっている。
「い、いいよ」
加藤にそう言えわれると、白い手袋をしたその両手が自分の頭部から次々と包帯を巻き取り始めた。玉ねぎのような包帯の球体はみるみる層が薄くなっていき、やがて顔が現れた。男の顔だった。
「風間!」
松前老と黒崎はまたもや同じ名を叫んだ。
しかしよく見てみると、こちらの風間はやけに顔がピカピカと光っている。松前老と黒崎はアングリと口を開けつつ、つい身を乗り出してその顔をのぞきこんでしまった。
「加藤くん。こうじろじろと眺められるとこをみると、この人造プラスチック製皮膚もやはりいまひとつのようですね?」
この軽口で松前老は我に返ったようだった。
「いったい何のおふざけじゃ! どうして風間が二人もおるんじゃ! だいたいもうひとりのほうはなぜしゃべらん!」
残った包帯をていねいに取りながらピカピカ顔の風間が話を続けた。
「察するに、もうひとりのぼくはまだ脳の準備ができていないようですね? 肉体のほうはみずみずしいけれど。つまりぼくと正反対というわけだ。違いますか、鳩山さん?」
「くっ……集中学習させれば五日間でモノになるっ」
「い、五日間じゃと? このバカモンめが!」
「おっと松前さん、怒るのは後にして。それこそ時間の浪費というもの。さしあたっての話し相手はぼく、ということでいかがです?」
風間は続ける。
「だって、ただうなずくだけの風間よりは脳の中味だけでも完全復活させられた風間のほうがまだましでしょう。ふーん、なるほど。誰かいなくなったのですね?」
全員がハッと凍りついたように動きをとめた。松前老はすぐさま黒崎をとがめるようににらんだ。
「い、いえ、わたくしはマリ子お嬢さまの件は何も事前に教えたりはしておりません。御前さまのおいいつけどおりに、はい。それにこの部屋のドアの外では室内の会話は絶対に聞き取れないことは御前さまもよくご存知で」
「マリ子さん、そうですか。松前さんのあせりの表情、苦悶の汗、時間への執着。よほど大切な人だろうとは思っていましたが、なるほど。娘さん? それとお孫さんかな?」
「お孫さまです。ご、御前さま、使えますよ、こいつは! 風間小太郎といえば犯罪現場へ一歩足を踏み入れただけで事件をほとんど解決する男として有名だったじゃないですか。こっちを使いましょうよ」
さっきから妙に黙りこんでしまった松前老はただコクリとうなずいた。
「よくやったぞ加藤くん。あ、いやいや鳩山くんもな。きみのほうも大急ぎで教育を仕上げてくれ。でき次第たのむよ」
鳩山は何も言わずに目だけを怒りにつりあげたまま、生き人形の風間をひっぱって外へ出て行った。
乱暴にドアが閉まると、おもむろに松前老が口を開いた。
「つまり……あんたはロボットというわけかね?」
風間は軽快に答える。
「たとえそうでもせめて名前くらいは呼んでくださいよ松前さん。お互い知らぬ仲でもないんだし」
「風間……」
「そう、その調子です。それに幹細胞とやらを使った生き物の複製は短命だそうですよ。短い間なら仲良くいきましょう。あれから三十年以上経っているんでしょう? すべて時効ですね。それとも法律が変わって時効という考えはなくなりましたか」
松前老はフンと鼻をならしてみせた。
「田中大臣はお元気ですか」
「ありゃ死んだ」
「じゃあ中曽根氏もレーガン氏も?」
「レーガンも死んだよ」
「すみません小学生なみで。人間、死んでみると世相にうとくなるものでしてね」
「もういい! 首から下は機械でも頭が少しは生きておるんなら助けてほしい。ここがどこだか、わかるか。風間……くん」
「松前邸にしちゃみすぼらしいですね。どこなんです?」
「わしのカンヅメ工場じゃよ。以前はここがわしの執務室だった。わしはここで身を立てて松前財閥の当主の座まで昇りつめた。だがここもじきに取り壊しじゃ。せめて最後に今一度だけ生産ラインを稼動させて思い出にしようと先日ささやかな式典をやったのじゃ。それに孫娘を連れてきたのじゃが、そのときにマリ子がいなくなった。つまりな、ここがマリ子を見かけた最後の場所じゃ」
「なるほど。その日はマリ子さんと二人きりでいらしたので?」
「ばかいっちゃいかん。ラインを動かすんじゃ。それなりの人手もいるし記念行事なんじゃよ。招待客も来たし、とにかくおおぜいいたわい」
「この部屋もセレモニーに使用しましたか?」
「いや。ここはわし個人の思い出の場所としてマリ子に見させただけじゃ」
風間小太郎は腕組みし、片手であごを支えながら部屋のすみずみまで見てまわった。機械づくりとは思えないほどその手足はしなやかに動く。最初はいかにも無機質なツルツルピカピカに見えた顔も、思いのほか表情が豊かでだんだんと人間らしく見えてきた。そんな風間を連れてきたサイバネ研の加藤というこの若い男、もしかしたら天才技術者かもしれんな。そう黒崎番頭が思いかけたとき、ぐっと人間味を増した風間がしゃべった。
「これはカセットテープでしょう。こっちの薄いのは何です?」
「ふん、CDというんじゃ」
「そうですか。だが両方とも落語のものですね。ずいぶんとたくさん部屋中にある」
「わしの息抜き用じゃよ。それがどうした」
さきほどから松前老は半眼となって風間の一挙手一投足を追っているようだった。その顔つきがさらに険しくなった。
それを待っていたかのように風間が芝居気たっぷりな動作で振り向いた。それとも金属製の手足が重くて動きがことさらゆっくりとなってしまっただけなのかもしれない。
「マリ子さんが今どこにいるのか、だいたいのとこがわかりましたのでね」
「なんじゃとぉ! そんなばかなこと言うなっ!」
真っ赤な顔で仁王立ちとなった松前正吉の姿を見て、長年つき従ってきた腹心の黒崎も驚いたようすをみせた。
「まあまあ松前さん、居場所がわかるのと救出するのとは別問題ですから。つまり、こういうことなんです。ちょっとお耳を」
風間は松前老のわきに身を寄せると何やら耳うちした。それはしばらく続いたが、その間に松前老の表情はまるで氷がとけるようにゆるゆるとやわらかくなっていった。
松前老は言った。
「すると今から協会のほうへ行くのかね?」
「ええ、そこを突破口にします。救出作戦はそれからです。いいですか松前さん、これはれっきとした計画的犯行です。犯人もおそらくその協会内の人間でしょう。ところで調査をする前にはっきりしておきたいのですが」
松前老はギクリと身を引いた。
「ぼくはこの世に舞い戻ったばかりで持ち合わせがなくてね」
松前老は胸をなでおろし、ため息とともに言った。
「もちろん経費はこちらで持つ。黒崎、手配してあげたまえ」
「それとなんですが、こちらの加藤さんにぼくの手伝いをしてもらっていいですか。なにしろ彼のほうがぼくの体に詳しいですから」
「ぼ、ぼ、ぼくが、助手?」
「ああ、よろしいよ。加藤くんといったか? しっかり頼む。じゃ、わしはすこし休むよ。では行きなさい」
黒崎に導かれて古ぼけたカンヅメ工場の長い廊下を歩きながら風間小太郎は鼻歌をうたっている。
黒崎が先に口を開いた。
「えー、風間くん。いや風間先生。以前いろいろ君に迷惑かけたこと、水に流してくれるかね。ほれ、あれからもうだいぶ経つのだし、今はこういう状況だし」
「ええ、もちろん。むしろお礼をいうべき立場はこっちですしね」
「おお、ありがたい。いや、さっそくなんだがね。ちょっと聞きたいことがあるんだが、いいかな」
「はい、どうぞ」
「実は君をあっちから、そのつまりだ、お墓からこちらの屋敷へ連れてくるときに、ちょっと変なことがあってね」
黒崎はヘリコプターが多数の死体をのせて、いわば無人状態で自動着陸した件を風間に話してきかせた。
「で、よく調べてみたら機内に血文字が残っていたんだが」
「ダイイングメッセージ?」
「それがよくわからん。だがその文字は当家の情報室長らしき男性の手によって書かれていたので無視できんわけさ」
「らしき、とは?」
「うむ。つまり首がないうえに残っていたのは胴体と右腕だけという、最も損傷の激しい一体だったのでね」
「うわわあ」
そう言いながら加藤青年が二メートルほど飛びのいた。
「その血文字は『忍、フーマ』となっていた。こうさ」
ペンキのはげた老工場の板壁の上に黒崎の指が踊る。
「忍者でフーマといえば風魔だろう? すると機内に散乱していた部外者たちの死体は風魔忍群のものなんだとでも伝えたかったのだろうか。しかしそれも何だかなあ……。だってだよ、もしそうだとしたら君は風魔小太郎ってことになっちまうものなあ」
「そうですよ」
「え? それって風魔の統領ってことだぜ?」
「そうです。歴代当主の家系で、ぼくは十二代目なんです」
「ま、まさか」
「まったくね。ほんとアホらしいたわごとですよ」
「はい? おいおい、どっちなんだね」
「ぼくが風魔の統領だなんて、そんなヨタ話を信じている困った連中がいるってことなんですよ。ねえ黒崎さん、ぼくの墓はどこにありましたか?」
「岐阜の山奥、だろ?」
「やっぱりだ。いいですか黒崎さん、ぼくの実家は神奈川ですよ。それがなぜ岐阜山中なんかに埋まってなきゃいけないんですか。きっと勝手にぼくの亡きがらを掘り出して岐阜くんだりまで運んだんでしょう。まったく正気の沙汰じゃないな」
「あの、よくわからんが」
「風間という名前は読み方によってはフーマとも読めるでしょう。でもそれだけの理由で幻の伝説的忍者の身代わりにされちゃたまりませんよ。探偵業でちょっとばかし有名になったぼくの名前をどこかで知ったんでしょうね。ある村の人たちがぼくを自分たちの統領にまつりあげようともくろんである日突然に事務所へ押しかけてきたことがあるんです。それからというもの、どんなに断ってもしつこくて」
「しかしあの連中はかなり戦いなれた者たちだよ? うちの護衛班と相討ちになったくらいだ」
「だってほんとに忍術の訓練してるんですもの、あの人たち。けっこう怖いものありますよ」
「だが状況からみると連中は君の遺体を守ろうとして死んだのだよ。いくらなんでも、そこまでやるかな?」
「そこが狂信者の恐ろしい点なのです。これはほっとくとまずいな。そのうち松前邸は襲撃されますよ、きっと」
「いやあ、それはありえんだろう。ヘリコプターで運んだんだぜ。あとなんてつけられっこないんだから、こちらが誰かなんてわかるはずがない」
「チッチッチ。甘いな。さっきも言ったでしょう。自分たちを風魔の子孫だと本気で信じてコミュニティーまで作って自活してる人たちですよ。道しるべとして一人ずつヘリから飛び降りることだってやりかねませんね。そういう行為に無上の喜びを感じる種類の人たちらしいですから」
「そ、そうなのか」
「ヘリは全部もどってきてるのでしょうね。1機だけで行ったのですか」
「いや、それが1機がまだ戻らんので」
「では何人か村に残ってるってことですか? だめだ。襲撃は時間の問題ですね」
「どうしよう!」
「わかりました。ぼくにも責任があることですから、彼らに手紙を書いて動きを抑えましょう」
「そんなことで収まるのかね? だいいち死んだ君からの指令なんて聞くもんだろうか」
「そこはそれ、狂信集団の弱みにつけこみますから」
「というと?」
「彼らには統領・小太郎は不死身だという伝説があるのです。ですから一度死んだはずのぼくからの手紙こそは彼らが待ち望んだものというわけです。威力は絶大だと確信できますよ」
「じゃあ頼むよ。これ以上の人的損失は耐え難いし、そんなことに割く時間もない。しかしくれぐれも松前の名は出ないように、な? では渡すものを渡してしまおう」
現金の入った袋と何枚かの銀行カード・クレジットカードを手渡すと、説明もそこそこに黒崎は風間から離れようとした。が、急にふりむいて黒崎は聞いた。
「これからどこへ? いや、むろん君には常時報告の義務などないさ。やりやすいようにやってくれたまえ。完全自由行動だ」
「尾行つきのね」
「お人がわるいな、風間先生も」
「落語の団体事務所に行こうと思っています」
「落語? 犯人は落語家?」
「まあ、それは」
「では営利誘拐なのか?」
「それはちがうと思います」
「ふーん……」
別れの挨拶もせずに黒崎は立ち去った。
思わず自分の髪の毛を整えようとして手を頭にやった風間は、頭髪部分だけは金属でもプラスチックでもなく、それらしきまがいものがついていることに気づき、ますますご機嫌な様子になった。
「若いのに気が利くんですね、きみは」
「はあ?」
「ところで加藤くん」
「は、はい先生」
「おいおい、先生はないでしょ」
「な、なんでしょうか」
「ぼくは医学は門外漢だけれど、もうひとりの風間ね?」
「え? は、鳩山さんの?」
「そう。たしか幹細胞とかESなんとかって自慢してたが、それってそんなに速くヒトひとり作れるシロモノなの? ぼくの時代はインスタントラーメン全盛だったけど、これじゃインスタント人間だ。どうかと思うよ?」
「あ、あれにはぼくもびっくりしてるんです。はっきり言って無理なはずなんです。の、脳一個分の容積でもぎりぎりだったんですから」
「ではイカサマ?」
「は、鳩山さんにはいろいろ噂があります。け、経歴も……以前は、その、もぐりの美容成形師だったという人もいますし」
「ええっ? びっくりしたなあ、もう。しかし加藤くんは本物ですね。ぼくの存在がそれを証明している」
「せ、先生……」
「ぼくは先生どころか、実を言うとほんとは心細いかぎりなんだよ。さっきはクライアントの手前、背伸びして虚勢を張り通したけど、ほんとは今の世の中なんて何も知らないわけだからねえ。いや、世の中どころか今の自分の体さえ何もわかっちゃいないだろう? だから君に手取り足取りコーチしてほしいんだ。頼めるかな?」
「ぼ、ぼくでよかったら何でも聞いてください。風間先生のようなかたにそんなふうに言ってもらえるなんて、こ、光栄」
「ではさっそく質問だけど、この未来の世界でもまだタクシーなんてものが拾えるのかな?」
第4章 真犯人
浅草老舗の演芸場・田楽亭では昼間から大騒ぎだった。なにしろ真打ちの高座にいきなり二人の客がよじ登り、その客のひとりがその場で真打ちを殴るは蹴るはでボコボコにしたあげく、災難な真打ちのえりくびをつかんで楽屋へひきずりこみ、そのまま立てこもってしまったからだ。
かけつけた警官に、その客たちはさらに上位の警察官が来ることを要求したので他の客はたいそう面白がった。せっかく払った料金だから少しでも元を取ろうというわけか、みんなで無責任にはやしたてるのだ。人質になった真打ちの師匠にあたる人物が人間国宝の玉屋鍵蔵であることも受けた一因かもしれない。そうこうしているうちに田楽亭は総勢五十人ほどの警察官と浅草中の野次馬であふれかえった。
ついに誰の目にも大物と映る警察側の人間が高級車で乗りつけ、ギャラリーの興奮は最高潮に達した。師匠の人間国宝もかけつけて、いよいよ大一番と周囲が息をのんでクライマックスを待ち構えたとき、すべては収まってしまった。
どういうわけか警官隊がゾロゾロと列をつくって整然と引き上げてしまったのだ。人質も解放されず立てこもり客も逮捕されていないのに。それどころか警官たちは田楽亭の中にいる誰かに向かってていねいな敬礼をしてから外へ出てくる。楽屋まで首をつっこんで警察につまみ出された酔狂なおやじの報告では、さっき真打ちを殴打した例の客に対してみんなが敬礼していくのだという。まさかそんなことが?
途方にくれてしまったのが田楽亭の支配人と人間国宝の師匠である。警察は「別に何も心配はいりませんから」とだけ告げて帰ってしまうし、二人組みの客は真打ちを連れたままいまだに楽屋に篭城中なのだから。結局、警察がしてくれたことといえば、野次馬を追い払い田楽亭の周囲を一時立ち入り禁止にしてくれたことだけだった。
「おう、どうゆうこってえ? キツネにつままれたあ、このことだぜ」
「師匠、なんとかしてくださいよ。せめて夜の興行に間に合わせないと、こちとらメシの食い上げだ」
「おめえさんが何とかしなよ。ここの家主だろ」
支配人と人間国宝は互いに肩をこづきあい、背中を後ろから押し合って楽屋口に来て、とりあえず中の様子に耳をすませた。
楽屋内では客のふたり、風間小太郎と加藤が会話していた。
「か、風間さん。だから何てことするんです」
加藤青年の困惑しきった声が神経質に響いている。
「先生、は取り止めかい?」
「だ、だって公演中の落語家さんを問答無用で殴るなんて。か、風間さんはクールな知性派でならした人だって聞いてたのに。それともぼくのプログラムにミスがあったのか」
「加藤くんの手腕は完璧だよ。ぼくの遺伝子情報まで何もかもを電子配列に置き換えて人造培養脳に移し変えるなんて天才だけの仕事じゃないか。君の仕事が完全だったからこそ、ぼくはこの場でこういう行動に出ることができたわけなんだよ」
「え? それは、どういう」
「理由かい? うん、ぼくにもちゃんと言い分があるよ。なぜぼくが所もわきまえぬ一見理不尽な暴力にうったえたのか、その理由がね。でもその理由はぼくからではなくて、ぜひともこいつの口から自白させたいのさ。なあ、田坂?」
「し、知り合いなんですか、や、やっぱり? でも、さ、猿ぐつわしてちゃしゃべれませんよ」
「告白しそうになったらはずすさ。ところで加藤くん」
「は、はい。何です」
「加藤くんはぼくの死因が自殺と聞かされたそうだね」
「し、資料には自殺と」
「ほら、聞いたろう。うまくやったな田坂。あやうく完全犯罪だ」
猿ぐつわの下で噺家はもがいた。
「さあ見るんだ、田坂。おまえが見てのとおり、ぼくは風間だ。お前に殺された風間だよ。どうだ、怖いか」
「な、な、なんですって! 殺人? ほ、ほ、ほんとですか!」
なおも加藤が食い下がろうとしたとき、楽屋の外から呼びかける声があった。
「え~、毎度ばかばかしい説得ですが、中のおかた。そろそろウチのもんをかんべんしてやっちゃあもらえませんでしょうか。いやそりゃね、あんさんがたの言い分も聞かねえうちにポリスを呼んじまったのは、こちらの無粋ってもんでした。そいつは謝ります。そこで今度はきれいどころに来てもらいやしたから、ちょっくら中へ入れておくんなし」
風間の顔がパッと輝いた。
「師匠? 鍵蔵師匠ですね! ああ、どうぞ入ってください」
「ほい、こりゃありがてえ。あっしの名前をご存知とはねえ。じゃ、ちょっくらごめんなせえやし」
ごま塩頭の老人と妙齢の美女の二人組みが楽屋ののれんをくぐってきた。
「はい、ごめんなさいよ。そりゃねえ、あんさんにも事情がおありだろうが、ああっ!」
風間の顔を見るなり、ごま塩頭の師匠は羽織のそでを鳥のように左右に広げて驚いた。
「おめえさんは風間さん? な、なんの冗談でえ! べらぼうめ! そんなお面は取ってもらいやしょうか!」
「お面はよかったな。師匠、お久しぶりです」
「ふ、ふざけるねえ! よりにもよって風間さんの真似しくさるとは」
「風間なんです師匠。でもぼくの身の上話は後回しです。ぼくが風間であろうとなかろうと、今はお弟子さんのことでどうしても師匠にお知らせしなくてはいけないことがあるんです。というのもこの田坂が三十年前に……あっ、菊さん……菊さんですね!」
今度は風間が驚きに目をみはっていた。
「菊さんだ。菊さんは相変わらずきれいだなあ……いや待ってくださいよ。あれから三十年プラスならもう六十過ぎのはず。なのにどうしてそんなに若いのです? むしろ若返ったくらいだ。あなたは一体……」
「あなたさまは母のことをご存知なのですか?」
「こりゃたまげた。あんさん菊さんを知っていなさるんで? おっと、まてまてまてまて。そういやあその顔つき、ちょいとおつにすましておきながら、いつの間にやらご婦人のやらしいところに手をのばしているところなどそっくりだ! あんたほんとに風間さんじゃねえのかい?」
「だからそうなんです、師匠」
「ほっほっ。こいつあめでてえや。いやあ落語も長くやってると不思議なことにも出くわすもんだって先代がよく言ってたが、ちげえねえ。風間さんよ、よおく拝むんですぜ。こちらは菊さんの忘れ形見、桜ちゃんよ」
「忘れ形見……すると菊さんは……」
風間と師匠と美しい桜は三人でしょんぼり下を向いた。事情がわからない加藤はただその場をボーッとながめていた。
「で、何かい風間さん。この田坂が何かやらかしたんで?」
「あ、あのう風間さん」
「ああ加藤くん。面食らったろうけど、ぼくも鍵蔵師匠の弟子なんだよ」
「弟子って、ら、落語家の?」
「そう。もうだいぶ前のことになるんだが、ぼくは殺伐とした探偵業につくづく嫌気がさしてしまってね、こちらの師匠に弟子入りしたんだ。実を言えば落語家には学生時代からずっと憧れていたのさ」
「えー、こちら加藤さんとおっしゃるんで? いやね、あっしもたまげましたよ。あの有名探偵さんが噺家になりたいってんだから藪から棒さね。ところがこの人こうみえてもなかなか筋がよろしくてね。世間に隠してこっそり修行しながら、いよいよ明日は真打ちってとこまで腕を上げちまった」
「すべて師匠のおかげじゃないですか」
「別にほめてないよ。これからけなすんだから。でね、加藤さん。そこまでいっときながらですよ、いざお披露目って晩にフイッと姿を消しちまい、翌朝の新聞で風間探偵ナゾの自殺ときたもんだ。ああもう、思い出すだけで腹が立つやらむしゃくしゃするやら。おい風間! どうして自殺なんぞしちまったんでえ。あっしに何の相談もなく水くせえじゃねえか。あっしは自分じゃあんたの親代わりのつもりでいたんだ。この放蕩息子!」
「すみません師匠。でもぼくは自殺しなかった。この男にはめられたんです」
「ええっ! 田坂にですかい? おい、ほんとか!」
「あの、ちょっと」
加藤が話しに割り込んできた。
「こ、ここへは失踪事件の捜査で来たんですよね」
「それもある。だがその話は後だ」
「そ、そうはいきませんよ」
「加藤くん、後にするといったのはね、その件ならもう済ませてしまったからなんだよ」
「もう済ませた。えええー。じ、事件を解決したってことですか!」
「まあ、そんなとこ」
「ちょいとおまえさんがた、お取り込み中だがね、ウチの弟子が人殺しとはおだやかじゃないよ? それに風間さんは自殺してねえって言い張るし。一体どうなってるのか、おめえさんがほんとの風間さんなら、ここはきっちりしてもらいやしょうか」
「ええ、もちろんです。それではさっそくですが、師匠のところでは真打ちの初高座や特別な催しの前には特別なお茶というか、薬湯をいただく習わしがありますよね」
「薬膳茶のことかい? そうだけど?」
「その薬膳茶をぼくもお披露目の直前に頂戴しました。それっきり意識がないんです」
「なに?」
「そしてそのお茶を運んできたのがこの男です」
「そりゃ違うでしょ。あのお茶はあっしが直々に煎れて直々に持っていってやるのがしきたりなんだ。そんなこたあ、あり得ねえ。ん? そういや、待てよ。風間さんには煎れてやった覚えがねえな。なんでだ?」
「あの晩、たしかご自宅から急な知らせがあってバタバタしませんでしたか」
「お、そうよ。そうそう、なんでもウチのかかあが倒れたってんで大騒ぎ。茶を煎れる前だったなあ。でもって帰ってみると、あらなんだいおまえさん何か忘れもんかい、大事な晩にしょうがないねえ、って怒られちまってねえ。ったく人騒がせないたずらをするやつもあるもんだってぐちりながら寄席へ戻ってみるとさ、今度はおめえさんが消えちまったって大騒ぎさね。ひでえ晩だったな、ありゃあ。するってえと、茶はこの田坂が持ってきましたんで?」
「そうです。そしてぼくの記憶はそこで切れてしまっているんです。きっとその場で倒れてどこかへ運ばれたんでしょう」
「いや、そりゃおかしいぜ風間さん」
「え? 何がですか、師匠?」
「だっておめえさんは、あの晩高座に上がってるんですぜ」
「え、ぼくが?」
「うん。といってもそのころあっしはかかあのとこだから後で聞いた話なんだがね。ともかくあんたは高座まで上がってちゃんと羽織まで脱いだってんだな。そりゃあ客も見てるから確かだと思うが」
「ではぼくはきちんと高座をつとめたのですか?」
「うん? いや、それがね、羽織を脱いだはいいが、やおら自分の生年月日やら学歴やらをしゃべりだし、客がしらけたところで、『皆さん、わたしは菊さんを愛しています』とやらかして大喝采」
「な……」
「ところがそこでプイと立ち上がってスタスタ楽屋へひっこんじまってね、待てどくらせど帰ってこずさ。客は騒ぐし」
「田坂、きさま! ぼくに自白剤を飲ませたんだな! わかった、読めたぞ! あれは単独犯行なんかじゃない。共犯は警察関係者だろう! こいつ!」
「ど、どうしたんでえ風間さん。ちょっと落ち着きなよ。カッとすると熱くなりすぎるのがおめえさんの悪いクセだ。ごらんよ、田坂はがんじがらめで手も足も出ねえだろ? ゆっくり話してごらんよ」
「たしかに……そうでした。いやあまったく。師匠にさされるクギは痛いですね。すみません。実は田坂がぼくの茶に細工したのはわかっていても、どうやってぼくの体を外へ運んだのかがずっとわからないナゾだったんです。この三十年間、ぼくは墓の中でずうっとそればかり考え続けていたんです」
「ぶるる。いやなシャレはやめにしてくだせえよ? あんたの冗談はいつもどこかおっかねえところがあったっけか。うん、こりゃあ確かにほんとの風間さんだ」
「認めてくださってありがとうございます師匠。でもその謎も解けました。田坂はぼく自身にぼくの体を運ばせたのです」
「そりゃまた、どういうこってす?」
「公安関係者が非公式に使う尋問手段に自白剤という薬があったんです。しかしほんとはこれは誘導剤とでもいうべきもので、これを飲まされると短時間ながら他人の言いなりになってしまうものなのです。全て白状しろと言われればペラペラしゃべるし、立てと言われりゃ立つし寝ろと言えばその場で寝てしまう」
「おっかないねえ」
「そ、それはきっと右脳と左脳を結ぶ梁という部分を遮断するステロイド系の劇薬ですね。
で、でもそれなら精神治療医にも入手できるでしょう。なぜ、け、警察関係と?」
「さすが加藤くん、くわしいな。うん、ぼくは医者にはあまり縁がないけど警察には関わりが多くてね。よくしてくれる人が多いけど、中にはぼくのことをライバル視というか蛇蝎のごとく忌み嫌う方も何人かいてね。その中でもとくにしつこい人がいて何度かこの寄席にまで嫌がらせに来たことがあるんだ。つまり近藤さんだろう、田坂!」
「それじゃなにかい風間さん。そのナントカ剤とやらでラリっちまったおめえさんに誰かが、自分で川へ飛び込めと号令かけたって筋書きかい?」
「いいえ、師匠。いかに誘導剤といえども本人が本気で嫌がることを強制することは不可能なんです。右を向けと言えば右を向きますが、自殺しろと言ってもそれには従いません。催眠術と同じです」
「風間さんよぉ、この期に及んで何だがね、あっしはやはり門弟が人様を殺めるような悪事に加担するとは思いたくねえんでさあ」
「ええ、そのお気持ちはよく理解できますよ」
「とくにこの田坂みてえな気の小せえ野郎がね、そんな大それたことに組するとはどうしても信じられなくてねえ」
「ではどうでしょう。このへんで田坂の口を自由にしてやりますか?」
「じゃあ、あっしが直接この場で野郎に問いただしてよろしいんでやすかい?」
「もちろんです。ここは師匠の寄席じゃないですか」
「ありがてえ。恩に着るぜ風間さん」
猿ぐつわを解かれた田坂のかたわらに鍵蔵師匠はとびついた。
「田坂、おめえまさか、そんなおそろしいことの片棒かついじゃいねえよな? 兄弟弟子に一服盛るなんてしちゃいねえだろ、な?」
田坂は師匠から顔をそむけ目をつぶったまま押し黙っている。
「おい。違います、と何で一言いえねえんだ。噺家が口をつぐんじまってどうするんでえ! ええい、こんちくしょうめ! 同門をはめやがったのか、このあほんだらあ!」
鍵蔵があげたこぶしを風間のプラスチックアームが止めた。
「よしましょう。この男はどちらかといえば利用されたのです」
「ええい、手を離しておくんなさい!」
「師匠。田坂はこちらの役にも立ってくれたんですよ」
「え?」
「おかげで黒幕がわかりましたからね。思えばこの男だって、いきなり弟子入りした素人に序列を抜かれ、おまけに思いを寄せていた菊さんまで奪われたと思い込みくさっていたとしても、はたしてぼくを殺そうとまで考えていたかどうか。おそらくそんなちょっとした心のスキをもっと悪どい奴につけこまれた。そんなとこではないですか?」
「てことは風間さん、お裁きはおかみに預けると?」
「いや、ここでも時効の壁が立ちふさがるんじゃないかな。いまごろノコノコ墓から這い出してきても遅いんです」
「ぶるるる。だからそういう冗談はやめなって!」
「しかしながら師匠。ぼくを手にかける前に高座へ上がらせてつまらぬことをしゃべらせて真打ちの品位を汚した罪は許せませんよ!」
「おっとそうでえ! 田坂、てめえは破門だ。どこへなりと失せやがれ! 今生の別れにせめておいらが手のいましめをはずしてやらあ」
自由になった腕をさすりながら田坂は立ち上がった。
「こんな化け物の死にぞこないの言うことだけ信じるなんて、師匠のばかやろう! こっちから願い下げだ! ぺっ」
和服姿の田坂は楽屋から飛び出していった。
「むなしいねえ。何年も手塩にかけて子ども同然とこっちは思っていても、結局はアカの他人なんでござんしょうかねえ。なあ、風間さん。あれ? どこ行っちまったんでえ」
「で、電話するって、あ、あちらへ」
見ると廊下の隅にある時代物の公衆電話で風間は何やら話していたが、それもすぐに終わりこちらへ戻ってきた。
「急に消えなさんな。あんた探偵のくせに携帯も持ってねえんで?」
「え、携帯って何です?」
「こりゃいよいよホンモノの浦島だ。あっしは心底信じる気になったよ。おめえさんが長い旅から帰ってきたんだってね」
「浦島小太郎?」
「その錆びついた笑いのセンスも一から磨きなおしてやらあ」
「うわあ、本当ですか?」
「ああ。それよか、どこへ電話したんでえ。やはりポリスに?」
「いえ。黒崎という人にちょっと」
「く、黒崎さんにですか! じ、事件解決の報告を?」
「まあ、ほんの少しさわりだけをね。それと近藤さんのことも」
「おお、あんたに手を出した黒幕かい? するとカタをつけなさるんで?」
「師匠もぶっそうだなあ。そんなカタだなんて。ぼくはただ調査中の事件の捜査陣に近藤さんを加えてほしいと依頼主にお願いしただけですよ」
「ええ?」
「なにせ浦島ですから、少しでも知った顔に協力してもらったほうが仕事がはかどるじゃないですか。違いますか?」
第5章 風間 対 風間
「さささ、桜さんて、び、美人ですねえ。風間先生」
「おやおや、先生復活かい? 光栄だね」
風間と加藤は田楽亭の前に立っていた。もうすっかり夕方の気配だ。
「さすがに野次馬も残ってないね。じゃ早いとこ済ませて戻ってこようか。ぼくも桜さんの顔をゆっくり拝みたいからね」
「ほ、本屋で何を?」
「何って別に。ただこの時代の空気を多少なりとも吸っておきたいだけさ。だからすぐ終わるよ。さて駅前の本屋はまだ健在かな」
ふたりは歩きだした。
「ま、まるでテレビドラマ見てるみたいでしたよ。さすが本職だなあ、先生は」
「さっきの茶番かい?」
「そ、それも薬膳茶にひっかけた?」
「はは、どうも洒落のカンが戻らないね。三十年さぼったからな」
「で、でも」
「うん?」
「やっぱり、ゆ、行方不明事件とはぜんぜん関係ないですよねえ、さっきのは?」
「そうでもない。加藤くん、あれはね、この危険きわまりない調査に先立ってとりあえずぼくらの身を守るための方策でもあるんだよ」
「ど、どういうことです? ききき、危険なんですか、ぼくたち?」
「落ち着いて。だから田楽亭にいればまずは危険が及ばないということなのさ。仕事は安全な場所でしたいじゃないか」
「で、田楽亭なら安全なんですか? じゃあ早く、ももも、戻りましょうよ!」
「いや、少しは外に出なくてはクライアントにも怪しまれるからね。本屋くらいならだいじょうぶさ。ふう、桜さんかあ」
風間は誰かが後ろから近づいてくるのに気づいていたが、その足運びはプロのものではなかったし、自分に直接むかってきているわけでもないので少し油断していた。
「動くな! 手はあげるな。そのままおろしていろ!」
そうおどされているのは加藤のほうだった。背後の男は加藤のうなじに何か箱のようなものを押し当てている。
「だだだ、誰? ああっ、は、鳩山さん!」
「騒ぐなと言ってるだろ! こいつが何かわかるな?」
鳩山はその黒い箱をチラと加藤に見せるとまたうなじに押しつけた。
「サ、サンダー? うわわわ、あぶ、あぶない! な、何するんですか!」
「静かに! もう一度でかい声だしたらスイッチ入れるぞ。さあ、脇でのんびり突っ立っているお前のロボットにこいつが何か説明してやれ。するんだ! ロボ公が変なそぶりをみせたらスイッチオンだぞ、いいか!」
「たたた、頼みます風間先生。動かないで。こ、これは大容量のスタンガンなんです。ご、護身用の放電装置なんです。ふ、ふつう十万ボルトくらいなんですが、こいつはケタはずれの電流を流す試作機なんです。ぼ、ぼく死んじゃいます!」
たとえ想定外の突発事であっても自分自身の生身の肉体でさえあったなら、必ずや適切な反応を機械的にとれていたはず。そう思うと風間は思わず唇をかんだ。だが、その唇の表情はすぐに苦笑いに変わった。「機械的に、か。ふふ」という自嘲的思考がその人工脳をよぎったからだ。
「おれだって風間の生前ファイルはとっくり調べたさ。おいロボット、お前は絶対に味方を見殺しにしないんだってな」
鳩山の脂ぎったひきつり笑顔をどこかの車のライトが右から左へなめるように照らしだした。
「だったらおとなしくおれの車に乗ってもらおうか」
三人が鳩山の乗用車に乗り込むと、そこにもすでに風間が乗っていた。
「よし、ロボットは後ろに乗れ。同じ風間同士なかよくしてろ、へへへ。言っておくがこいつはすでに風間ファイルのうちの戦闘能力の項目をみっちり学習済みだからな。じだばたしてもケガするだけだぞ」
風間は座る際に隣の鳩山製風間に会釈をした。もうひとりの風間はほほえみを絶やさない顔を向けるだけで挨拶を返しはしなかった。
「さあ、加藤おぼっちゃまは助手席に行け。その席はサンダー以上の電流が流れる仕掛けになってるからな。おとなしくしてろ」
「鳩山さん。この車でいったいどちらへ?」
「気安く話しかけるな、ロボット! どこへ行くかだと? この場合は何をする気かと質問するもんだろう、ふつう? やっぱりできそこないだな」
「鳩山さん。これからいったいどちらへ?」
「うるさいぞロボット! こんなに出来が悪いのか?」
「鳩山さん。これから」
「黙れ! どこだっていいんだ。そうだ、カンヅメ工場で始末してやるか。この世に舞い戻った思い出の場所だろう?」
「カンヅメ工場! だめだ! いけない!」
「黙らんか! もう限界だ。おい、今やってしまえ」
鳩山のつくった風間は黒いサンダーをアンドロイドの風間の頸部にあてた。
「ギギッ!」
機械的な音を発したアンドロイドの風間はガラガラと音をたてて後部座席の下にくずれた。
「ははは、見たかい加藤ちゃん。サンダーはロボット男性にも立派に効くじゃないか。接合部分に放電すればごらんのとおり。もはやクズ鉄となりにけり、だ。お前の風間は死んだ」
鳩山は車を出した。
「そうびびるなよ。助手席が電気イスになってるというのはハッタリさ。だがおれの風間もサンダーを持っていることをおぼえとけよ」
「ど、どうしてこんなことを、す、するんですか」
「そうそう、それがまっとうな人間の質問だ。いいか、今回の事件を解決するのはおれの風間でなくてはならん、おれのな! これが答えだ」
「し、しかし、あなたのは、ほんとは」
「ふん、おまえもやはり疑ってるんだな。幹細胞が一日では人間大に増殖しないと思っているんだろ?」
「だって」
「はっ、おあいにくさま。たしかに部分サンプルをもらってから一日で丸ごと一体に仕上げるのは無理さ。だけどな、もしもすでに土台ができていたらどうする?」
「ど、土台? ああ、まさか、あんた」
「そうだよ。まっさらな肉体のひな型をあらかじめ何タイプもこしらえておくんだよ。あとは与えられたサンプルの頭脳の中味だけを押し込めばいい」
「頭脳の、な、中味?」
「記憶だよ、記憶。それをハイポリマーのバイオコンピュータを介して脳から脳へ直接ダウンロードする」
「バイオコンピュータ? じょ、上智大のK教授が一九八四年に開発した?」
「ふん、そうさ。その助手だったのがこのおれさ。だが言っとくが植物細胞のニューロンを使ってあれを完成させたのはおれさまだぞ?」
「そんな手があったなんて」
「だからサンプルの神経細胞さえ復活させれば後はダビングみたいなもんだ。一日あれば十分なんだよ」
「で、でも顔までそっくりとは」
「ああ? ああ、そりゃあまあ何だ。ちょいちょいと仕上げの一筆ってやつだ。成形だろうが何だろうが本質とは無関係だろ? だが世の中、見かけこそが大事にされるんでな」
「じゃあ、もう何体も、ど、土台になる人造の肉体をつくってあるってこと? そ、そんな予算がどこに」
「だから今回の仕事を逃すわけにはいかないんだよ。ここで経費の穴埋めができないと横領罪で手がうしろにまわっちまう。どうあってもおれの風間が採用されなくてはならんのだ。お、カンヅメ工場が見えるぞ」
「こ、ここで何を?」
「おまえは余計なとこへ出てきて余計なものを見すぎたんだよ。さ、降りろ」
「い、いやだ!」
「おい風間。外からこいつを引っ張り出せ」
鳩山製の風間は難なく加藤を車から引きずり出す。地面にしりもちをついた加藤に押されるかっこうでドアが乱暴にバタンと閉まった。
「よーし、やれえ!」
車内から大声で叫ぶ鳩山の声が聞こえる。
「こ、殺すのか! ややや、うあ、やめてくれ鳩山さ……」
ビシャッ。
ドアの窓ガラスにいきなりつぶれたトマトのような血だらけの顔が広がって車内の鳩山を仰天させた。ぐしゃぐしゃになった風間の顔面はそのまま血のブラシとなり、車体に血のりを塗りつけながらゆっくりと車のボディラインに沿って下へ移動していき、やがてドサッと草むらに落ちた。
加藤と鳩山がその場でただへたり込んでいる間に数十秒がすぎた。いつの間にか腕をねじあげられ地面に顔をおしつけられ誰かに馬乗りになられてから初めてふたりは我に返った。そこにはいつの間にか数人の者が集まっていたのだ。やっと気づいてみると首筋にはピカピカのナイフが押し当てられている。ふたりはようやく叫び声をあげそうになった。
「まて! 殺すな! おまえたちの統領が命ずる」
そこに参集しているすべての者が驚きに目を丸くして動きを止め、その声の主の姿をさがした。
車のドアが静かに開くとアンドロイドの風間が出てきておごそかな口調で言った。
「赤は来ておるか」
風間の声が響くや、それまで幽鬼のように夕闇の中をゆらめいていたその影たちがパッと一斉にひざまづいた。
「はっ、わたくしめ半助と伝蔵がおそばに」
「狙撃手はしとめたか?」
「ははっ。あの栗の木の下に倒してございます」
「む、まだひとりだけか。いかんな。黄の者はおるだろうな」
「はい。さおりでございます」
「よし。一番大きな照明弾をたいて残りのスナイパーをあぶり出せ。八重垣の陣を組んでいるだろうね?」
「はい」
「よろしい。それではまだ逃げずにいるだろう。さ、早く」
花火があがりあたり一面が明るくなった。するとにわかに五十メートルほど離れた建物のかげがさわがしくなり、また静かになった。
「これで片づいたね。どうだいみんな、ぼくはもどったよ。信用してもらえるかな?」
「おお、お館さまあ! よくぞお戻りに……じいめは、ううう」
「小太郎さま……」
「挨拶は後。ここに長くいるのはよくない。半助くんたちの車をここへ回してぼくらを乗せてもらおう。そこの射殺体はそこにある車に乗せてぼくらのあとについてきてほしい」
「狙撃されたこの男は誰なのです。てっきりお館さまが撃たれたと思い一同きもを冷やしましたぞ」
「その説明も後で。ここは敵地なんだ」
「あ、あ、あの風間先生。いったい」
「死んだふりなどしてごめんね、加藤くん。まず車に乗ろう」
黒塗りのバンが二台きた。
「白の者たちもすぐに乗って。血痕の後始末は無用だ。ただ君らの足跡だけは残さないように」
この言葉を聞くと一番年をとっているらしい伝蔵という老人がムッとした顔で口を開きかけた。風間はそれより先に謝った。
「おっと、言わずもがなだったよね。こんな忍の初歩の初歩は。でもぼくがいつもひと言多いのは知っているだろう、伝蔵さん」
「か、風間先生。こ、この人たち」
「あ、そうだっけ。加藤くん、さっきのことだけどぼくはサンダーに触らなかったのさ」
「え、そんな」
「ぼくの接合部には触れさせなかった、と言い直すべきかな。あの機械が首に触れる直前でぼくは左手であの機械を受けた。そして右手を車の床の金属部分に伸ばしてアースした。首尾よく電気は地面に抜けてくれたよ。もっとも生身の心臓があったらとてもじゃないができない芸当だし、ぼくはこの体を熟知しているわけでもないので賭けだったけどね」
「そんな素早く動かせるのか、その体は」
「は、鳩山さん」
「おい、おれの風間はどうなった。撃たれたってほんとか?」
「ええ、どうやらそうらしいですね」
「お前たちがやったのか」
「いえ、ちがいます」
「じゃ誰だ!」
「それは、まあ」
「それにこいつら一体なんなんだ?」
「ほら鳩山さん、あなたもけっこう変わってるじゃないですか。この場面はふつう、おれをどうするつもりだって質問するところなんでしょう?」
「くっ。で、どうするつもりだ。まさか殺したりしないだろうな」
「あなたはさっきぼくらをどうするつもりだったのですか?」
「カン違いするなよ。おれはただ、おどかしのつもりで」
「あなたは研究所まで届けてあげますよ。あなたの研究所なら敵地外だし」
「で? そこでおれをやるつもりか」
「心配しないで。そこで解放です。ただしもうひとりのぼくの死体を処分するのはお任せしますよ」
「そんなことでいいのか?」
「それからもちろん第二、第三の人造インスタント人間・風間でもってぼくらを襲わないこと。それとぼくが事件の種明かしを終了するまでけっして邪魔しないこと。わかりましたか。わるいがあなたには見張りをつけさせてもらいます。あとは自由にしてください」
「せ、先生。ちょっといいですか」
「なんでしょう、加藤くん」
「先生の話ぶりだともう完全に犯人までわかってるみたいに感じられるんですけど」
「そりゃわかってますよ。加藤くんはわからないんですか?」
「わ、わかるわけありませんよ! だ、誰なんです」
「それは証拠がそろうまでは言えないなあ」
「じゃ、じゃあ、この人たちは? ま、まさかあの話はほんとのこと?」
「おっと加藤くん。それは鳩山さんが降りてから」
「は、はい」
「そうだ。黄の者は?」
「はい。おそばに」
「えーと、さおりさんでしたっけ。紫の者たちも含めると全部で何人きていますか?」
「ああ、えーとえーと、十五。いえ、十七名です!」
「すごいや! あなたには後でおりいってお願いしたいことがありますから、よろしくね」
「はい、小太郎さま」
さおりはなぜか頬を赤く染めて答えた。
「お館さま」
「はい、なんでしょう。半助さん」
「お館さまを尾行していた二名の者はいかがいたしましょう」
「そうですね。浅草の田楽亭という演芸場近くのどこかで目を覚ますように手配してください。あとで場所を教えますから」
風間が車の窓を開けると夜の風が彼のまがいものの髪を後ろになびかせた。
「夜の郊外をドライブか。思いきりこの夜風を吸いこんでみたいなあ。この胸に肺があれば」
黒い車は闇の中を走り抜けてい
第6章 死者の花嫁
「あいかわらずいい男だねえ」
鍵蔵師匠はにがりきった顔つきで「死者」におべんちゃらをつかう自分の女房の横顔をにらんでいる。
「あたしにも三十年を返してくれたら、あんたの手のひとつも握っちゃうんだけど」
「もうよさねえかい。風間さんはお疲れなんでえ。早いとこ一本つけてさしあげねえか。あ、それともひと風呂あびやすかい?」
「師匠のところはいつもいいですねえ。にぎやかで、あったかで……」
「ガキはみんな片付きやしたがね。弟子が次々とウンカの如し、でしょう? 常時三十人からが出たり入ったり。ま、噺家のウチなんてどこも似たりよったりでござんしょう。相撲部屋とそっくりでさ」
「お館さま」
「ささ、そこの方々も遠慮しねえでずずっと奥へ。なあにね、あんさんがたはどこのだれだなんてぬかす野暮天はひとりも置いてませんから」
「お館さま、いいのでしょうか。ご一緒しても?」
「伝蔵さん、お言葉に甘えましょうよ。それにここなら安全だし」
「で、でも先生。本屋へ行く前もそんなこと言った直後に、は、鳩山さんにひどい目にあわされたじゃないですか」
「いやはや、あれは誤算でしたね。危ない一本をとられるところだった。伝蔵じいさんたちが間に合わなきゃどうなっていたことやら。ありがとう」
「礼などおやめくだされ、お館さま」
「ところでどのあたりからぼくについて来たの?」
「わしらですか? それが実は……正直申しますと、さおりがたまたま田楽亭前でお館さまをお見かけしまして。それもお館さまがお二人いるというので、ちとまごつきました。そこで遠巻きにして様子を見つつ皆を集合させたというのがほんとのところでございまして。それというのもお館さまからの知らせを敵の策謀かと疑ってかかったじいめの不覚。また何十年ぶりかの東京はすっかり様変わりし、もたついて……面目ありませぬ!」
「そんな謝ることないですよ。腕のほうも衰えてないようですし。ねえ加藤くん、すごかったでしょ?」
「せ、先生。やはり、あの、に、忍者なんですか?」
「うーん、忍者とか忍という呼び名はやめようかって話しているんですよ。もともとの名であった志能備がいいんじゃないかって。加藤くん、どう思う?」
「は、はぐらかさないでください。そ、それに手紙で書くって黒崎さんに今朝いってたじゃないですか。いくらなんでも来るのが早すぎますよ」
「やっぱり電話のほうが早いかなって思い直してね」
「え? いつかけたんです? ずっと一緒にいたのに」
「あれ、気づかなかったの? それに岐阜には新幹線も止まるし。あ、今でもあるんでしょ、新幹線?」
「風間さんてば。いつまでも玄関口でごたごた言ってねえで座敷にへえんなって。勝手知ったる、だろ?」
「ありがとうございます師匠。ただ、実を言うと」
「おっと、その先は聞かねえよ。いいよいいよ。一晩でも二晩でも好きなだけ皆で泊まっていきなよ。シャバに戻ったばかしであてがねえんだろ、どうせ。そう顔に書いてあらあな」
「正直たすかります。この者たちはけっしてご迷惑かけませんから」
「これ以上ぐだぐだ言ってるとはたくよ? 桜ちゃんも呼んだから早く入っておくれよ。後生だから」
「桜さん」
「ああ、おめえさんがまた急に消えちまったから桜ぼう悲しがってたよ。母さんの知り合いにもっといろいろ母さんのこと聞きたいの、なんて言ってたがね。ありゃどうもあんたに一目でホの字だぜ。え? 憎いね、この色男」
「な、何いってんですか師匠は」
「だけどおめえさん、そんな体で桜ぼうに手を出しちゃいかんで?」
「おまいさん、おまいさんったら」
「おう、なんでえ。桜ぼうのお出ましか。さっさと通さねえかい」
「ちょいと。なんだか違うのが来てるよ。なんだい、あの子は?」
「え、ほかの娘?」
「あ、それきっとさおりちゃんです。親戚の子なんです。通してやってくれますか」
「親戚だあ? 風間さん、どこまで水くさいんだ。いくらでも通すからよお、あっしにもきっちり紹介するんですぜ。ほほお、こいつはベッピンだあ。いててて!」
おかみさんに耳をひっぱられて師匠は台所へ消えていった。
「小太郎さま」
「ご苦労さま。ねえ、今きいたよ。さおりちゃんがぼくを見つけてくれたんだってね? ありがとう。命の恩人だよ」
「恩人だなんて、そんな……わたしはただ駅から田楽亭へ向かう途中で偶然……」
さおりは顔を真っ赤にしてうつむき、小さな声でぶつぶつ何か言った。
「それにわたしったら間違えちゃったんです。わたしてっきり、もうひとりのほうが小太郎さまかと思ってしまって。だからわたし、そんなふうに言われる資格なんて……」
「そりゃあ当然だよ。誰だって間違える。あっちのほうがずっと生き生きしてるもの。生の肉体とプラスチックではねえ」
「そのことでございますが、あの、お館さま」
「なんですか、伝蔵さん」
「おうかがいしてもよろしいでしょうか。そのお体は、ちょっと、その」
「うん。確かにこいつはプラスチックと金属のかたまりだからね」
「でございましょう? ですからお館さま。先日に奪われましたお館さまのお体は今いずこに」
「それはこの加藤くんの所さ」
「はあ?」
「つまりね伝蔵さん、空蝉の術と思ってもらえればいい。あるいはくぐつの術ともいえるけど、本体は遠方にありながらもここにおいては仮の姿がしゃべり、動く。そう、この体は仮の姿さ」
「あ、あの、いえ、風間先生。それは、ちょっとばかり、は、話がちが」
「すみませぬ! お話の腰を折るようですが、お館さまのお体はわれらが長年のあいだ精魂こめてお守りしてきたもの。最低三月に一度はお手入れのために土よりお出しして古来よりの秘伝にのっとり、ご生前と変わらぬお姿を保ってきたもの。とくにこのさおりなどはお館さまのお髪から爪にいたるまで、われら古老さえもが目を見張らんばかりのお世話のほどで」
「お、おじいちゃんたら、やめてよ……」
さおりはまた真っ赤にうつむいた。風間の目にはそれがたとえようもないほど初々しく映った。
「それもこれもお館さま復活の言い伝えを信じたればこそ。現にお館さまのお体はいささかも古びたることなく、あたかも生けるがごとき肌のつやを示し、いかにわれらが秘法がすぐれたりといえども、このじいめも内心ではひそかに驚きいっていた次第。そこまでして三十年間磨きに磨いたあのお体が復活してこそわれらも報われるというもの」
「そ、そうだったんですか。それで遺体があんなに完全に。なるほどなあ、たいしたもんだ」
伝蔵じいはこう感嘆している加藤に目を転じた。
「加藤さまとやらにおたずね申す」
「ぼ、ぼくに? は、はい」
「お館さまのお体は無事でございましょうな」
「は? ええ、まだ残っている部分もだいぶありますよ。ただ頭部は解剖したので、今はパーツ別に保管して」
「な、なんじゃと! か、解剖! こここ、この大たわけめが! こやつこの場で切り刻んでくれようぞ!」
「まちなさい伝蔵さん! だれか洗面器か桶に水を張って持ってきてください。水鏡をやってみよう」
半助が水を入れて持ってきた調理用ボールに風間は手をかざした。
「おお、お見事。映ってきましたぞ。これほど鮮明な画像はわたくしにはとてもとても」
「やだな半助さん。これを教えてくれた先生がそんなこと言っちゃあ」
「で、見つかりましたか?」
「うん。ほら、あれだよ。たぶん」
「どうかこの伝蔵じいめにも見せてくだされ! ど、どこでござる?」
「あのビンの中。ぼくの名前が貼ってあるじゃないの」
「げっ。ひ、ひどい! これでは衛生博覧会ではござらぬか!」
「意味よくわからないけど、つまりゲテモノの見世物って言いたいの? たしかにバラしてアルコール漬けだからなあ」
「ぬぬぬぬーっ! こんなことしおって! 加藤、きさまもビン詰めにしてやるう! 今すぐにだぞっ!」
「よし、伝蔵さん。ぼくは決めたよ」
「決めたですと? こやつの処刑法をですか? 車裂きにでも?」
「そうじゃない。聞いてくれ」
「もはや何を言われても、このじいめは生きる気力が……」
「ぼくは風魔の統領を正式に継ごう」
「は?」
「ほんとの体がこうなってしまった以上ぼくも腹を決めたと言ってるのさ。もはや術者として生きるしか道はない」
「おおっ、若。ついにご決断されたか!」
伝蔵はじめその場に居合わせた一同はみな感動の吐息をもらした。中には涙ぐむ者までいた。
「今までフラフラして迷惑かけたけど、みんなよろしく。これからはしっかりやっていくよ。だから加藤くんのことは放っておきなさい」
「いいですとも、いいですとも。じいめは今日まで生きた甲斐がありましたぞ、お館さま」
「そこでさっそくですが仕事始めといきたい。今ぼくは探偵としてある調査を請け負っているのだけれど、その事件を解決することは一族の存亡にも関わってくるのです。だから皆も全力でこの捜査に協力してほしい」
「ははっ! われらの命に代えましても」
「みんな、ありがとう」
「あの、小太郎さま」
「そうだった。さおりさん、ご苦労さまって言うのがまだ途中でしたね。とっても早かったけど、もうすんだの?」
「はい、一応は」
「で、どうでした?」
「あの、ここでは」
さおりは加藤をチラリと見た。
「そうだね。ちょっと夜風にあたろうか。伝蔵さん、お孫さんをお借りしますよ。護衛もいらないですから」
「ふん、さおりがついておれば大丈夫ですわい」
風間とさおりは玄関にあるつっかけを履いて外に出た。満天の星である。
「星がきれいでしょう?」
「ええ、とっても」
「都心なのになぜかいつもここだけは星がとってもきれいに見えるんですよ。まるで昨日もこの星を見た気がする。ふふ、変な気分だ」
「小太郎さま……」
「ねえ、さおりさん」
「は、はい」
「伝蔵おじいさんはあなたのことが自慢なんですね。さっきもずいぶんとあなたのことをほめていたんですよ? でもぼくの記憶では伝蔵さんが人をほめたのは聞いたことがないんですけどね」
「そんな……あの、小太郎さま。あとでお話があるのですけど」
「うん? 今でもいいよ。なあに?」
「まずはご報告を」
「そうだった」
「お言い付けどおり黒崎という男から情報を得ました。なかなか眠らず少々手間取りましたが、今回の行方不明事件ではもうひとり行方がわからなくなっている者があるそうです」
「やはりそうか。うん、続けて」
「中村あきおという男の子でマリ子ちゃんのお友だちだそうです。二人は同じ日に例の工場で姿を消しています」
「中村くんはどういう子?」
「マリ子ちゃんと同じ幼稚園の同じクラス。普通の家庭の子ですが松前家の圧力で行方不明の捜索届けも警察に握りつぶされている状態です。マリ子ちゃんの安全確保最優先のため公表しない方針で」
「あいかわらずのエゴイストだな」
「捜査はまったく進んでおらず現在のところ収穫ゼロらしいです」
「で、どうでした。工場のほうは?」
さおりはゴクリと生つばを飲んだ。
「お考えのとおり、あの通路はカンヅメ加工のラインにつながっています。エモノは途中で一度穴に落ちてそこで息の根を止められ、次にもう一度落ちて生産ラインに合流します」
「ラインのどの部分に合流を?」
「カンヅメの材料をミンチにする機械に入ります。何でございましょうか、あのカラクリは?」
「それを正しく知るにはもう少し客観的事実を集めないとね。だから通路の詳しい状況を知りたいな。さあ続けて?」
「それが、すみません。暗いうえに老朽化もひどくて、とてもひとりでは足場ももたず、それ以上は。申し訳ございません!」
「そうか。いや、ぼくのほうこそごめん。三人はつけるべきだった。ぼくのミスだよ」
「そんな。わたしにもう少し力があれば」
「いやいや、大助かりだよ。これで勝負できる。さおりさん、すまないけどあしたの朝に五人であの通路をさらに詳しく調べてもらえるかな。チェックリストは今夜ぼくが作っておくから」
「かしこまりました」
「では戻ろうか」
「あの、小太郎さま……」
「あ、そうか。お話があるんでしたよね?」
さおりは急に近づいてきて両手を風間の右腕にからませた。風間はシリコン樹脂製の心臓をドキリとさせた。
「あたたかいわ……これ、ほんとに機械なのでしょうか。こんなにやさしい感じなのに……」
「そ、そうらしいよ? あっと、まだお礼言ってなかったね。ぼくが死んでからもぼくの体をとても大切にケアしてくれたんですってね。気持ちわるかったでしょう? それなのに、ほんとありがとう」
「気持ちわるいだなんて! とんでもありません、そんな……。たしかに初めて小太郎さまのお世話に出される前の晩は怖くて泣きました。あれは小学生のときだったな。こわかったのはほんとです。それで、掘り返された小太郎さまを見たとき」
「うん、ひどかったでしょう?」
「それが違うんです! わたしもきっとまた泣いちゃうと思ってたのに、それが、それが」
「うん?」
「光ってたんです」
「え? 光る?」
「はい! 光っていたんです。小太郎さまの鼻先が」
「鼻の、先?」
「ええ。それがとってもかわいらしくて! わたし何だか胸がキュンて」
「あの」
「次にさらしの布が取られたお肩を見ると、それはもう不思議なくらいにすべすべと美しくてやわらかくて。男の人の肌ってこんなにもきれいなものなのかって、わたしびっくりしたんです」
「ええと、あの」
「布が巻き取られていくごとに現れるすらりとした腕、きゃしゃなお手、形よく伸びたお足……わたしはっきりと思ったんですよ。このかたの美しさを損なってはいけない。もう一生懸命お世話しなくちゃいけないんだって」
「あの、さおりちゃん?」
「秘伝の油を何時間も根気よく体にすりこむ仕事もわたしはちっとも嫌じゃありませんでした。それどころか、できることなら何人もの女のひとたちと共同で作業するんじゃなくて、わたしひとりのお役目だったらいいのにと考えてたくらいなんですよ? だからその油に入れる処女の髪や爪を提供するのはわたしの誇りでした。このかたが復活なさるまでは、わたしずっと処女でいるんだって誓ったんですよ。ばかでしょう?」
「……」
「中学になり、高校に入り、わたしますますあの仕事が好きになったんです。一族の特別記念行事がある年にはおじいちゃんにおねだりしてひと月ごとに掘り返してもらったこともあるんですよ? そして、そして、わたし……小太郎さま! わたしっ!」
「は、はい!」
「今年、わたしの誕生日のあとに掘り起こされたとき、わたしは作業衣の下に白いドレスを着込んだのです! ウエディングドレスのつもりで……」
「ちょっと、さおりさん!」
「ごめんなさい、小太郎さま、ごめんなさい! 家系からみれば付き人ふぜいにすぎないこんな娘がお殿さまにこのような無礼をはたらくなんて。そうお思いなのですよね?」
「いや、そういうことではなくて」
「でもあなたは死んでらした! だからわたしひとりのものにしていいと思ったんです」
「だからそういうことじゃなくてね」
「じゃ何でしょうか。わたしのことを屍体愛好癖のある異常者とお考えなのでしょうか」
「そんなこと思っちゃいないさ! むしろ光栄なくらいだよ。死んだぼくのことをそんなに思ってくれたなんて」
「ああ、小太郎さま。では」
「ただね」
「ただ? ただ、何でございましょう」
「申し訳ないことにぼくはこんな体になっちまった。君の話を聞けば聞くほどすまないと感じるんだ。そういうことさ」
「ええ。わたしも残念に思いました」
さおりはうつむき、風間はめだたぬようホッとため息をもらした。だがすぐにさおりは顔をあげて目を輝かした。
「でもそれはわたしの思い違いだったんです、小太郎さま!」
「はい?」
「さっきお体にさわってみたら、とてもあたたかかったんです。それはいつも村でお世話していたときに小太郎さまの体から感じたぬくもりと同じなんですもの! だからわたしわかったんです。小太郎さまは全然お変わりになっていないんだって! でもたったひとつ変わったことが」
「え、変わってしまったことがある?」
「ええ。たったひとつお変わりになったことは、今ではわたしの問いかけに返事をしてくださる。言葉を口に出してわたしにご用をいいつけてくださる。わたしの想いに耳をかたむけてくださる。こんな日がきてくれるなんて、わたし」
さおりは力をこめて風間の胸に飛び込んできた。本日二度目の不意打ちも風間はまともに受けとめてしまった。
「忍は主人の前で泣くな。感情を出すなっておじいちゃんは言ってた。でも、わたし、忍なんて、そんなの、関係ない、関係ないんです。忍になるなんて、そんなの、自分で決めたことなんてないもん、うう」
自分の胸で泣きじゃくる少女を風間は思わず抱きしめた。
が次の瞬間、風間はハッとした。
誰か見ている?
「あ……桜さん」
和服姿の桜は美しい瞳を見開いて風間たちを食い入るように見つめていた。
第7章 こましの小太郎
「なんでえ桜ぼう、そのふくれっつらはどうしたっていうんでえ。桜ぼうが風間さんとお話したいってえから、風間さんの戻り次第にすぐ声かけったってえのによお。来る早々ケンカ腰たあ、どういうわけでえ? そいからそっちのお嬢ちゃん、どうしたんです? あんたら二人とも初対面でしょ? やーれやれだ。また風間さんのコレが始まったよ」
「コレ、って何? ねえ、おじさま」
「ああ、桜ぼうは知るはずもねえが、この人はねえ、よくこういうことがあるんだよ。知らないはず同士のご夫人がこの人の前でバッタリはちあわせして血の雨ふらせる、ってね」
「まあ!」
「師匠、そりゃひどいじゃないですか」
「ま、血の雨まではいかねえが、『こましの小太郎』って言うぐれえだからなあ」
さおりと桜のまなじりは一挙につりあがった。
「えー、そのー、師匠すいませんが、そろそろ明日の打ち合わせをしたいんで。まずは作戦会議ということで伝蔵さん、半助さん、加藤くん、それに師匠は六畳間のほうへ。すぐ終わると思うからあとのみんなはここで待機して」
「そんなこと言ってもわたし帰りませんから。だいたいわたしは師匠のところへ来たのです。ですから桜は師匠と一緒におります」
「わたしは小太郎さまの護衛をいいつかっております身。おそばを離れません」
風間は観念した。
「わかった、わかりました。おふたりともどうぞ。でもこれから大切な作戦会議ですからね、そこはよろしくお願いしますよ?」
フン、とふたりの女は互いにそっぽを向いた。
「では聞いて。みんなのおかげで材料はそろった。あしたの午後には松前氏の前で決着をつけようと思う」
風間の宣言に加藤は驚いた。
「け、決着って、そんなあ。マリ子さんもまだ見つかってないのに」
「居場所はだいたいわかってるって言わなかった?」
「え、ええ、聞きましたけど。け、決着というのは解決ということでしょう? だったらマリ子さんを松前さんのとこに連れていかなきゃだめなんでしょう?」
「ああ、それはできると思うよ」
「ええっ、ほんとに! ああ、もうぼくは、つ、ついていけませんよ」
頭をふる加藤の脇にニヤニヤしながら師匠が割り込んできた。
「加藤さんねえ、このひとは『一発屋の風間』ってんですぜ。事件の最初で首根っこを押さえてヒトをケムにまくのが昔から得意だったのよ。するってえとね、いつもみんなが、ちょうど今のあんさんみたいに小首かしげて、わからねえ、ってぼやくの。だからまあ気にしなさんな。いつものことだし、この人もカンだけは確かだ」
「気にするなって言われても……。そ、そうだ! 証拠がそろったら犯人の名前を教えてくれるって約束でしたよね。では教えてください。は、犯人は誰です」
「よわったな。うん、証拠はまだあした集める分がかなりあるんでね。もう少し待ってくれないか」
「はあ」
「いえ、加藤さま!」
「え?」
今度はさおりが口をはさんできた。
「小太郎さまはこの席に部外者が一名いるのをおもんぱかって、あえて真実を伏せておいでなのだと思います。ですからその部外者さえ出て行けば全てお話になるかと存じますが」
さおりは桜をにらんだ。伝蔵も半助も加藤も桜を見つめたので、桜は下唇をきゅっっとかみしめ、口惜しそうに部屋をとび出した。
「お? 桜ぼう、どうしたい? おーい」
そう言って立ち上がろうとした師匠の肩をおさえ、風間が廊下に出ていった。
「桜さん。桜さん!」
風間はやっと玄関口で桜をつかまえた。桜は目に涙をためている。
「ぼくはあなたを部外者だなんて思ってはいませんよ? むしろここではぼくの仲間のほうがよそ者なのに。どうか許してやってもらえませんか」
「風間さん?」
桜は後ろを向いたまま言った。
「風間さんはお昼に田楽亭でわたしを見るなり母の名前を呼んでくれましたよね?」
「え? ええ、そうです」
「わたしね、母がほんとに懐かしいんです。でも母を知る人というのは少なくて。みなうわべだけの母しか知らなくて……」
「桜さん」
桜は勢いよく風間のほうを向いた。
「だから今日は母の名前で呼んでもらえてうれしかった。母をよく知るあなたが来てくださってうれしかった。きっと、いっぱいいっぱい母の話を聞くことができる。そう喜んでしまったの。それなのに、もうその夜にはあなたを連れ去ろうとしている人たちがいる。わたし、それがつらくて……」
急速にあふれ出した涙をぬぐおうと顔にやった桜のその手を風間がやさしく包みこんだ。
「あ」
桜は反射的に手を引こうとしたが、なぜか風間は離さなかった。
「お母さんのことを聞きたいっておっしゃいましたね。これがそれです」
「え?」
「菊さんは、あなたのお母さんは、ぼくをとてもかわいがってくださった。思えば探偵のときも落語家修行のときもわけへだてなくぼくとつき合ってくれたのは、ここの師匠一家と菊さんだけでした。だからぼくもつい甘えてしまって、菊さんにだけは時に弱音をはいたりしたもんですよ」
「母に、だけ」
「すると菊さんはね、何も助言なんかはしないけど、ただこうやって両の手のひらでぼくの手をやわらかくはさみこんでくれてね。それだけでぼくは心の底から勇気がわいてきたもんです。ほんとにね、魂の底から」
桜はもうあらがいもせず風間の両手にその手をあずけていた。
「母のこと……もっと話してくださいませんか?」
「ええ、もちろん。でも今は無理です。おそらく明日もだめでしょう。でもその後なら、きっと」
桜は大粒の涙が頬をつたうままにまかせ、風間の目をみつめた。
「小太郎さま! 廊下で何をなさっているのです!」
さおりの若さはじける手が風間のひじをつかんで力まかせに引っ張った。
「作戦会議の席上でみなが小太郎さまの指示を待っております。至急おもどりを」
「そうだね。でも桜さんもいっしょだよ?」
「え? そうですか、ではお好きなように!」
六畳間に戻るなり師匠が言った。
「ふたりともねえ、まだまだ若いんだからよおく考えなよ? こんな燃えないゴミみたいな体の人を引っ張りっこしたって花実のさくもんじゃねえよ。いいかげんにおしったら」
師匠はホコ先をかえて風間をにらんだ。
「だいたい風間さんねえ、あんたいったい生きてんのか死んでんのかハッキリしねえところがよくねえんだ」
「生きる意欲だけは満々ですよ。そして今度こそ立派な真打ちになりたいと思っているんです」
「だったらいつもみてえに事件なんぞはさっさと片づけちまってよお、とっととここへ戻って腰を落ち着ける。そう言ってるんでえ!」
「ありがとうございます、師匠」
玄関のベルが鳴った。
「ほいよ、やっと来やがったな」
弟子たちが玄関から戻ると、たいそう豪華な寿司が次々と現れた。
「うわあ、こりゃ豪勢ですねえ」
「江戸前の上寿司よ。さあ食いねえ食いねえ」
「太っ腹ですね師匠。ふところのほう大丈夫ですか?」
「おや、何いってなさる? こりゃみんな風間さんのおごりだよ」
「ええっ! ぼくが?」
「なにせ風間さんには貸しがあるだろ?」
「そんな、師匠に借りたなんて覚えがないなあ?」
「香典だよ、香典。あんたの仮通夜はここでやったんだよ。あっしもあん時は張りこんだんだ。でも生きてるんだって自分で言うんだから その分は返してもらいますぜ」
「こりゃ一本、だな」
一同は大いに笑った。しかし加藤だけは納得のいかない顔で腕組みをしたままだ。
「加藤くん、寿司は嫌いなの? ご機嫌ななめみたいだけど」
「そ、そうじゃありません。しかし先生、いくらなんでも、は、早すぎですよ。だって捜査は依頼されたばかりですよ? それなのにもう、せ、先生の中ではマリ子さんも見つかって犯人もわかってしまっているなんて。この事件て、そんなに単純なんですか?」
「そんなことはないさ。この事件は単純なものでは決してない。それどころか、かなりの難事件だ。しかもね、事件はこれから起きるのだよ」
第8章 本当の事件
「いったいわしらをいつまで待たせるつもりじゃ。マリ子が見つかったというのはウソか!」
次の日の午後、例のカンヅメ工場二階の執務室で松前老はそのいらだちを風間にぶつけていた。
「松前さん、ぼくは三時にここへ集合と言いましたよ。三時までまだ十五分あります」
「芝居小屋じゃないんだぞ。三時に何かショーでもやらかすつもりか。もうみんな集まっておる。早くしろ。こんな狭い部屋じゃやりきれん。だいだいだな、なぜ屋敷でやらん!」
ここで風間はニコリとして意味ありげな目つきで松前を見た。すると松前老は黙ってしまった。
たしかに三十人もの人間が集まるにはこの部屋は狭すぎる。松前老に黒崎番頭とその部下たち、風間小太郎と加藤助手、幹細胞研の鳩山所長、それに多数の刑事たち。その中には風間の指名した近藤という刑事もまじっていた。
近藤が言った。
「ほんとにこいつは風間ですか? 信じられんな」
黒崎番頭が近藤に答える。
「ええ、中味は彼ですよ。ところであなたは確か」
「近藤警視です。ただ今のところ警察庁へ出向中なのですが松前家より緊急の呼び出しということで参りました。古巣の捜査一課時代にはかなりこいつとの因縁がありますよ」
「では風間くんとお知り合いなので? 困りますな風間くん、そういうことを隠されては。きのうの電話ではそんなこと一言も」
風間は、ごめんね、とでも言うようにちょっと眉を上へあげてみせた。
「今日この場においてはぼくサイドの証人もほしいと思ったものですから。実はきのう浅草の演芸場でたまたま警察の顔見知りに出会ったんですが、そのときにぼくの自殺事件の担当さんの名前を聞きましてね。それがなんとよく知っている近藤さんだというんで、ぜひ彼にも来てもらおうと考えましてお願いしたというわけです」
「おれがおまえサイドの証人になれだって? バカも休み休み言え。みなさん、もしこいつがほんとの風間なら要注意ですよ。なぜこんな男を信用するんです? こんなチンピラ探偵。こいつが何をしてきたかご存知なんですか?」
「ええい、少しは静かにできんのか!」
松前老が一喝した。
「風間くんとは旧知の仲じゃ。彼のことはよくわかっとる。何十年も前にわしが首相と組んで汚職しとるというてうるさくつきまとわれた。そしてそれは本当じゃった」
「御前さまっ!」
「誰も気づかなかったのに、彼だけがな。だからわしは彼の腕を信用しとる。さ、もうええじゃろ。おとなしく三時まで待つんじゃ」
水を打ったように静まる中、ドアをノックする音が響いた。
なぜかこの部屋には同じ壁面にドアが三つもあり、今はどのドアが音をたてたのか皆すこし迷ったが、黒崎がそのひとつを開けた。
「風間くん。女性が君に何か報告があるとか」
「あ、入れてやってもらえませんか。すみません黒崎さん」
さおりが入ってきた。いかにも風間の秘書といった体裁のビジネススーツを着こんでいる。男ばかりで息苦しい部屋の中の紅一点に皆の視線が集中する。
「これを」
さおりは風間にメモを一枚わたしたが、よく見るとそのメモ用紙には何も書いてなかった。しかし、さおりの美しさに見とれる男たちは誰もそのことに気づかなかった。
さおりの唇が音もなく動く。
(小太郎さま)
風間はメモから視線を上げて、さおりをチラリと見る。風間の唇も無音のまま動く。
(ずいぶんと青い顔してるなあ。だいじょうぶかい? で?)
(あ、ありました。それも小太郎さまがご期待されたとおりに)
(ほんとかい! すごいぞ。では三十分でここまで運んで)
(ここへお運びしてよろしいので?)
(ここでないと意味がないんだ。ただし見せろと言うまで隠しておくんだよ? だけどさおりちゃん、やれるかい? それとも怖くて……)
(小太郎さま。わたしは何でもお言い付けどおりにいたします。だって小太郎さまに嫁いだ身ですもの! ああ、このことをこのおおぜいの人の前で言えたなら!)
女というのは一度タガがはずれるとどこまでも暴走するな、と思いながらも風間の目は若くはちきれんばかりに挑発的なさおりの胸の谷間に釘づけになっている。
風間は読唇術をつづけた。
(ではくれぐれも頼んだよ。タイミングを間違えないように。こちらの決め手なんだからね)
(おまかせ下さい。こましの小太郎さま)
風間は唇をへの字にまげてから言った。
「ごくろうさまでした。ではさがって待っていて」
さおりは一礼して退出した。
「松前さん、お待たせしました。始めます。では黒崎さん、鳩山さん、近藤さんとお供の刑事さん、それに加藤くん。以上のかただけ残して他の方は松前邸にて待機をお願いします」
一同はざわついたが、松前老の「行け」の一言で部屋は閑散となった。閉め出された連中の車が次々と工場から離れていくのをこの二階の窓から見届けると、ようやく風間はきりだした。
「ではよろしいですか、松前さん?」
ついに松前老はきれた。
「いいかげん、じらすのはやめんか! マリ子がいなくなって何十時間たつと思うんじゃ! マリ子はどこだ! 早くマリ子の居場所を言ってみい!」
「ここです」
そう言うと風間はつかつかと歩き出し松前老の前まで行き、右腕を突き出して老人を指さした。その指先は松前老の腹部をさし示している。
「マリ子さんはここにいます。そうですね、松前さん?」
松前は猛烈な勢いで立ち上がり、髪の毛を逆立て、風間を喰らい尽くさんとばかりにその醜い口で風間に挑みかかったが、急にドサリと椅子に沈みこんでしまった。
老人は無言で風間の足もとあたりをジッと見つめている。
「やめたくなったらいつでもストップをかけて下さい、松前さん」
松前は姿勢を変えず座っている。
「一体どういうことです風間くん。マリ子お嬢さまはどこなんです?」
黒崎が聞いた。
「だからあそこです。松前さんの腹の中」
黒崎は言葉につまったが、近藤はすかさずくってかかった。
「ほら見なさい! インチキ、ハッタリ、イカサマ師! はっ! こんな奴はじめから使うべきじゃないんです。いいかげんにしろ風間。じゃ何か、おまえは松前さんがその子を食っちまったとでも言いたいのか。バーカ」
「そのとおり」
「こ、こいつ、立派な誣告罪です。逮捕しちまいましょう、こんな奴。どうです、逮捕しますか?」
松前老がいつしか近藤をにらんでいるのに気がついた黒崎は、あわてて彼を制した。
「きみ、これ以上おじゃませぬように」
「しかし」
「静かに! 絶対におじゃませぬように! 御前さまは先を聞きたがっておいでです」
松前老は再び視線を風間の足もとに落とした。
「松前さん。あなたがマリ子さん失踪の鍵を握っているのは最初からわかっていました。きのうあなたを見たとき、あなたは明らかに何かを隠したがっていた。しかしです、そのくせあなたの目の中には、ぼくに何かを期待しているような光もあった。ということは、何か言い出しにくい真実をぼくにあばかせて自分のしたことを明らかにしたい。つまり告白でもしたがっているのか? とっさにぼくはそう思いましたが、それでも何か他の目的があるのかとも迷いだしてしまい、かなり頭が混乱しましたよ」
風間は歩きだした。
「そこでぼくは方向をかえて、なぜぼくがここにいるのかを考えることにしました。つまり、死者のぼくを呼び出すなどという異常心理は一体どこから来るのか、とね?」
風間は古ぼけた板壁に手を触れながら歩いている。
「ふつうに考えれば死者をよみがえらせて捜査にあたらせるなんて無理な話でしょう。おそらくあなたもそれがほんとはできない相談で実現不可能だと心の底では期待していた。しかも無理を承知で巨費を投ずるとなれば、誰もあなたが失踪に関与しているなどとは考えもしないだろうという計算もあったんじゃないかな」
本棚にある落語のカセットテープをひっぱりだすと、風間はすぐにまた元の場所にそれを戻した。
「しかし一方、別の心の奥底ではほんとうにぼくがよみがえってほしいとも考えているのではないか? そう思い当たったとき、やっとぼくには見えてくるものがあったのですよ。なぜわざわざ仇敵たるぼくを選んだのか、その理由がね」
「せ、先生。ど、ど、どういうことか、ぼくにはさっぱり」
こう聞いた加藤のそばに黒崎がすっ飛んでいって彼の口を両手でふさいだ。
「それはね加藤くん、一種の自傷心理なんだ。自分が心底忌み嫌っている相手をわざわざ呼んで自分を傷つけさせる。つまりそんな自傷行為を望んでしまうほどの何かを松前さんはしでかしたということなんだ。自分で自分が許せないような行為。しかもその結果としてのしかかる心の重荷と苦痛に、もはや耐えきれない。できることならいっさいがっさい告白して楽になってしまいたい。きっとそう願っているのでは、という気がしてきた」
風間はポケットに手を入れて何かをさぐった。
「しかしさっきも言ったように、その一方ではやはりできる限り隠しおおしたいという心も動いている。きっとそういうことではないかと思えてきたのさ。そしてそれが正しかったのは昨日の狙撃事件で証明されただろう? 真実をあばいてはほしいが、もしも松前さんの目前であからさまに真相に近づこうとすれば、その者は砕け散らなければならない。なぜなら、自分でさえ決して触れてはいけない心の傷という神殿に他人が土足でズカズカと上がりこんでくるのを手をこまねいて傍観するという苦行には、さすがに耐えきれないから。とまあ、こういうわけかな」
風間はポケットから手を出したが何も持ってはいなかった。つづいて風間は胸ポケットへ手を伸ばした。
「こういうアンビバレントな、二律背反する心の板ばさみで松前さんが苦しんでいるというとこまでは、ようやくこうしてたどりついたのだけれど、それでは何の進展もない。では一体なにをやったのか、それがわからなければね」
ポケットに手は入れてみたものの、生前に愛用しいつも肌身離さず持ち歩いていたタバコなど持っていないことにようやく気づいた風間は肩をすくめてみせた。今の自分は可燃性プラスチック製で火気厳禁の身なのだ。
「ではいったい何をしたのか? 政財界の清濁あわせ呑む松前さんほどの精神力の持ち主が悩みぬくならば、それはよほどのことでしょう」
この部屋に三つあるドアのほうへ風間は歩きだす。
「そう自問していたときにぼくは調査の依頼内容を聞かされたのです。案件は最愛の孫娘失踪事件の解決。なるほど松前さんは孫に何かとりかえしのつかないことをしでかしたのだな。すぐにそう思いました」
この三つのドアはどれも同じような形をしていた。風間は一番窓側のドアを選んでそこで立ち止まった。
「失踪現場はこのカンヅメ工場。最後に見かけたのはこの部屋のあたり。そこでぼくは部屋のまわりをよく注意して歩いてみた。ちょうど今しているみたいに。そしてすぐに見つけましたよ?」
風間はそのドアを軽くポンとたたいた。
「これらは見分けがつかないほどよく似た扉ですが、それでも注意深く見てみるとこのうちのひとつだけは他のとはまるで違っていたのです。実はそのドアの向こう側の廊下には床下に秘密の通路が用意されているのですね。どうやらその床下通路はトラップになっており、永年にわたって何度も使われたあともある」
ここで近藤が口をはさもうとしたが黒崎がとんでいってその口に手をあてがった。
「そう。近藤さんが言いたいことはわかる。そんなこと警察がすぐに見つけだしたはずだろうってね。しかし彼らには見つけられなかった。なぜって警察はここを調べさせてもらえなかったからです。この執務室付近は松前家のほうで調べるといって警察は閉め出されたそうですが、実際はそのあと何もしなかったのでしょう? このこと知っていましたか、黒崎さん?」
急に名指しされた黒崎はドキリとして、つい口を開いてしまった。
「いいえ、知りませんよ。ここはすでに捜査ずみだと御前さまから。おっと、いかんいかん」
黒崎は言わ猿のように自分の両手で口をふさいでしまった。
「ぼくは城砦研究が趣味でしてね。こういうトラップはすぐにわかります。遊園地の忍者屋敷にもよくあるやつですよ。それとも今の遊園地にはそんなものないのかな?」
風間はドアのノブをまわして開きかけたが、すぐにまた閉めてしまった。
「ともかくここはカンヅメ工場。松前氏がおちいっている異常な心理状態。そしてこの部屋の風変わりなトラップ……生き返ったばかりのぼくにはこれしか材料がないので、これだけのもので何か事実関係が構築できるものかどうか頭の中で試してみたのです。単純な話です。ぼくは元来が単純な人間でしてね。そして出てきた結論はと言えば、松前さんが最愛の孫娘を死に追いやり、故意か偶然かカンヅメになった孫娘を食べてしまった。そういうことです」
「あっはっはっは。バカヤロー!」
近藤が叫んだ。
「なんだ、その当て推量は? だいたいなあ、松前さんがなんでそんなことしなくちゃならないんだよ。このゲス野郎!」
自分にかかりきりだった黒崎がまた近藤のもとに走った。
「ありがとう近藤さん。話に筋道をつけてくださって」
風間は隣りあって作られているドアからドアへと渡り歩き、そのひとつひとつを確かめるように軽く開け閉めしていった。
「そうなんです。松前さんはなぜそんなことをしたのか? そしてこれは殺人なのか事故なのか? 依然としてそのふたつの疑問は残ったままでした。だが、その疑問を解く前にぼくにはまずすべきことがあった。それは自分の身の安全を確保することです」
ドアから離れた風間は窓のほうへ行った。
「さっきも言いましたが、松前さんはぼくの復活に全力を注ぎつつも、その反面ぼくが生き返らなければいいのだとも思っていました。そして現実にぼくが目の前に立ってみると、案の定、松前さんはぼくへの憎しみに燃えた。こいつを生かしておけば自分の破滅だ。少なくとも捜査の核心に触れたときは排除しなければ。そんなふうに松前さんの目は燃えたぎっていましたよ。おそらくとっさの自衛本能がそうさせたんでしょう。それとも復讐心かな? ともかくアラーム全開の眼差しでしたね」
松前正吉はようやく上目づかいに風間を見た。いや、見ようしたが窓から射し込む西日が逆光でまぶしかった。風間はほほえみを返して応えたつもりだったが、松前にはそれが見えなかった。
「身の安全をはかるため、ぼくは落語団体に目星をつけているのだと松前さんに話してあげました。事件と何の関係もないそんな団体名を聞いたとき、松前さんは思ったでしょう。やはりこいつは出来そこないだ。格好だけのデク人形だ。用心はするにしても今のところはやりたいようにやらせておけ、とね? 松前さんがそれまでとはうってかわった安堵の表情でぼくを落語団体へ送り出したので、ぼくもこの工場に近寄らない限りは安全だと確信しました。ね、近藤さん? あなたの車に乗せられた時に、どうしてぼくの最初の質問が、どこへ行くのか、だったのはそういう理由からなんです。よりによってあなたは最も危険な目的地の名を告げたので、あのときばかりはぼくもゾッとしましたよ?」
鳩山は目を丸くして突っ立っている。
「さて危険区域から脱したぼくは本格的に調べを開始しました。そしてぼくは、もうひとり男の子が失踪中だということを知ったのです。その男の子はマリ子さんと、とても仲がよかったそうです。これで全てが見えましたよ。松前さん、あなたがほんとに殺そうとしたのはこの男の子だったんですね?」
松前正吉の眼球は今にもとび出しそうだった。松前はいきなり両手で頭をかかえたかと思うと、今度は上半身を前のめりに突き出し、顔を上へ上げ、叫んだ。
「ううう、うおーっ!」
それはまるで水から出てきた恐竜を思わせた。
「ご、御前さま?」
「殺すつもりはなかった! おどかす、ただおどかすだけのつもりだったんじゃあ!」
泣いてるようにも聞こえたが涙は出ていなかった。
「ご、御前さま! 何をおっしゃっているのです! いけません! ここでは何もおっしゃってはいけません、御前さま!」
「うおお、黙ってろ黒崎! いいからお前たちは黙ってろ!」
皆が押し黙るなか、ひとり風間はまたゆっくりと歩きだした。
「松前さん、ためらわずに一度すべてを話したほうが楽になるんですよ」
「ふん、どうでもいい。あんなガキ、たとえ死んでもどうでもいい、かまわん。確かにそうは思った。だが古い仕掛けじゃ、どうせろくには動かんじゃろうとも思っていたんじゃ。たとえ少し動いたところで空のボンベからはガスも出るはずがないし、ほんの少しでもあのガキのキモを冷やしてやればそれでよかった。そうして、うまいことあいつを通路に追い込んだと思ったそのとき、そのときにマリ子が来て……どうしてマリ子はあのとき出てきたんじゃあ!」
「その男の子を追いかけたマリ子さんはいっしょにトラップにかかった」
「飛躍だ! 誘導尋問だ!」
近藤が怒声をあげた。もう黒崎はとめようとしない。
「それに、たとえ二人がカンヅメになったとしてもだな。どうして松前さんがそれを食ったなんて言えるんだ。この妄想野郎が!」
「その日はセレモニーで生産ラインは動いていました。ところが松前さんは突如その行事を中止して参列者を自宅へ移動させ、そのあとここに一人で残ったそうです。当日はフルーツのカンヅメの実演だったそうですから、その中から肉入りのカンヅメを探すのは容易だったでしょう」
「なに言っとるんだ、おまえ? まるっきし説明になってない! それどころか状況証拠ですらないぞ! それにカンヅメなんて捨てるとかすればいいだろう? なぜ食わにゃならんのだ。このインチキ野郎!」
「そうくると思って、ちゃんとした証拠をそろえておきましたよ」
「なんだとお? 証拠ってのは物的証拠をいうんだぞ。ハッタリのくせに。見せられるもんならすぐ見せてみろ!」
「ええ、もちろん」
風間は真ん中のドアに立った。
「松前さん。このドアは安全でしたよね?」
松前老はビクッと顔をあげて風間をみた。放心したようにずいぶんと長い間そのまま風間を見つめていたが、やがて松前はコクリとうなづいた。
「ではこちらへ」
風間がドアを開けるとそこは木張りの床の短い廊下になっていた。その中ほどにビニールシートをかぶせた何かがこんもりと山をつくって横たわっている。近藤はお供の刑事ふたりと共にその物的証拠にかけよった。
「加藤くんも来たまえ。すみません、黒崎さんもいちおう確認だけしてもらえますか?」
黒崎は自分の主人から離れドアをくぐった。入れ違いに風間は部屋に戻ってきて言った。
「近藤警視。決定的証拠が見たいのならシートを取ってみたまえ」
近藤は勢いよくシートをはぎ取った。
「ああっ、これは田坂じゃないか! なぜこんなにグルグル巻きに?」
部屋の中の風間はドアのすぐ横にある長いヒモをすばやく引いた。廊下の木張りの床がパカッと口を開け、近藤ら三人の警官と黒崎、縄でグルグル巻きの田坂、それに加藤を飲み込んでから、またパカッと閉まった。
「こういうぐあいに男の子は落ちていった。それを見たマリ子さんがあとを追いかけようとした。そうですね、松前さん?」
松前正吉の眼前にはあの日の光景が生々しくよみがえっていた。
……あの日は雨が降っていた。かなり激しい雨だった。屋根にあたる雨の音がうるさくて、あいつが悲鳴をあげたのかどうかさえ定かでなかった。そうか! あの雨音がきっとマリ子の近づく足音を消してしまったに違いない。
首尾よくあいつを吸い込んだ廊下の床に見いっていたわしは突然のマリ子の声にびっくりした。
「何したの、おじいちゃま。ひどい! マリ子、助けにいく。あきおくん! 今いくよ、あきおくん!」
「や、やめなさいマリ子。あぶないよ」
「やめない! このヒモひっぱるんだ。おじいちゃまが引くの、わたし見たもの! えい!
あきおくーん!」
「マリ子、マリ子!」
恐怖の回想にふける松前正吉の頭の中に、どこからか風間の声が冷たく響いてくる……松前さん、聞こえますか、松前さん。
「ああ、聞いとるよ……」
「ではそうなんですね? このようにしてマリ子さんも落ちた。どうしてすぐに助けを呼ばなかったのです?」
「助け? ふん、ひとたび動けばこの罠は百発百中だ。これがわしの出世の命綱。助けなど無駄なんじゃ。だからわしはマリ子をとめた。とめたんじゃ!」
それまで部屋のすみの壁にへばりついていた鳩山がつぶやいた。
「聞こえる……下の階から何か聞こえるぞ! まさか、工場が動いてる?」
風間は腕時計に目をおとし、うなずいてから言った。
「ええ、生産ラインが稼動しています。トラップの途中に備え付けてあったガスボンベも満タンにして弱った金具なども補修しておきましたから万全です。きょうもフルーツをたっぷり用意しておきましたから、後で肉入りを見分けるのも簡単なはずです。処分も楽でしょう」
「それじゃあ、さっきそこにいたみんなは、今ごろ? 加藤も? あ、あわわわ」
鳩山は完全に腰を抜かしヘナヘナと床にへたりこんだ。
しかしそれらの会話も松前老の耳には入らないようだった。
「わしはマリ子を、あのかわいい子を誰にも渡すまいとずっと決めていた」
「だからといって食べるなんて」
ここで初めて松前は風間をギロリとみすえた。
「あんたは知らんのじゃ! つくったカンヅメは当日の参列者たちに記念品として配られることになっとった。全部じゃ! たとえ参列者全員を屋敷に追い払ったところで後日おのおのに送られる手はずじゃ。そしたらどうなる!」
「それは」
「どこの誰とも知れぬやつに食われるか、それとも捨てられるか。そして犬かカラスに食われるか、どうなるかわかったもんじゃない! わしのマリ子をそんなふうにさせるものか! ともかく探して回収しなくては。わしはカンを開けてみた。いいかね? おまえさんは信じないかもしれないが、そのカンはすぐに見つかった。カンを開けると、開けてみると、子ども服の切れ端が……ううう。強烈にこみあげてきたいとおしさに、わしは、つい……」
「口に入れてしまった」
「もう止まらなかった。わしは食った。一つ、二つ、三つ。見つかるだけのカンを食った。食ったんじゃ、わしはあのかわいいマリ子を、ぐぐぐぅ……なんてことを、わしは……」
「松前さん、まだ話は終わっていませんよ」
「うー、うー……」
「松前さんはね、カン違いしているのです。いいですか? あなたはマリ子さんを食べてなんかいない」
「え? まさか、風間! いいかげんにせい、もうたくさんじゃ!」
「ではこれを見てください。さおりさん、見せてあげて」
いつ入ってきたのか、さおりは部屋の中にいて、あのおそろしい廊下に先ほど置いてあったのとよく似た色のビニールシートの端を握っていた。そのシートをかぶせられているものも、こんもりと山をつくっていたが先ほどのものよりはだいぶ小ぶりだった。
さおりはシートをめくりあげた。
「マ、マリ子! あ、あ、あ、あ、あ……」
床には美しい少女が横たわっていた。少し服がやぶれ、青白い顔にかかる髪もほんのわずか乱れてはいたが、それはまるで眠っているようだった。
「男の子はまず第一の落とし戸に落ち、そしてすぐにミンチの機械へとすべり落ちていった。あとを追ったマリ子さんもやはり第一の落とし戸まで落下した。しかし、あなたも言ったように仕掛けは古くガタがきていて、その第一の落とし戸は男の子を送り出したあと十分に閉まらなかったのです。そのすき間にマリ子さんは体をはさまれてしまった」
「で、ではマリ子は長い間、苦しんで……」
「いや。首の骨が折れています。おそらく即死でしょう。もがくこともなく、窒息することもなく、飢えもなく渇きもなく、自分でもわけがわからないまま亡くなったはずです」
老人はマリ子の死体の前にひざまづいた。
風間は立ったまま続けた。
「食べてしまった、というあなたの思い込みとショックが、もう一度さがしてみて助けよう、という正常な思考を妨げたのです。単純なミスほど深刻な結果を招くものです」
「わしは、食べなかったのか」
「マリ子さんはね」
「食べなかったんじゃ。マリ子はここにおる。ありがたい。ありがたい! 風間くん、すまんすまんすまん」
松前老は孫娘を抱きかかえた。
「マリ子」
老人の目から本物の涙がこぼれおちた。
「わしはマリ子を食べなかった、ハハ、あのこにくらしいガキを、おまえにつきまとい、わしを毛嫌いし、わしのことを悪人だとおまえに吹きこみおったあいつだけを食ってやった、ハハ、ハハハハ……ハハハハハハ!」
風間は顔をしかめた。
「ちっ、そういう反応か。せっかくもう少し人間らしい反応を期待したからこそ、できるだけやさしく説明してあげたのにな。もうがっかりだ。どうやらこれが、ぼくへのとどめみたいだ。もう人間研究なんてつくづく嫌になったよ。探偵とは人間の心を美学するもの、か。ぺっ、そんなもの犬にでもくれてやれ。やはり落語の世界がいい。あそこへ帰ろう」
「お館さま」
さおりが忍独特の無声音で問いかけてくる。
「なんだい、さおりちゃん?」
「あの子の遺体はいかがなさるおつもりで?」
「あの子って、中村くんのほうかい?」
「はい。 すぐにここへ?」
「いや、ここへは運ばないで」
「でも」
「中村くんの遺体を運んできて、この子とお孫さんは同じ場所にひっかかっていてかばいあうように抱き合った格好で発見されましたよ、なんて報告したら松前氏は彼の遺体に敬意を払うかな?」
「それは……」
「それに松前氏には中村くんを食べたと思わせておいたほうがいいんじゃないかな。たとえわずかでも罪の意識は持つだろう?」
「そうでしょうか」
「やれやれ、そういうとこはおじいさん似だね、さおりちゃん。きみもぼくのことを救いがたいロマンチストだとか思ってるんだろう?」
さおりはうつむいてしまった。頬にはかすかに朱がさしているようだった。
「打ち合わせどおりに中村くんの遺体はご遺族のところへ。あくまでも丁重に。そして口止めのほうも同じくらい丁寧にね?」
「はっ」
「あ、ちょっと、さおりちゃんはまだここにいてね」
最後のこの一言だけは誰にでも聞こえるように声に出すと、風間は鳩山のほうを向いた。
風間は鳩山のほうを向いた。
「ところで鳩山さん」
「うわあ! た、助けてくれ! おれは何もしゃべらん。必ず秘密は守るから、おれをカンヅメにしないでくれ! そのロボットアームで首をしめないでくれ! た、頼みます」
鳩山のズボンは失禁でびしょぬれになっている。さおりは顔をそむけた。
「カンヅメ? ああ、たしかに生産ラインの音が聞こえてますね」
ミンチの機械だろうか、それともカンにふたをする工程のものだろうか。ギリギリバッタン、ギリギリバッタンという、やや時代おくれなリズムが下の階からかすかに響いてくる。
「あれもじきに止まるでしょう」
「そ、そんなこと言わないで、もう少し生かしてくれ! た、たすけてください!」
「それはぼくのセリフですよ」
「た、頼むから!」
「ですから、それもぼくが言いたいことですってば」
「え? いま何と?」
「実はおりいって鳩山さんにお願いがあるのです」
「お願い?」
「ほら、加藤くんがいなくなったでしょう。だからぼくは自分の体のメンテナンスができないんです。そこであなたのやり方にスイッチしたいのです。できるでしょう?」
「なんだって? スイッチ?」
「まずはできあいのインスタント人間の土台とやらに今のぼくの脳の中身を移してください。でもゆくゆくはぼくの保存死体からもっと濃度の高い情報を採って、お得意の幹細胞でしたっけ? それでもって肉体のすみずみまで蘇生させてほしいのです」
「し、しかし幹細胞で作る複製は短命なんだ」
「そうですってね。加藤くんもそう言ってました。だから機械のボディにしたんだって威張ってましたよ。でもぼくは鳩山方式のほうがいいな。実を言うと、この機械の体にはもううんざりなんです。寿司のひとつも食えやしない」
「すると何か? 初めの肉体がダメになったら、また新しいのに乗り換えていくということか?」
「できますか?」
「できますかって、そりゃできるだろうが、とんでもない金がかかるぞ? そんな次々と幹細胞を育てあげるなんて何億かかるかわからん」
「それは松前さんがもってくれるんじゃないかな?」
風間は松前に話しかけた。
「松前さん。マリ子さんはお気の毒なことをしました。ぼくには救えなかった。でもこれは古い工場での転落死、不幸な事故なんです。そのように処理されるでしょう。ある程度の検視解剖は避けられないにしても、この場合は遺体にそれほど傷はつかないと思いますよ」
老人は孫娘を抱きかかえながら、いつしか笑みをうかべている。
「ぼくはマリ子さんを救えなかった。ですから調査料はいりません。ただ、そのかわりと言ってはなんですが、鳩山さんに」
「風間くん、あんたは十分わしらを救ってくれたよ。鳩山のことはまかせておきなさい。おお、マリ子よ、マリ子……」
「あ、それから、トラップのある通路へ近藤さんたちを通すときはうまくぼくに調子を合わせて下さって助かりました。どうも、松前さん」
松前老は風間にそれ以上の返事もせずに、ただひたすら孫に頬をすり寄せるばかりだった。
「どうですか鳩山さん。これで公金横領の罪も消えて研究に専念できるでしょう。やってもらえますか?」
「わ、わかった。そりゃいいが、なんだって加藤までやった? 手違いか?」
「少しばかりぼくらの親戚のことに深入りしすぎたのです。助手としての適正もなかった。なによりもぼくがもし鳩山方式にチェンジしたいと言ったら彼は全力で阻止したでしょうしね?」
「そうだったのか……すまんが、すこし休ませてくれ」
「あっと、それはちょっとかんべんして下さい。とりあえず出来合いの風間2号にこの頭の中身を移してもらいたいんです。ご休息はその後ということで」
「急ぐのか? 何かさし迫った理由でも?」
「ぼくが急ぐというよりも、ぼくの肉体化を待っていてくれる女性がいるものですから。ねえ、きみ?」
軽いジョークのつもりで風間はこう言って、さおりのほうをふり向いた。
こんなあからさまな冗談を言われたら、純情なさおりはきっと顔を赤らめてうつむいてしまうに違いない。そんな少女の初々しい愛らしさで、事件に疲れたこの心をいやしたい。そうしてしめくくりにしようと、やんちゃな少年のように風間は考えたのだ。
風間は冗談の反応を確かめつつ軽快な足取りで部屋の出口へ向かった。
ところがさおりは好色そうな上目づかいで風間をみつめながら、濡れた唇でニヤリと笑ってみせた。
さおりがもう一度うす桃色の舌を出して自分の唇をゆっくりと湿らせるのを見たとき、風間は足を止めた。
風間は、ふとこう思ったのだ。
生身の肉体に戻ったとたん何が起きるのか? まさか次に食われるのは、このおれじゃなかろうな、と。 (終わり)
(終)