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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

歴史もの

手綱

作者: しのぶ

 16世紀ロシア、プスコフに皇帝の軍がやって来るとの知らせが伝わり、プスコフの街は騒然となった。

 皇帝はプスコフがリトアニアと通じて皇帝を裏切ったと言いがかりをつけて、その懲罰のためにやって来るのだと云う。すでに同じ名目で皇帝の軍に攻め入られたノヴゴロドの虐殺の噂はすでに人々の間に伝わっていた。


 修道士ニコライはプスコフの修道士たちの長老であった。プスコフの市民やニコライの弟子たちは、ニコライのもとに集まって来て、この街から逃げるようにと勧めた。ニコライは言った。


「皇帝は、ノヴゴロドでどういうことをしたのかね」


 弟子は言った。


「ノヴゴロドの虐殺はひどいものだったと言います。皇帝の軍は街に入ってからは、ノヴゴロドの長老たちや有力者たちを殺して回り、市民たちも、女子供に至るまで虐殺や略奪や強姦や拷問の憂き目に遭いました。その様はさながらタタールの軍の再来のようでした。

皇帝は街の長老たちを大砲に詰めて撃ち出して、バラバラにして殺し、『天使のように空を飛んでいけ』と言って笑っていたと云います」


 ニコライは言った。


「しかし、皇帝はなぜそこまで残忍なことをしたのだろうか。彼も昔はそれほど暴虐ではなかったはずだが」


 弟子は言った。


「皇帝は被害妄想に取り憑かれているのです。たぶん、子供の頃に貴族たちの権力争いに巻き込まれて母を失い、自らも苦汁をなめてきたことが関係しているのでしょうが、貴族たちが聖職者たちや外国と組んで陰謀を巡らし、自らの地位や命を脅かしていると思い込んでいるのです。

皇帝はこれまでにも、何人ものそうした“政敵”を処刑してきましたが、殺せば殺すほど安心できなくなり、さらに人を殺しているようです。

彼は他人を信用できないので、自分のために特別に“オプリーチニキ”という親衛隊を作って、彼らと共に修道士まがいの共同生活を送っています。しかしその実態は修道士とはほど遠く、この親衛隊こそ皇帝のためという名目で、狼藉の限りを尽くしている連中なのですが。

皇帝があまり人々を殺して回るので、見かねたモスクワ府主教は彼をいさめて叱責しましたが、皇帝はこの府主教まで殺してしまいました」


 ニコライは言った。


「それでは、皇帝は神をも恐れぬ、何の倫理観も持たない人物だということかね」


 弟子は言った。


「いえ、そういうわけでもありません。子供の頃からの教育のためか、皇帝はあれでも信心深いところがあって、自分に逆らわない限りは教会や聖職者を尊重しているようです。こういうところも、タタールを思わせますが……

そのため、彼は午前中には聖堂で祈り、午後には牢獄で囚人を拷問するような生活を送っていると云います。聞いた話では、彼は狂気のために夜眠ることができず、夜な夜な宮殿の中をさ迷い歩き、伽役(とぎやく)に枕元で物語を聞かせてもらっているのだとか。

また一般の聖職者に対して不信感があるためか、彼はことさら聖痴愚者(ユロージヴィ)を敬っていて、冬の森林で裸体で苦行していたワシーリーとかいうユロージヴィが死んだ時には、彼のために聖堂を建てたこともあります」


 ニコライは言った。


「なるほど、それなら試してみる価値はあるな。私が皇帝に会って、この街でノヴゴロドのような虐殺が行われないように説得してみよう」


 弟子は言った。


「しかし、危険ですよ。モスクワ府主教でさえ殺されたのです。たとえ彼が、普段は聖職者や修道士を敬っていたとしても、いつ気まぐれで殺されるか分かりません。逃げるべきではないですか」


 ニコライは言った。


「さりとて、今までこの街で長老をやってきた私が、この危機に人々を見捨てて逃げられようか。

もとより、修道士の道とは“自発的な殉教”の道だと云われている。今さら命を惜しむべきではあるまい。いかにも、人の身としては、恐ろしいことではあるけれど」



 さて皇帝は、オプリーチニキたちに取り巻かれてプスコフに向かっていたが、そこで側近に言った。


「この街にもまた懲罰を与えねばならぬが、その前にこの街の修道院に行って、長老に挨拶をしてこよう。このたびの懲罰の吉凶を占うこともできようからな」


「御意!」


 側近はそう言って修道院に向かったものの、そこで同僚に小声で言った。


「全く、陛下は変なところで敬虔だから面倒だな。こんな回りくどいことをせずに、初めから全市を攻略すればいいものを」


 同僚は言った。


「おいおい、陛下はいつだって全面的に敬虔だろ?危ないことを言うなよ」


「おっと、口が滑ったな。ハハハ」



 さてニコライは、皇帝が来ると聞いて、修道院の門の前に立って待っていた。

 そこへ皇帝が、側近や街の有力者たちを伴って現れた。


 皇帝は頬がこけ、目が落ちくぼんでやつれた様子の、暗い眼をした男であった。一緒に連れてこられた街の有力者たちは、恐れと諦観が入り混じったような表情で、次に何が起こるのかを待ち受けている。


 ところで、その日はたまたま(ものいみ)の日に当たっていて、人々は肉や酒などを口にしていなかった。


 皇帝がやって来ると、ニコライは血のしたたる生肉を皿に載せ、強い酒を杯に満たして、それらを盆の上に載せて進み出た。そして言った。


「やあ陛下。このような辺境の街にお越しいただき光栄ですな。お疲れでしょうから、あなたのためにこの食事を用意しておきました。どうぞ召し上がっていってください」


 皇帝は眉をひそめて言った。


「何を馬鹿なことを。今日は(ものいみ)の日ではないか。余は肉も酒も断っているのだ。修道士であるお前が、斎を破るように勧めるのか?」


 ニコライは笑って言った。


「斎?ハハハ、ご冗談を。あなたは斎など守る気はないでしょうに」


「なんだと?」


 皇帝は言った。


「余を愚弄するのか?余はちゃんと斎を守っている。あまり罪なことを言うでないぞ」


 ニコライは言った。


「罪だと?それでは言わせてもらうが、お前はここに来るまでに数知れぬ人々を殺して回り、その肉を食らい、その血に酔いしれているというのに、それでも自分は斎を守っているというのか!?

お前は、かつて救世主がこう言われたことを知らないわけではあるまい。『災いなるかな、汝ら偽善者は律法の細かき規定を守りつつ、最も重き正義と慈悲と誠実とをなおざりにす……かくのごとく汝らも、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり』と。

また使徒も、『たとえわれ預言する能力あり、またすべての奥義とすべての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、仁愛なくば無に等し』と言っているではないか。

これ以上過ちを犯して取り返しのつかないことになる前に、ここから立ち去るがいい。さもなくば、この街がお前の破滅の始まりになるだろう!!」


「う……!」


 皇帝はこれを聞いてショックを受けたようだったが、突然その場にひざまずくと、涙ながらに言った。


「おお、長老よ、そうなのです。私は罪深い人間です。そのことを、私はよく分かっています。それでも、私には成さねばならぬ務めがある……長老よ、どうか私がこれ以上過ちを犯さず、罪を負うことのないように、私のために祈ってください」


 ニコライは、皇帝のこの豹変に少し驚いたものの、平静を保って言った。


「祈りましょう。通常の君主のための祈りに加えて、さらにあなたのために。

しかし、何よりあなた自身が、自らの過ちを改めるように努めなくてはならない。罪を悔い改め、さらに罪を重ねないようにするのです」


「はい、分かっております」


 皇帝はそう言うと、立ち上がって、取り巻きのほうを見て言った。


「帰るぞ!」


「御意!」


 人々は口々にそう言うと、もと来た道を引き返して行った。



 さて一行が立ち去ったあとで、弟子は一息ついて言った。


「ああ、さっきの会見は、一秒が十秒にも感じられましたよ。しかし、よく皇帝を説得できましたね。私は死を覚悟していましたよ」


 ニコライは言った。


「あれは、数少ない手綱だったのだ」


「手綱?」


「そうだ。人は誰でも、悪に走る傾向を持っているものだが、普通はそれを引き止めるような(いまし)めが様々にあって、その手綱で内なる悪を制御している。

それは内なる良心とか知性とか、家族や友人が引き止めてくれることとか、世間体とか、自分より強い権力を持った者に制止されているとかいうことだが。

あの皇帝は、確かにそうした手綱をほとんど持たない人間ではあったが、まだかろうじて信心は残っていたので、私はその信心に訴えかけて皇帝をとどめることができたのだ。

しかし、もしその手綱さえもなく、なおかつ皇帝として、誰からも制止されずに権力を振るう立場に人があったとしたら……それは、想像するだに恐ろしいことだな」


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[一言] 拝読しながら、先日ニュージーランドで起きた乱射殺人事件を想い起しました。あの犯人にはまだ手綱が残っているのかと…
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